夕礼拝

栄光を垣間見る

「栄光を垣間見る」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 出エジプト記、第19章 1節-25節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 28節-36節
・ 讃美歌 ; 300、285

 
1 主イエスに招かれてお供をすることを許された三人の弟子、ペトロとヨハネ、ヤコブは、山を登り始めた時、実はあまり乗り気ではなかったのではないでしょうか。まず考えられることは、主イエスが祈るために山に赴かれるのは、夜であることが多いということです。6章の12節を見ましても、主イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされています。一晩中、徹夜の祈りを捧げて神の御心を求めつつ、あの十二人をお選びになったのです。後に見るように、ペトロと仲間たちがひどく眠い思いをし、睡魔と格闘しているところからも、この出来事は夜に起こったと考えるのが自然でしょう。そうすると、夜の眠い時間に、もしかしたら他の弟子たちも寝静まった後に起こされて、暗い山道をとぼとぼと登らされたのかもしれない。なんでこんな夜中に山登りをしなければいけないんだ、そんな不満が彼らの中にこみ上げていたことでしょう。

2 ところが、この闇の中で三人の弟子が目の当たりにしたのは、主イエスのお顔の様子が変わり、そのみ衣が真っ白に輝く有り様でした。夜の闇の中で主イエスが真っ白に光り輝いたのです。そして弟子たちは主イエスが二人の人と語り合っているのを目撃します。モーセとエリヤです。この二人もまた、栄光に包まれて現れました。モーセは旧約聖書の最初の五つの書物を書いた人物として信じられてきたように、神の掟である律法を代表する人物です。またエリヤはその後に続く多くの預言者たちを代表する人物として覚えられています。律法と預言者、つまり旧約聖書全体が、この二人の人物によって代表されているわけです。いわば旧約聖書と主イエスがここで出会っているわけです。これら二人が共に登場するのは旧約聖書の中の一番最後の書物マラキ書、その中でも一番最後、3章の22節から24節です。そこでマラキはこう預言しています、「わが僕モーセの教えを思い起こせ。 わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。 身よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように」。この神と人間の出会いの歴史を引き継ぐようにして、主イエス・キリストを直接に語る新約聖書が始まっていくのです。
 こうして、旧約聖書が体験してきた神と人間の出会いの歴史のすべてが、やはり同じく山に登られた主イエスというお方の中へと流れ込んできているのです。その流れ込んだ先で話し合われたこと、それはなんと主「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」のことでありました。この「最期」という言葉はいろいろに訳されておりまして、文語訳では「逝去のこと」と訳されています。主イエスの「逝去のこと」です。またある人はここを「旅立ち」と訳しました。主イエスの「旅立ち」について話し合っていた。しかしもとの言葉そのものは、「出エジプト記」という書物の題と同じ言葉、「エクソドス」という言葉が使われているのです。もともとこの言葉には「一つの場所から別の場所へ移動する」という意味があります。そこから「生きている者の世界から旅立ち、離れること」、つまり死ぬことも意味するようになったのです。しかもその死は、主イエスご自身によってはっきりと自覚された死でした。22節で主は、ご自分が向き合うことになる死をしっかりと見つめておられます、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは単に老いを迎えて死ぬという話でもなければ、不慮の事故で死んでしまう、ということでもありません。そこには祈りの中で示された父なる神の御心を深く受け止めた主イエスの心があります。ここに、罪と死の世界から私たちを解き放つために関わってこられた神の救いの歴史が、すべて流れ込んでいます。悩み苦しむ民を救い出すためには、神の独り子であるあなたが十字架の死へと赴くほかはないのだ、そういう話し合いが、神の御前で行われている。いわば罪に囚われている人間を救出するための会議が、神の御前で行われているのです。弟子たちはそういう神の救いのご計画、そこに満ち溢れている栄光を垣間見る特権を与えられているのです。神のふところで、神が大事なことを考え、計画しておられる、その秘密のご計画が彼らの目の前に開き示されているのです。

