主日礼拝

恐れを静める声

「恐れを静める声」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第43章 8節-28節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第6章 16節-21節
・ 讃美歌 ; 202、341、456

 
1 主イエスが湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟の下へやってきた、という今日の出来事は、マタイ福音書にも、マルコ福音書にも記されている、よく知られている出来事です。けれども、このヨハネが語る出来事に特徴的なのは、それが主イエスを王にしようとする人々の企みから、主イエスが逃れた、その直後に今日の語りが続いているということなのです。今日の箇所の直前で、五千人以上の人々が主イエスの祝福されたパンと魚によってお腹を満たされています。もともと、これだけたくさんの人々に食べさせる食料は、弟子たちの手許にはありませんでした。あったのは、一人の少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹だけであります。けれどもこのパンと魚が主イエスの祝福を受けて配られると、有り余るほど豊かにされ、みんなの空腹を満たしたのです。問題は、これを受けて人々が起こそうとした行動です。15節によれば、人々は主イエスを自分たちの王にするために連れて行こうとしたのです。口語訳の聖書はここを次のように訳しています。「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた」。あるいはまた、こう訳した人もいます、「イエスは人々が来て、自分をエルサレムに攫(さら)っていって王にしようと計画しているのを知り、自分ひとり、またも山に引っ込まれた」(塚本虎二訳)。人々が主イエスを王にしようとした、このことだけを聞くと、私たちはそれほど驚かないかも知れません。主イエスは確かに王ではないか、このお方を王とすることは正しいことではないか、結構なことではないか、そう思ってしまうかもしれない。けれども、今見たような訳に現れているのは、人々が主イエスの思いとは一切関係なく、むしろいやがる主イエスを無理矢理、王に担ぎ上げようとした、そういう様子です。「連れて行こう」と訳されている言葉は、実際にはもっと強い言葉で、「略奪する、強奪する、奪う」というほどの意味を持っています。いわば人々は主イエスを拉致して、自分たちのいいようにしようとしたのです。もともと、人々が大勢、主イエスの後を追ってきたのは、主イエスが病人たちになさった癒しのしるしをみたからです。病気に苦しむ人を癒し、飢えている者を豊かな食べ物をもって養ってくださる、そういう不思議な力のあるお方を自分たちの手許に置いておくことができたなら、どんなにか心強いことでしょうか。そこで人々は主イエスを捕らえて、主の御心になどお構いなく、自分たちのいるエルサレムに連れ去ろうとしたのです。
 主イエスはそのようにして、人間が自分の利益や都合によって、神様のお名前を呼び、王として頂いているかのようなそぶりをし、おべっかを使うことに対して、はっきりとした拒否を示されます。なぜなら、そこで実際に王となっているのは、主イエスではなく、群衆たち、人間たちであるからです。彼らは、ローマ帝国の支配のもとで苦しめられているイスラエルを解放し、自分たちが理想としている王国を建設するために、このお方が利用できるに違いないと踏んだのです。人間たちが心の奥底で願っているのは、ほかでもない、自分たちの王国建設です。主イエスを王に担ぎ出すということは、そのための口実のようなものに過ぎないのです。
私たちもまた、主イエスの御名を、自分の都合に合わせて呼んでいたりはしないでしょうか。自分の人生が望んでいるとおりに進んでいく時、私たちが主の御名を呼んで感謝することはやさしいことでしょう。けれども、願っていたことが思い通りにいかない、それどころか、思ってもいなかった不幸なことが起こる、堪えられそうにない苦しみが襲ってくる、そうなるともういてもたってもられない。助けを求めて主イエスの御名を呼ばわるどころか、神を呪う言葉さえ、容易に口をついて出てくるようなことも起こるのです。「神はなぜこのようなことを許したのか」、「神はいったい何をしておられるのか」、神を非難し、神と論じ合いたいような、横柄な思いが湧き上がってきます。先日の鉄道事故を目の当たりにした時も、信仰をもって生きている私たちも含め、多くの人がそのような思いに駆られたのではないでしょうか。詩編の詩人は、「お前たちの神にいったい何ができるか」とあざける人々を見つめながら、「彼らの中には神への畏れがない」と言いました。この「神への畏れを失うこと」が、普段神を信じているはずの、私たちの中にも、絶えず起こりえるのです。それは時に、神を知らないゆえに畏れを知らない人たちよりも、たちの悪いものとなるのです。

