主日礼拝

恐れることはない

「恐れることはない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章1-10節
・ 讃美歌:328、324、326、74

恐れるな
 「ハレルヤ! 主はよみがえられた」。このように歌う讃美歌を先程ご一緒に歌いました。本日は、主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターです。主の復活の日の朝、主イエスの墓へ行った婦人たちに主の天使が現れ、「恐れることはない」と語りかけ、主イエスは復活なさったのだと告げました。彼女たちがこのことを弟子たちに知らせようと走り出すと、主イエスが行く手に立っておられ、やはり「恐れることはない」と語りかけて下さいました。「恐れることはない」は原文ではもっとはっきりとした、「恐れるな」という語りかけです。イースターのこの日、復活して生きておられる主イエスが、私たち一人ひとりにも、「恐れるな」と語りかけて下さっています。それを受けて私たちは、「ハレルヤ! 主はよみがえられた」と賛美を歌うのです。

墓を見つめる女たち
 「恐れるな」という語りかけを最初に聞いたのは、「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。この二人の女性が、安息日である土曜日が終わって迎えた新しい週の最初の日である日曜日の明け方に、主イエスの墓へ行ったのです。何をしに行ったのでしょうか。マルコによる福音書では、三人の女性たちが主イエスの遺体に香料を塗るために行ったと語られています。金曜の夕方、日没から安息日が始まろうとしていたので急いで埋葬された主イエスの遺体に香料を塗り、丁寧に葬ろうとしたのです。しかしマタイはそういう理由を語っていません。1節には、彼女らは「墓を見に行った」とあります。この「見る」という言葉は、「じっと見つめる」というような強い意味の言葉です。彼女らは、墓を「見つめる」ために行ったのです。そのことは主イエスの埋葬の場面である27章61節と繋がります。ここに出て来るのも「マグダラのマリアともう一人のマリア」ですが、彼女らは、主イエスの遺体が埋葬された後、「そこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあります。「墓の方を向いて」とは「墓を見つめて」ということです。埋葬の後も彼女らは、主イエスの墓をじっと見つめていたのです。その後安息日を守るために一旦家に帰った彼女らが、安息日が終わった後の明け方に再び主イエスの墓へ行ったのも、墓を見つめるためでした。何をするでもなくただじっと墓を見つめているこの二人の女性たちの姿は、愛する者の死の悲しみにうちひしがれた人の姿です。「もう一人のマリア」とは主イエスの母マリアだったのではないかと考える人もいます。最愛の息子が十字架につけられて殺されてしまった、その筆舌に尽くし難い嘆き悲しみの中で、日常の生活に戻れずにただ墓を見つめている母親の姿がここにはあります。

あの方は、ここにはおられない
 愛する者を失った深い嘆き悲しみのゆえに、ただ墓を見つめていることしかできない、墓の前にしか身の置き所がない、そのような思いでやって来た彼女らに、主イエスの復活が告げられました。2節には、大きな地震が起り、天使が、墓を塞いでいる石をわきへ転がしたとあります。しかし主イエスはその地震によって復活したわけではないし、天使が石をころがしてくれたから墓から出て来れたのでもありません。天使がこの石を転がしたのは、主イエスの墓が既に空であることを彼女たちに見せるためです。からっぽの墓を示しながら天使は言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。この天使の言葉は彼女らに、神からの重要なメッセージを告げています。「あなたがたは愛するイエスの死を嘆き悲しむために今朝もこの墓に来た。しかしそれはもはやお門違いだ。墓の中を見なさい。もうそこにイエスはいない。イエスは復活して生きておられるのだ。だからイエスを墓の中に捜し求めることはもうやめなさい」。天使の告げた「恐れるな」にはこういう意味が込められているのです。

