夕礼拝

み名があがめられますように

「み名があがめられますように」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第136編1-8節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章9節
・ 讃美歌: 352、355

神様は名前を持っておられます。名前を明かさないことは、人々の前では、良いこととしては受け取られま せん。悪は匿名を好みます。名前の無い手紙は大抵の場合、不気味なものです。また匿名の掲示板での書き込み は、大抵の場合、個人が特定されないことから、発言は過激で、汚い言葉も多いものです。神様は匿名の手紙 や書き込みをなさる方ではありません。神様は、ご自分がなさること、お命じになること、お語りになること に対しても、ご自分の名前によって責任を持たれます。悪は匿名を好みます。それに対して、神様は御名を持 っておられます。神様はこの御名を誰からか受け取られたのではありません。この御名をご自分でおつけにな りました。なぜならば、神様は名を持つことをお望みになったからです。神様はご自分の名前を持たないとい う権利を持っておられたでしょう。しかし、神様ははっきりと表すことを好まれ、だからこそ神様は、堂々匿 名の神でないことを決断されたのです。
さらにこの神様の御名は聖なるものです。神様の名が聖なるものであり続けるのは、それは完全に聖なる神 様がこの名を所有しているからです。完全に聖なる方が、持たれているものは、そのすべてが聖なるものです 。つまり、この御名は他のだれのものでもないということです。神様はこの御名を持つ唯一の方であり、言い 換えれば、この御名を独占されているとも言えるでしょう。この神様の御名は、文字通り、神様の固有名詞で す。神様の名は唯一の聖なる神のみを表す、つまり他の神や他のもののことを一切表すことのない名です。 わたしたちは今日、イエス様が「だから、こう祈りなさい」と言われた始まった主の祈り第一の祈りを聞きき ました。それは9節の「御名があがめられますように」でありました。私たちが祈っている言葉で言えば、「願 わくはみ名をあがめさせたまえ」です。「願わくは御名をあがめさえたまえ」という言葉を、素直に聞くと 、「わたしたちが神様の名をあがめるようにしてください」という祈りのように思ってしまいますが、本来は そういう意味ではありません。これは聖書に「御名があがめられますように」とあるように、御名、つまり神 様の名が主語です。自分たちが、神様の御名を崇めることができるようにという意味ではなく、ただ「神様の 名前があがめられますように」と祈ることが本来の意味です。さらに、この「あがめられますように」という 言葉を、そのまま理解すると、わたしたちは拝むことや尊く思うこと、礼拝することであると思ってしまいま す。しかしこの言葉を元のギリシャ語を見ると、はっきりとした意味をもった言葉であることがわかります。 それは、聖なるものとするという意味です。まとめますと、イエス様がわたしたちに最初にこう祈りなさいと 言われている祈りは、「神様の御名が、聖なるものとされますように」ということであります。
では、イエス様が「神様の御名が、聖なるものとされますよう」に祈りなさいと言っているということは 、「神様の御名は聖なるものではない」ということなのでしょうか。冒頭で、完全に聖であられる神様が、所有 しておられるご自分の名は聖なるものであると述べました。ですから、神様の名は、聖なるものです。ではな ぜ、既に聖となっている名に対して、聖なるものとなるようにと祈らねばならないのでしょうか。実は、その ように祈らねばならない理由がわかる壮大なストーリーが、この祈りの背後に隠れています。そのストーリー を共に聞いていきたいと思います。
神様の所有しておられる聖なる名は、天において、天使や聖なるものとされたものたちによって、叫ばれて おりました。叫びというと、なにか負のイメージがつきますが、ここでは喜びの叫びです。それは、イザヤ書6 章にも書かれています。「聖なる、聖なる、万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と喜びの声で、賛美さ れていました。天においては、名前が聖なるものとされますようにと祈っているのではなくて、もう聖なるも のとして、すべてのものに知られており、賛美される名となっていたのです。それは、天においては、神様の 名を神様だけがお一人で持っているものであったので、完全に聖なるものとなっていたからです。ところが、 今や、神様はわたしたちには理解のできない一歩を踏み出す決断をされ、神様の御名を地にも公にされました 。それは、この地上の世界にも御名を知らせようと決断されたということです。それのみならず、その御名を 地上にいる人が用いることさえお許しになりました。神様は、ご自分の名を、この地上のわたしたち人間のも とに広め、またその御名をわたしたちに委ねてくださったのです。
