夕礼拝

み国がきますように

「み国がきますように」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書: 詩編第22編28-32節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第6章10節
・ 讃美歌: 218、351

この夕礼拝においてイエス様が、「だから、こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を、一つ一つ味 わっています。本日はその第二の祈り「御国が来ますように」です。わたしたちがいつも祈っている言葉では 、「み国を来たらせたまえ」です。この「御国」とは「あなたの国」つまり「神様の国」ということです。わ たしたちはこの祈りを、どんな思いをもって祈っているでしょうか。神様の国が来れば、今の様々な苦しみや 悲しみ、不幸などは全てぬぐい去られる、そして平安な、楽しい、悩みのない世界になる、そういう神様の国 を来たらせて下さい、という思いでこの祈りを祈ることが多いのではないでしょうか。この「神の国」と訳さ れておりますこの言葉、これは神様の御支配を表す言葉です。ですからこの祈りは、「神様の支配が来ますよ うに」という意味です。わたしたちがまだ苦しみや悩みの多い世界ではなくて「神様の支配がこの世界に及び ますように」と祈っている時、実はわたしたちは、「神様はこの世界をいまだ支配されていない」という思い が、前提にあるのではないかと思います。
マタイによる福音書第4章17節にあるように、イエス様が公に伝道を始めたられたときにいっておられた のは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というみ言葉でした。天の国とは神様の国のことです。つまり神様 の支配が近づいてきたということです。この「近づいた」という言葉は、もうあなたのすぐそばに来ている、 あなたが手を伸ばせば触ることができる所まで来ている、という意味です。み国、つまり神様の支配はそのよ うに私たちのところに既に来ているのです。何によってか。それは、イエス様がこの世に来られたことによっ てです。このようにイエス様は、「神の国」神様の支配はすでにあなたがたの間に来ていると言われています 。神様がこの世界を支配しておられる。もしこの事柄を公にしますと、多くの世の人たちはあざ笑うでしょう 。神様が支配しておられるなんてことはないじゃないか。いまこの世では悪い者が勝手なことをしても、ちっ とも罰が当たらないことがある。逆に一生懸命やっている者がひどい目に会うことさえある。神様が支配してお られるならば、そんな事があるはずはない。確かに人間の目から見れば、そういう感じであります。ではわた したちが、そのように神様の御支配がないと思ってしまう原因は何かというと、それはわたしたちの勘違いで あります。悪いことをしているものに対して、神様がおられるなら、正しい裁きをなさるはずだ。あるいは、 苦しめられて悩んでいる人たちは、神様がわたしを救ってくれそうなものだ。そう思います。そういう事が何 千年たってもちっとも起こらない。だから、神様が支配しておられるなんて事は、ないんだ。わたしたちがそ う思いがちです。
神様が支配しておられるなら、悩みも苦しみも悲しみもない平和な状態になるはずだろう、とわたしたちは 思います。しかし、そういうふうに思ってしまうのは、私たちの中に、神様は人間を幸福にし、平安を与える ために存在している、という思いがあるからです。それはつまり、自分の幸福や平安のために神様は存在して いるのだろうと考えているということです。そのような神は、人間のための神、人間に奉仕する神、人間の奴 隷として神です。そういう神様を求める思いは、私たちの中に非常に強くあります。わたしたちが、神様をその ように神様のことを勘違いして考えているのでは、神様のご支配はわかりません。しかし、イエス様はそのよ うな神様のことを勘違いしている人々、わたしたちに対して、「その神の国が、神様の御支配が、もう来たん だ」と言われました。またその事をイエス様は病人を癒されたり、悪霊を追い出されたり、そういう働きを通 して、証をされました。マタイに福音書の第12章28節でイエス様は、ご自分で「しかし、わたしが神の霊 で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます。病 人を癒し、悪霊を追い出して、このとおり神様の御支配が来ているのだ。そういう事を人々に示され、語られ たのです。このイエス様のみ業と歩みに神様の支配がなんたるかが示されています。