2 それでは湖に漕ぎ出した弟子たちの中には、何が起こったのでしょうか。五千人以上の人々が満腹になった。その奇跡の後で主イエスはお一人で山に退かれ、弟子たちは取り残されてしまいました。夕方になり、日も沈みかけ、夕闇が押し迫ってきました。そんな中、弟子たちは湖畔へ降りていき、舟に乗って、湖の向こう岸にある町、カファルナウムに渡っていこうとするのです。主イエスが、「先に向こう岸に渡っているように、自分は後から岸をつたってそちらへ向かうから」、そうおっしゃったのかもしれません。弟子たちはしばらくの間、舟が留めてあるところで、主イエスが祈りを終えて戻ってこられるのを待っていたのかも知れません。けれども、主イエスはまだ彼らのところには来られなかったのです。そこでいわば見切り発車のような形で、弟子たちの舟は向こう岸を目指し、夜の湖へと漕ぎ出したのです。主イエスがまだ自分たちのもとに来ておられないかのように思える、そんな中で出発をしなければならない場面が、私たちの人生の中にもあります。いやそもそも、信仰に生きるということの中には、こういう要素があると言えるのではないでしょうか。主イエスが間近に見えない、何か遠くに行かれてしまっている、そんな思いに捕らわれることがあります。信仰生活の長い歩みの中では、神のリアリティーが感じられなくなる時もあります。神様がすぐそばにおられると感じられなくなる、信仰に入った時の、神の眼差しのもとに置かれているという生き生きとした感覚がにぶってきたような思いがし、不安になる、そういうことが起こるのです。
 そんな中で、人生の試練や苦しみが襲ってきた時には、私たちの信仰という小舟は、大変な混乱に見舞われます。神がここにおられる、ということが見えない、神のリアリティーが感じられない中で、親しい者を失い、死の力に直面させられます。神の御心がまだはっきりと示されたとは思えない中で、職場を変えるかどうかの決断を迫られることが起こります。疑いや迷いが生まれかけている、信仰生活にとっては最も都合の悪い時に、人生の上に強い嵐が吹いて、足元の湖が荒れ始めるということが起こるのです。あの夜の弟子たちと同じように、人生という湖の上で、主イエスのお姿が見えないままで漕ぎ悩む、ということが起こるのです。

