主日礼拝

命のパンはどこから

「命のパンはどこから」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 申命記、第18章 15節-22節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第6章 1節-15節
・ 讃美歌 ; 22、309、453

 
1 ベトザタの池で病人をいやし、ご自身と父なる神との関係について長い説教をされた主イエスは、その後ガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。舞台はエルサレムの神殿からガリラヤ地方に移ったわけです。ユダヤ人との激しい論争が、つい先頃まで行われておりました。そこで主イエスは憎しみの渦巻くエルサレムの神殿をいったん離れ、ガリラヤ地方の小さな山に退かれたのです。弟子たちも一緒でした。ところが、そこでも主イエスと弟子たちは、自分たちだけで静かな時を過ごすことはできなかったのです。大勢の群衆が主イエスの後を追ってきました。彼らは主イエスが病気の人を癒されるのを見ていたのです。自分たちも癒していただきたい。自分たちの問題も解決してもらいたいものだ。自分たちの人生の重荷も取り除いてもらいたい。楽にしてほしい。このお方についていけばいいことがたくさんあるに違いない。損することは何もないはずだ。いや得をすることがいっぱいあるはずだ。間違いない。そういう期待があったと思います。

2 山の上で弟子たちと一緒にお座りになった主イエスは、向こうから数え切れないくらいの群衆が大挙してやってくるのをご覧になりました。ユダヤ人たちとの論争からしばし離れ、やっと一息ついたと思ったその時、主イエスが目を上げられると、山のふもとから息を切らしながら群衆が登ってくる姿が、主の御目に飛び込んできたのです。弟子たちは正直思ったでしょう、「やれやれ、またか。少しも休めやしないじゃないか」。弟子たちのそういううんざりした気持ちに、追い打ちをかけるようにして、主イエスからドキリとさせられるお言葉が飛び出しました、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)。問われた弟子のフィリポは思ったに違いありません。「どこで買うって、いったいどこか当てになるところがあるというのだろうか。先生はいったい何をおっしゃっておられるのだろう。無茶なことをお聞きになられるなあ」。そう思いつつ、急いで登ってくる人々、集まってくる群衆をおおまかに数えてみた。男たちが五千人くらいいたわけですから、子供や女性を含めたら、一万人くらいいたかも分かりません。とにかく大変な数の人々です。慌てふためきながらフィリポは答えました、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)。この時代、一日働いて得る賃金が1デナリオンでありました。そういうふうに数えると実に「200日分の賃金、7,8ヶ月分の給料をつぎ込んでも、この群衆のお腹を満たすことはできませんよ」、そうフィリポは答えたことになります。そこで暗に言わんとしているのはこういうことです。「先生、こんな数の群衆はとても私たちの手に負えたものではありません。無理に決まっています。私たちに迷惑をかけないでください」!途方もない金額を口にして、フィリポは主イエスを驚かせようとしています。この群衆を養おうなんていう大それた目論見はあきらめてください、私たちも迷惑するだけです、と言いたげなのです。
 このことはもう一人の弟子、アンデレに至っても同じです。彼は主イエスからの問いかけを聞いて、取りあえず急いで、周りにいた人々に片っ端から聞いて回って、何か食べる物を持っている人がいないか確かめたのでしょう。すると、一人の少年が大麦のパン五つと魚二匹を持っていた。だけれども、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。それが彼の結論でした。
弟子たちは、ある意味で非常に現実的です。主イエスにどこからパンを買ってきたらよいか、と問われて、まじめになってどのくらいのパンが必要かを数え始めています。その上でこれは無理だ、自分たちがどうにかできるものではない、と分かると「こんなに多くの人々を養うことをお考えになるのはやめてください」と間接的に言いたげに、主イエスを思いとどまらせようとしているのです。

