主日礼拝

使徒の権利

「使徒の権利」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書;民数記 第18章21-32節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第9章1-12a節
・ 讃美歌;18、127、438

 
自由な者ではないのか
しばらく中断しておりましたが、本日からまた、コリントの信徒への手紙一の連続講解説教を再開したいと思います。9章から再び読み始めるのですが、 その冒頭に「わたしは自由な者ではないか」とあります。この文章は原文で読むと、否定を表す言葉、英語で言えばnotが冒頭に来て強調されています。 つまり「わたしは自由な者ではないのか」というふうに、「ない」に強調があるのです。それは少し興奮した、エキサイトした書き方です。 この手紙を書いたパウロは、ここで少し感情を高ぶらせて、通常の語り方とは違う仕方で、読者に挑戦するように語っているのです。そのようにパウロが 感情を高ぶらせなければならなかった事情は何なのでしょうか。

使徒ではないのか
 「わたしは自由な者ではないか」に続いて、それと同じ口調で「使徒ではないか」と言われています。これも、「わたしは使徒ではないのか」という言い方です。 そしてその後2節にかけて語られていくのは、パウロが使徒であるということ、少なくともコリント教会の人々にとっては使徒であるはずだ、ということです。 パウロが感情を高ぶらせているのは、コリント教会の中に、パウロが使徒であることを疑い、否定する人々が出てきていたからなのです。使徒というのは、 「遣わされた者」という意味の言葉で、主イエス・キリストから、福音を宣べ伝えるために遣わされた人々、そういう意味で教会の中心となる指導者を意味しています。 今日の私たちは、新約聖書の多くの書簡を書いたパウロが使徒であることに何の疑問も持ちませんが、当時の人々の中には、それに疑問をさしはさむ人々がいました。 それはある意味では無理もないことです。使徒は基本的には、主イエスの直接の弟子であった12人の人々を言います。その中のイスカリオテのユダは、 主イエスを裏切り、悔い改めて主のもとに立ち返ることなく死んでしまいました。他の弟子たちも、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったわけですから、 決して弟子としての道を全うしたとは言えませんが、復活された主イエスが彼らを再び呼び集め、その罪を赦して下さって、伝道へと遣わして下さったのです。 基本的にはその人々が「使徒」と呼ばれて、教会の指導者となりました。パウロはそれらの人々の一人ではありません。彼はもともとは、むしろ教会を迫害し、 イエスをキリスト、救い主と信じるこの新しい教えを撲滅するために必死になっていた人だったのです。そのパウロが、使徒言行録第9章にある、あのダマスコへ の道において、主イエスと出会い、人生の180度の転換を与えられ、イエスこそ主であり、キリストであると宣べ伝える者とされ、遣わされたのです。 しかし彼の前歴を知る人々は、たとえ彼の回心の事実は認め、信仰の仲間として受け入れはしても、「使徒」の一人として受け入れることはなかなかできなかった。 それは人間の感情からして無理からぬことだと思います。しかし客観的事実としては、このパウロこそが、他のどの使徒よりも大きな働きをし、キリストの福音が 全世界に広まっていくための礎を据えたのです。つまりパウロは使徒の中の使徒としての働きをしたのです。神様は迫害者であったパウロを、恵みによって選び、 造り変えて、ご自分の第一の使徒として遣わして下さったのです。パウロ自身も、その神様の恵みのみ心を深く理解していました。自分が神様によって立てられた 使徒であることを強烈に意識していたのです。しかしその彼の働きには常に妨げが付きまとっていました。外からの妨げのみでなく、教会の中からの、 信仰の兄弟姉妹からの妨げ、彼が使徒としてキリストによって立てられていることを疑う思いという妨げを、彼は常に受けていたのです。

伝道の困難
 パウロの使徒としての働きはこのように、外からのみでなく仲間内からの妨げとの戦いの連続でした。そのことを思う時に私たちは、「今日の日本の伝道には いろいろな妨げがあって困難だ」などとは言っておれないと思わされます。伝道が進展していくのは、妨げになることがないよい条件が満たされた時、 ではないのです。外にも内にもいろいろな妨げがあり、教会の中からさえも、「あいつの言っていることは本当に信用できるのか」などという声があがるような 状況の中で、パウロの使徒としての活動、伝道は前進していったのです。伝道ができるか否かは、周囲の条件や状況によるのではありません。結局は、私たちが 伝道するかしないかなのです。身近な一人の人に、自分は教会に連なる信仰者であると語り、いっしょに礼拝に行かないかと誘う。そうしたからといって 簡単に人が来てくれるわけではありません。しかしそれをするかしないかの違いは大きいのです。