死の支配下にある恐れ
 彼女たちは何かを怖がっていたのではありません。自分たちもイエスと同じように捕えられて殺されてしまうかもしれないと恐れていたのでもありません。そうだったら墓になど来ないでしょう。彼女らは、そのような心配などどこかに吹き飛んでしまうような、もっと深い恐れを抱いていたのです。主イエスは死んでしまった、もはや生きておられる主イエスにお会いすることはできない、そのことこそが彼女らの「恐れ」でした。つまりこの恐れは、死の力に支配されているという恐れです。自分たちがどんなに主イエスを愛し、慕っていても、死の力がその自分たちから主イエスを奪って行った。主イエスも、そして自分たちも、死の力に支配されてしまって、それに抵抗することができない。死の力こそがこの世を支配しているのだということを、彼女らは思い知らされているのです。そこに、底知れない深い恐れがあります。私たちは誰もが、自覚しているかいないかはともかく、この恐れをかかえているのです。死の力こそが、自分の人生において最後に勝利する。私の歩みは、死に支配されて終わる。それは別の言い方をすれば、私たちに敵対する力、私たちを滅ぼそうとする力こそが最後の勝利者であり支配者だ、ということです。その事実をつきつけられる時、私たちは深い恐れを抱かずにはおれないのです。

あなたがたは、恐れるな
 そういう深い恐れに捕えられているこの女性たちに、神の使いである天使が「恐れるな」と語りかけました。あなたがたの抱いているその恐れにはもはや根拠がない。死の力を恐れなければならない時はもう終わったのだ、と告げたのです。この「恐れるな」という天使の言葉を原文で読むと、そこには「あなたがたは」という言葉があります。直訳すれば「あなたがたは、恐れるな」となるのです。この言葉はなくても意味はちゃんと通じます。なぜわざわざ「あなたがたは」と言われているのでしょうか。それはこの「恐れるな」という言葉が、一般論として語られているのではなくて、私たち一人ひとりに対して、「あなたは」と語りかけられているということでしょう。私たちは誰もが死に支配されているという根本的な恐れを抱いています。敵対する力が私たちを支配しているのです。そのことは、私たちの人生において、様々な具体的な苦しみ悲しみとして現れています。私たちは具体的ないろいろな苦しみ悲しみの中で、死の力の支配を感じ、恐れを覚えさせられているのです。

具体的な苦しみの中で
 この女性たちと同じように、今、愛する者の死の悲しみ、嘆きの中にいる人もいます。このイースターの礼拝には、この一年間に天に召された方々のご遺族をもお招きしています。愛する家族の死による嘆き悲しみはそう簡単に癒えるものではありません。普段は生活の忙しさによって紛らわすことができていても、ふと気づくと自分の心はその人の墓の前に立ちつくしている、という思いをかかえている方々もおられることでしょう。あるいは、自分自身や家族の病気のために深い恐れと悲しみを抱いている人もいます。肉体的な病気は勿論のこと、ストレスの大きい現代の社会においては、心が病気になってしまうことが多々あります。心と体は連動していますから、心の苦しみは体に現れるし、体の苦しみは心にも影響を及ぼします。また病気は、それ自体が苦しみであるだけでなく、これからどうなっていくのだろうかという不安を引き起こします。その延長上に死に対する恐れがあります。病気は肉体的にも精神的にも経済的にも、私たちの人生を脅かし、私たちを深い恐れに陥れるのです。
 健康であっても経済的な不安を抱えている人もいます。今のこの社会では、自分や家族が生きていくための収入を十分に得ることができない人が増えています。生活の基盤をいつ失ってしまうか分からないという不安をかかえている人もいます。そのような不安と恐れは日々具体的に私たちを苦しめ、恐れに陥れます。またこれはいわゆる格差の問題でもあります。一方に裕福な人がおり、他方に働いても働いても十分な収入が得られない人がいて、その格差が固定化してきています。そこに生じる、同じ社会を構成している者の間のどす黒い妬み、怒り、憎しみの思いが私たちから平安を奪い、社会の分断をもたらしつつあります。また若者はいつの時代にも人生の先行きへの不安を抱くものですが、今の時代は特に、将来に希望を見出しにくくなっており、若い人が恐れと不安の中で、目先のことしか見つめられなくなっています。そしてこれは時代や世代には関係なく、私たちはお互いの罪によって人を傷つけたり傷つけられたりすることを繰り返しており、人間関係の破れに陥りがちです。そこにも、死の力の支配が現れていると言うことができるのです。私たちはこれらの様々な具体的な苦しみ悲しみの中で、この世を生きることに深い恐れを感じています。神は私たちがそれぞれに負っている具体的な苦しみ悲しみを知っていて下さり、私たち一人ひとりに、「あなたは、恐れるな」と語りかけて下さっているのです。

