「安心して行きなさい」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第116篇 1節-19節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 36節-50節
・ 讃美歌 ; 530、536
1 主イエスはある日、一緒に食事をしてほしいというファリサイ派の人の願いを受け入れて、その人の家に入られました。主イエスはファリサイ派や律法の専門家たちに対して厳しいことをおっしゃいましたが、彼らを軽蔑したり、交わりを断ったりするということはありませんでした。ファリサイ派の人であれ、他の誰であれ、家に招いて食事をしたいという好意を拒んだりはなさらなかったのです。このファリサイ派の人も、権威ある教師の話を聞きたいと思ったのでしょう。主イエスを家に招いて食事をしたいと申し出たのです。
こうしてこの人の家での食事会が始まりました。当時の宴会の席では、出席者は今の私たちとは違う姿勢で食卓に着いたようです。集まった人は皆横になって、左手で頭を支えながら、右手を使って、料理に手を伸ばしたようです。ですから足を横に投げ出した格好で、左手で支えた体を食卓に向けた姿勢で、食事をしたわけです。
このような会食が行われているのを、この町に住んでいたある一人の女が耳にしました。この人は「罪深い女」(37節)であったと言われています。この女性がどんな罪を犯したのか、福音書ははっきりと語っていません。おそらく性的な過ちがあったと考えられてきました。売春婦であるか、そうでなくても次々と男を変えるようなふしだらな女性と見られていたのかもしれません。信仰を持っていない、異邦人の男性と結婚していた女性だと考える人もいるようです。真実に愛し愛される関係を築けないまま、結婚と離婚を繰り返していたのかもしれません。あるいはこれは今の日本の社会状況と重なりますが、子供との健やかな親子関係を培うことができず、虐待を繰り返していたのかもしれません。はっきり記されていない以上、この女性の罪がどんなものであったかを特定することはできませんし、またそうする必要もないことです。ただこの女性は自らが過去の犯した罪の大きさに恐れ慄き、人目をはばかりつつ生きてきたはずなのです。ましてや自分のような罪人を蔑み、軽蔑し、相手にしないファリサイ派の人の家になど、以前は近寄ることすらできなかったに違いありません。
2. しかし主イエスが今まさにそのファリサイ派の人の家で食事をされていることを聞き及んだ時、この女性はおそらく何の躊躇をすることもなく、その家に出かけて行ったのです。この女性はもはや、以前の罪に留まり続けている女性ではありませんでした。この女性が主イエスのもとへ出かけて行った理由を、罪からの赦しを求めるためと、単純に言うことはできないと思います。そうではない。この人は既に罪の赦しを味わい始めている女性です。私たちはその理由を、この箇所の直前、たとえば29節に見られるように、洗礼者ヨハネの洗礼を徴税人や罪人たちが受けたという出来事に見出すことができます。彼女もあの時の民衆の一人としてヨハネから洗礼を受けたのではないでしょうか。ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(3:3)だと言われておりました。悔い改めの洗礼に与かった者は、今やってきている主イエスにおける罪の赦しに既に与かり始めているのです。その洗礼を彼女も受け、そこで神の前に悔い改め、罪の赦しに与かり始めたのです。そのことはまた「神の正しさを認め」ることにほかならないのだ、と同じ29節にありました。自分の神に対する反逆、申し訳の立たない生き方が顕わにされて、彼女はその生き方すべてを、神に向けて方向転換したのです。もはや本当の愛に飢えてさまよい続けることもなくなりました。もはや夫に対する苛立ちや不信感にも支配されなくなりました。もはや子供を痛めつけてしまう自分から自由にされました。本当の愛というものを知ったからです。神が自分に注いでくださっている愛に気づき、その愛の正しさを認めたからです。彼女は自分の罪が主の御名によって赦されていることを知っています。既に赦しを経験し始めているのです。それゆえそこに喜びがあり、感謝があふれているのです。もはや過去のしがらみにとらわれ続けている女性ではありません。罪から自由にされた人、捕らわれから開放された人です。そしてヨハネの洗礼が来るべきお方、主イエスを指し示すものであることを知らされた以上、その喜びを、何とか主イエスにお伝えしたいのです。罪の赦しを与えてくださった主イエスに感謝の気持ちを表したいのです。ですから取るものも取りあえず、ただ自分の家にあった一番高価な品物である香油だけを持って家を飛び出したのです。あるいはなけなしのお金をはたいてお店で香油を買ったのです。