パウロの悔しい思い
 話を戻しますが、自分が伝道して生まれたコリントの教会の中にすら、パウロが使徒であることに疑問を持つ人々が出てきている、ということが、 パウロの気持ちを高ぶらせています。コリントの教会は、彼が苦労して伝道したことによって生まれた群れでした。コリント教会の人々の信仰は、 パウロによって与えられたのです。もしもパウロが、主イエス・キリストによって遣わされた使徒でないなら、彼らの信仰自体も、出所のあやしいものに なってしまうのです。そのことを彼は1節では「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」と語り、2節では「他の人たちにとって わたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」 と語っているのです。そのあなたがたが、私が使徒であることに疑問を抱くとはどういうことか、というパウロの悔しい思いがここにはひしひしと感じられるのです。

使徒としての姿勢
 ところで、パウロはなぜここで、この「自分が使徒である」という問題を取り上げているのでしょうか。言い換えるならば、8章と9章はどうつながって いるのでしょうか。8章に語られていたのは、「偶像の神殿に一旦供えられて、そこから下げられてきた肉を、キリストを信じる信仰者は食べてよいのだろうか」 という質問に対するパウロの答えです。この「偶像に供えられた肉」の問題と、9章の、「パウロは使徒であるか」という問題とはどう結びつくのでしょうか。 それは結びつかない、だから8章と9章の間につながりはない、と考える人もいます。しかし多くの人々は、8章と9章はつながっていると考えます。 私もそのように読みたいと思うのですが、そのためには、パウロが何故ここで、一見唐突とも思える、「わたしは使徒ではないのか」という問題を持ち出したのか を考えなければなりません。その理由は、3節以下を読んでいくことによって分かるのです。3節には「わたしを批判する人たちには、こう弁明します」とあります。 パウロが使徒であることに疑いを抱き、批判している人々への弁明を語っていくのです。その弁明として4節以下には、「わたしたちにはこういう権利はないのですか」 という文章が並べられていきます。自分が使徒であることを主張していくために、パウロは、自分に与えられている権利を語っていくのです。その冒頭にあるのは、 「わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか」ということです。食べたり飲んだりする権利、ということを真っ先にとりあげているのです。 そこに、8章とのつながりが見えてきます。8章は先ほど申しましたように、偶像に供えられた肉を食べることについて語られていますが、このことについての パウロの基本的な考え方は、偶像などは神でも何でもないのだから、それに供えられた肉も、肉屋の倉庫につり下げられていたものと何ら違いはないものとして 食べることができる、ということでした。しかしそれが8章の結論ではありません。8章の最後の13節でパウロは、「それだから、食物のことがわたしの兄弟を つまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言っています。信仰における正しい知識を持つなら、 一旦偶像に供えられた肉でも、気にせず自由に食べることができるのです。けれども、その正しい知識をまだ十分に受け止めることができていないために、 「これは偶像に供えられた肉だ」ということがどうしても気になって、動揺してしまう、まだ信仰の弱い兄弟姉妹がいる。その人々をつまずかせないために、自分は、 彼らに合わせて肉を食べることをやめる、と言っているのです。そこには、自分が信仰によって得ている自由と権利、「食べたり飲んだりする権利」を、 弱い兄弟姉妹のために自分から制限し、放棄するという、パウロの伝道者としての基本的姿勢が示されています。その姿勢は、彼が9章で語っていく使徒としての姿勢、 あるいは心意気に他なりません。つまり9章は、8章13節を受けて、その展開として語られているのです。言い方を換えれば、8章の、偶像に供えられた肉を 食べるか否か、という問題を通して、パウロの使徒としての基本的な姿勢が明らかにされてきたのです。8章と9章はそのようにつながっているのです。

