夕礼拝

神の忍耐

「神の忍耐」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 申命記、第32章 1節-5節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 37節-45節
・ 讃美歌 ; 303、288

 
1 あの山の上で主のお姿が栄光に輝いた夜が明けて、主イエスと三人の弟子たちは山を降りてきました。「夜ふけに垣間見た主イエスの栄光に満ちたお姿、あれはいったい何だったのだろうか」。三人の弟子たちが沈黙を守りつつも、思いを巡らしていると、山のふもとから人々の騒がしい声が聞こえてきました。大勢の群衆が、主イエスたちの降りてくるのを今か、今か、と待ち受けていたのです。この三人の弟子たちも、否応なしにこの騒ぎの中に巻き込まれていくことになります。つい昨晩、この山の上で、実に不思議な光景を見たわけですが、そのことに思いを向け続けていることができません。日が昇り、新たな一日が始まったのです。夜の静けさは打ち破られて、地上における人間の営みが再び始まりました。それはやかましさ、騒々しさに満ちた人間の営みです。三人の弟子たちにはあの主のご栄光をずっと眺めている幸福は許されなかったのです。そのすばらしい場所にいつまでも留まることはできない。彼らは主イエスと一緒に山を降りなければなりませんでした。
その間に、山のふもとではこういうことが起こっていたのです。一人の男が、夜中に悪霊に取りつかれた息子を癒してほしいと言って連れてきた。ところがあいにく主イエスと三人の弟子たちは祈るために山に登られている。他の九人の弟子たちしかそこにはいない。彼らも主イエスによってあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられた者たちです。その力と権能を行使して、この子から悪霊を追い出そうと、一晩中努力したはずです。一生懸命に祈り、悪霊に向かって怒鳴り、叱りつけ、悪霊に出て行くように迫ったはずです。ところが、弟子たちの試みはどうしてもうまくいかなかったのです。
この山の頂上で、主の栄光に輝くお姿が現れ出て、三人の弟子たちが息をのんでそのすばらしい光景に見入っているその真っ最中に、山のふもとでは悪霊に向かって何もなしえない弟子たちが悶え苦しむ光景が広がっていたのです。九人の弟子たちが疲れ切って、へとへとになっているところへ、主イエスと三人の弟子たちが降りてきました。いったい朝から何の騒ぎか、と驚きながらふもとに来ると、一人の男の叫びが聞こえてきました。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です」(38節)。おそらく夜中に主イエスを訪ねるつもりでやってきたこの父親は、心も体も追い詰められて、最後の力を振り絞って主イエスに向かって叫んでいるように見えます。この父親の息子は、おそらくもう長い間、悪い霊に悩まされ、苦しめられてきたのです。悪霊がこの子に取りつくと、この子は突然叫びだし、けいれんを起こして泡を吹いたのです。悪霊はこのようにして、この子をさんざんに苦しめて、なおなかなか離れようとしなかったのです。そのゆえに、この子を抱えた家庭は、これまでどれだけ苦しんできたことでしょうか。この物語にはこの子の母親が出てまいりません。この子が幼い頃に亡くなってしまったのでしょうか。とにかく今はこの父親が面倒を見ているようです。たった一人の大切な息子です。自分の望みを託して育ててきたこの息子が、わけの分からない力に捕らえられて苦しんでいる。しかも父親として自分は、それをどうにもできないでいる。大変な無力感とやるせなさに、この父親自身が悩まされてきたのではないでしょうか。
私たちはこの子どもの苦しみを、何か迷信のようなお話として聞くでしょうか。悪霊に取りつかれて泡を吹きながらけいれんを起こすなどという話は、恐いもの見たさの映画にこそ出てくるかもしれないが、私たちの毎日の生活とは無関係な話だ、と思うでしょうか。決してそうではありません。先日も、17歳の少年が、自分の卒業した学校をふいに訪ねてきて、学校の先生を殺害する事件が起きました。数年前には、少年によってバスがハイジャックされ、たくさんの乗客が拘束され、犠牲者も出ました。家庭内暴力に悩んでいる家庭も少なくありません。私たちが毎日のように利用している鉄道では、人身事故がしょっちゅう起こっています。そればかりではありません。私たち自身の中に、過去の出来事が気になって、それにずっと捕らわれている、ということはないでしょうか。過去の失敗、かつて人の心を深く傷つけてしまったこと、かつてひどく恥ずかしい思いをさせられたこと、かつて人に裏切られたこと、そういった出来事が今も突然蘇ってきて、頭の中を締めつける。気分を悪くさせる。その記憶が蘇ってきて、それに悩まされると、もうまわりの人にもやさしく接することができずに当り散らしてしまう。聖書は、そこに悪霊が働き、私たちを苦しめている有様を見て取っているのです。そのことを思い巡らすならば、この時代ほど悪霊が暴れまわり、多くの人々を苦しめている時はありません。世の中全体がけいれんを起こし、泡を吹いているのです。自分でもどうしようない力によって悩まされ、振り回されているのです。
そして、ここで弟子たちが自分たちの無力を思い知らされているように、教会も今の時代にあって、しばしば打ちひしがれ、無力感を味わい、頭を垂れてどうすればよいのか、とため息をつくことがあるのではないでしょうか。主イエスの力と権能を授けられたはずの弟子たち、また私たち教会が、それを十分に行使することができないで、主が任せてくださった務めを担えないでいる、その責任を果たすことができずにいる、その悲しむべき姿が、ここに描き出されているのです。

