夕礼拝

祝福と呪い

「祝福と呪い」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第30章1-20節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章7-14節
・ 讃美歌:300、463

申命記の結び  
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりますが、前回、2月には第26章を読みました。この26章をもって、12章から続いてきた「申命記的律法」、つまり申命記の中心部分が終わりました。27章以降は、申命記の結びに入っているのです。本日は第30章を朗読しましたが、お気づきのようにここはその前のところからの続きです。27章から話は続いているのです。ですから本日は、27章から30章にかけてをまとめて取り上げたいと思います。30章はその部分のクライマックスなのです。

祝福と呪い  
 27~30章を貫いている主題は「祝福と呪い」です。30章1節に「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い」とあります。この祝福と呪いが最初に現れるのは、27章の12、13節です。「あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山に立ちなさい」。今イスラエルの民は、奴隷とされていたエジプトを出て四十年の荒れ野の旅をようやく終え、神が約束して下さったカナンの地を目前にしています。新共同訳聖書の付録の地図2「出エジプトの道」を見ていただきたいのですが、その一番右上、イスラエルの民の歩みを示す点線の最後のところに「ネボ山」とあります。このあたりに今民はいるのです。このネボ山でモーセは死ぬのですが、申命記はそのモーセの遺言という形で書かれています。そしてこれから彼らはヨルダン川を渡ってカナンの地に入るわけですが、そのことは次の地図3「カナンへの定住」を見て下さい。彼らは「塩の海」つまり死海の北東の辺りにいます。そこからヨルダン川を西へと渡ってカナンの地に入るのです。そして「ゲリジム山とエバル山」はこの地図3の丁度真ん中辺り、「マナセ」と「エフライム」の境界線の上に、北にエバル山、南にゲリジム山があります。ヨルダン川を渡ったら、イスラエルの民の部族を半分に分けて、この向かい合った二つの山に立たせ、ゲリジム山に立った民は祝福を、エバル山に立った民は呪いを告げるのです。そのようにしてイスラエルの民は、祝福の言葉と呪いの言葉を共に聞く。それは、彼らがこれからの歩みにおいてどちらを選ぶか、その選択が求められているということです。カナンの地において、祝福に至る道を歩むこともできるし、呪いに至る道を歩むこともあり得る、あなたがたはどちらを選ぶのか、という問い掛けが、申命記の最後になされているのです。

主の言葉に聞き従うか否か  
 その祝福と呪いの分かれ目は何でしょうか。そして祝福とはどのようなことであり、呪いとはどのようなことなのでしょうか。そのことが28章に詳しく語られていました。後で各自で読んでいただいたいのですが、一言で言えば、祝福と呪いの分かれ目は、主なる神の御声に聞き従い、モーセが命じる戒めを忠実に守るかどうかです。申命記的律法に語られてきた主の戒め、命令をしっかり守り行っていけば、カナンの地において祝福つまり繁栄が与えられ、敵に打ち負かされることもなく、聖なる民、つまり神のものとして選び分たれた民として歩むことができるのです。しかし、主のみ言葉に聞き従わず、その戒めを無視して、主を捨てて他の神々を拝むようになるならば、呪いが、つまり様々な苦しみが民を襲う。そして敵に討ち滅ぼされ、他国に連れ去られ、そこで嘲りの的とされる、そういう未来が予告されているのです。

第二の契約と掟  
 29章には、イスラエルの民がそのような祝福と呪いの二者択一の前に置かれているのは何故か語られています。それは、神がイスラエルの民と結んで下さった契約のゆえです。28章の終わりの69節にこうあります。「これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である」。「ホレブで彼らと結ばれた契約」というのは、出エジプト記に記されている、ホレブ即ちシナイ山での契約のことです。その契約に伴って十戒が与えられました。そのホレブの契約とは別に、モアブの地で、即ち約束の地を目前にしたこの時点で、神が民と別の契約を結んで下さるのです。申命記はその「別の契約」と、それに伴う掟、命令を語っています。申命記の「申」という字は、「第二の」という意味です。第二の契約と掟の書、というのが「申命記」の意味なのです。