使徒の権利と自由
 自分は使徒であるということを弁明しようとするパウロが、自分に与えられている権利を語っていることの真意を私たちはしっかりつかまなければなりません。 彼が冒頭の1節で、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか」と言っていることが重要です。「自由な者である」ことと「使徒である」ことが一つと されています。つまり彼がここで見つめているのは、使徒とは自由な者であるということです。この「自由な」という言葉は、「解放されている」という意味です。 いろいろなものに捕われていない、あらゆる束縛から解放されている、それが自由です。その自由に生きることは、豊かな権利を持って生きることでもあります。 「権利」と言うと違和感があるかもしれませんが、この言葉は実は「権威」あるいは「力」とも訳せる言葉です。権威とは、何かをするための正当性です。 先ほどの食物のことに関して言えば、正しい信仰の知識によって、偶像に供えられた肉を食べても罪にはならないし汚れたりしない、という正当性が示されるのです。 それによって、これを食べたら汚れるのではないか、罪を犯すことになるのではないか、という心配から解放されて、どんな肉でも気にせず食べることができる自由が 得られるのです。そのように、自由と、権利あるいは権威は密接に結びついているのです。4節以下でパウロが使徒の権利を語っていくのは、使徒に与えられている 自由を明らかにするためです。「食べたり飲んだりする権利」が語られるのは、掟にとらわれずに何でも食べたり飲んだりできる自由があることを示すためです。 他の使徒たちのように、信者である妻を連れて歩く権利がある、と語られるのは、使徒は、独身でなければならないとか、結婚していなければならないとか、 そういう掟から自由であることを示すためです。パウロ自身は独身でしたが、他の使徒たちは妻帯していました。どちらでなければならない、というものではない、 様々な生き方があってよい、使徒はそういう自由を与えられているのです。

教会からの報酬
 6節以下に語られているのは、使徒たちには、教会から報酬を受け取ってそれで生活していく権利がある、ということです。パウロは特にこのことを、 使徒たる者に認められている当然の権利として、様々な事例を用いて強調しています。自費で戦争に行く者があるか、兵士の生活は軍隊が、そして国家が 保証すべきものではないか。ぶどう畑を作って、そこで働く者がその実りを食べることは当然ではないか。牧畜をする者がその生産物にあずからないなどということは あり得ないではないか。そのことは、神様の掟、律法にもはっきりと語られている。そこに、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」という律法の言葉が 引用されています。脱穀の仕事に従事している牛が、その穀物で腹を満たすことを妨げてはならない、という掟です。それは、ただ牛のことを言っているのではなくて、 人間においても然りなのだ、働く者がその働きによって生活を支えられていくことは当然の権利として認められている。パウロはそのことを、使徒の働きに当てはめて、 11節でこう言うのです。「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」。 使徒たちは、人々に霊的なもの、キリストの福音、信仰を宣べ伝えたのです。教会の人々は彼らのその働きによって信仰を得、キリストの救いにあずかり、 神の民の一員とされたのです。そして彼らが語る神様のみ言葉によって生かされ、養われているのです。その働きに対して、教会の人々が肉のものをもって、 つまり使徒たちの生活を支える報酬をもって応えることは当然ではないか。つまり使徒たちは、教会からの報酬によって生活し、自分の生活の糧のために自分で 働かなくてもよいという権利を持っているのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、民数記第18章21節以下も、そのことと関係している所です。ここには、 イスラエルにおいて祭司としての働きを担うレビ人が、自分たちの土地を持つのではなく、他の部族の人々の生産物の十分の一がレビ人に与えられて、 それで生活を支えられていくということが定められています。つまり、神様と民との仲立ちをするという霊的な務めを負うレビ人は、その恩恵を受ける人々からの 肉のものによって生活を支えられるべきであるということです。
 パウロがこのことをこれだけ強調して語っているのは、まさにこのことが、パウロが使徒であることを疑う人々から寄せられている批判の一つのポイントだった からです。その人々は、パウロは自分が使徒だと主張することによって、教会に報酬を要求し、教会を食い物にしようとしている、教会によって生活を支えてもらう ために、自分が使徒だと言っているのだ、と批判していたのです。9章の一つの目的は、そのような批判に答えることです。そのことはこの後に語られていきます。