3 今や女性はこのファリサイ派の人の家に、恐れて近寄ることができない、などということはありませんでした。近寄らないどころか、その家の中に入り、食事の席の只中にまで割り込んでいったのです。何という大胆さ、何という激しさでしょうか。彼女は食事の席についておられる主イエスに、後ろからしか近づけませんでした。主イエスは食卓に体を向けて横になっておられたからです。しかし彼女には主イエスしか見えていません。わき目も振らず主の足もとにまで進み寄ります。と同時に、涙が溢れてきました。私はこの涙は、彼女がそのつもりになって用意していった涙ではなかったと思います。主の足もとで、涙を流してその御足をぬらし、それを髪の毛で拭おう、などと予め考えていったのではない。むしろ取るものも取りあえず香油だけを携えて飛び出してきた。食事の席ゆえに、主の足もとより先に進み出ることはできない、ならばこの主の足もとで自分の悔い改めと罪赦された感謝を表現したい、そう思ったのです。その時、過去の自分の罪を悲しみ、悔いる思いと、その罪をまさにこのお方が担い、引き受けてくださることへの感謝が満ちあふれ、それが涙となってほとばしり出たのです。足をぬらしてぬぐうのに十分な量の涙ですから、それは相当の量だったはずです。本当に大粒の涙を流してすすり泣いたに違いありません。
そしておそらく女性なら誰でも大事にするであろう髪の毛をもってその足をぬぐったのです。タオルや手ぬぐいを用意していって、などという悠長なことは言っていられないのです。のるかそるかの信仰を言い表す時なのです。彼女は自分の一番大事な髪をそのように用いることをもって、そうすることがふさわしいほどの主の栄光をほめたたえたのです。そしていとしくてならない主の御足に何度も口づけをし、香油を塗ったのです。本来は王の即位に当たって、頭に注ぎかける上等な香油でさえ、その御足に注ぎかけるだけで十分であるくらいに、この世の王を越えた主の栄光をたたえたのです。
主は女性のこの一連の行為を静かに受け入れておられました。途中であなたは誰か、どんな罪を犯したのか、そんなことは一切話し掛けることなく、女性が自分にするすべてを受け入れてくださっているのです。どう思われるか、周囲の人に何と言われるか、などということはこの女性の意識にさえ上っていなかったことでしょう。しかし主は、なりふりかまわない、激しいこの女性の行為の中に、彼女の主に対する愛を認められ、喜んでその涙を受け入れてくださっているのです。
4 これを見て、快く思わないのは主を家に招いたファリサイ派の人です。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)。主を招いておきながら、その主に向かって疑いの目、もっと言えば軽蔑の目を向けているのです。「汚れた罪人が触れて、品のない行為をしているのに、この教師はその髪の毛や手を振り払うこともせず、口づけや注がれる涙を拒むこともしないではないか。自らを汚れるに任せているではないか。しかも招いたこの家の主人である私をないがしろにし、食卓の雰囲気を台無しにしているこの女性をなすがままにしておられるではないか」。そういう非難と不信感がこの人の心の中には湧き起こってきています。しかもそれを口に出さず、心の中でぶつぶつ言っている。
まさに主イエスが預言者、また預言者以上のお方であられるがゆえに、主はこの人の心の思いを感じ取って言われるのです、「シモン、あなたに言いたいことがある」(40節)。ある金貸しが、一人には500デナリオン、もう一人には50デナリオンを貸していたが、二人とも返すことができなかったので、二人の借金を帳消しにしてやったというのです。塚本虎二という人の個人的な翻訳の中では、500デナリオンはだいたい25万円、50デナリオンは約2万5千円くらいだとされています。なんだか気の抜けるような小さな額に見えますが、ともかくこの両者の間には十倍にのぼる開きがあるということが大事なのです。このファリサイ派の人自身が答えているように、当然、感謝してこの金貸しをより多く愛するのは、帳消しにしてもらった額の多い方に決まっているでしょう。借金を帳消しに
してくれたということは、この金貸しがそれだけの損を忍んでくれたということです。それだけの不利益を被ったということです。その損を、不利益を、あえて引き受けてくださったということです。そこにこそ、神の愛があるのだ、と主イエスはおっしゃろうとしてられるのです。そしてそれは具体的には、主イエスが十字架におかかりになって、私たちの借金を帳消しにしてくださったことに現れ出ているのです。ここに現れた愛に、本当に打たれるならば、あなたがたもその愛の息吹に生かされ、神を愛し、隣り人を愛して歩むように変わるはずではないか、そう主は語りかけておられるのです。