恵みに応答するか否か  
 別の契約と言っても、先のホレブにおける契約と矛盾するようなものではありません。むしろ先の契約の再確認です。ホレブにおける契約は、主なる神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放して下さった、あの大いなる恵みを前提としていました。このたびのモアブの地における契約も、同じ恵みのみ業を土台としていることが、29章1~8節に語られています。「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。あなたたちは、主がエジプトの国で、ファラオおよびそのすべての家臣、またその全領土に対してなさったことを見た。あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。あなたたちはパンを食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。それは、わたしがあなたたちの神、主であることを、悟らせるためであった。あなたたちがこの所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグは我々を迎え撃つために出て来たが、我々は彼らを撃ち、彼らの国を占領して、ルベン人、ガド人、マナセの半部族の嗣業の土地とした。あなたたちはそれゆえ、この契約の言葉を忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちのすることはすべて成功する」。ここには、エジプトからの解放だけでなく、その後の荒れ野の旅路における主なる神の導きが見つめられています。主なる神とイスラエルの民との契約は、この神の豊かな恵みと導きの事実を土台としているのです。その恵みを受けた民が、主を信じ、主に従い、主の民として生きることを誓うのがこの契約の根本です。つまり神とイスラエルの民との契約は、人間どうしの契約とは違って、与えられた恵みに応答するという関係を結ぶことです。神に聞き従い、その戒めを守るなら祝福が与えられる、というのも、戒めを守ったらその見返りとして祝福が与えられるということではなくて、既に与えられている主の恵みと導きに感謝して、その恵みに応えて神と共に歩むところに、主の恵みと導きがますます豊かに与えられていく、ということです。それに対して、主に聞き従わず、戒めを守らないというのは、主が自分に豊かな恵みを与えて下さっていることを否定して、その恵みの外に身を置くということです。そこでは、恵みが失われた状態、つまり呪いが現実となるのです。ですからこの呪いは、神の罰と言うよりも、神の恵みを否定することの当然の結果です。例えて言えば、温かい部屋から木枯らしの吹く外に出れば寒い思いをするようなものです。寒い思いは神の罰ではなくて、部屋の外に出たことの当然の結果なのです。

神に与えられた自由の中で  
 このように、祝福と呪いの二者択一は、主なる神との契約を守り、その恵みと導きの下に身を置いて感謝と応答の生活を送るか、それとも神との交わりを捨てて、感謝も応答もせずに生きるか、そのどちらを選ぶか、ということなのです。イスラエルの民は、これから入っていく約束の地でそのどちらの道をも選ぶことができます。これは驚くべきことです。神がご自分の民に、神を信じて従い、神の民として生きることを選ぶこともできるし、神との関係を否定して、恵みに応えることなく生きることもできる自由を与えておられるのです。このことは、創世記第3章の、最初の人間の罪の物語において、神がエデンの園に、その木の実を食べてはいけない木を生えさせておられたのはなぜか、ということとも重なります。神は私たち人間を、神に従うことしかできないような状態に置くのではなくて、従うことも従わないこともできる、信じることも信じないこともできる、恵みに応えることも応えないこともできる者として造り、その中で私たちが、自発的に神に従い、信じ、恵みに応答することを期待しておられ、待っておられるのです。祝福と呪いが民の前に置かれているというのはそういうことです。従ってそこにおける神の思いは、あなたがたは祝福と呪いのどちらでも好きな方を選びなさい、ということではありません。神は民に、祝福を選んでほしいのです。恵みの下に身を置き、ますます豊かな恵みを受けて欲しいのです。恵みを拒んでみすみす苦しみと滅びの中に陥ってほしくはないのです。