3 けれども、主イエスはどこでパンが調達できるだろうかと、ご自分でも不安になって弟子たちに話しかけられたのではありません。また弟子たちが主に思いとどまるようにと柔らかに願っても、それで群衆に食べ物を与えることを断念されたりもなさいませんでした。「人々を座らせなさい」。そこで少年の持っていたパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられたのです。
 たくさんの人々を、わずかな糧でもってお腹いっぱいにする、というこの奇跡は、大変有名なもので、他の3つの福音書にもすべて出てまいります。ところが、他の福音書では、主はまずパンや魚を、弟子たちに渡して、彼らを通して群衆に配っておられます。そこでは弟子たちが大事な役割を果たしているわけです。それなのに、このヨハネが語る奇跡では、主イエスご自身が手ずから人々に、食べ物を配っておられるのです。主イエスご自身が給仕の役目まで務めてくださっているのです。食べ物を準備するだけでなく、それを配る奉仕までご自身の手でしてくださっているのです。弟子たちは、主イエスに問われました、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。そこで大変戸惑ってしまった。どこからこんなにたくさんの人々を養うパンを手に入れてくることができるというのだろう。弟子たちは自分たちでこの群衆を養わなければならないと思い込んで焦ったのでした。この弟子たちと同じように、もし私たちが、自分の手の中を覗いて見てみれば、そこには何もありません。自分がどんな豊かさを持っているかと思って自分自身を見つめてみるならば、そこには何も見つけ出すことはできない。それなのに、無理をして大変立派なこと、徳を積むようないいことができなければ、と私たちはしばしば焦ってしまう。キリスト者なのだから、いいことができなければいけない、立派でなければいけない、そう知らず知らずのうちに思い込んだりします。けれどもその弟子たちの焦りが渦巻いている只中で、主はすべてをご自身でなしてくださり、パンと魚を増やして備えられ、ご自身手ずからその食物を分け与えてくださるのです。夕暮れの近づいている山の上で、静かな喜びが湧き上がりました。到着早々、お腹を満たす恵みの糧に与った
のです。それは決して立派な御馳走ではなかったでしょう。けれども、人々は静かで、不思議な喜びが心に広がるのを感じたことでしょう。
藤掛先生が主任担任教師として赴任されてから、私は何度か教会員の方からこう言われたことがありました、「矢澤先生は最近表情が穏やかになりましたね」、「矢澤先生は意外と優しい表情をしているんですね」。主任の先生が着任され、ほっとして表情が緩むようになったということでしょうか。一人だった頃は緊張して、余程表情が険しかったのかと思い、反省しました。そんな中で、教会員の方からこう言われたことを思い出します、「あなた最近疲れているでしょ。いろいろ気を揉んで気疲れしたりしちゃ駄目よ。余計な心配しないで御言葉を語ることに集中してりゃいいのよ」!伝道者はしばしば自分がすべてを把握して、配慮を行き届かせ、必要な命の糧を分け与えなければならない、と思い込む誘惑に捕らわれます。自分が命の糧を生み出す源であるかのように錯覚してしまう。その時、本当の大牧者であり、命の源であり、必要な命の糧を備え、ご自身で分かち与えてくださっている主イエスが見えなくなってしまうのです。けれども、私たちは繰り返し繰り返し肝に銘じなければなりませんが、教会の頭は主イエス・キリストなのです。教会は決して伝道者のものではありません。教会はキリストのものです。主イエス・キリストがそこに集う羊を養ってくださるのです。そのことにいつも信頼していなければ、伝道者は主から託された務めを果たすことは決してできないのです。先ほどの教会員の方の言葉は、私にこのことを思い起こさせてくれたのでした。伝道者ばかりではありません。弟子たちの姿は教会の姿です。もし教会が、自分たちが必要なことをすべて備え、命の糧を分け与えようと考えるなら、遅かれ早かれ、その歩みは行き詰まるでしょう。教会そのものの中に、分け与えることのできる豊かさがあるのではありません。そうではなく、その中に恵みを満たしてくださる主がおられるのです。このお方からの恵みの糧が満ち溢れ、教会を、私たちを満たしてくださるのです。弟子一人一人が、持って廻った籠の中を、有り余る恵みで満たしてくださったようにです。12という数はイスラエルの12部族を意味します。それはまた新しいイスラエルである教会を指します。教会を、主イエスの恵みが満たしているのです。備え、分かち与えてくださるのは、伝道者でもなく、教会でもなく、私たちでもなく、主イエ・キリストなのです。