弟子たちに告げなさい
 天使は彼女らに主イエスの復活を告げると共に、一つの使命をお与えになりました。7節です。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。天使は彼女らに、主イエスの復活を弟子たちに伝えることを命じ、伝えるべき言葉を託したのです。「恐れるな」という語りかけは、この伝えるべき言葉とセットになって与えられています。両者は切り離すことができません。彼女らに託された伝えるべき言葉にこそ、主イエスの復活によって恐れが取り去られたことが示されているのです。
 「急いで行って弟子たちに告げなさい」と天使は言いました。しかし弟子たちとは誰のことでしょうか。主イエスには十二人の弟子たちがいました。しかし彼らの中で、ユダは裏切り、絶望の内に自殺してしまいました。ペトロは主イエスが捕えられ、裁きを受けている時に、「あなたもあのイエスの仲間だろう」と見とがめられ、三度にわたって「そんな人は知らない」と断言しました。イエスなど自分とは関係ない、と関係を断ち切ってしまったのです。他の弟子たちも皆、主イエスが捕えられると逃げ去ってしまいました。ということは、もはや主イエスの弟子などどこにもいないのです。みんなそこから脱落し、弟子であることをやめてしまったのです。しかし天使は「弟子たちに」と言っています。ここも直訳するなら「彼の弟子たちに」です。彼らは他の誰でもない主イエスの弟子たちなのだ、ということが強調されているのです。このことは、主イエスを裏切り、関係を否定し、逃げ去ってしまった彼らを、神はなお主イエスの弟子と呼んで下さっているということを示しています。そこに、主イエスを裏切り見捨てた弟子たちに対する罪の赦しの宣言があります。復活した主イエスが、彼らの罪を赦して下さり、なおご自分の弟子として認め、共に歩んで下さることがそこに示されているのです。

ガリラヤでお目にかかれる
 そのことは彼女らに託された言葉にも示されています。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。復活した主イエスは、弟子たちより先にガリラヤへ行かれるのです。弟子たちはそのガリラヤで、復活した主イエスにお目にかかることができるのです。ガリラヤとは弟子たちの故郷です。彼らはそこで主イエスと出会い、主イエスに召されて弟子になったのです。そして彼らは主イエスに従ってガリラヤからエルサレムまで来ました。主イエスはそのエルサレムで捕えられ、十字架につけられて殺されたのです。その決定的な危機の時に、彼らは主イエスを裏切り、逃げ去り、共にいることができませんでした。主イエスに従い通すことができなかったのです。そのように信仰に挫折した彼らが、すごすごと帰っていく先がガリラヤです。「故郷に錦を飾る」のとは正反対に、挫折して夢も希望も失い、ぼろぼろになって帰っていくのです。そのガリラヤに、復活された主イエスが先に行っておられる、そこで彼らを待っておられ、迎えて下さるのです。そして再び彼らと共に歩んで下さるのです。

復活を信じるとは
 主イエスが復活して生きておられるというのはそういうことなのです。主イエスの復活を信じるというのは、およそ二千年前にイエスという人がいて、一旦は死んでしまったが生き返ったという人間の常識では考えられない不思議な出来事が実際にあったと思うかどうか、という問題ではありません。そんなことは、UFOがいるかいないかというのと同じで、私たちの生活に何の影響もありません。主イエスが復活して生きておられるというのは、神を信じることも従うこともせず、無視し、神なんか関係ないと言って歩んでしまっているこの私の罪を全て背負って十字架にかかって死んだ主イエスが、生きておられる方として私と出会って下さり、私の罪を全て赦して、神の子として、神を信じ神と共に生きる者として新しく生かして下さる、ということなのです。その主イエスが、様々な具体的な苦しみ悲しみによって恐れに陥っているこの私と出会って下さり、「あなたは、恐れるな。私があなたと共にいる。私と共に歩みなさい」と語りかけて下さっているのです。その語りかけに応えて歩み出すことが信仰です。その信仰の歩みは、自分の信仰心の深さによって支えられるのではありません。たとえ死ななければならなくなっても主イエスにどこまでも従っていきます、というペトロをはじめとする弟子たちの決意は完全に打ち砕かれ、挫折したのです。自分の力で正しく生きて行こうとする人間の思いが徹底的に挫折したところで、復活した主イエスが出会って下さり、私たちを新しく生かして下さるのです。主イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれる、そこでお目にかかることができる、というメッセージはそういうことを意味しています。復活して生きておられる主イエスと出会うことにおいて、私たちは、自分の力、自分の正しさに依り頼んで生きていた生まれつきの古い自分が死んでしまって、主イエスによって与えられた神の赦しの恵みによって生きる新しい命を与えられるのです。つまり復活した主イエスとの出会いは私たちをも復活させ、新しく生かすのです。洗礼を受けてキリスト信者となるというのは、この主イエスの復活の命にあずかることなのです。