キリストの受難を描いた映画、「パッション」は、主イエスが十字架の上で大声で叫び息を引き取られた場面を描いた後、カメラの角度を十字架の真上に持っていき、キリストを下に見ながらそのまま高さをどんどん上げていきます。そしてカメラの動きが天の上で止まったかと思うと、そこに大粒の涙が一滴生まれ、今度はこの滴がどんどん高度を下げて行き、その真下にある主の十字架の足もとにポツンと落ちるのです。その途端、地震が起こり、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂ける場面が続くのです。私はこれを見ていて、父なる神の涙がここに描かれているのだと思いました。独り子をこの世に贈られ、この世の罪と悩み、不安とおそれをすべて一身にこの方に負わせられた、そのことの痛みを父なる神が御子において引き受けてくださっていることが描かれているのです。この神の涙があるゆえに、この女性は安心して泣くことができたのではないでしょうか。神の涙、神の愛があるゆえに、この女性も赦されている恵みの中を生きることができるし、安んじて悔い改めと感謝の涙を主の御足に注ぐことができるのです。その涙は拒否されることはない、既に主に受け入れられている、ということを知っているからです。
5 「この人を見ないか」(44節)。この女性を見ていたには違いないファリサイ派のシモンに、主はあえてそう語りかけられました。そこには、この女性をあなたは本当に見ていたか、という問いかけが含まれているからです。言い換えれば、主イエスと同じ眼差しを感じながら、父なる神がご覧になるのと同じ眼差しを感じながら、この女性を見ていたか、と問いかけておられるのです。もしその眼差しを感じていたなら、この女性を蔑みの目で見ることはなかったはずだし、主イエスに足を洗う水を出さないこともなかったはずだし、客を迎える時の礼儀であった接吻の挨拶を忘れることもなかったはずだったでしょう。女性を軽蔑するくらいなら、主の頭にオリーブ油を塗ることで、自分の主に対する愛を現すことだってできたはずです。けれどもこれらのうち何一つとしてシモンはしなかったのです。それゆえに主は言われるのです、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。
このお言葉は、シモンにとっては酷な言葉でしょうか。食事にお招きしたのにこんな言われ方をされてはたまったものではない、という印象を与える言葉でしょうか。自分が招いた側に立って考えてみると、初めは私にもそう感じられました。けれども、ここで主はこのファリサイ派の人を名前で「シモン」、と親しく呼びかけ、この箇所におけるほとんどの言葉を女性にではなく、シモンに向けて語っておられるのです。先ほどの洗礼者ヨハネとの関係で言えば、このシモンはヨハネから洗礼を受けないで、「自分に対する神の御心を拒んだ」(30節)側の人でしょう。しかしそのようなファリサイ派シモンに向かっても、神は「あなたを愛し、あなたが立ち返るのを願っている」、という御心を向け続けてくださっているのです。シモンは主イエスを食事に招いたと思っていました。けれども、そこで明らかになったのは、自分は本当に主をもてなすことなどできない、神の前に貸しばかりを作ってしまう、借金の大きい者であることだったのです。そしてそのことは、彼の家にこの日集まっていた、同席の仲間たちも同じだったはずです。しかし実は主イエスこそがそのような負債を抱えた憐れむべき者たちを御国の食卓へ招いておられるのです。招いておられる主人は実は主イエスなのです。
私は神学生の時代、夏の伝道実習で今日の聖書箇所を語った時のことを思い出します。指導してくださった先生は、あの時この女性の思いの深みにまで迫りきれなかった私に向かってこうおしゃいました。「自分がどれだけ罪深いかさえ、お前は十分に分かっていないのだとすれば、自分の罪を本当に見ることができないほどの罪深い自分であることを思え」。自分の罪が本当に見えていないということは、罪が少ないということにはなりません。自分の罪が見えていないだけで、実際にはあの女性よりも罪は大きいかもしれないのです。いや、罪が見えていない分だけ、あの女性よりも自分の罪を増し加えていることになるのです。ファリサイ派のシモンも、きっとそのことに気づかされたのではないでしょうか。しかしそのような罪深いものであるゆえにこそ、あの女性が聞いたのと同じ主の言葉を聞くようにと、このシモンも招かれているのです。「あなたの罪は赦された」(48節)、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)!