3 この出来事を目の当たりにした時、ペトロはどうしたでしょうか。まぶたの重い中で、目をこすりながらも耐え忍んでいる時に、輝きに満ちる神の特別な会議を目の当たりにしたのです。およそ信仰に生きる者であれば、このお方にお会いできるならこれに優る喜びはない、そう言える三人の人物と相見えた。この上ない興奮と喜びが、弟子たちの心に湧き上がったに違いありません。その時ペトロは弟子たちを代表してこう叫んだのです、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」(33節)。ペトロがこう叫んだのは、モーセとエリヤが話し合いを終え、主イエスのもとから離れようとしたその時でした。彼は思ったのです、「あっ、もったいない!せっかくこんなすばらしい方々が勢ぞろいしたのに、もう別れ別れになってしまうなんていやだ。もっとこのすばらしい場面を長続きさせたい。自分の手許においていつでもじっくり眺め愛でることができるようにしたい。私が仮小屋を建てて、そこにこのお三人の方に住んでもらおう!」こんな思いが、彼の心の中をよぎったに違いありません。
 私は先日、天城峠の近くに行ってまいりましたが、そこには木下順治という劇作家、脚本家を憶えて建てられた記念館があります。この人は『夕鶴』という大変有名な劇の脚本を書き、それが役者の山本安英さんの演技によって大変な人気を博したことで知られております。もとになっているのはおじいさんに助けてもらった鶴が恩返しをするために娘の姿をして現れ、老夫婦を助けるために、自分の羽をむしりとって織物を作るという、鶴の恩返しとして知られる物語です。この織物を織っている間だけ、娘は本来の鶴の姿を現す。だから部屋にこもってどうか織物を織っている間は部屋の中を覗いてくれるな、とおじいさん、おばあさんにお願いをするわけです。この秘密を人間が守れるか、ということがこの物語のテーマです。結果はおじいさんが我慢しきれず、ふすまを開けてしまう。自分を犠牲にして機織をしている鶴の姿を見てしまうわけです。そのことによって鶴は人間のもとから飛び去り、娘がいたことで夫婦が受けていた恵みも失われてしまうわけです。
 ふすまを開けて娘の正体を見る、見破る。このようにして見ることでもって、人間はその相手を支配しようとします。鶴が感謝の思いをもって自由な愛によって行っていた業を、人間が支配し、自分の思い通りに、いいように使おうとしまう。そういう性質が、人間の中にはしみついている、そのことを木下順治という人は見つめていたのではないか。そう思わされるのです。この人は罪ということを知っていたのではないか。この人は若い時には熱心で活動的なキリスト者であったと聞いたことがありますが、納得できることです。
それと同じことがここでも起こっています。出エジプトから主イエスにおける神の国の到来まで、神の壮大な救いの歴史のドラマを、一望のもとに収められるように、人間が入れ物を作ってそれでもって神を支配しようとしてしまう。神の恵みの御業、神の栄光を固定化しようとしてしまう。そうすることで、人間に与えられている限界を越え出てしまう、分をわきまえない行動に走ってしまう。しかも、そうすることで、主イエスのために小屋を建てて、いいことをしてあげているつもりになってしまう。神のためにいい奉仕をしているようなつもりになってしまう。自分の心を神の御心と取り違えてしまう。自分がよかれと思ってやっていても、神にとってはいい迷惑ということがあり得るのです。今主イエスがなさなければならないことは、モーセとエリヤと行った、神の前での会議を終えて、決して後戻りすることのない、十字架への道を歩んでいくことです。そういう意味ではモーセとエリヤはいつまでも主イエスと話しているわけにはいかない。会議は終わらなければならないのです。その時、三人の袖を引っ張って、行かないでください、離れ離れにならないでください、と引っ張り、留めおこうとすることは、神のご計画を邪魔し、主の十字架への道をさえぎって、とうせんぼをしていることになるのです。「ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とあるように、ペトロはここで自分が神のご計画を邪魔しているなどとは夢にも思っていなかったでしょう。私たちもこのペトロのように、知らず知らずのうちに、神ではなく自分を主人として生きてしまっているのです。

4 この弟子たちの無理解に対する神からの応えは、雲の出現です。旧約聖書において、特に出エジプト記においては、雲は神がご自身を現される時、その栄光を現すものとしていつも満ち溢れました。イスラエルの民がエジプトを脱出して旅を続ける時、「昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家すべての人に見えたからである」(出エジプト40:38)と言われております。雲が満ちて弟子たちを覆う。そこに神の御声が聞こえてくるのです。「あなたがたが自分の思いを神として、自分の栄光を現すのではない。栄光は私のものだ。栄光はあなたがたの外にある。私の栄光だ。しかしわたしはその私の栄光をもってあなたがたを包み、あなたがたを私の栄光に与からせよう。そのような時が私の独り子が十字架へと歩むその先にやってくるのだ」。この神の御心、神の思し召しが御子なる神、イエス・キリストにおいて現れ出ています。それゆえに弟子たちは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(35節)という声を聞くのです。そこで弟子たちは本当に神と出会い、そこに「恐れ」が生まれるのです。
 「栄光」というのは、神の偉大さを表す照り輝きを意味しますが、もう一つの意味を持っています。それは「考え、思惑、思い」という意味です。私たちは神の御心ではなく、自分の思いを主人としてしまいます。それによって神の栄光を現さず、自分の栄光を光り輝かせようとしてしまう。しかもペトロのように、自分のしていることが分からないままで、神に奉仕しているようなつもりになってしまっているのです。そんな時、雲の中から語りかける神の声は、私たちの作り出す栄光を打ち砕かれるのです。自分の中にある人間の言葉に捕らわれている私たちに、「あなた方が聞くべきなのは、自分の心ではない、独り子なる神の声だ」、と御声をとどろかせてくださるのです。「自分の思いに聞くな。これに聞け。わたしの子の声に聞きなさい」、という父なる神の声を響かせてくださるのです。人間はやたら滅多に語っていればいいよいうものではありません。神を証しする語り、説教でさえも、やたら語ればいいというものではありません。神の声を聞くために、まず人間は押し黙らなければならないのです。弟子たちと同じように沈黙を守り、まず神の声によく聞かなければなりません。自分の中にある声ではなく、神の語りかける声に静かに耳を澄ませなくてはなりません。神の救いのご計画を邪魔するのでなく、そこで神がなさるままの救いの御業を目の当たりにし、その栄光に包み込まれる恵みに生きるのです。神の栄光の中に抱き止められている恵みの中に生ききるのです。

