「主イエスの逮捕」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編第88編1-19節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章43-52節
・ 讃美歌:8、288、527
ゲツセマネの祈りに続いて
主イエス・キリストが、オリーブ山の麓のゲツセマネという所で、 祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆たちによって逮捕され た、その場面を本日はご一緒に読みます。43節に「さて、イエスが まだ話しておられると」とあります。この言葉によって、本日の箇所 はその前のところ、いわゆるゲツセマネの祈りの場面と結びつけられ ています。そこを読んだのは10月の第一の主の日でしたので、約一 ヶ月ぶりということになります。そこで、主イエスがまだ話しておら れた、そのお言葉をもう一度読んでおきたいと思います。41、42 節です。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでい い。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こ う。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ゲツセマネにおいて主イエス は、ご自分が捕えられ、十字架につけられて殺されることを目前にし て、深い恐れと悲しみの中で祈られました。神の子であられる主イエ スにとっても、いや神の子であられるからこそ、十字架の死は大きな 苦しみであり悲しみだったのです。主イエスご自身には、そのような 苦しみを受けなければならない謂れは何一つありません。その苦しみ は、私たち人間の罪のゆえの苦しみです。主イエスは私たちの罪を背 負って、その赦しのために、私たちの身代わりになって苦しみを受け ておられるのです。ですからそれは私たちがしばしば味わう、多かれ 少なかれ自分にも責任がある苦しみとは根本的に性格が違う、さらに 深い苦しみなのです。その深い苦しみを背負って、主イエスはゲツセ マネで祈られました。その主イエスを、目を覚まして共に祈ることに よって支えるように求められていたのに、弟子たちは眠り込んでしま いました。主イエスの孤独と苦しみはそれによってますます大きくな ったと言わなければならないでしょう。自分がその人々のために苦し みを背負っている、その当の人々は眠り込んでしまっている、その孤 独の中で主イエスは、自分の思いではなく父なる神のみ心こそが行なわれるようにと祈る、その祈りの戦いを戦い抜かれたのです。
ユダの裏切りによって
主イエスは祈っておられ、弟子たちは眠り込んでしまっている、 その間に、主イエスを捕えようとする人々が迫って来ました。 彼らがいよいよ近づいて来た時、主イエスは弟子たちを起し、 「眠っている時、休んでいる時はもう終わりだ。時が来た」と おっしゃったのです。その時とは、「人の子が罪人たちの手に引 き渡される」時です。主は父なる神様のみ心に従ってその苦し みを引き受ける決意を固め、「立て、行こう」と、ご自分から その苦しみの時へと歩み出そうとしておられるのです。その苦 しみをもたらす者たちの先頭に立っていたのは、主イエスを裏 切ったユダでした。このユダが、祭司長、律法学者、長老たちの遣 わした群衆を連れて進み寄って来たのです。
主イエスを裏切ったユダのことを、この福音書の著者は繰り 返し「十二人の一人であるユダ」と言っています。10節でユダ の裏切りの企てを語った所にも「十二人の一人イスカリオテの ユダは」とありました。裏切り者のユダは主イエスの十二人の弟 子の中から出たのです。この十二人は主イエスご自身が選び 出し、み側に置いた人々でした。彼らは自分で志願して弟子に なったのではありません。皆主イエスに招かれて従って来たのです。 その人々の中から裏切り者、主イエスを引き渡す者が出たと いうことは、普通に考えれば、主イエスの弟子選びは失敗だった、 ということです。主イエスのことを語り伝えていこうとする時に、 私たちなら、そういうことはなるべく伏せておきたい、触れないで おきたいと思うのではないでしょうか。ところがこの福音書はこ とさらに「十二人の一人」という言い方をしています。それはこ のユダが決して特別な、他の弟子たちとは違う極悪人だったの ではなくて、弟子たちの内の誰もがユダになり得たということで しょう。またそれは、主イエスがあの苦しみの中で祈っておられ る時に、目を覚まして支えることができずに再三眠り込んでし まった弟子たちとこのユダと、どれほど違いがあると言えるのか、 ということでもあるでしょう。
裏切りの接吻