4 先ほど読まれました旧約聖書の申命記には、モーセのような新しい預言者が現れて、神の言葉を伝えるということが預言されていました。空腹を満たされた人々は、この主の御業に驚き、申命記の預言を思い起こしたのです。人々は思いました。「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14節)。ところがこの時人々は、主イエスがどなたであるのかを決して正しく理解しているわけではありませんでした。人々は主イエスを王にするために連れて行こうとしたのです。この「連れて行く」という言葉は、「無理矢理、力づくで引っ張っていく」という意味の言葉です。主イエスを自分たちの王として担ぎ上げるために、いわば拉致しようとしたのです。もともと彼らが主イエスの後を追ってきたのも、主が病人たちになさったしるしを見て、この人の後についていけばいいことがある、と判断したからでした。そういう意味では、この不思議な力を持った人をどれだけ利用し、そこから利益を搾り取ることができるか、そんな企みが、群衆たちの心の深いところにはあったのです。群衆たちが主イエスの後を追って山にまで登ってくる姿には、ある面では、大変熱心な信仰心が現れ出ているようにも思えます。けれども、その一見熱心に見える姿の裏には、実は自分の心の方をこそ神とする 思いが潜んでいることがたびたびあります。主イエスを敬う思いが、自分を神とする思いの延長でしかなかったということもあり得るのです。
今日の箇所の最初に、ガリラヤ湖が出てまいりますが、福音書はわざわざこの湖の名を「すなわちティベリアス湖」と言い換えております。「ティベリアス」というのは当時のローマ帝国の皇帝の名前です。この皇帝に捧げる土地、そのそばにある湖ということで、この湖は皇帝の名前をつけられたのです。この皇帝の厳しい支配のもとで自分たちは苦しめられている、そう思っていたユダヤ人たちにとって「ティベリアス湖」という名前は気にくわない名前だったに違いない。そこでローマ帝国に対抗できるようなものすごい力を持った主イエスに人々は期待したし、自分たちの願いをかなえ、この外国人の支配をひっくり返してもらえるものと思っていたのです。
神を自分の手許に置き、自分の思い通りにしようとする、自分のいいようにしたがる思いは、私たちの中にもあります。私たちの歩みの中でも、困難を不思議な形で切り抜けることができたり、直面していた大きな問題が、予想していなかった形で解決されたり、ということが起こります。その時私たちは、これは神様のおかげだ、と喜ぶかもしれません。けれども同じような困難に再び直面した時、今度は何も起こらなかったとしたら、私たちの中にはすぐ不満がこみ上げてきます。「神よ、あなたはあの時は私たちを助けてくださったのに、今度は何もしてくれないじゃないですか!私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」、そういう問いを連ねて、主イエスに詰め寄ってしまうのです。「今の私の苦しみを知っているなら、私を救い出してみろ、そうしたらあなたを神と信じようじゃないか」、そういう思いが心の中の一番底に渦巻いている。こうして自分が、神が本当に神であるかどうかを判定する審査員であるかのように思いこんでしまうのです。主イエスはそのようにしるしを求め、それを条件にして信じるかどうかを決める信仰のあり方を信用されませんでした。なぜなら、神が自分の思い、自分の必要をどれだけ満足させてくれたかを基準にして、信じるかどうかを決める態度は、本当に神を信じる心ではないからです。それはしばしば、自分の思いを神とする傲慢さを上手に隠した姿であるからです。
今日は棕櫚の主日と呼ばれる日です。主イエスがエルサレムに入場された日、人々が棕櫚の葉をかざし、自分たちの王がやってきた、と言って喜び迎えたのです。ところが同じ人たちが数日後には、この人を十字架につけろ、と声を張り上げて叫んだ。なぜこんなにも簡単に変わってしまったのか。それはこのお方が自分たちの願望を叶えてくれる者ではもはやない、ということが分かったからではないでしょうか。ローマ帝国の支配を覆し、イスラエルを解放してくれるお方ではないと分かったのです。自己実現の手段として、自分たちに奉仕してくれる者ではない、と分かったのです。まことの救いをもたらそうとご自身の独り子をまでこの世にお与えになった神の思いと、自分を神とする人間の思いが、悲しい行き違いをしてしまう、そして民衆の歓呼の声が響く一方で、十字架への道がはっきりと見えてくる、それがこの棕櫚の主日なのです。