復活した主イエスとの出会い
 女性たちは天使から、弟子たちに告げるべき言葉を託され、それを伝えるために墓を後にして走って行きました。墓を見つめるために来た彼女らが、墓を背にしてそこから走り出したのです。するとその行く手に主イエスが立っておられ、彼女らと出会って下さったのです。彼女らは、復活された主イエスを見たことによって復活を信じたのではありませんでした。「主イエスは復活して生きておられる」と告げる言葉が先ず与えられたのです。その時彼女らが見たのはからっぽの墓のみであって、主イエスが復活したことは天使の言葉によってのみ示されたのです。彼女らはその言葉を聞いて信じ、その言葉に示された通りに走り出しました。そうして走って行く途中で、復活した主イエスが出会って下さったのです。私たちが、復活して生きておられる主イエスと出会うのもこのようにしてです。復活を納得できたら信じようと思っている間は、復活した主イエスと出会うことはできません。先ずは、聞いたみ言葉を信じて歩み出すのです。その歩みの中で、生きておられる主イエスとの出会いが与えられ、復活を本当に納得することができるようになっていくのです。

恐れるな、喜べ
 彼女らに出会って下さった主イエスは、「おはよう」と声をかけたと9節にあります。「おはよう」と訳されているのは「喜べ」という言葉です。その言葉が通常の挨拶の言葉として使われていました。この時は朝だから「おはよう」と訳されているのです。しかしこの主イエスの語りかけはただの挨拶ではなくて、「喜べ」というこの言葉の本来の意味です。復活された主イエスは彼女らに「喜べ」と語り掛け、それに続いて、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と語られたのです。天使が語った「恐れるな」を主イエスも繰り返しておられます。弟子たちに伝えるようにとおっしゃったことも、天使が告げたのとほぼ同じです。しかしここには大きな違いが一つあります。それは、主イエスが弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることです。天使は、「彼の弟子たち」と言いました。そこにも既に、神が、主イエスを見捨てた彼らをなお主イエスの弟子として受け入れて下さる恵みが示されていました。しかし復活した主イエスはさらに彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んで下さるのです。あなたがたはもはや私の弟子ではなくて兄弟だ、私とあなたがたは共に神の子なのだ、ということです。主イエスの復活によって私たちに与えられている喜びがここにあります。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神に背き、自分が主人となって生きている私たちの罪は赦されました。しかしそれだけではありません。主イエスが復活して下さり、永遠の命を生きておられる方として私たちと出会って下さることによって、私たちは主イエスと共に、神の子として新しく生きることができるのです。そこには、神が主イエスに与えて下さった復活の命、新しい命を与えられて、神の恵みのご支配の下で生きる新しい歩みがあります。復活して生きておられる主イエスと共に歩む者とされた私たちは、死の力の支配から解放されているのです。私たちの人生を最終的に支配するのは、私たちに敵対し、滅ぼそうとしている死の力ではなくて神の恵みの力であり、私たちの歩みは死に支配されて終わるのではなくて、神が主イエスの復活によって約束して下さっている復活と永遠の命へと至るのです。だから「喜べ」と主イエスは語りかけて下さっています。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちに対する死の力の支配はもう終わったのです。死を恐れることの根拠はもう失われているのです。肉体の命には限りがあり、この世の人生において私たちには罪があり弱さがありますから、それによる苦しみ悲しみがなくなってしまうことはありません。愛する者の死の悲しみも、自分の死への恐れも、私たちには確かにあります。しかし、私たちのために復活して生きておられる主イエス・キリストが、「兄弟たちよ、恐れるな、喜べ」と語りかけて下さっているのです。だから私たちは、「ハレルヤ!主はよみがえられた」と賛美しつつ、喜んで生きることができるのです。

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