3 弟子たちは25、ないし30スタディオンばかり漕ぎ出ていました。これはだいたい5キロメートルないし6キロメートルくらいの距離です。ガリラヤ湖の幅は約12キロメートルあるといわれますから、その半分くらいまで、弟子たちの舟は漕ぎ出していたわけです。ところがそこで舟は立ち往生し、もうどうにも前に進めなくなった。漕ぎ悩んで途方に暮れてしまった。主イエスがまだ来られない、でも自分たちだけでこの湖をなんとか渡ることはできるだろう、そんな見当をつけて出発した弟子たちだったかもしれません。漁師であった弟子たちも多いわけですから、舟の操り方には自信があったでしょう。ところが強い風にもてあそばれて、そんな自信は消し飛んでしまいました。この「強い風」という言葉は文字通りには「大きい風」という言葉です。吹きすさぶ風を目の当たりにした弟子たちにとって、もはや主イエスよりもこの嵐のほうがはるかに大きく見えたのです。
 神のご支配よりも、私たちの人生を揺さぶる嵐、試練や困難の方がはるかに大きく見えるということが起こります。この問題、あの課題に立ち向かい、これを克服しなければ、という思いでいっぱいいっぱいになってしまう。神よりも大きく見える問題によって心が占拠されてしまうのです。そこで礼拝の最中でも、心ここにあらずといった状態にしばしば陥ってしまう。人間の言葉、人間の思い、個人的な繰り言、怒りや苦い思いに心が乗っ取られてしまう。その苦しみを神のもとに携え行き、お委ねするわけでもなく、いつまでも自分の中で堂々巡りさせています。そんな時には、心が堅くなって、主イエスが近づいておられることも分かりません。神の語りかけが聴こえてこないのです。舟に近づいて来られる主イエスを見ても、幽霊か何かにしか見えない。人生の荒波の方が主イエスよりも大きく見えて、近づいてくる主イエスのお姿は、その荒波の大きさの中にかき消されてしまっている。あるいはせいぜい、嵐の恐ろしさを増し加えるお化けのようなものにしか見えないのです。
 先ほどの、主イエスを王に担ぎ上げようとした群衆たち、また今の嵐の中で震え上がる弟子たち、彼らのどちらにも共通していることがあります。それは、神のご支配を見失っているということです。パンと魚によって満たされた人々は、この偉大な奇跡を行う人物に、自分たちの救い主の理想像を押しつけて、自分たちの願いに奉仕するように、主イエスに無理強いをしようとしています。また弟子たちの方は、大きな風の中で、主イエスのご支配の大きさを見失い、神のご支配の確かさ、力強さを信頼できなくなっています。このように、私たちの方での主イエスの受け止め方は、自分の願望をあてはめただけの歪んだ理解であったり、主のご支配よりもほかの支配の方が大きく見える不十分なものであったりすることがしばしばです。神のご支配が見えない時、また神のご支配を見失う時、私たちはあの群衆のように、自分の心を神として、自分の支配を立てようとするか、そうでなければ神以外のものの支配に脅かされて、恐怖に捕らえられてしまうのです。

4 そのようにして主イエスのお姿を忘れ、そのご支配を見失うような人生の嵐にもまれる時、私たちは自分たちの外から、静かに、しかし力強く語りかける声を聞きます。「わたしだ。恐れることはない」(20節)。それまで弟子たちは近づいてくる主イエスのお姿を目にしても、それが主イエスだとは分かりませんでした。かえって幽霊か何かだと思って恐れ、気が動転していたのです。けれども今、主イエスの方から語りかけてくださることを通して、弟子たちにはこのお方が主イエスであることが分かるのです。主イエスご自身がお言葉をくださることによって初めて、このお方がどなたであるかということが、人間に開き示されるのです。
この「わたしだ」、という言葉は、旧約聖書において、神がご自分を人間に現す際の、自己紹介の仕方として定まった表現の形です。出エジプト記の3章14節において、神がイスラエルの指導者モーセに自己紹介をする時、主なる神はご自身について、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃいました。このお言葉をそのまま新約聖書が書かれた言葉、ギリシア語に置き換えたのが、今主イエスのお語りになった「わたしだ」というお言葉なのです。ということは、今ここで主イエスはご自身を、あのモーセに現れ、イスラエルの民を救い出した主なる神と等しい者として、ご自身を現している、自己紹介をしておられるわけです。天と地を造り、風も波も、御旨のままに治め、支配しておられるお方が、今一人の人として、漕ぎ悩んでいる弟子たちのそばに近寄り、寄り添ってくださるのです。そして「わたしである。恐れることはない」と語りかけてくださるのです。これ以上に心強い、慰めがあるでしょうか。これ以上に深い喜びがあるでしょうか。

