夕礼拝

主は墓におられない

「主は墓におられない」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書: マルコによる福音書  第16章1-8節
・ 讃美歌 : 202、327

 
主イエスの復活
 本日朗読された箇所には、主イエス・キリストの復活の場面が記されています。主イエスは、十字架につけられた後、墓に葬られました。しかし、墓の入り口の石が取り去られ、その中が空になっていた。あるべきはずの遺体がなくなっていたのです。主は墓におられないと言うことは何を意味しているのでしょうか。空の墓が示していることで何よりも大切なことは、主イエスの復活は、確かに、肉体の復活であるということです。主イエス・キリストは、肉は滅びたけれども、魂あるいは霊において生きており、弟子たちの心に語りかけたというのではありません。聖書は基本的に人間の魂と肉体を分けて考えることはありません。死とは、肉体を含めた、私たちのすべてが失われることであり、それ故に悲しみと絶望を引き起こすものなのです。人間は肉体をもって生きています。肉体を持って歩んでいるが故に、この世で、様々な苦しみを経験します。病や、老いに苦しみますし、肉体がある故に罪の力に翻弄されます。その苦しみの極みが死であると言って良いでしょう。ですから、肉体をもって歩まれた主イエスが確かに葬られ、その葬られた場所から遺体がなくなっていたということは、主イエスが私たち人間と全く同じように肉をもつ者として地上を歩み、人間の肉による苦しみをすべて担って下さり、その上で、死の力を滅ぼして下さったということです。墓というのは、私たちが死んで行き着く場所です。そして、その墓を塞ぐ石というのは、私たちが確かに死ぬことの象徴です。その石が取りのけられ、墓は空になったということは、主イエスの救いに与る者にとって、墓は終の棲家ではなくなり、死の力は討ち滅ぼされているということです。それ故に、主は墓におられないということは、まさに肉体をもって生きる私たち人間の救いとなのです。

空の墓
 しかし、ここでもう一つ覚えておかなくてはならないことは、主イエスの復活は確かに肉体の復活ですが、その出来事を、聖書は単なる肉体の蘇生術のようなものとして見つめてはいないということです。聖書の記述を見てみますと、主イエスが復活する場面を詳細に描くということはされていません。例えば、主イエスの復活と聞いて、私たちが少なからず関心を抱く、埋葬された遺体がどのようにして起きあがったのかなどということは記されていないのです。主イエスの復活について、福音書が記すのは、墓が空だったと言う事実と。その後、主イエスが弟子たちをはじめとする一部の人々に姿を現したということのみです。つまり、聖書は、復活の出来事を、誰がみても明らかな、驚くべき奇術を描写するような形では記さないのです。復活と言うことで、大切なのは、主イエスが驚くべき、奇怪な魔術を用いることの出来る人で、その人間離れした業によって死から蘇生したのだと言うことではありません。そこにおいて、父なる神さまの御業が起こり、人間を支配する死の力が根本的に取り去られたということなのです。そして、聖書は、この御業がどのようにして起こったかということよりも、むしろこの救いの御業に触れた人々の姿を詳しく記しています。つまり、復活ということにおいては、客観的な事実として、どのような現象が起こったのかということよりも、人間の理解を超えた神様の救いの御業に接した人々に何が示され、その人々がどのような変化が起こったのかということが大切なのです。

婦人たちへの顕現
 本日の箇所には復活の出来事を真っ先に知らされた人々として、婦人たちが登場します。1節、2節には次のようにあります。「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」。主イエスが十字架につけられたのは金曜日です。金曜日の日没から安息日が始まります。安息日になったら埋葬することができなくなってしまいます。主イエスはヨセフによって引き取られ急いで埋葬されたのです。もしかしたら丁寧な葬りをすることができなかったのかもしれません。婦人たちは、安息日が終わった翌朝、朝一番に香料を携えて墓に駆けつけたのです。ここには一刻も早く主イエスの遺体の下に行きたいという婦人たちの思いが表れています。この婦人たちはどのような人々だったのでしょうか。9節には、女たちの一人、マグダラのマリアについて、「このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」とあります。その時のことは、ルカ福音書第8章に記されています。マリアがどのような苦しみを負っていたのかは定かではありませんが、七つの悪霊というのですから、とても大変な苦難を負わされていたに違いありません。ですから、主イエスとの出会いはマリアにとって大きな救いの出来事だったのです。そのため、マリアは、その後も主イエスの後に従い、主イエスと一行の身の回りの世話をする者となりました。マグダラのマリアは、主イエスによって救われ、主イエスに従って行った女性の代表であると言えます。この世において主イエスの道を歩んでいくことがマリアのすべてでした。主イエスの裁判から十字架へと続く受難の一部始終を見届け、弟子たちが主イエスのもとを離れてもその場に残ったのです。主イエスが墓に納められる時にも、その場所にいました。地上の主イエスの歩みを最も側にいて歩んだ人であると言うことが出来るでしょう。他の婦人たちもマリアと同じような経験をした人であるに違いありません。そんな婦人たちであったからこそ、日曜日の夜明けとともに、すぐに墓に赴いたのです。