6 もし私たちが、洗礼を受けたのに、過去の罪に捕らわれ続けているとしたら、この女性と同じように主の言葉を聞いてよいのです。「あなたの罪は赦された」、「安心して行きなさい」。もしまだ洗礼を受けていないのなら、今この言葉を聞くようにと、主が呼びかけ、招いてくださっていることを信じてよいのです。「神の正しさ」を認め、洗礼を受けるようにと招いてくださる主の呼びかけを聞き取ってよいのです。
私たちが今捧げている「礼拝」の元となる言葉には、「ひざまずく」という意味があります。教会はあの女性のように主イエスの御足のそばにかがみこみ、ひざまずいて、罪からの解放を宣言してくださる主イエスに、自らのすべてをもって感謝を捧げるのです。そしてそこに溢れる感謝を賛美の歌に乗せて歌うのです。それが主を愛してやまないことのしるしであり、多くの罪を赦されていることのしるしなのです。主を愛することこそがここで示されている信仰なのです。
詩編の詩人もこう歌いました、「あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう」(116:8-9)。
今日はこの教会の創立130年を記念し、覚える日です。教会はその創立の時から、おそれや弱さを覚える時も、不安や困難に直面する時も、いつもこの礼拝において力を与えられ、慰めを与えられ、勇気を与えられて歩み続けてきました。いつも主の言葉、「安心して行きなさい」という宣言に促されて、祝福の内に遣わされ続けてきたのです。この教会のこれから進みゆく道について、またそこにつながる一人一人のこれからの人生の歩みについても、主イエスがご自分の十字架の苦しみと復活の勝利ゆえに、こうおっしゃっていてくださっていることを、今私たちははっきりと聴き取ってよいのです。「安心して行きなさい」!
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、悔い改めと感謝の中で、一人の女性が捧げた精一杯の愛を、あなたは喜んで受け入れ、その涙を受け止めてくださいました。どうか私たちも今、同じひたむきさをもって主の十字架の御足のもとにひざまずく者とならせてください。どうかいつも自らのあなたに対する借金の大きさにおそれおののくとともに、いやそれにも増してその借金が帳消しにされている恵みを腹の底まで味わう者とされますように。
もし私たちが、洗礼を受けてあなたのものとされながらも、過去のとらわれ、過去の痛みに依然として支配されているとしたら、どうか今新しくあなたの御声をここで聞かせてください。「安心して行きなさい」という慰めの御言葉をしっかりと聞き取らせてください。そしてまさにこの御言葉を携えて、今、この礼拝から遣わされ、新しい歩みへと出発していくことができますように。そしてこの呼びかけがここに集うた私たちすべてに与えられていることに目を開かせてください。そして神の愛に生かされている民であるゆえに、いよいよ喜んで主イエスを愛し、主の眼差しの内に隣り人をも受けとめ、愛する者とならせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。