自由の確立のために
 しかしこれは、パウロが自分への批判に反論するためにのみ語っていることではありません。このことはむしろ、教会が、この世のあらゆる束縛から自由に歩むために とても大切なことなのです。教会がこの世の力、その束縛から自由に歩むために何よりも必要なことは、神様のみ言葉が、何者にも束縛されることなく自由に語られて いくことです。使徒たちの自由と権利が大事にされ、その生活が支えられなければならないのは、彼らが、生活のことの心配から解放されて、自由に、大胆に、 み言葉を語ることができるようになるためです。この世の様々な束縛は、多くの場合、金銭や生活がらみで私たちを縛りつけています。使徒たちがそういう束縛から 解放されて、み言葉を語ることに集中していくことによってこそ、教会は福音による解放、自由を本当に得ることができるのです。逆に教会が使徒たちの自由と権利を 認めず、その生活を支えることをせず、自分たちへのサービスだけは要求するようになってしまったら、それはもはや神様のみ言葉を真剣に聞こうとしておらず、 神様をも自分たちにサービスする、奉仕する奴隷にしているということです。神様を自分の奴隷にして、自分たちが自由であろうとすることは、まさに人間の罪の 本質です。その罪によって人間は、この世の様々な力、束縛の奴隷となり、本当の自由を失っていくのです。このように、パウロが使徒たちの権利を強調しているのは、 教会の、信仰者たちの自由が本当に確立し、守られるためなのです。

自由を放棄する自由
 パウロはこのように、使徒に神様から与えられている自由と権利を大胆に主張し、批判者たちの「教会を食い物にしようとしている」という批判に対しても、 むしろ逆に「使徒が教会から報酬を受け取ることは当然だ」と主張しています。それは自分が使徒として、自由と権利を享受するためなのでしょうか。そうでは ありません。これは、来週読む12節後半以降に語られていくことですが、パウロは、自分が使徒として持っているその自由、権利を、用いないで歩んでいるのです。 自分からそれを放棄しているのです。そのことは先ほどの、偶像に供えられた肉を食べることができるけれども、信仰の弱い兄弟姉妹をつまずかせないために 今後決して肉を口にしない、ということとつながります。パウロはここで使徒としての自由や権利を強く主張しつつ、自分はそれを放棄し、行使しないでいるのです。 そこに、パウロが得ている本当の自由が表されています。彼は自分が使徒として立てられ、ここに語られている自由と権利を与えられていることを知っています。 しかし彼はその自由と権利を行使せずに使徒としての働きをしていくことを決意したのです。それは、迫害者から使徒となった彼の、使徒としての働きをなして いく上でのこだわりであるとも言えるでしょう。しかし大事なことは、これが彼自身の、全く自由な決断であることです。彼は自由や権利を持っていないのでは ないのです。しかし自分で、それを行使することを控えているのです。目に見える彼の生き方は一見、不自由な、束縛の中にいるように見えます。偶像に供えられた 肉でも自由に食べることができる、ということを誇りにしている人々から見れば、それを食べないでいるパウロは、古い考えやしきたりに束縛された、 解放されていない者のように見えるのです。しかしそうではありません。彼はそのような束縛から、誰よりも完全に自由になっているのです。だからこそ、 自分からその自由を放棄することができるのです。本当に自由である人は、自分の自由を放棄して、敢えて束縛の中に身を置いて生きることができるのです。