神様の支配は力による支配ではありません。それはイエス様の伝道の歩みを思い出してみればわかります。 イエス様は福音を宣べ伝える時に、自分の好きな人、力の強い人だけを選んで、そのひとだけを自分の元に呼 び、その人たちだけに教えていたわけではありません。むしろ弱い人や病気の人の元に近づいてくださり、癒 してくださり、悪霊を追い出したり、友のいない人の友となってくださり、小さな子供たちをご自分のもとに 招いてくださって、そうして福音を宣べ伝えていました。弱い人や小さな人を、無理やり力で押さえつけたり、 無理矢理教えこんだりして従わせようとしたのでなく、むしろ御自分の方から近づき、低くなられ、御自身を 明け渡し、その者達に仕えられ、御自身を通して、そのものたちに神様を信じる信仰を芽生えさせました。
そのことが一番わかるのは、イエス様がわたしたちのために十字架にかかってくださったことです。わたした ちは生まれながらにして、イエス様とは全く反対の支配である「力による支配」を望みます。力によって、他者 をコントロールしたい、他者を自分のものにしたいという欲望がわたしたちにはあります。そして他者を力に よって支配した時、他者を自分の都合で自分の近くおいたり、時には自分の元から追い出したり、そのように して他者を支配下におき自由を奪うことをしてします。そのことは、人にだけではなく、知らず知らずに神様にも同様のことをしてしまいます。わたしたちは、神様をも、力によって支配しようとします。時に神様を自分 とは関係ないものとして、追い出す。ある時には呼び出し願いを叶えさせようと自分に従わせる。しかし都合 が悪くなると神などいないかのように生きる。さらに度が過ぎると、いないかのように生きるだけではなく 、「神というのは、願いを叶えることも出来ない。この世界を平和にすることもできない。弱いものだ。」と 思ったりする。さらには、自分がうまくいって自分の力で何でも出来ると感じている時は「神は弱い人間が創 りだした妄想に過ぎない」などと、神様を「いない」ものにしたり、神様が人に創りだされたものであると侮 辱したりする。このように神様をも、自分の奴隷にしたい、支配したいと望んでしまうのは、わたしたちが罪の 故です。神様のようになりたいなどと思っていなくても、すべてを思いどおりにできる力が欲しいと望んでし まう。この世の支配者にはなりたいとまではいかなくても、職場では、学校では、家庭では、友人との間では 、同僚よりも上に、同級生よりは上に、妻よりも上に、夫よりも上に、兄よりも、弟よりも、姉よりも、妹よ りも上にいたい、その場では支配する立場になりたい、自分の思いが通るような場にしたいと望む。自分の世 界を作りその場を支配したい、自分が都合よく生きることができるように支配したいと思う「罪」をわたしたち は誰一人例外なく持っています。その罪のために時に、神様をも蔑ろにして、神様を奴隷のように扱う。時に 神様をいないものとして扱う。その罪のために、わたしたちが、本来受けなければならない裁きがあります。 そのわたしたちの裁き、そのわたしたちの罰は、死なのです。わたしたちは死ななければゆるされない罪を持 っています。しかし、その罪の裁きを、イエス様がわたしたちの代わりにうけてくださったのです。その身代わ りの死が、あのイエス様の十字架の死です。わたしたちが、自分の罪の罰として死ななければならなかったの に、イエス様が、全てを捨てて命まで捨てて、わたしたちを活かすために、イエス様は全てを捨てて、代わりに 十字架にかかってくださいました。わたしたちは、誰一人例外なく罪を持っています。ですから、神様の目か ら見れば、わたしたちはすべて、滅びゆくものであり、弱いものであります。今、この世で、力を持っている 人、富や財産をたくさん持っている人、能力の高い人であっても、それらの人も例外なく罪をもっており、神 様の前では、弱い人です。逆に、力のない、貧しいものであっても罪をもっています。