呪いが臨む  
 そのような神のお気持ちがさらにはっきりと示されているのが30章です。30章の1~4節にこうあります。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聴き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」。「これらのことがすべてあなたに臨み」というのは、今までに語られて来た祝福と呪いの内の特に呪いが現実となって民に臨むことです。具体的なことは「あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で」という言葉から分かります。それは28章36、37節において、主の御声に聞き従わないなら、「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた他の神々に仕えるようになる。主があなたを追いやられるすべての民の間で、あなたは驚き、物笑いの種、嘲りの的となる」と言われていたこと、64、65節に「主は地の果てから果てに至るまで、すべての民の間にあなたを散らされる。あなたも先祖も知らなかった、木や石で造られた他の神々に仕えるようになり、これら諸国民の間にあって一息つくことも、足の裏を休めることもできない。主は、その所であなたの心を揺れ動かし、目を衰えさせ気力を失わせられる」とあったことです。イスラエルの民が主なる神に聞き従わず、恵みに感謝し応答することをやめて他の神々、偶像を拝むようになるなら、他国に攻め滅ぼされ、故郷を追われて捕虜となって連れ去られてしまうという呪いが彼らに臨むのです。

祝福の回復  
 しかし今読んだ箇所で見つめられていたのはその呪いではなくて、むしろそこからの回復です。他の国に追いやられ、嘲られ、物笑いの種となり、一息つくこともできずに気力を失ってしまっているその所で、主なる神を、主との契約を、主が約束して下さっていた祝福を思い出して、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聴き従うならば」、つまり悔い改めるならば、「あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」、つまり神が、散らされたイスラエルの民をもう一度ご自分のもとに集め、失われた祝福を回復して下さるのです。「たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される」とあります。ここには、祝福を選び取ることに失敗し、呪いに陥ってしまった民を、もう一度祝福へと連れ戻そうとする主なる神の熱い思いが示されています。どこに追いやられていても、どんなに深い呪いに陥っていても、そこから救い出し、祝福へと連れ帰って下さる神の愛です。それは主イエスがお語りになった、あの失われた一匹の羊をどこまでも探し求めて連れ帰る良い羊飼いの姿と通じるものです。あるいは、放蕩息子の帰還を心から喜び、走り寄って歓迎する父の姿と通じるものです。そのような救いが、私たちが立ち返ることにおいて、つまり悔い改めることによって実現するのです。神はそのことを待っておられるのです。呪いに陥って苦しんでいる者が、その苦しみによって目を開かれ、主なる神の恵みのもとに帰ろうとするならば、神はその人を喜んで祝福へと連れ戻して下さるのです。

神の説得  
 このように主なる神は、ご自分の民が祝福と呪いを選び取ることができるほどに民の自由を尊重して下さっていますが、同時に、何とかして彼らを祝福にあずからせたいと願っておられるのです。民に祝福を選び取って欲しい、呪いの方を選んでしまった者でも、何とかして立ち帰り、再び祝福にあずかって欲しい、と神は願っておられるのです。30章の11節以下は、そのための神の、民への説得の言葉です。神の御声に聞き従い、その戒めを守ることが祝福への道だ、その戒めは決して難し過ぎるものではない、と神は言っておられるのです。12、13節にこうあります。「それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うにも及ばない」。私があなたがたに求めているのは、とても手の届かないようなことではないよ、特別な立派な人だけが辛うじてできるようなことを言っているのではないよ、ということです。14節には「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」とあります。神の言葉は身近なところにある。あなたはそれをいつも口に唱え、心に思っている、だからそれを行うことができる、それを行って祝福への道を歩むことができる。だから「難しい」とか「自分にはとてもできない」などと言うな。主なる神の恵みを思い、それに感謝して、神のもとで生きようとする、それだけでよいのだ。それだけで、祝福が豊かにあなたの上に注がれるのだ…。これはモーセのと言うよりもむしろ神ご自身の、涙ぐましい説得の言葉です。「お願いだから祝福を選び取ってくれ」と神が言っておられるかのようです。しかしこのような説得を受けておりながら、イスラエルの民は結局呪いへの道を歩んでしまいました。神の御言葉に聞き従うのでなく、カナンの地の豊かさの神々、要するにご利益を与えてくれる神々に心惹かれていったのです。その結果、バビロン捕囚が起りました。神が与えて下さった、祝福と呪いのどちらをも選ぶことができる自由によって、人は呪いへの道を選んでしまうのです。エデンの園であの木の実を、食べることも食べないこともできる自由を与えられていた中で、それを食べることを選び取ってしまったその時から、私たちは誰もが皆このように、与えられている自由を間違って用いてしまっているのです。そしてまさに呪いに、罪の結果としての苦しみに陥ってしまっているのです。