2 ここに至って、主イエスのお叱りの声がとどろきました、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(41節)。主イエスのお怒りの声です。お叱りの声です。もう我慢がならない、堪忍袋の緒が切れた、そうおっしゃいたいのだろうか、と感じてしまいます。私はいつもこのお言葉を聞く時、驚かされます。ぞっとするような思いまでいたします。慈しみに満ちておられる主イエスが、気色ばんで、「もういい加減にしろ!」と叫ばれているように聞こえるからです。この主イエスのお言葉を、文語訳の聖書はこう訳しました、「ああ信なき曲れる代なる哉、われ何時まで、汝らと偕にをりて、汝らを忍ばん」。文語訳はこのように、「よこしまな時代」を「曲れる代」と訳しました。もとの言葉も本来はそういう意味があります。使徒言行録の13章8節には魔術師エリマという人物が出てまいります。この人はバルナバとパウロに対抗して、地方総督を信仰から遠ざけようとした人物です。この人に向かってパウロは叫びました、「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」(10節)。主の道はまっすぐです。けれどもそれを信じようとせず、受け入れようとしないのは、ゆがんでいること、曲がっていることだ、と言っているのです。世の中は、信じることが曲がっていることだ、と考えるかもしれません。信じることは自分を不自由にすることで、人間らしく生きることができなくなるのではないか、と多くの人が考えます。クリスマスも祝い、初詣もし、自分で解決できる問題なら自分で処理し、自分の手に負えないことが起こってくれば、その時気が向く一番適当と思う神に神頼みをしてみる。そういう生き方が自由で、自分の主体性を保っている、人間らしい生き方のように感じるのです。キリスト信仰を持ち、教会に通ったりすることが、家族の中であまり快く思われないこともしばしば生じるのです。けれども、実はそのような自分を人生の主人として据え続けておこうとする生き方こそが、不自由で、曲がった生き方だ、と主イエスはおっしゃるのです。信じないことこそが、曲がったことであり、よこしまなことなのです。

3 先ほどお読みいただいた旧約聖書の申命記32章5節で、イスラエルの民を導いた指導者モーセはこう語っています、「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子らではない」。ここでも、よこしまで、曲がった世代が問題になっています。一方で主の教えが雨のように降り注ぎ、神の言葉が露のように滴っているのに、それを拒んで、まっすぐな主の道を曲げるようなことをしてしまうのが私たちです。信仰を与えられて歩んでいても、たびたび主への信頼を失います。授かっている主の力と権能を、御心に従って実行に移すことができません。モーセが導いたイスラエルの民は、これ以上考えられないほどの驚くべき恵みを神からいただきながらも、繰り返し神を試み、神に文句をぶちまけ、他の神々の名前を呼ばわりました。今ここでも、群衆たちは悪霊に対して何もできず、ただ集まってワイワイガヤガヤ騒ぎ立てているだけです。弟子たちは主イエスから力と権能を授かっていながら、それを御心にかなうように実行することができません。荒れ狂う悪霊の力の前になすすべを知らず、勢いに押されながら唖然となって立ちつくしています。父親も、悪霊に取りつかれた子供に手を焼き、おろおろし、戸惑うばかりです。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。この激しいお言葉は、あの荒れ野で神に言い逆らったイスラエルの民の頑なさを、数え切れないくらいに繰り返し、今に至ってもなお、悪霊の力にもてあそばれて、主の道を曲げ続けている世の人々に向けられています。そして自分でもどうしてあんなことをしたのか分からないとしか答えられない若者の暴力におびえ、また過去の出来事に捕らわれ悩まされ続けているのが私たちなら、私たちの生きる今の時代も、信仰のない、よこしまな時代であり、主のお叱りを受けなければならない時代なのです。悪霊に悩まされ、翻弄される、主の道を曲げる民なのです。この主のお叱りの言葉は、無力な弟子たちに向けても語られています。ということは、現代の弟子の集団である教会に向かっても、このお言葉が向けられている、ということでもあります。これは大変きついことです。こんなことを主イエスから直接怒鳴られたりしたら、私たちはすっかり意気消沈してうなだれてしまうのではないか、と思います。主イエスから見捨てられてしまったのか、と不安になるに違いありません。神の忍耐ももう限界なのだろうか。私たちはもう主から見放されてしまうのか、主は「もうお前たちのことなど知らない」と言って、私たちを見捨ててどこかへ去っていってしまわれるのか、そんな不安がこみ上げてまいります。