ユダは、松明の明りだけの暗闇の中で間違いなくイエスを捕 えるために、前もって合図を決めていました。ユダが接吻する、 その人がイエスだから、その人を確かに捕えるように、という ことです。そのために「ユダはやって来るとすぐに、イエスに近 寄り、『先生』と言って接吻した」と45節にあります。私た ちには接吻という挨拶の習慣がありませんから奇異に感じます が、これはユダヤ人たちの間では普通のこと、特に律法の教師 であるラビとその弟子の間で、弟子が「先生」つまり「ラビ」 と言って接吻するのは、尊敬を込めた通常の挨拶でした。です からユダがしたことは普通のことで、他の弟子たちも毎日そのよ うに主イエスに接吻していたのです。しかしここでのユダの接吻 は、主イエスを裏切り引き渡すための接吻でした。本来愛と尊 敬を込めた挨拶であるはずの接吻を、ユダは裏切りのために用 いたのです。
しかし主イエスはこのユダの偽りの、毒を含んだ接吻をお受 けになりました。主イエスは彼らが何のために来たのはよく分 かっておられたのですから、そのような偽りの、汚らわしい接吻は 受けない、と顔を背けるのが当然ではないでしょうか。私たちな らそうするだろうと思います。しかし主イエスはユダの接吻をい つものようにお受けになりました。つまり主イエスはユダを、なお も弟子として迎え入れておられるのです。
恐怖に捕えられている人々
さてユダの接吻を合図に、人々は主イエスを捕えました。その時さ さやかな抵抗がなされました。47節に「居合わせた人々のうちのあ る者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落 とした」とあります。このことは他の福音書にはもう少し詳しく語ら れていて、マタイ福音書ではそこに「剣をさやに納めなさい。剣を取 る者は皆、剣で滅びる」という主イエスのお言葉が記されています。 ルカ福音書では、主イエスが、耳を切り落とされた人に触れてお癒し になったことが語られています。そしてヨハネ福音書では、剣を抜い て切りかかったのはシモン・ペトロであり、耳を切り落とされた大祭 司の手下の名はマルコスであったということまで語られています。切 りかかった人がペトロであったというヨハネの記述はいかにもありそ うなことです。ペトロはこの少し前のところで、たとえ他の弟子たち が皆つまずいても、自分だけは決してつまずきません、主イエスと一 緒に死ななければならなくなっても、主イエスのことを知らないなど とは決して言いません、と言っていました。してみると、彼はそのよ うな勇ましい思いで、捕えようとする人々の手から主イエスを守ろう として剣を抜いたのでしょうか。しかしどうもそうではないように思 われます。なぜなら、主イエスは先程から見ているように、捕えよう として来た人々に何の抵抗もせず、身を委ねておられるのです。ユダ の裏切りの接吻を黙って受けておられるのです。その主イエスに従お うとするなら、このように剣を抜いて切りかかるのではなくて、主イ エスと共に彼らの前に進み出て一緒に捕えられることこそが相応しい ことです。そして彼自身が言ったように、主イエスと共に死ななけれ ばならなくなっても、どこまでも従って行く、それこそが本当に勇気 ある弟子としての歩みでしょう。剣を抜いて切りかかるというのは、 実は勇敢なことではなくて、むしろ臆病と恐怖の現れであると言うべ きです。彼は主イエスを守ろうとしたと言うよりも、自分の身を守ろ うとして剣を抜き、やみくもに振り回したのではないでしょうか。つ まりこれは、臆病者ほどやたらに剣を振り回すという醜態です。私た ちはしばしばそういう醜態を演じます。恐怖にかられると、刃物を持 ってではなくても、やたらに相手に切りかかっていくのです。自分の 気に入らないことがあったり、人から批判されると、やたらに感情的 になって相手を攻撃する人がいます。そういう人は、実は弱い、臆病 な、自分に自信がない人であって、人から批判されることを極度に恐 れているのです。ペトロもそういう臆病な恐怖心から剣を抜いたので しょう。そしてこのことは、主イエスを捕えようとして来た人々にも 共通しています。彼らに対して主イエスがおっしゃった48、49節 のお言葉がそれを示しています。「まるで強盗にでも向かうように、 剣や棒を持って捕えに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒に いて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕えなかった」。彼らは 何人ぐらいで主イエスを捕えに来たのか、はっきりとは分かりません が、「群衆」とありますから、かなりの人数だったのでしょう。その 人々が、剣や棒を持って、まるで強盗にでも向かうようにやって来 た、それは彼らの恐怖心の現れです。主イエスは毎日神殿の境内で、 誰はばかることなく堂々と教えておられたのです。武装集団を作って 練り歩いていたわけではありません。だから主イエスを捕えることな どたやすいことだったのです。それなのに、こんな夜中に人々の目を 避けて剣や棒を持って捕えに来たのは、彼らが主イエスを恐れている からです。主イエスのみ言葉とみ業とに示されている権威と力への恐 怖がこのような形で現れているのです。ですからこの話は、恐怖に捕 われて主イエスをつかまえに来た人々に対して、同じく恐怖に捕われ たペトロが切りかかった、ということなのです。