わたしたちの経験のレベルからわかることですが、これは自分を表す唯一の判子を他人にわたすことと似て いると思います。あまり、他人に自分の判子を渡すということはありませんが、もしその自分を証明する判子 を他人の手にわたってしまったら、わたしたちは不安になります。他人の手に判子がわたれば、悪用されるこ ともあれば、またその判子を偽造されてしまう危険もでてきます。そのように神様はご自分の名が悪用された り、偽造されたり、汚されたりするリスクを承知の上で、ご自分の名を人に知らせました。
なぜ、神様はそのリスクを負ってまで、名を人々に伝えたかったのだろうかとわたしたちは疑問に思います 。それは、アダムとエバの物語に示されています。神と共にあった人が、自分が神様のように生きたい、すべ てを支配する主人になりたいという思いに駆られて、神様の約束を破り、神様の元から去って行ってしまい、神様から離れ、神様を忘れて生きるようになりました。神様との関係を失った人は、永遠に生きるものから死 にゆく滅びるものになってしまいました。しかし、神様は、この滅びの道を進んでいる人を愛しておられたの で、憐れまれ、このまま滅びはさせまいとして、もう一度ご自分との関係を結ぶために、まずご自分の名をこ の地上に明かされたのです。ご自分の名が悪用されたり、汚されたりすることをご存知の上で、わたしたちを 救うために、御自身の名を明かされたのです。
わたしたちが、今神様の事を「父よ」と呼びかけることができるのも、今このように礼拝できるのも、すべ てはこの神様がご自分の名を明かされたことによってなのです。名前を明かされたといっても、「岩住賢」と いうようなそのような漢字や音としての名を明かされたのではありません。出エジプト記で、モーセが「神様 の命令によってあなたがたを助けに来たと言えば、エジプトで囚われている同胞は、その神の名はなんていう 名前かと聞くに違いありません。ですから、彼らになんと答えればいいのでしょう。」と神様に尋ねると、神 様は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ「『わたしはある』という方がわたしをあなたがた に遣わされたのだと言いなさない」と言われました。神様は、ご自分の名を「わたしはある」であるといわれ ました。わたしたちが思いつく名前とは全然違います。しかし、この神様の名は、御自身が存在しているもの であり、いないのではなく、存在するものであるということを表しています。ですから、わたしたちが神様の 名を知るということは、「神様がおられる」、「神様が存在されている」ということを知るということです。
神様は、ご自分の存在をこの世に明かされることで、その聖なる存在をわたしたちによって汚されました。一 番に、汚されたことは、神様を神様としないことです。「聖なるものとする」言葉の意味は、他のものとは完全 に区別するということです。神でないものと神様を混同するということは、聖とすることの逆であり、汚すこ とになるのです。神様と神様でないものの混同するということが、一番神様の名を貶めるのです。「神も仏も ない」という言葉をわたしたちは時に耳にします。その言葉発している人は自分が不幸になると神などいない と考えています。つまりその人にとって、神は「いつも自分に都合の良いことをしてくれる神であり」そうで なければ神でないと考えているということです。自分に幸福だけをもたらしてくれる、自分を満たすもの、そ れが神であるとしているということは、神様を便利なものとしか見ていないということです。つまりそれも 、「神様を神でないものと混同してしまっているということ」で名を汚してしまっているということです。ま たそれだけでなく、自分が讃えられることが大事と思い、自分がすべての中心となって生きていることを大事 としているのならば、それは自分という存在が神のようなものだとしていることと同じであり、真の神と自分 を混同させてしまい、神様の御名を汚すことになっているのです。