5 先ほどお読みいただいた旧約聖書イザヤ書43章も、この主なる神がご自身を現され、自己紹介をされる場面です。その10節、11節でこう語られていました。「わたしの証人はあなたたち わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。 あなたたちはわたしを知り、信じ 理解するであろう わたしこそ主、わたしの前に神は造られず わたしの後にも存在しないことを。 わたし、わたしが主である。 わたしのほかに救い主はいない」(10,11節)。このご自身を現される神と私たちが出会う時、行き詰まっていた人生に、漕ぎ悩んでいた日々の歩みに、新しい変化がもたらされます。そのことが、16節以下でこう語られています。「主はこう言われる。 海の中に道を通し 恐るべき水の中に通路を開かれた方 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し 彼らを倒して再び立つことを許さず 灯心のように消え去らせた方。 初めからのことを思い出すな。 昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。 わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」。
あの弟子たちが「わたしだ。恐れることはない」と主に語りかけられ、見失っていた神のご支配を新しく見出し、この主イエスを自分たちの舟に迎え入れようとした時、そこには既に、人生の新しい展開が始まっていたのです。彼らがすぐに目指す地に到着したことは、このことを示しているのです。恐れは、神のご支配が見えなくなる時、あるいは神のご支配を見失う時に生まれます。本当に畏れるべきお方を見失うがゆえに、さまざまなものが人生を脅かす驚異に見えてくるのです。けれども、その神がどこにおられるのか、としか思えない状況のただ中でこそ、私たちは神の語りかけを聞くのです。神がどこにおられるのか、弟子たちがこの思いに打たれたのは、主イエスが十字架におかかりになった時です。十字架に釘付けにされ、痛みに苦しむ主イエスに、神が何もしてくださらない、神がどこかにおられるとはとても思えない、だからこそ弟子たちは恐れをなして逃げ去ったのです。ところが、実はこの暗黒のただ中でこそ、主なる神は生きて働いておられ、独り子の苦しみを通して、この世界の苦しみをお引き受けくださったのです。そして主イエスを死の中から復活させることを通じて、この世の苦しみと悩みをもそのご支配の下に置いてくださっている、神のご栄光が現されたのです。私たちは神がどこにおられるか、と思ってしまうような状況のただ中で、実は主イエスにおいてご自身を現され、「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださる主なる神と出会うのです。信仰とは、このただ一人畏れるべきお方を知る、ということです。それゆえにまた信仰は、つきつめていったところではこの主なる神以外の何ものも恐れることはない、ということを知って歩むことです。人生の嵐はなお続くかもしれません。強い風はなお吹きすさぶかもしれません。湖はなお荒れているかもしれません。けれども、舟は確実に目指す地に着くのです。神がこの嵐のただ中においてさえ、共にいてくださるからです。「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるからです。嵐のただ中で主イエスと出会い、このことを知らされる時、実は私たちの人生の上に、新しい変化が起き始めています。神が「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」とおっしゃった、その「新しいこと」が始まるのです。嵐の中でも、神と共に歩む信頼に生きることができます。神に信頼し、自分の十字架をも引き受け、担い歩む力が与えられます。人生の荒波にもまれる中でも、その荒波に支配し尽くされることなく、神のご支配をこそ見つめ、感謝と慰め、励ましを与えられつつ歩んでいくことができるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、人生の嵐、暗闇のただ中において、あなたのご支配を見失い、逆巻く波、吹き荒れる風にもてあそばれるか弱い私どもであります。あなたのご支配を、自分の支配と取り違えたり、あなたのご支配を見失って恐れと戸惑いの中で右往左往するばかりの私どもであります。さまざまな支配に惑わされ、人生の嵐にもまれる私どもに、どうかあなたの御声を聞かせてください。「わたしだ。恐れることはない」、という語りかけを確かに聞かせてください。弟子たちが主イエスを舟に迎え入れたように、私たちも頑なな心をあなたに向かってあけわたし、あなたのご支配を受け入れる者とならせてください。人生の暗闇のただ中で、あなたは私共に出会ってくださり、私どもの人生の上に、新しいことを行ってくださいます。暗闇と恐れのまっただ中においてこそ、あなたが最も近くにいてくださることに慰めと支えを与えられ、あなたが導く信仰の船旅を、今日ここから、漕ぎ出していくことができますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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