パウロの心意気
 このパウロの姿には、パウロの使徒としての心意気が示されていると言うことができます。「心意気」とは、誰かに強制されて、命令されて持つものではありません。 全く自分の自発的な思いで、しなければならないのではないことをすることが「心意気」です。このパウロの心意気を、私たちも持つことができます。私たちは、 主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、また復活して下さったことによって、罪を赦されました。 主イエスが私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの全ての罪は赦され、もはや私たちを罪に定めるものは何もなく なったのです。つまり、これをしなければ救われないということも、これをしたら救われないということも、もはやなくなったのです。立派な人、いろいろな ことが出来る能力ある人、神様に仕えて熱心に奉仕する人にならなければ救われないということはもはやありません。クリスチャンになったら、こういうこと をしなければいけない、こんなことはしてはいけない、という掟や戒律も一切ありません。イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって私たちは、 それらの全てから解放され、自由を与えられたのです。この解放と自由の喜びに生きることが私たちの信仰です。その自由は、だったら何でも好き勝手なこと をしていいじゃないか、というわがままや身勝手を生むことは決してありません。主イエス・キリストの十字架と復活によって本当の解放と自由を与えられた 者は、自分のために十字架にかかって死んで下さった主イエスに感謝して、そのみ心に応えようとする心意気を感じるのです。その心意気に生きることが私た ちの信仰です。その心意気によって私たちは、パウロと共に、弱い兄弟をつまずかせないために、自分の自由を放棄し、したいことをも我慢するようになりま す。自分の権利を主張し、自由を楽しみ、自分の居心地のよさを追求するよりも、他の人のためにむしろそれらを犠牲にするようになるのです。そのことはご く身近な、日々の具体的な歩みの中から始まります。例えば皆さん、今日この礼拝が終わった時、真っ先に何をしますか。自分の親しいあの人この人との楽し い交わりを第一に考えますか。それは皆さんの自由であり権利です。それをしてはいけない、などということは全くありません。あるいは、私は教会でこうい う奉仕の業を負っている、その仕事を先ず真っ先にしなければ、と思っている人もいるでしょう。教会における奉仕も、皆さんの自由であり権利です。そう言 うとびっくりする人がいるかもしれません。それは権利や自由ではなくて義務ではないか…。しかしそれは違うのです。教会における奉仕は、皆さんが、神様 に感謝して、教会のために自分の時間と力を捧げようと自由に決断して担うものです。それは義務として強制されるものではなくて、むしろ皆さんに与えられ ている自由と権利の行使なのです。いや、自分は自由な決断によって奉仕しているのではなくて、選挙で選ばれたから仕方なく、いやもとい、大切な務めと思 ってやっているんだ、という人がいるかもしれません。確かに私たちは、教会における選挙の結果に神様の選びと召しを信じてそれを受け止めます。神様のお 召しという意味では、そこには義務という性格もあることは確かです。しかし義務がある所にはそれに応じた権利も与えられるということも確かです。つまり 選挙によって選ばれた務めには、その他の奉仕よりも大きな権利が伴うのです。例えば、選挙で選ばれた長老には、教会の重要な事柄を決定していくという大 きな権利が与えられているわけです。要するに何が言いたいかというと、教会における奉仕の仕事をすることも、基本的に、教会員としての権利の行使なので す。そして今皆さんに考えていただきたいのは、親しい人との交わりであれ、教会の奉仕の仕事であれ、そういう自分の自由や権利を行使する前に、少し周り を見回してみたらどうでしょう、ということです。皆さんの周りに、知らない人はいませんか。その人はひょっとしたら、今日初めてこの教会の礼拝においで になった方かもしれません。教会のことがよく分からずにとまどっているかもしれません。誰も知り合いがおらずに、心細い思いをしているかもしれません。 もう何回も礼拝に来ているのに、誰も声をかけてくれないで寂しい思いをしているかもしれません。一言声をかけられることによって、来週も来てみよう、と いう思いを持ってくれるかもしれません。周りにいる、自分の知らない人に一人でも、ほんの少しでも声をかけ、交わりの輪を広げる、ということを、親しい 人との交わりや、教会の奉仕の仕事を始める前に、ほんの少しやってみる。例えばそういうことが、自分の自由や権利の行使を他の人のために差しひかえると いうことなのです。「声をかけられたくない人もいるんだ」などと言い訳をしてはなりません。それは、声をかけてみなければ分からないことなのです。声を かけてみて、相手が放っておいてほしそうなら、それでやめればいいのです。伝道は結局、私たちがするかしないかだ、と最初の方で申しました。困難だから、 と何もしなければ、何も始まらないのです。ほんの小さなことでも、やってみることが大事です。大切なことは、自分の居心地のよさ、自分の自由や権利よりも、 弱さを覚えていたり、とまどっていたり、寂しい思いをしている他の人のことをまず考えることです。私たちは、主イエス・キリストによって、そういう自由を与 えられているのです。本当に自由にされているからこそ、自分の自由や権利よりも、人のことを大切にしていくことができるのです。それは繰り返し申しましたよ うに、そうしなければいけない、という義務ではありません。守らなければならない掟や戒めではありません。独り子の十字架の死によって私たちを救って下さっ た神様の恵みのみ心を知らされ、人生意気に感じて、私たちが抱く心意気です。そういう心意気を、パウロから受け継いでいきたいのです。

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