イエス様はそのような 罪に支配されている、罪の病に陥って弱っているわたしたちに近づいてきてくださり、低くなられて、命をさ さげてくださり、わたしたちをその罪の支配から救って下さり、今、罪の病を癒してくださろうとされているの です。この救いは、この世で、力がある人、力がない人富んでいるひと、貧しい人、関係なくすべての人に与 えられました。このイエス様の救いこそが、神様の愛の支配です。わたしたちは、この救いの出来事を知り、 このようなイエス様に従いたいという思いが心の底から溢れ出ます。これも愛の支配によってです。この愛の 支配は、力づくで、無理矢理ではありませんでした。支配する方が、低くなられ、すべてを投げ打って、罪人 のわたしたちを救ってくださった。その救い主を信じたいと、自発的にわたしたちが思ったとき、わたしたち は、愛に支配されたといってよいでしょう。このようなイエス様を信じたい、賛美したい、イエス様と共にい たい、イエス様に付いて行きたいそのように思わされる。それが神様の愛による支配です。
神様のこのようなイエス様の犠牲という恵みの愛によるご支配を、わたしたちに差し出されています。わた したちは、手を伸ばしてそれをいただけばいい。この救いの恵みをいただくのに何の資格もいりません。力が なければ、能力がなければ、立派な人間でなければいけないのではありません。ただ自分には罪があり、どう しても他人を愛せず、神様も愛せず、愛するどころか傷つけ無視してしまうものだと認め、悔い改めて、神様 の方に体も心も向き直るのならば、誰でも、この愛の支配に与ることができるのです。神様のご支配、神の国 は、イエス様において実現しています。そこにおいて見つめるべきもう一つのことがあります。それはイエス 様の復活です。わたしたちの罪を背負って十字架の上で死んで下さったイエス様を、父なる神様は復活させて 下さいました。そこに、神様のご支配の真実が現われています。神の支配は、死の力に勝利しています。です から、その神様のご支配に与るものは、死の力に打ち勝つことができます。わたしたちを脅かし、恐れを与え るこの世の力の究極のものは死です。わたしたちは誰もこの死の力に打ち勝つことはできないし、遅かれ早か れ必ずこの死の力に捉えられていく。また死の力が、じわじわと、あるいは突然に、わたしたちから愛する者 を奪い取っていく。その力の前にわたしたちは全く無力です。代われるものなら自分がその人と代って死にた いと思っても、どうすることもできない。わたしたちは、死の力の前に敗北するしかない。しかし神様の支配 は、この死の力を打ち破ります。その死の力を打ち倒し、わたしたちに新しい命を与えてくださいます。復活 をされたイエス様を信じる、信仰者たちはその支配に与っています。イエス様を信じるものたちは自らの、ま た愛する者の死においても、死に勝利された神様の支配の中で歩み続けることができます。イエス様を信じて神 様の支配に与っている者たちは、死んでも、死のままで終わらず、復活させられて、永遠の命が与えられるの です。神様の愛の支配の中にあるものは、そのような約束を信じて生きることが出来るのです。イエス様こそ が、十字架上で、そのことを信じておられました。イエス様はすべての人間に見捨てられ、父なる神様に死を 命じられ、父にも見捨てられ、完全に見捨てられました。しかしイエス様は、その十字架の上でも、父なる神様 のご支配を信じ、復活を信じておられました。そして、実際に復活されました。ですから、イエス様を信じる わたしたちもまた、苦しみや絶望、死を前にしてもそこで、神様のご支配を信じ、復活を信じるのです。です から、わたしたちは、自分の目の前には、絶望しかない、神様の支配がないかのように見えるその時でも、神 様の支配を信じているので、絶望ではなく希望を信じて生きることができるのです。ですから、わたしたちは その支配が、死に打ち勝つ神様の支配が現実のものとなるようにと、「み国を来たらせたまえ」と祈るのです 。

