夕礼拝

主の宝の民として生きる

「主の宝の民として生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第14章1-29節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第12章1節
・ 讃美歌:11、361

12、13章に命じられていたこと
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いております。本日は第14章です。先月13章を読んだ時にも申しましたが、申命記は12章からその中心部分である「律法の書」に入っています。申命記の中心はこの律法の書であり、そこには神がご自分の民であるイスラエルにお与えになった掟、即ち律法が語られています。申命記は、この律法を、エジプトを出てから四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンに入ろうとしている時点で、モーセが言わば遺言として人々にもう一度語り聞かせている、という設定で語られているのです。
 中心である「律法の書」に入ってからどのようなことが語られてきたのかを振り返ってみますと、先ず12章では、主なる神への礼拝のことが語られていました。どこで礼拝をするべきか、どのような献げ物を捧げて礼拝をすべきか、ということです。それらの掟の根本には、礼拝を人間が自分勝手な思いや願いによってするのではなくて、神がお命じになる通りの礼拝をささげなさい、ということがあります。またそこで命じられている礼拝は、犠牲の動物を献げて、それを神の前で家族の皆が共に食べる、ということを中心としたものでした。「食べる」ことが礼拝と分ち難く結びついていたのです。そして12章には、礼拝において動物の肉を食べる時に、血は食べてはならない、ということも語られていました。それは、血に命が宿っていると考えられていたためです。動物の肉は人間の食物として神が与えて下さっているが、その命は神のものなのだから、神にお返ししなければならないのです。この掟も、礼拝の主人は神であり、神のみ心に従って礼拝をすべきことを語っているのです。続く13章には、他の神々を礼拝してはならないことが語られていました。他の神々への礼拝へとイスラエルの民を誘惑する者があれば、たとえ家族であっても殺さなければならない、と厳しく戒められていたのです。これは、主なる神とイスラエルの民との特別な関係、聖書はそれを「契約」と呼んでいますが、その関係を命をかけて誠実に守れ、という教えです。イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地カナンを今与えようとして下さっているのは他のどの神でもない、主なる神です。その主の救いの恵みに感謝し、それに応えて、他の神々に心を向けることなしに、主との関係を誠実に守って生きることが、主なる神の民としてのイスラエルのあるべき姿なのです。

「食べる」ことを通しての礼拝についての教え
 12章以来私たちはこれらのことを読んできました。それに続いて本日の14章が語られています。ここにはいくつかの命令、掟が、一見とりとめもなく並べられているように思われます。1、2節には、死者を悼むことにおいてしてはならないことが、3?21節には、動物、魚、鳥、昆虫の中で食べてよいものといけないもののリストが長々と語られています。22節以下は、収穫の十分の一を神に献げなさいという教えです。これらのことはそれぞれの間に繋がりもないし、12、13章に語られていたことに比べるとあまり重要ではない、枝葉の事柄であるように思われるかもしれません。この14章から私たちはどのようなメッセージを読み取ることができるのでしょうか。
 今申しましたように14章に語られていることは互いに関連がないようにも思われますが、3節以下には、この章全体を貫く主題を示す言葉が繰り返し出てきます。それは「食べる」という言葉です。3-21節は食べてよい動物といけない動物のリストです。そして22節以下の十分の一の献げ物についての教えにおいても、23節に「あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を恐れることを学ばねばならない」とあります。また26節には、犠牲を捧げて礼拝をする場所が遠い場合には、それらを一旦お金に替えて持って行き、その場所で献げるものを買って、「あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」と命じられています。収穫の十分の一は、それを神に献げ、家族でそれを「食べる」ことによって礼拝がなされるのです。この「食べる」ことが14章の主題だと言えるのです。そうすると先程の12章との繋がりが見えてきます。イスラエルにおける礼拝は、食べることと深く結びついているのです。14章はその「食べる」ということを通して「礼拝」についての教えを語っていると言うことができるのです。

食べてよい動物といけない動物
 だとしたら、3?21節の、食べてよい動物と食べてはいけない動物の区別も、単に食事についての規定ではないと考えられます。ここに語られている食べてよい動物といけない動物の区別については様々な解釈がなされています。一つには、これは衛生的な体験から生まれた掟ではないか、という説があります。食べると体に悪いと体験的に知られていた動物たちが「食べてはいけない」部類に入れられているのではないか。そういう見地から考えると、21節の「死んだ動物は一切食べてはならない」という教えも衛生的な問題となります。ところでこの21節の翻訳は良くありません。これだと、動物は生きたままで食べよ、という意味にも取られかねません。ここは以前の口語訳聖書では「すべて自然に死んだものは食べてはならない」となっていました。つまりこれは、食べるために屠殺されたのではなく、自然に死んだ動物を食べてはならない、ということです。そういう動物の肉には病気があったり、腐っていたりするから体に良くない、と言えるわけです。しかしこれらの掟を衛生的見地からのみ説明することは出来ません。例えば10節には、魚の内、ひれやうろこのないものは食べてはならないとありますが、これだと日本人が好んで食べている、例えば鰻などが食べられなくなります。このへんになると、衛生的と言うよりも多分に好みの問題にも思えてきます。また先程の21節には、自然に死んだ動物は寄留者に食べさせるか外国人に売れ、とあるわけですが、もしこれが衛生的に問題があるものなら、これは外国人への差別、虐待です。聖書はそのようなことは教えていません。律法にはむしろ寄留者や外国人を保護し大切にせよという掟があるのです。ですからこれらの教えは衛生的なことではなくて、やはり宗教的な掟と考えるべきです。そこでヒントとなるのは3節の「すべていとうべきものは食べてはならない」という言葉です。「いとう」という言葉は12章31節にもありました。そこで「主がいとわれること」とされているのは異なる神々を拝むことです。7章25節にも「主のいとわれること」とあって、それは異なる神々の像を家に持ち込むことです。「いとうべきもの」という言葉はこのように、異教の神々を拝むことについてよく使われているのです。「いとうべきものは食べてはならない」という掟もそういう意味ではないかと思われます。事実、ここで食べることが禁じられているいくつかの動物は、イスラエルの周囲の異教の民において神として祭られたり、聖なる動物としてあがめられたりしていたものだったようです。それらを食べるなという命令は、異教の神々に心を向けるという、主なる神がいとわれることを避けて、主なる神のみを拝み仕えて生きることを教えていると考えられるのです。

神の民とそうでない者の区別
 21節もそのように捉えることができます。自然に死んだ動物の肉は、死んだ時にすぐ血を抜くということがなされていないために、主なる神の民であるイスラエルの人々にとっては避けるべきものなのです。12章に語られていたように、命の宿る血は、地面に注いで神にお返ししなければならないのです。主なる神のこのご命令に従って生きるために、イスラエルの人々は、自然に死んで血抜きをされていない肉を食べないのです。しかし外国人、寄留者は主なる神の民ではありませんから、彼らにはこの命令は適用されません。だからそれは寄留物に食べさせるか外国人に売れと言われているのです。ですからこれは決して外国人への差別や虐待ではありません。ただそこには、神の民であるイスラエルと、そうではない者との区別、違いが明確に意識されていることは確かです。そのような区別と「差別」とは違います。話はそれますけれども、教会においてもそういう区別は意識されています。それが最もはっきりと現れるのは、聖餐においてです。聖餐は、洗礼を受けてクリスチャンとなった人のみがあずかれるものです。まだ洗礼を受けていない方々はそれにあずかることができません。そこにははっきりと区別があります。しかしそれは差別ではありません。主イエス・キリストを信じて、その信仰を公に言い表して洗礼を受け、キリストの体である教会に加えられ、その一員となっている者と、信仰を言い表しておらず、礼拝は共にしていてもまだ教会のメンバーにはなっていない人との間には当然違いがあり、区別があるのです。しかしその区別は絶対的なものではありません。主イエス・キリストを信じて洗礼を受ける道は誰にでも開かれています。誰でも、洗礼を受けて聖餐にあずかることができるようになるのです。ですからこの区別は、人を排除し切り捨てるためではなくて、むしろ信仰の決断を促すための、洗礼への招きとしての区別なのです。これは脱線ですが、本日の箇所には、自分たちが主なる神の民として生きていることをはっきりと意識して歩むべきことが教えられています。神の民として生きる者は、「食べる」という日常の生活における具体的なことにおいても、そうでない人々とは違う生き方をするのです。そのための掟がここに語られているのです。

主の宝の民としての新しい生活
 この14章の1、2節に語られているのもそういうことです。ここに語られているのは「食べる」ことではありませんが、ここで見つめられているのも、主なる神の民として生きる者と、そうでない者との生き方の違いです。1節の冒頭には「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」とあります。2節にも「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた」とあります。これらのことは、主が彼らをエジプトにおける奴隷の苦しみから救い出し、解放して下さったという事実を根拠として語られています。イスラエルの民は、エジプトの奴隷状態からの解放によって、主なる神の子ら、主の聖なる民とされています。主は彼らを選んで御自分の宝の民として下さったのです。そのことをしっかりと弁えて歩みなさい、と語っているのが14章です。これまで12、13章で語られてきた礼拝についての教えや他の神々を拝んではならないという教えの土台もそこにあります。そしてこのことは私たちの信仰と礼拝の土台でもあります。私たちもまた、主なる神が地の全ての民の中から選んで、御自分の宝の民として下さった者たちなのです。私たち自身の中に、神に選ばれるに相応しい立派さや信心深さがあったわけではありません。むしろ私たちは罪と汚れに満ちている者ですけれども、ただ神が恵みによって、具体的には独り子イエス・キリストの十字架の死と復活とによって、私たちを選び、招いて下さって、罪の赦しを与え、神の子として下さったのです。この神の救いの恵みによって私たちは今こうして礼拝を捧げることが出来ています。その恵みに応えて私たちが、神の民として、み心に従って生きようとする、それが私たちの信仰であり、そこには、その救いにあずかっていない他の人々とは違った生活、主の宝の民としての新しい生活が生まれるのです。本日の14章が語っているのは、イスラエルの民に与えられた、主の宝の民としての新しい生活の具体的な現れなのです。
 このことを捉えることによって、ここに語られていることと私たちの信仰の生活の結びつきを見つめることができるようになります。現代の日本で生きている私たちの生活が、古代のイスラエルの民の生活と全く違っているのは当然です。ですからイスラエルの民にここで命じられていることを私たちも同じようにしなければならない、ということではありません。例えば3?21節のリストを自分の食卓に当てはめて、これは食べても良いものかいけないものか、鰻丼は食べたらいけないのだろうか、などと考える必要はないのです。この箇所をそのような仕方で私たちの生活と結びつけるのは間違いです。しかし、主なる神の恵みによって選ばれてこの礼拝へと招かれているのは、私たちもイスラエルの民と同じです。いや私たちには彼ら以上の大きな恵みが与えられていると言うことができます。主なる神は私たちのために、独り子主イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの全ての罪を赦して下さり、罪の支配から解放して下さいました。それだけでなく主イエスの復活によって私たちに、新しい命、永遠の命の約束を与えて下さっているのです。み子イエス・キリストの命をも与えて下さるほどに、主は私たちを御自分の宝の民として大切にして下さっているのです。私たちがこの大いなる恵みに応えて、主なる神を礼拝し、み心に従って生きていこうとするところには、イスラエルの民と同じように、新しい生活が、神の恵みを知らないでいる人々とは違う生き方が生まれていくのです。私たちはこの14章から、主イエス・キリストによる救いの恵みによって私たちに与えられる新しい生活への示し、導きを読み取っていくことが大切なのです。

死者を悼むこと
 主イエス・キリストによって主の宝の民とされている私たちの新しい生き方としてここからどのようなことを読み取ることができるでしょうか。1節の後半にこうあります。「死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない」。親しい者の死を悲しみ悼む思いは全ての人に共通しています。しかしここには、主の宝の民とされているあなたがたは、他の人々と同じ仕方で死者を悼んではならないと教えられているのです。異教の神々を拝んでいる者たちは、死者を悼むために体を傷つけたり額をそり上げたりしている、このことにどういう意味があったのかはよく分かりませんが、確かなことは、彼らにおいて死は、異常なこと、あってはならないこととして恐れられているということです。わざと体を傷つけたりするのは、そういう災いの状況を作り出すことによって災いを遠ざけ、死の力を追い払うためです。つまりいわゆる「厄払い」をしているのです。そこには死への恐れ、恐怖があります。体を傷つけるような過激な悼みの儀式が行われるということは、死に対する恐れがそれだけ深いことを示しているのです。しかし神の民であるあなたがたは、死者を悼むことにおいてそのようなことをするな、と命じられています。それは、あなたがたは人の死を、異常なこと、あってはならないこととして恐れる必要はない、ということです。親しい者の死は勿論悲しみであり、また自分の死を思うことによって恐ろしさを覚えない者はいません。しかし主なる神に選ばれ、主の宝の民とされているあなたがたは、死の悲しみや恐れを覚えるとしても、それによって希望を失い、絶望してしまうことはないのです。人間の命は、主なる神が与え、導き、そして主が取り去られるものです。死もまた、主なる神のご支配の下にあるのです。そして主なる神はそのように死んでいくこの自分を選び、宝の民として下さっているのです。神の選びの恵みは死においても失われてしまうことはないのです。このことは、主イエス・キリストによる救いにあずかっている私たちには、なおさらよく分かることです。私たちの救い主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って、私たちのために十字架にかかって死んで下さいました。神の子が死の苦しみを味わい、体験して下さったのです。そして父なる神はその主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それは神の恵みが死の力に勝利したということです。主イエスの十字架と復活によって、死は、神ご自身がそこにおいて共にいて下さり、またそれに打ち勝って新しい命を与えて下さる場となっているのです。ですから私たちは、愛する者の死を、そして自分自身の死をも、神の恵みの中で見つめることができます。死は確かに私たちを悲しませ、恐れさせますけれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって主の宝の民とされている私たちは、恐れと悲しみを乗り越える復活と永遠の命の希望の中で、愛する人の死を見つめ、また自分の死に備えることができるのです。それゆえに私たちの、教会における死者の追悼は、主イエスの十字架と復活の恵みを知らない人々とは全く違ったもの、神の恵みによって支えられたものとなるのです。

十分の一を献げること
 またこの14章の22節以下には、収穫の十分の一を神に献げるべきことが、神の民の生き方として教えられています。ここから、「十分の一献金」、つまり収入の十分の一を神に献金する、という教えが生まれました。それは私たちが主イエス・キリストの十字架の死と復活によって救いを与えられ、主の宝の民とされたこと、つまり神が私たちを恵みによって選んで下さり、私たちの命を、独り子の命によって贖って下さったことに感謝して、主なる神の民となって生きることを具体的な目に見える仕方で表していくための大切な教えです。要するに私たちが神を本当に真剣に礼拝し、神の民として生きようとするなら、捧げもの、献金のこともおろそかにすることはできないのです。自分の懐が痛まない程度の、余ったものを献げてよしとしてしまうわけにはいかないのです。しかしこの教えは、収入の十分の一を神様に税金のように差し出さなければならない、という掟として捉えるべきものではありません。私たちがこの14章において見つめるべきなのはむしろ、十分の一の捧げものがどのように用いられるのかです。先程の23節にあったように、十分の一の捧げものは、それを捧げた人々が主のみ前で食べるために用いられるのです。26節には「あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい」とありました。十分の一を献げて神を礼拝する時、私たちはそこで、家族と共にその献げたものに喜びをもってあずかるのです。家族全体が主によって豊かに祝福され、養われ、喜びを与えられるのです。23節には、それらを主の御前で食べることによって「常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない」とあります。献げたものを家族皆で食べ、喜び祝う礼拝を通して、主を畏れることを学ぶのです。つまり、自分たちが主なる神の恵みによって生かされ、養われ、導かれていることを味わい知り、主に従って生きる者とされていくのです。私たちが礼拝において主なる神にお献げするのは実はお金ではありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所であるローマの信徒への手紙12章の1節にあったように、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるのです。そのように自分自身を神にお捧げすることの具体的な目に見える現れとして、献金をするのです。自分自身を主にお献げすることによって、私たちが貧しくなり、生き生きと生きられなくなるようなことは決してありません。むしろそこでこそ私たちは、主の宝の民とされている恵みにあずかり、喜びの内に養われ、導かれていくのです。
 さらにこの十分の一の捧げものは、28、29節に書かれているように用いられるのです。「三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい」。十分の一の捧げものは、主の民の中の貧しく弱い人々が、またまだ主の民に加えられていないけれども共に生きている人々、それが寄留者ですが、そういう人々も含めた全ての人々が、神の祝福と養いを受けて、喜んで、恵みに満たされて共に生きるために用いられるのです。主に捧げものをして生きるとは、このような弱い者、苦しんでいる者を支えて共に生きていくことでもあることがここに示されているのです。
 申命記14章はこのように、主に選ばれて宝の民とされたイスラエルの民の新しい生活を教えています。私たちはここに、主イエス・キリストの十字架と復活によって主の宝の民とされた私たちがどのような新しい生活へと招かれているのかを読み取ることができるのです。

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