5 自分でも何を言っているのか分からないままに、神の救いのご計画を邪魔してしまう私たちのために、主イエスは十字架におかかりになってくださいました。その時、十字架を巡り囲んだ人々は、神があの山の上でくださった「これはわたしの子、選ばれた者」という御言葉を逆手にとって、十字架の主に向かってこう叫んだのです、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35)。神の言葉を傷つけ、救い主をあなどる言葉に貶めてしまうのが私たちです。神の栄光の言葉を自分の栄光に都合のいいように使ってしまうのが私たちです。そんな私たちの姿を十字架の上から御覧になりながら、主イエスはあの日山の上で、自分でも何を言っているか分からないままに「仮小屋を建てましょう」、と叫んだペトロを思い起こされたでしょう。神の栄光を垣間見ても、神の救いのご計画についてなお何もわきまえ知ることのない、そんな私たちです。しかしそんな私たちに、主はこうおっしゃったのです、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。自分の心を神とすることしかできない私たちの罪が、ご自身の死によって赦されるようにと、主イエスは父なる神の前にとりなしてくださったのです。主イエスの「最期」、主イエスのエクソドス、主イエスの出エジプトを通じて、神の民の罪の歴史もまた、出エジプトを経験し、罪の歴史にも「最期」の時がやってきたのです。
 この神の救いのご計画が頂点に達して、主イエスが甦られ、天に挙げられ、そこから聖霊を送ってくださった時、あの時沈黙を守っていた弟子たちに、語るべき言葉が与えられていったのです。人間の中から出てくる自分の栄光を求める言葉ではなく、主イエスの御言葉に聞き、主イエスを通して聞こえてくる神の声に聞き、そこで示された言葉を力強く大胆に語る者とされていったのです。後に「ペトロの手紙二」の中で、ペトロがこの日のことを思い起こしつつ書き留めていることは決して偶然ではありません。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子』。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(1:16-19)。ペトロがこの時、教会に生きる神の民に、神の栄光を仰ぎ見るようにと書き送ったように、私たちがこの礼拝で預言の言葉、すなわち主の御言葉に聴く時、私たちもまた、いつもこの神の栄光を仰いでいます。そこで自分の思いこみを打ち砕かれ、神の栄光を仰ぎ、主の御言葉にこそ、いつも新しく聴きなさい、と呼びかけられます。どんなに真っ暗闇に見えるかもしれない、人生という道を歩む時にも、その中で神の栄光に包まれている恵みを信じ、神の栄光を仰ぎつつ歩む幸いを、私たちは知っているのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御心よりは自分の思いが頭をもたげてきます。あなたのご栄光よりは自分の栄光に関心が向かいます。あなたに奉仕しているつもりになっているそのところで、実はあなたの救いのご計画が見えておらず、それを邪魔してしまいます。どうか私たちを憐れんでください。私たちは主イエスの憐れみを知るものとされました。何も分からずわきまえ知らない私たちの罪を担うため、主イエスは十字架につかれ、何をしているか分からない私たちを赦してくださるようにと、祈ってくださいました。
 どうかどんな真っ暗闇を歩いているかに思えるような時にも、あの日あなたがペトロたちに現してくださったあなたの栄光を仰ぎ見つつ生きる者とならせてください。私たちの独りよがりや湧き上がってきて私たちを苛む自分の中の言葉を、いつも新しく砕いてくださり、そこであなたの御声を聴かせてください
ただいま与る聖餐の食卓を通して、ここでも、あなたのご栄光を仰がせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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