居合わせただけの人
ところでマルコ福音書はペトロの名前を出していません。「居 合わせた人々のうちのある者」とだけ言っています。「居合わせ る」というのは直訳すれば「そばに立っている」という言葉で す。口語訳聖書では「イエスのそばに立っていた者のひとりが」 となっていました。それがペトロであったことはヨハネ福音書がそ う語っているからそうなのでしょう。そうすると、主イエスの一番 弟子であるペトロがここでは「そばに立っていた者のひとり」と なっていることになります。それは一番弟子であるペトロの名誉 を守るためなのかもしれませんが、しかしこれがペトロであること は皆が知っている、という前提に立って考えてみるならば、 ここにはさらに深い意味が込められていると言うことができると 思います。つまり、ペトロはこの時もはや弟子ではなくて、「そ ばに立っているだけの者」になってしまっていた、ということです。 恐怖にかられて剣を抜き、切りかかったペトロは、主イエスと何 らの関係なくただそこにいるだけの者になってしまっている。そ の意味で、新共同訳の「居合わせた人々のうちのある者」という のは良い訳です。たまたまそこに居合わせただけで、主イエスと の関わりを何ら持っていない、ペトロはこの時そういう者にな ってしまっているのです。それはペトロだけではありません。50節 にあるように「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」 のです。つまり他の弟子たちも皆、主イエスとの関係を否定して、 主を見捨ててしまったのです。全ての弟子たちが、そばに立って いるだけの者、たまたま居合わせただけの者になってしまった、主 イエスの逮捕の場面でそういうことが起ったのです。
裸で逃げた若者
マルコ福音書はそこにさらに51節をつけ加えています。これはマ ルコにのみ出て来る話で、他の福音書にはありません。一人の若者 が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていたのですが、人 々が彼を捕えようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げて行ったので す。このエピソードにはどんな意味があるのでしょうか。謎のような この話は昔から人々の想像力を刺激してきました。昔から言われてき たのは、この若者こそ、この福音書を書いたマルコ自身ではないか、 ということです。マルコ福音書の著者は、使徒言行録第12章12節 に出て来る「マルコと呼ばれていたヨハネ」だと考えられています。 そしてその節には、エルサレムにおいて、このマルコの母であるマリ アという人の家に教会の信者たちが集まり、共に祈っていたことが語 られています。つまりマルコの母はキリスト信者であり、その家がエ ルサレムにおける最初の教会の集会所となっていたのです。そこから さらに想像を巡らせることができるのは、主イエスがエルサレムにお いて弟子たちと共に最後の晩餐、過越の食事をなさった家とはこのマ ルコの家だったのではないか、ということです。既に主イエスに従う 者となっていたマルコの母が、主イエスと弟子たちのために過越の食 事の準備をした部屋を提供したというのは大いにあり得ることです。 マルコは十二人の弟子の一人ではありませんから、その最後の晩餐に 加わっていたわけではありません。しかし彼の家の一部屋で最後の晩 餐は行なわれたのです。その後主イエスと弟子たちはゲツセマネに行 かれました。マルコはその後について行ったのはないでしょうか。そ のようにして彼は主イエスの逮捕の場面に共にいることになったので はないでしょうか。これらは全て推測ですが、大いにあり得ることだ と思います。だとすればこの51節には、この福音書を書いたマルコ が自分自身を登場させていることになります。そういうことはよくあ ります。画家が自分自身の姿を絵の片隅に描き込むように、マルコは この福音書に自分自身を登場させているのです。
しかしそれは、自分のことをさりげなく書き入れて後世に遺 したい、ということではありません。マルコは、主イエスの逮捕 の場面に、主イエスと共に捕えられそうになったために身に纏 っ て い た 布 を 捨 て て 裸 で 逃 げ た 自 分 の 姿 を 書 き 入 れ た の で す。この布は一説によれば、寝る時に身に纏う布で、それを 被って主イエスについて行った彼が、その布を捨てて逃げた のだとも言われます。いずれにしてもこれは決して勇ましい話 ではありません。むしろ恥ずかしい、みっともない話です。恥ず かしいだけでなく、自分の命を守るために主イエスを見捨て、裸 になって逃げて来たという、信仰における裏切り、挫折、失敗の 事実です。福音書を書く人になったということは、彼は初代の教 会における有力な指導者の一人だったのです。みんなから「マル コ先生」と呼ばれていたのでしょう。その彼が、自分は主イエス が捕えられた時、裸で逃げ出したのだ、自分もそのように、命惜 しさに主を見捨てたのだ、ということをここに語っているのです。