4 けれども、主イエスのお叱りの言葉のすぐ後に来たのは、「もうお前たちなんか知らない!」などという言葉ではありませんでした。そうではない。「あなたの子供をここに連れて来なさい」だったのです。主イエスはここでも、汚れた霊を叱り、子供をいやし、父親にお返しになったのです。
かつて私が通っていたある教会で、長い間精神的な病に苦しんでいた男の方が、ついに牧師につかみかかって、そのシャツを破いてしまったことがありました。牧師も怒り、長きにわたる魂への配慮も実を結ばないことにいらだち、「もう知らない」と叫んで部屋に戻っていってしまいました。それからこの方は長い間教会に来なくなりました。教会の人々もこの方にどう接すればいいのか分からず、もう疲れ切っていました。ところが、それから2年ほど経ってから、この方は教会に戻ってきました。あちこちをさまよった末に、ある教会で本当に一生懸命に自分のために祈ってもらう体験をし、自分のそれまでのあり方を正され、悔い改めに導かれたのです。それぞれの場面での、牧師の対応がよかったかどうかが、ここでの問題なのではありません。そうではなく、信仰のない、よこしまな時代にあって、神がなお、悪霊に悩まされる一人の人を決してお見捨てにならない、ということが重大なのです。たとえ人間が、牧師でさえもが、「もう知らない」などと思わず叫んでしまっても、主イエスは絶対にそんなことはおっしゃらない。「その人をここに連れてきなさい」と、なおおしゃってくださるのです。そして私たちに対するお叱りを貫くのではなく、悪霊をこそ叱りつけ、悩む者から追い出し、その人をいやしてくださるのです。あの預言者イザヤが語った主の言葉を実現してくださるのです、「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。 わたしが担い、背負い、救い出す」(46:4)。

5 悪霊に苦しめられ、悩まされていた子供は父親に返されました。けれどもそれと引き換えで、人々の手に引き渡されたお方がありました。このお方こそ、主イエス・キリストです。今はこのことが弟子たちには隠されていて見えません。けれどもやがてあの十字架の向こう側で、弟子たちが手を打ってあの時主イエスはこのことをおっしゃっていたのか、と叫ぶ時がやって来る。そういう時が来るのを主イエスは知っておられます。それゆえに今はただ「耳に入れておきなさい」、とだけおっしゃるのです。
 十字架の向こうで弟子たちが知らされたこと、それは神がこの悪霊に悩む世を決して見捨てられず、我慢しきってくださったこと、忍耐を最後の最後まで貫いてくださったことです。あの山の上の栄光の中でモーセやエリヤと話し合ったように、「エルサレムで遂げようとしておられる最期」まで、私たちを担い続けてくださり、今も私たちを背負ってくださっていることです。主イエスは、この世に対する忍耐の末に栄光に入られ、今も私たちを支え、日々悔い改めへと導き、新しい命のうちに生かしてくださいます。主イエスの我慢は、聖霊によっていつまでも私たちと共にいてくださるための我慢でした。主イエスの忍耐は、私たちの罪を赦し、甦りの命に生かすために十字架を忍ぶ忍耐だったのです。この十字架を見つめ、ここに私たちを悪霊から解き放つために払われた主の忍耐を見るなら、私たちは幸いです。ここに、主の力と権能を新しく教会に授けてくださる神の忍耐を見るなら、教会はいつでも、再び立ち上がる力を得ることができるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、悪霊にもてあそばれ、道に悩む私たちを憐れんでください。あなたの十字架から目を離せば、すぐに過去の失敗、押さえがたい衝動、わけの分からない暴力の嵐に怖じ惑い、泡を吹いてひきつけを起こしてしまう私どもです。またそんな姿になっている隣り人に、なすすべもなく、あわてふためいているばかりの私どもです。どうかあなたの十字架を見つめさせてください。見つめ続けさせてください。そこから語りかけられる、あなたの御言葉をください。あの十字架の上で、私どものために裂かれたあなたの体、流されたあなたの血潮に、あなたが私共を救うために払われた途方もない忍耐を覚え、これを魂に刻みつけさせてください。あなたの忍耐ゆえに贖われたこの人生の歩みを大切にし、生涯あなたにお従いする思いを今ここに新たにさせてください。そして救いの完成に至るまで、あなたの眼差しのもとを歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP