主日礼拝

聖霊を受ける

「聖霊を受ける」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第55章 1節-5節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第8章 14節-25節
・ 讃美歌 ; 54、407

 
フィリポのサマリア伝道
 本日この礼拝においてご一緒に読むみ言葉は、使徒言行録第8章の14節以下ですが、ここは、フィリポという人がサマリアの町で主イエス・キリストのことを宣べ伝えた、そのサマリア伝道について語られているところの後半です。先週、1節からの前半部分を読んだのですが、先週は教会の創立130周年を記念して、子供たちと共に礼拝を守った関係で、細かいことにまでは触れることができませんでした。ですから本日は前半部分にも触れながらみ言葉に聞いていきたいと思います。
 サマリアでの伝道はどのようにして始まったのかということが8章1節に語られています。それによると、エルサレムでステファノが最初の殉教者となり殺された、そのことをきっかけとして、エルサレムの教会に対する大迫害が起ったことが発端でした。この迫害によって、主イエスを信じる多くの人々がエルサレムにいられなくなり、ユダヤとサマリアの各地へと散らされていきました。その中の一人であったフィリポが、サマリアの町で伝道をしていったのです。つまりこのサマリア伝道は、エルサレムにおける迫害をきっかけとして始まったものでした。一人の仲間の殉教の死と、教会に対する初めての組織的迫害。それが、かえって新しい地での伝道のきっかけとなり、エルサレム以外にも教会が誕生する契機となったのです。これは先週も申しましたように、神様の不思議な導きです。

聖霊が降る
 フィリポの伝道によってサマリアの人々は、14節にあるように、神の言葉を受け入れました。具体的には、12節にあったように、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた」のです。そのようにしてサマリアの町に主イエスを信じる者たちの群れ、教会が生まれました。そのことを知ったエルサレムの使徒たちが、ペトロとヨハネとをサマリアに派遣した、ということが本日の14節以下に語られています。ペトロとヨハネは、サマリアに下って行き、新たに信じた人たちが聖霊を受けるようにと、彼らの上に手を置いて祈りました。すると彼らは聖霊を受けたのです。16節にあるように、サマリアの信仰者たちは、イエスの名による洗礼を受けていましたが、まだ聖霊が彼らの上に降っていなかったのです。この出来事を私たちはどのように受け止め、理解したらよいのでしょうか。ここは、いろいろな読み方がなされるところです。例えば、聖霊を受けることを個人的な宗教体験と結びつけて重んじる人たちは、ここを、水の洗礼と聖霊による洗礼を区別する根拠として読もうとします。サマリアの人々がフィリポから受けた洗礼は、形式的な儀式としての洗礼であって、それはまだ本物ではなかった、そういう形式的洗礼をその人たちは「水の洗礼」と呼びます。それに対してペトロたちが来て手を置いて祈った時に、彼らは聖霊が自分たちに降るという体験をした、その体験によって彼らは本物の信仰者となった、そういうのを「聖霊による洗礼」と呼びます。そして、水の洗礼だけではだめなのであって、聖霊による洗礼を受けてこそ本当の信仰者となるのだ、と主張するのです。
 それとは全く別の読み方もあります。ここには、手を置いて聖霊を授ける権威は誰にあるのかということが語られている、という主張です。つまりその権威は使徒たちにのみある。フィリポは6章で、ステファノらと共に新たに選び出された奉仕者の一人です。彼はペトロらと並ぶ「使徒」ではありません。そのフィリポが洗礼を授けても聖霊は与えられないのであって、聖霊はあくまでも使徒たちが手を置くことによって授けられる。使徒の権威とはそのように手を置いて聖霊を授ける権威なのであって、それを、使徒の後継者としての司教たちが受け継いでいるのだ、ということにつながっていく主張です。

サマリア伝道の意味
 このように本日の箇所はいろいろに解釈されてきたのですが、今紹介した二つの主張は、どちらも間違っていると思います。これらはどちらも、後から生まれてきた自分たちの考えを聖書に押しつけようとしている解釈であって、ここに語られていることをその文脈に即してきちんと受け止めてはいないと思うのです。この出来事を正しく理解するためには、このサマリア伝道において起っていることをもっと深く見つめていく必要があります。第一に見落としてはならないのは、これが「サマリア伝道」である、ということです。サマリアはユダヤ人にとって複雑な思いを抱かせる地域です。それは単純な外国、異邦人の地ではありません。サマリア人はユダヤ人にとっては親戚です。けれども親戚だから仲が良いかというと全くそうではない、歴史的な経緯にはここでは触れませんが、サマリア人はユダヤ人と異邦人の混血民族なのです。それはユダヤ人にしてみれば、民族の純血を失った、堕落した民ということになります。ですからユダヤ人はサマリア人を、ある意味では異邦人以上に嫌い、軽蔑していました。近親憎悪と言うのでしょうか、ユダヤ人にとって、異邦人以上に付き合いたくない相手だったのです。フィリポはそのサマリアで伝道をし、主イエスこそ神様の民に約束されていた救い主であると宣べ伝えました。そしてそれを信じる信仰者の群れが生まれました。それは単に信仰が他の地域にも広がった、ということではありません。14節に、「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き」とありますが、この知らせを聞いた使徒たちの思いは、単なる喜びと言うよりも、むしろ驚きととまどいが強かっただろうと思います。あのサマリア人までが神の言葉を受け入れるとは…、と彼らは思ったでしょう。そして、主イエスの福音は、ユダヤ人とサマリア人との間の、とうてい乗り越えることができないように思われる壁をも乗り越えさせるものなのだ、ということに驚き、神様をほめ讃えたことでしょう。使徒たちがペトロとヨハネをサマリアに遣わしたことにはそういう深い意味が込められているのです。

異邦人へ
 このようなサマリア伝道をしたのがフィリポだったということに次に注目したいと思います。彼は先程申しましたように、6章の始めのところで、ステファノと共に選び出された七人の奉仕者の一人です。彼ら七人が新たに奉仕者として立てられたのは、教会の中に、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間のいさかいが起ったことがきっかけでした。ギリシャ語を話すユダヤ人とは、ユダヤ本国で生まれ育ったのではない、外地生まれのユダヤ人ということです。ユダヤ人は当時地中海沿岸の様々な地域に住んでいました。そういう外地のユダヤ人たちは、当時の共通語だったギリシャ語を主に話すようになっていたのです。そういう外地出身のユダヤ人で、エルサレムに戻って住んでいた人々と、もともとずっとユダヤに住み、従って言葉もユダヤ人の言葉であるヘブライ語のみを話している、言ってみれば生粋のユダヤ人とがいて、両者のグループが教会の中にもあり、お互いの関係がなかなか難しかったのです。6章のあのいさかいもそういう背景によることでした。そして前にも申しましたが、ここで選出された七人は、その名前からして皆、ギリシャ語を話すユダヤ人信仰者たちの代表だったのではないかと思われるのです。ないがしろにされがちだったギリシャ語を話すユダヤ人信徒たちを守るために、彼ら七人は立てられたとも考えられるのです。そのようにして立てられたフィリポが、サマリアで伝道をしていったのは、わかるような気がします。彼自身も、いわゆる生粋のユダヤ人たちからは軽蔑されたり、低く見られたりする経験をしていたのです。そういう差別を受けることを通して、主イエスの福音はそのような人間的な隔てを乗り越えるものであるはずだ、という確信が彼の中に育っていったのかもしれません。とにかく彼は、ユダヤ人とサマリア人を隔て、差別するような思いから解放されていたのです。ユダヤ人だけが神様の民であるとする民族主義的な感覚から自由になり、主イエスによる救いの恵みが、サマリア人にも与えられることを信じていたのです。このフィリポは26節以下では、今度は全くの異邦人に伝道し、洗礼を授けていきます。使徒言行録の第8章は、このフィリポの伝道を語ることによって、主イエスの福音が、エルサレムから他の地域へと、そしてユダヤ人からサマリア人へ、そして異邦人へと告げ広められていく、その最初の一歩を語っているのです。それは実は主イエスが予告しておられたことの実現でもあります。1章8節で、主イエスはこう言っておられました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムはかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスのみ言葉がフィリポの働きによって実現し始めているのです。さらに言えば、7章の終わりのステファノの殉教の場面と、8章の1節に、サウロの名前が出て来ることもこのことと関係があります。このサウロこそ、後の大伝道者パウロ、異邦人の使徒と呼ばれ、異邦人たちに主イエスの福音を宣べ伝えていくための中心的な働きをした人です。つまりパウロこそ、フィリポがここで始めた働きを受け継ぎ、完成させていくのです。そのサウロがここに登場しているのは、この後の展開への伏線となっているのです。

エルサレム教会の使節
 フィリポのサマリア伝道がこのような意味を持つものであるとすれば、14節以下で、エルサレムの使徒たちがペトロとヨハネをサマリアに派遣したことの持つ意味も見えてきます。ペトロとヨハネは、エルサレムにある、使徒たちを中心とした、ヘブライ語を話す生粋のユダヤ人たちの教会が、フィリポの伝道で生まれたサマリア人の教会に送った使節だったのです。ここで、先週触れなかった一つのことに注目しておきたいと思います。1節には、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」と語られています。散らされて行ったのは使徒たち以外の人々であり、使徒たちはエルサレムに残ることができたのです。しかし教会が迫害されるとしたら、真っ先にターゲットとなるのは使徒たちであるはずです。使徒たちだけがエルサレムに残ったというのは不自然な気がします。そこで、この迫害は実は使徒たちに向けられたものではなくて、もっぱらギリシャ語を話すユダヤ人信仰者たちの群れに対する迫害だったのではないか、という見方もあるのです。ステファノに敵対して彼を最高法院に訴えたのは、彼と同じ外地出身の、つまりギリシャ語を話すユダヤ人たちだった、ということが6章9節以下からわかります。つまりステファノの殉教とそれをきっかけにして起った迫害とは、ギリシャ語を話すユダヤ人どうしの対立によることだったのではないか、とも思われるのです。だから、ヘブライ語を話すユダヤ人である使徒たちはその迫害の対象とはならなかった。それゆえにこの迫害の間にも使徒たちを中心とするエルサレムの教会はきちんと機能しており、サマリアに信仰者の群れが生まれたことを聞くと使節を派遣するようなこともできたのだと考えることができるのです。

聖霊による一致
 これらのことを考え合わせるならば、初代の教会の中に、ヘブライ語を話すユダヤ人たちの群れと、ギリシャ語を話すユダヤ人たちの群れとがあり、サマリア人や異邦人たちへの伝道はもっぱら後者によってなされていったという事情が見えてきます。そのようにして、エルサレムには使徒たちを中心とするユダヤ人のみの教会があり、サマリアにはフィリポの伝道によるサマリア人たちの教会がある、という状況が生まれたのではないでしょうか。だとすれば本日の14節以下の出来事は、エルサレムの教会を代表するペトロとヨハネが、サマリア人たちの教会を訪問し、お互いの一致を確認した、ということとして理解することができます。ペトロとヨハネは使徒たちの代表としてサマリア人たちの教会を訪れ、ユダヤ人もサマリア人も、共に主イエス・キリストの救いにあずかっているのだということを確認したのです。従って、ペトロとヨハネが手を置いて祈ると彼らが聖霊を受けたという出来事は、エルサレムのユダヤ人たちの教会と、フィリポの伝道によって生まれたサマリア人たちの教会との間に、聖霊による一致が与えられたということを意味しているのです。そしてこのことは使徒言行録全体を貫いている大事なテーマでもあります。主イエス・キリストの教会は、エルサレムで、ユダヤ人たちの群れとして生まれました。しかしその群れは次第にユダヤ人という枠を越えて、サマリア人にも、そしてさらに異邦人たちにも広がっていきました。主イエス・キリストによる救いは、ユダヤ民族にのみ与えられるのではなく、主イエスを信じる信仰において全ての異邦人たちにも広められていったのです。しかしそのことは自然にそうなったのではありません。ユダヤ人が、自分たちこそ神の民であるという思いを捨てて、主イエスへの信仰というただ一つの絆によって全ての異邦人と共に一つの教会に連なる者となるためには、乗り越えなければならない壁がいくつもあったのです。教会は、聖霊のお働きによってその壁を一つ一つ乗り越えていきました。その記録が使徒言行録です。使徒言行録は、様々な人間的な違いや対立が、聖霊の働きによって乗り越えられていった、その記録であると言うこともできるのです。その聖霊は今も私たちの間に働いていて下さいます。ペトロとヨハネが手を置いて祈ると聖霊が降った、その聖霊が今私たちの上にも豊かに降って、私たちに信仰を与え、主イエス・キリストの救いにあずからせ、人間的な様々な違いやさらには対立をも含みながら、しかし一つのキリストの体として結び合わせて下さっているのです。つまり私たちは今、使徒言行録の続きを生きているのです。

魔術師シモン
 さてここに、先週も登場したシモンという魔術師がいます。彼は魔術を使っていろいろ不思議なことをして見せ、サマリアの人々を驚かせて自分を偉大な者と思わせ、影響力を及ぼしていました。しかしフィリポが来て主イエスの福音を宣べ伝え、自分の偉大さを示すためではなく神様のご支配と主イエスによる救いの恵みの印としての奇跡を行うと、サマリアの人々は皆フィリポについていくようになりました。主イエスの福音は人を本当に生かすものですから、自分の力を誇示するだけの魔術よりもはるかに魅力あるものなのです。シモン自身も、フィリポにはかなわないと感じて、洗礼を受け、フィリポにつき従うようになりました。しかしそれは、主イエスを信じ、主イエスに従う者となったと言うよりも、フィリポの奇跡の力の秘密はどこにあるのか、どうしたらそんな力を自分も持てるのだろうか、という思いによることだったようです。エルサレムからペトロとヨハネが来て、手を置いて祈ると人々に聖霊が降ったのを見て、シモンは、フィリポの力の秘密が分かったと思いました。それはどうも聖霊というものの力によるらしい。そして、手を置いて祈ると聖霊が降るこのペトロとヨハネという人々は、フィリポよりもさらに上手の力ある人々だ、と彼は思いました。そこで彼はペトロたちのところに金を持って来て、「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」と頼んだのです。
 このシモンの名をとって、「シモニア」という言葉が生まれました。それは通常「聖職売買」と訳されます。教会における職務、地位をお金で買い取ろうとすることを意味する言葉です。それは、ヨーロッパの中世時代に、教会も広大な土地やそこに住む人々を支配する領主となり、従って教会の責任者としての地位が莫大な収入を伴う大きな利権となった時代の話です。ですから今日の、特に日本の教会のような状況の中ではそんなことは意味をなしません。そもそも私たちは、手を置けばだれでも聖霊が受けられるような力を求める、というこのシモンの思いがあまりピンと来ません。だからここを読んでも、「おかしなことを求める馬鹿な奴だなあ」ぐらいにしか思わないかもしれません。けれどもよく考えてみるならば、このシモンが陥った間違いと同じことを私たちもしてしまうことがけっこうあるように思うのです。シモンはどういう間違いに陥ったのでしょうか。

聖霊を所有する
 まず第一に、シモンは、自分が聖霊を自由に人に与えることができるようになりたい、と思っています。つまり、聖霊を自分の持ち物のように所有したいと言っているのです。これがとんでもない間違いであることは誰でも分かります。しかし私たちは案外それと同じことを願ったり、考えたりしてしまうことがあるのではないでしょうか。例えば先程、水の洗礼と聖霊による洗礼とを分ける人たちがいる、ということを申しました。聖霊を受けた、という主観的体験を強調し、それを聖霊による洗礼と呼び、それを受けてこそ本物の信仰者だ、という考え方です。それなどは、聖霊体験を持っているかどうかで信仰者を分けようとしているわけで、聖霊を人間が体験によって所有できるものにしてしまっているのです。使徒たちのみが聖霊を授けることができる、というのも同じように、使徒たちを聖霊の所有者にしてしまうことになります。従って先程の二つの間違った読み方はいずれも、人間が聖霊を所有できるように考えていることに原因があるのです。しかし聖霊は、私たちが自分のものにしたり、体験によって感じ取ったりするものではありません。私たちがもしも、自分には聖霊がちゃんと働いていて下さるのだろうか、と不安に思い、聖霊の働きを体験したい、感じ取りたい、というふうに思うとしたらそれは、実はシモンがここで陥ったのと同じ間違いを犯していることになるのです。

聖霊によって新しくされる
 シモンのもう一つの間違いは、聖霊を人に授ける力を求めたけれども、自分自身に聖霊が与えられることを求めていない、ということです。これは第一の間違いと密接につながっています。聖霊を所有したいと思う時に、私たちが求めているのは、聖霊を、あるいは神様の力をと言い替えてもよいですが、それを自分のために利用することであって、聖霊によって自分が新しくされること、変えられること、つまり自分に本当に聖霊が働くことは求めていないのです。私たちも、聖霊の働き、神様の力を、自分の思っているあのことこのことのために、この悩み、あの苦しみの解決のために用いたいと思ってはいても、本当に自分が聖霊を受け、それによって変えられ、新しくされ、主イエス・キリストの救いを受け、主イエスに従う者となることは求めていない、ということがあるのではないでしょうか。それもまた、シモンと同じ間違いなのです。

聖霊を受ける
 聖霊は、私たちが自分のものとして所有したり、自分の目的のために利用できるようなものではありません。聖霊は神様が私たちに与えて下さり、私たちを新しくし、造り変えるものです。聖霊は私たちが用いることができる何らかの力ではなくて、ご自身がまことの神であられ、私たちの主であられる方です。ですから私たちが聖霊を所有するのではなくて、聖霊が私たちを主として支配し、働きかけ、導いて下さるのです。その聖霊のご支配と導きによって、私たちは今、この礼拝に招かれ、導かれて、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みにあずかっています。その恵みはお金を払って買うことはできません。あるいはよい行いをして、立派な人になることで手に入れることができるものでもありません。神様はただ主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、その救いの恵みを与えて下さるのです。私たちは聖霊の働きを信じて、その救いの恵みを私にも与えて下さいと願うのです。その時聖霊が、私たちの心の中にあるいろいろな壁を取り除いて下さいます。私たちが、神様に対しても隣人に対しても身構えて自分を守ろうとして築いている壁、バリアーが打ち砕かれて、聖霊による一致が、神様と私たちの間に、そして私たちと隣人との間に実現していくのです。私たちはそのようにして信仰を与えられ、主イエス・キリストの体である教会の枝として生かされていきます。そのようにして私たちは、使徒言行録の続きを生きていくのです。

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