生前の主イエスとの交わりにこだわる人々
 ここには、熱心に主イエスをしたい求め、主イエスが墓に納められてもなお、その後に従って行こうとする婦人たちの信仰の姿があります。弟子たちでさえ、一人も主イエスの墓の下には来ていないのです。この婦人たちの信仰の姿には見習うべきものがあります。しかし、一方で、この婦人たちは、主イエスの肉体に対するこだわりがあると言うことが出来ます。それは、言い替えるのであれば、主イエスと自分の過去の関係、つまり、地上を歩まれた時の主イエスと自分との関係にこだわる姿勢です。墓に遺体があるということは、自分と主イエスとの関係があったことを示す確かなしるしです。その主イエスの遺体の傍にいたいということは、主イエスとの過去の交わりに留まっていることの現れでもあるのです。それは、本当の意味で、主イエスに従う姿勢とは言えません。主イエスの居場所はここであると思い込む。そして、そこに行けば主イエスに会うことが出来ると考える時、自分が従うということよりも、主イエスの居場所を定めることによって、主イエスを支配しようとしてしまうということが起こるのです。婦人たちに主イエスが現れたという出来事についてルカによる福音書では、墓が空であったことに接したマリアが、「わたしの主が取り去られました」と嘆いたことが記されています。「わたしの主」、というのは、わたしの信仰心を満たしてくれる主イエスと言い替えても良いでしょう。そこで、自分が生涯をかけて仕えて来た、自分の人生を意義づけてくれるような救い主との交わりを捜し求め、そこに留まろうとしているのです。しかし、人間の信仰の熱心さによって、主イエスに従って行く歩みは、時に、丁度、墓の中に、死んでしまった主イエスを捜しているだけであるということにもなりかねないのです。

自分主体の信仰
 ここに表されている婦人たちの「わたしの主」を捜し求める姿は、私たちが信仰において陥りがちな態度であると言って良いでしょう。熱心に主イエスに従って行こうとする中で、私の主イエスは、このような方だと決めつけ、自分が思い描いた理想の救い主との関係に留まってしまうのです。そのような態度は、根本的には、主イエスを偶像にしてしまうことに通ずると言って良いでしょう。聖書は偶像礼拝を禁じています。この偶像礼拝と言うのは、主イエス・キリストとは似てもにつかない全く異なる別の宗教の神々を拝むということにおいてのみ陥るのではありません。又、私たちが木や石で神をかたどったものを礼拝することにおいてのみ陥るのでもありません。例えば、私たちがキリストに従って行こうとする信仰生活において、主イエスの姿を自分のイメージに合わせようとするという時にも起こることなのです。そこでは、神様の救いをも、人間の思いによって定め、限定してしまうということが起こります。そこで、真の救い主である主イエスから遠く離れてしまうということがあるのです。復活の主と出会う前の人々の信仰には、この時の婦人たちの態度に通ずるものがあると言って良いでしょう。主イエスの弟子たちも同じでした。そこでは、自分自身が熱心に主イエスに従いつつ、弟子たちは、自分主体の信仰に生きていたのです。弟子たちは、主イエスに従っていましたが、そのような中で、いつしか自分の思い描く救いを主イエスに望むようになって行きました。弟子のペトロは、十字架を予告する主イエスをいさめ、主イエスに叱られることがありました。又、ユダヤの人々も、主イエスをローマ帝国から解放してくれる王として熱烈に迎えたものの、主イエスがそのような王でないと分かると、主イエスに失望して、主イエスを十字架に付けろと叫ぶようになったのです。そのようなことの結果、主イエスを十字架につけるということが起こったのです。