5 私たちの生き方は、あの弟子たちのように、自分の手の中には何もないと言いながら、しかし自分の手で何とかしなければいけない、と毎日焦ってばかりいるような生き方です。あるいはあの群衆のように、自分にどれだけいいことをしてくれるかを確かめて、それで信じるかどうか結論を出そうと言って、神を試そうとしている生き方です。けれども、そういう生き方はどちらも、人間の思いによって心の目が閉じられ、神が見えなくなっている姿なのです。主イエスがあの山の上で分け与えられたパンと魚は、単に人々の空腹を満たすためのものではありませんでした。そうではなくそれは、後に主イエスが十字架におかかりになり、私たちの罪を赦すために裂かれたご自身の体であったのです。あの山の上での奇跡が起こったのは、ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた頃でした。モーセがエジプトの支配からイスラエルの民を導き出した出来事、出エジプトを記念する祭りです。あの時、小羊を屠って、その血を門の鴨居に塗りつけていたイスラエルの民は、神の裁きを免れ、救われてエジプトを脱出できたのでした。今まさに、第二の出エジプトが起ころうとしています。主イエスご自身が、犠牲の小羊として捧げられ、その死によって、自分で自分の人生を立てていこうとする私たちの傲慢さが打ち砕かれたのです。その死によって、自分の利益のために神をも利用しようとする高ぶった思いが、主イエスにより引き取られ、私たちから取り除かれたのです。あの時パンを裂いて配られた主のお姿は、私たちをこの神の前での傲慢さ、高ぶりから救い出すために、ご自身の肉を裂き、血を流して苦しまれた十字架の主のお姿を指し示しているのです。
 私たちは主が毎日の生活の中に奇跡を行ってくださるがゆえに、主を信じるのではありません。そうではなく、まさに主イエスが十字架におかかりになり、私たちの罪を担い、取り除いてくださるまことの救い主、まことの王であるがゆえに、主を信じるのです。そしてだからこそ、神が時に私たちの個人的な生活の中にも不思議な御業を行ってくださることを喜ぶことができます。他の人には分からないかもしれない、神がこの私の個人的な歩みの中に起こしてくださった奇跡も、感謝し大切にすることができます。なぜならそれらのしるしは皆、それ自体に意味があるというよりも、十字架にかかり、甦られ、罪と死の力を打ち破られた主イエスこそが、まことの王、まことの神であることを指し示しているからなのです。
 「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(12節)、こう言われて、パン屑を集めて廻った弟子たちは、主の恵みの大きさ、豊かさを、手に伝わってくるずっしりとした重みとして感じたことでしょう。そして自分たちが養わなければいけない、と焦っていたさっきまでの自分たちを恥ずかしく思ったに違いない。教会に生きる私たちはこのように、自分たちが予想していなかった神の豊かな恵みに、いつも新しく驚かされる経験をするのです。そしてその恵みが少しも無駄にならないようにと集めて、これに驚き、これを分かち合い、これを喜び、これを感謝します。そしてこの恵みの源、永遠の命であるパンをくださるのは主イエスであることを知るのです。いや、十字架と復活の主であるイエス・キリストご自身が、命のパンそのものであることを、いつも新しく示されるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私どもはしばしば自分で自分の人生を立てようと躍起になり、また思うようにならない自分に焦ります。また試練や困難に直面すると容易にあなたに呪いの言葉を向け、あなたを人間の思いに従わせようとします。この棕櫚の主の日に、あなたの御心と私共人間の思いが、悲しいすれ違いを起こしています。けれどもあなたはそれをご存知の上で、御子イエス・キリストを十字架の道へと向かわせ給います。どうか十字架の主イエスが、ご自身の肉を裂き、血潮を滴らせてまで私たちに分け与えてくださいます命の糧を、私共が決して見過ごしにしたりせず、少しも無駄にならないように味わわせてください。その命の糧をいただいて生きるように、とのあなたの招きの御声を、今確かに聞かせてください。あなたが備え、あなたが分け与えてくださいます。命のパンであるあなたに感謝し、あなたに赦されて生かされる喜びと驚きを、今ここに新たにさせてください。
命のパンである主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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