究極に神様に神でないものを混同すること は、「神などいない」とわたしたちが思うこと、思うことだけでなく「神さまをいない」ものかのようにして 生きること、これが一番に神様の名を汚すことだと言えるでしょう。信仰者であるクリスチャンであっても、 時に神様がいないかのように考え、いないかのように生きてしまうことがあります。そのようなわたしたちの 故に、神様の御名は汚されているのです。そのようにわたしたちは絶えず、神様の御名を汚してしまう存在で あります。ですから、わたしたちが本当祈りたいことは、「父なる神様、わたしたちは、絶えずあなたの御名 を汚したり、傷つけたりしてしまいます。しかし、本当にあなたの御名が聖とされるように。本当にいつもわ たしたちは、あなたがおられること忘れてしまい、他のものとあなたを混同してしまいます。わたしたちの力 では、あなたの御名を聖とすることはできません。あなたしか、聖とすることしかできません。聖なるものと することができるあなたが、御自身の名を聖なるものとしてください。そのために名を汚してしまうわたした ちを、あなたの名が聖なるもののままであることを讃えられるようにあなたによって変えてください。」という ことです。この祈りが「御名があがめられますように」という言葉に集約しているとも言えるでしょう。
神様がこの地において神様の御名が明かされたことは、使い古された硬貨のように、人々の手垢の汚れやサビ がつき、時に偽造されて私利私欲のためにつかわれ、たくさん偽造されることによって本来あるはずの価値を 貶められました。なぜ御名を、明かされたのかは、先ほど語りましたように、わたしたちが神様との関係を再 び結ぶためです。そのために、神様はご自分の名を犠牲にされたのです。そのことは、神様の独り子であられ るイエス様の十字架の死に至るまでの苦難と重なり合います。イエス様は、わたしたちが持つ神様を神様とし ないという罪のために、傷つけられ、つばを吐きかけられ、ボロボロにされました。その苦難はわたしたちの 罪を負われ、その罪を赦すために、御自身の命を引き換えに十字架に掛かり死なれ、精算されるためでした。こ の苦難を神様の御名と関係付けてみますと新たなことが見えてきます。イエス様は、わたしたちが散々「神様 をいない」として生き、また自分を中心として生きることで、汚してきたその罪の汚れにまみれた硬貨(御名)を 集め、いろいろな神と混同し偽造してきた偽の硬貨を回収され壊され、イエス様の死と復活によって、神様の御 名という硬貨を再び、聖なる輝かしい硬貨に変えられました。どのようにして、汚された御名が聖となったかと言えば、それはイエス様の十字架の死によって再び清められ、聖なるものとなったということです。 そして、今や、神の子どものひとりであるわたしたちも、イエス様によって聖とされたこの御名にあずかるよ うに招かれています。実際にイエス様御自身がこのように語られています。「わたしは彼らのために自分自身 を聖としました。彼らも聖とされるためです」。今や、わたしたちに洗礼が施されることを通して、この御名 はわたしたちすべてに負わされています。洗礼において、わたしたちに負うことのできた御名は、乱用され汚 された御名ではなく、聖なる御名です。わたしたちは、この神様の御名の神聖さの中に入れられたのです。そ して、神様は、わたしたちの内に聖霊なる神様を送り、内からも聖なるものに変えようとしてくださっていま す。わたしたちは御名を汚さぬものに造り変えられていっているのです。しかし、わたしたちは完全ではなく 、時に神様をいないものとしてしまいます。ですが、今も御名を汚してしまうわたしたちのために、イエス様 は死んでくださったのです。今汚してしまったその御名を、あの2000年程前に十字架で流された血によって、 今も清めてくださっているのです。このようにして、イエス様は、この第一の祈りの実現にわたしたちをあず からせてくださるのです。それゆえに、わたしたちは、今、希望を失う必要はなく、むしろ、安心し信頼して 、神様の御名が聖とされますようにと、教会の中で祈ることが許されているのです。ですから、完全ではない わたしたちは今も、「御名が聖とされますように」と今も祈ることをイエス様に求められているのです。

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