復活の主との出会い
 婦人たちは「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話合いながら、墓の前まで来ます。しかし、すでに石は転がしてあり、白い長い衣を着た若者が座っているのが見えたのです。「婦人たちはひどく驚いていた」とあります。この驚きを恐れと取ることも出来ます。復活の出来事に触れた時に婦人たちを支配したのは、恐れでした。そのことは、8節にもっと明確に記されています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。これは、人間が神の御業に接した時の恐れであると言うことが出来るでしょう。それまで婦人たちは、自分の思い描くことが出来る範囲内で主イエスを捉えていました。それは、自分が熱心に仕え、そのことによって自分の人生を意義づけてくれるような救い主であったのかも知れません。そこで、神様の救いを自分の思いに限定していたのです。その時、主イエスが十字架によって、罪人に仕え、復活によって死の力を滅ぼして下さる方であるとは思いもしませんでした。そのため、墓の中の遺体を捜しに来ることによって、主イエスとの過去の関係を保とうとしたのです。しかし、復活の出来事に触れた時、主イエスが、自分の思いを遙かに超えた方であり、自分がとうてい捉えることが出来ない方であることを示されたのです。それは、自らの中に築いていた偶像が完全に破壊される時でもありました。天使は「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。」と語りかけます。マリアと婦人たちは、墓の中に「わたしの主」を捜していました。しかし、マリアたちが捜す場所には主イエスはおられないのです。つまり、復活の出来事とは、もはや、私たちが自分の思いに従って主イエスを求め、自分主体で主イエスとの関係を築こうとすることによって、神様の救いを限定してしまう歩みが打ち砕かれることでもあるのです。その時、自分が熱心に仕えることによって、わたしの主を捜す歩みは終わり、むしろ、十字架と復活によって、私たちのために仕えて下さった救い主を知らされて、主イエスに委ねつつ従う者とされるのです。そこで、主イエスが築いて下さる、新しい関係に生き始めるのです。

あなたがたより先にガリラヤへ行かれる
 7節で次のように語られています。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。ここで、婦人たちは弟子たちに主の御言葉を語るように言われます。「わたしの主」のみを捜している時、本当にキリストを伝える歩みは生まれません。復活の主との出会いの中で、他の人々に真の主イエスの救いを語ることが命じられるのです。このことによって、婦人たちは、復活の主を伝えていく信仰に生かされる者とされたのです。伝えるべき内容として、復活の主がガリラヤに先立たれると言われていることに注目したいと思います。ガリラヤというのは、主イエスや弟子たちが活動していた地域です。マルコによる福音書はガリラヤからエルサレムへと進んでいく主イエスの道を描いて来ました。弟子たちは、ガリラヤで主イエスに召され、主イエスに従い始めた場所です。そこで再び、出会って下さり、新たに信仰に生かして下さるのです。ここで、「弟子たちとペトロに」とあるようにペトロが名指しされて見つめられています。このペトロはガリラヤで漁師をしていました。そのような中で、主イエスに声をかけられ、主イエスに従って来たのです。しかし、熱心に主イエスに従って行く中で、主イエスから離反し、主イエスを知らないとまで語ってしまいました。主イエスに従い通すことが出来なかったのです。主イエスは、十字架につけられる前から、既にペトロの離反を予告していました。そして、ペトロの離反を予告した後、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とおっしゃっていたのです。それ故、ここで、「かねて言われていた通り」と語られているのです。そして、その予告通りに復活の主はガリラヤでペトロや弟子たちに出会って下さるのです。
 信仰の挫折を経験した、ペトロをはじめとする弟子たちは、本来であれば、失意の内に自分たちがもといた場所であるガリラヤへと帰って行かなければなりません。しかし、復活の主イエスは、そこで再び、ご自身の弟子たちと新しい関係を結んで下さるのです。それは、自分の力で、夢中に主イエスに仕え従って行く、自分主体の信仰に生きる歩みではありません。むしろ、主イエスが十字架において自分たちに仕えて下さったことによって、生かされていることを知らされて、恵の中を歩む歩みです。自分本位の信仰の故に、真の救い主から離れていってしまうような者のために、主イエスは十字架の死から甦って下さいました。それ故、弟子たちは、自分の信仰の挫折を経験しつつ、その挫折を主イエスの方が乗り越えて下さっていることを知らされて、主に委ねつつ、復活の主の恵を告げ知らせて行くものとなったのです。

復活の主との交わりに生きる
 私たちは、信仰の熱心さの背後で、「わたしの主」を求め、それを捜そうとする自分本位な信仰に生きてしまうことがあります。そのような歩みは、主イエスを十字架につける人々や、主イエスを墓の中に見出そうとする婦人たちと同じ歩みをしているのです。そのような者に御言葉は、主イエスの復活を告げるのです。それは、私たちが死んでしまった主イエスを捜す場所に、主イエスはもうおられないということです。そして復活と共に、主イエスは先立たれ又、ガリラヤで出会って下さると言うのです。それは、主イエスとの関係が新しくされるということに他なりません。自分の熱心さによって主イエスに従う背後で偶像を追い求め、主イエスを自分の人生を意味づけるための救い主にしてしまうような歩みが崩されるのです。そして、私たちのために仕え、常に先立ち、信仰を与えて下さる復活の主に従い、救いの恵みを伝えるものとされるのです。

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