主イエスによる呪いからの解放  
< しかし主なる神は、私たちが呪いに陥っているのをそのままに放っておかれることはありません。私たちを何とかして呪いから祝福へと連れ戻そうとする神の情熱は失われることはないのです。その情熱によって神はご自分の独り子を人間としてこの世に遣わして下さいました。それが主イエス・キリストです。主イエスは、神の言葉が肉を取り、人となった方だと聖書は語っています。その意味では、「御言葉はあなたのごく近くにあり」ということは、主イエスにおいて文字通り実現したのです。私たちの聞き従うべき御言葉が、御言葉ご自身が、私たちのところに来て下さったのです。そして私たちに語りかけ、私に聞き従いなさいと言っておられるのです。それだけでなく、主イエス・キリストは、神に背き、神の恵みに感謝し応答するのでなく、神が与えて下さっている自由を自分勝手に用いて自分が主人になろうとしている私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。神に背き逆らっている私たちが本来受けなければならない苦しみと死とを、つまり究極の呪いを、私たちに代って、神の独り子が受けて下さったのです。そのようにして主イエスは私たちからこの呪いを取り去って下さったのです。先程共に朗読した新約聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙第3章13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」とあります。「木にかけられる」つまり十字架にかけられることは、究極の呪いを受けた者の姿です。その究極の呪いを、主イエスが私たちのために受けて下さったのです。それによって私たちを律法の呪いから、つまり律法、掟、戒めを守ることができない者は呪われるという呪いから解放して下さったのです。それは「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり」とあります。アブラハムが選ばれて祝福を受け、その子孫であるイスラエルが神の民とされたのも、彼らがその祝福を受け継ぎ、彼らを通してその祝福が全ての者に及んでいくためでした。しかしイスラエルの民はその祝福を選び取ることができずに、罪による呪いに陥ってしまいました。祝福へと招かれていたのに、祝福を拒んで呪いに陥ってしまったのです。それは私たち全ての者が陥っている罪の姿です。しかし主イエス・キリストは、その罪による呪いをご自分の身に引き受けて十字架にかかって死んで下さることによって、呪いを取り去り、祝福を回復して下さいました。主イエス・キリストによって、アブラハムに与えられた祝福が私たちにも及んだのです。今や主イエスを信じる者は誰でもこの祝福にあずかることができるのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちを呪いではなく祝福にあずからせようとしておられる主なる神の熱い思いの表れなのです。

私たちの前の祝福と呪い  
 今私たちの前にも、祝福と呪いとが置かれています。私たちも、どちらを選ぶこともできる自由を与えられています。しかし私たちの前にある呪いは、主イエス・キリストが既にご自分の身に引き受けて下さり、復活によって打ち勝って下さった呪いです。私たちの前にある祝福は、主イエス・キリストが十字架と復活によって勝ち取り、実現して下さった祝福です。神は私たちの前にそのような、どちらを選んだらよいかは一目瞭然な選択肢を置いておられるのです。私たちはそれでもなお、祝福ではなく呪いの方を選び取ってしまうことが多い、愚かな罪人です。しかしその呪いに陥ってしまった中からでも、その呪いを背負って下さった主イエス・キリストを信じて、主イエスが勝ち取って下さった神の祝福へと立ち返る道は開かれているのです。

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