聖書の言葉が実現するため
このように、主イエスの逮捕の場面には様々な人々が登場していま す。強盗に向かうように剣や棒を持って捕えに来た群衆たち、尊敬と 愛の印であるはずの接吻をもって主イエスを裏切ったユダ、恐怖に捕 えられて剣を抜いて切りかかり、主イエスとの本来の関係を失ってし まったペトロ、主を見捨てて逃げ去ってしまった弟子たち、恥も外聞 もなく裸で逃げたマルコ、それらの人々の真ん中に、主イエスがおら れるのです。主イエスは、ご自分が選んだ弟子の一人に裏切られ、そ の他の弟子たちにも見捨てられ、最も側近くに従ってきたはずのペト ロすらも主イエスとの関係を失い、単にそこに居合わせただけの人に なってしまう、そういう孤独と苦しみとの中で逮捕されています。主 イエスの置かれた状況は全く絶望的なものです。本日共に読まれた旧 約聖書の箇所は詩編の第88編ですが、これは詩編の中で最も暗い、 絶望的な詩です。最後の19節には「愛する者も友も、あなたはわた しから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけで す」とあります。あるいはこの詩の9節には、「あなたはわたしから、親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者 となりました。わたしは閉じ込められて出られません」とあります。 この逮捕の場面において主イエスが置かれている状況は、この詩に語 られている通りの絶望の状況だと言えるでしょう。しかしまことに驚 くべきことに、主イエスご自身は決して絶望の中にはおられないので す。主イエスは、接吻をもってご自分を裏切ろうとするユダをなお弟 子として迎え入れ、その偽りの、毒をもった接吻を黙ってお受けにな り、恐怖に捕えられて剣と棒を持ってご自分を捕えに来た群衆に対し て、彼らの臆病さをはっきりと指摘しておられます。そのように、逮 捕そして十字架の死への道をご自分から、堂々と歩んでおられるので す。その主イエスのお姿の意味をはっきりと語っているのが、49節 の終わりの「しかしこれは聖書の言葉が実現するためである」という み言葉です。十二人の一人に裏切られ、一番の弟子も恐怖に捕えられ て弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、その ような中でまるで強盗でもあるかのように捕えられる、それら全ての ことが、聖書の言葉の実現、つまり父である神様のみ心、ご計画によ ることなのだということを、主イエスははっきりと意識しておられ、 そのみ心に従おうとしておられるのです。それゆえに主は、私たちの 目から見たら絶望の状況の中で、それをしっかりと受け止め、その現 実に押しつぶされることなく、堂々と落ち着いて歩むことができたの です。
主イエスに支えられている私たち
この主イエスの堂々とした落ち着いた歩みは、恐れや臆病に取りつ かれ、主イエスを裏切り、あるいは関係を捨てて逃げ去ってしまうよ うな周囲の人間たちの慌てふためく姿と対照的です。この対照的な姿 を語ることによって聖書が私たちに示そうとしているのは、私たちも 主イエスに倣って神のみ心を覚え、それに従っていこう、そうすれば 慌てふためくことなく、主イエスのように堂々と落ち着いて歩むこと ができる、ということではありません。そうではなくて、主イエス が、慌てふためく人間たちの弱さ、罪を担い、支えて下さっているの だということです。主イエスが支えて下さっているからこそ、ここで は居合わせた者の一人、そばに立っているだけの者となってしまったペトロが、後にもう一度主イエスの弟子となり、主イエスに遣わされ て使徒となることができたのです。逃げ去ってしまった弟子たちが、 復活された主イエスのもとに立ち帰り、ペトロと共に使徒となること ができたのも、この主イエスが彼らの弱さ、罪を担い、支えて下さ っていたからです。そして著者マルコがここに、裸で逃げ去った自分 の恥ずかしい挫折、失敗の姿を書き入れたのも、この自分の挫折、失 敗、弱さ、罪が、このようにして逮捕され、十字架につけられ、そし て復活なさった主イエス・キリストによって担われ、支えられてい た、その事実を描くためであるし、この主イエスの苦しみと死とによ って、あのみっともない恥多い自分が、罪を赦され、信仰者として、 そしてキリストの福音を書き記す者として立てられた、その素晴しい 恵み、それこそまさに福音、喜ばしい知らせを、読者に知ってもらう ために他ならないでしょう。決然として堂々と、十字架の死への道を 歩み、自分を裏切り、逮えようとする者たちを迎え入れ、その手に身 を委ねておられる主イエスと、その周りで恐怖に捕えられて慌てふた めき、右往左往している人間たちとのコントラストを描くことによ って、マルコは、恐れや苦しみ悲しみの中で慌てふためき、右往左往 している私たちを、ご自分の十字架の死によって根底から支えて下さ っている主イエス・キリストを描き出しているのです。