しかし、その神様の支配が現在わたしたちの生活の中で少しも現れていない。その事でわたしたちはいつも 迷いを持ちます。この神様の支配が来るということについて、わたしたちは二つの事を考える事が大切です。ま ず第一は今まで語って来ました、イエス様の十字架の死です。十字架において神様の裁きと救いとが、罪の赦 しが、実現しました。これはすでに起こったのです。しかし、これは、たとえてみれば、昔のフィルムカメラ のように、写真を写しても現像をしなければ、その写したものが現れて来ないように、イエス様の十字架にお いて、わたしたちの罪が裁かれ、そして赦された、という事実があるにもかかわらず、その事実はまだわたし たちの目に現れていないということです。そのようにイエス様の十字架の死というシャッターが押され、救い が起こり、決定的に神様の支配が行ったのだけれども、フィルムがまだ現像されていないので、神様の支配が 見えないのです。その支配がはっきりする時があります。それがイエス様の再臨の時であります。そのイエス 様が再臨される終末の時には、今はまだ現像されていない、隠されている神様のご支配が顕わになるのです。そ してそこでは、死に対する勝利も完成するのです。その時私たちは死の力から解放されて復活し、永遠の命を 神様から与えられます。そして私たちに先立って復活されたイエス様と同じように、もはや死に支配されるこ とのない命に生きる者となるのです。それゆえに「み国を来たらせたまえ」という祈りは、このイエス様の再 臨による神のご支配の完成を待ち望み、それを一日も早く来たらせて下さるように願う祈りでもあります。  それと同時にもう一つ、神の支配が来るということの、もう一つの意味があります。それは聖霊降臨のこと と関係しています。ペンテコステの日に聖霊が降った。その時、イエス様の弟子たちは、イエス様の死の意味 、復活の意味、神様のご支配の意味を知ることが出来、伝道を始めたのです。その神様の霊である、聖霊によ ってのみ、わたしたちも、神様がわたしを支配しておられるということを、はっきりと信じ知ることができる のです。
神様の愛によって支配されているとわたしたちが気付くことができるのは聖霊によってなのです。聖霊の働き がわたしたちになければ、いつまでたっても、自分の目で見て、自分の頭で考え続けてしまうでしょう。しかし 、イエス様を信じ聖霊を賜った人は、聖霊なる神様によって、見えない父なる神様の支配を信じることができる ようになります。聖霊なる神様に支配されることによって、わたしたちは、自分の罪、イエス様の十字架の死、 神様の愛を知ることが出来るのです。ですから、「御国が来ますように」という祈りは、聖霊によって、その 神の支配がわたしたちの心に臨んでくるということも意味しているのです。
父なる神様は、わたしたちが願う前から必要なものをすべてご存知であります。わたしたちは、最も必要な ものは、神様との関係です。その神様との関係修復のために、イエス様は十字架の死によってわたしたちの罪 を贖い、またわたしたちが神様の前に立つために、新しい命を与える約束、復活と永遠の命を与える約束を十字 架上で新しい契約として結ばれました。それらの出来事は、わたしたちが願う前から、2000年程前から、父なる 神様によって準備されておりました。わたしたちが、「御国が来ますように」「神様の支配が来ますように」 と祈る前から、その神様の支配を実現してくださり、わたしたちの目の前にまで、持ってきてくださっていま す。後はそれをわたしたちが信じて受け取るだけです。またそのような心が与えられるために、聖霊によって 自分が支配されるようにと「御国が来ますように」と祈りなさいともイエス様は言われておられます。既に神 様の愛の支配に与っているものは、隣人が聖霊によって支配され、神様の愛の支配を受け入れることができま すようにという意味で「御国が来ますように」と祈ることができましょう。また既に神様の愛の支配に与って いる者は、神様のご支配が目に見える形で実現しますようにと。もはや死を恐れなくてよい、涙もことごとく 拭い去られる、先立ってしまった愛する者たちと再開できる、永遠に神様と彼らと共に喜び満ち溢れながら生き ることができる、そのようなイエス様の再臨の時、神様の支配が目に見える形で実現する終わりの時が来ますよ うにと祈りましょう。それら祈りの言葉が、イエス様の教えてくださった「御国が来ますように」という一言 の祈りに集約されています。イエス様が今日、「御国が来ますように」と祈りなさいとわたしたちに、教えて くださいました。

祈りましょう。

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