夕礼拝

どうか赦してください

「どうか赦してください」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第130篇 1節-8節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 1節-4節
・ 讃美歌 ; 526、445

 
1 主の祈りの中で私たちは、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈った後で、「わたしたちの罪を赦してください」と祈ります。毎日、その日その日を生きるために、私たちは糧、食物を必要とします。それと同じように、私たちは毎日、生きるために赦しを必要としているということが、ここで見つめられているのです。ドイツの家庭では、食卓においてこんな祈りが祈られるといいます、「主よ、私どもになくてならぬものがふたつあります。それを、あなたの憐れみによって与えてください。日ごとのパンと罪の赦しを!」私たちもまた主の憐れみによって罪の赦しを与えていただかなくては、今日という一日を歩むこともままならない存在であることを、この祈りを通して示されているのです。

2 「わたしたちの罪を赦してください」という祈りは、実はすぐ次の「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という祈りとセットになっています。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」、これで一つの祈りをかたちづくっているわけです。「わたしたちの罪を赦してください」という祈りは神へと心を向ける祈りです。けれどもこの祈りはここで終わるのではなく、「自分に負い目のある人」というのが、すぐその後に出てくる。ここで見つめられているのは、私たちの隣りにいる人です。隣人です。いつも共に生活している人たちです。先週一週間、生活のあちらこちらの場面で出会い、言葉を交わし、あるいはすれ違ってきた人たちのことです。一方では神を見上げて祈り、他方では隣り人を見つめつつ祈っています。もっと正確に言うなら、隣り人を神の眼差しの中で受け止め、見つめようとしているのです。この二つの眼差し、神を見上げる私たちの上への眼差しと、隣り人を見つめる横への眼差しとが一つに合わさるのが、今日私たちに与えられている祈りにほかなりません。
このことは、私たちの神との関係が、一緒に生きている周りの人たちとの関係と密接に結びついていることを表しています。神さまとのおつきあいと、人からのおつきあいとは、切り離しがたく結びついているのです。もし私たちが神から赦しを受けていながら、隣の人を依然として憎み、呪っているとしたらどうでしょうか。「神よ、私はひとの罪を赦してやることはできず、依然として憎み続けます。けれども、私の罪は赦してください」、そんなふうに祈ることはできるでしょうか。それは図々しい話ではないでしょうか。自分は神さまから赦されて当然だけれども、自分はあの憎らしい人を決して赦すことはできない、そういう歩み方を続けているなら、神への真実を貫いている、と言えるのでしょうか。神から受けている赦しと、憎らしい人を赦すこととは別の問題だ、とうそぶくことができるでしょうか。

3 確かにこの祈りは難しい祈りです。簡単な気持ちで祈ることはできない祈りです。第二次世界大戦の時、ドイツのある教会では、集会において主の祈りが祈られた時に、この祈りにさしかかると、皆が沈黙してしまった、祈りが滞ってしまったことがあるそうです。また東南アジアで強制収容所に入れられ、過酷な労役を強いられた捕虜たちの間では、主の祈りを祈る時、この祈りにさしかかると、皆が口ごもり、歯切れが悪くなったという出来事が伝えられています。どちらの場合も、自分たちの町を毎日爆撃にさらす敵への恨み、強制収容所に閉じこめて、明日の命も分からない恐れと苦しみを味わわせている敵軍への怒りが、この祈りを祈ることをためらわせたわけです。
 六十年以上前の出来事を語らずとも、こうしたことは私たちの日々の生活においても起こっていることです。私たちは誰でも心の奥底に、苦々しい思い、苛立ちを引き起こすような忌まわしい出来事を抱え込んで生きているところがあるのではないでしょうか。あの人の顔、この人の表情を思い浮かべると、心穏やかでいることなどできない。息がつまりそうな思いでいっぱいになる、絞り出すようなうめき声を出してしまう、そんな痛みや歯がゆい思いを人知れず抱え込んでいるものです。もし誰の顔も思い浮かべず、一般的な事柄として、早口に祈ってこの祈りを通り過ぎようとするならば、そうすることはできるかもしれません。けれどももし、この祈りを祈る時、私たちが一番憎らしい、決して赦すことのできない人の顔を思い浮かべるなら、どうでしょうか。私たちだって口ごもったり、歯切れが悪くなったりするのではないでしょうか。

4 このことを巡って、主イエスが私たちにお話くださったたとえ話があります。マタイによる福音書の18章21節以下にある話です。ある王が、家来たちに貸した金の決済をする場面からこのお話は始まります。そこで一万タラントンという額の借金をしている家来が、王の前に連れてこられます。彼は返済できなかったので、王はこの家来に言い渡します、「お前自身も、お前の妻も子供も、持っているものも何であれ売り払い、とにかく金を工面して必ず返済するのだ」。この家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と一生懸命願いました。王はこの家来のあわれな姿を見て心を動かし、彼の借金を帳消しにしてあげたのです。ところがこの家来は、赦されて外に出ると、かつて自分が百デナリオンを貸した相手と出会い、この人の首を絞めてこう叫んだというのです、「借金を返せ」!「どうか待ってくれ。返すから」、さっきの自分と同じように、必死で頼み込むこの人を、彼は赦さず、借金を返すまでここから出さない、といって牢に入れてしまったというのです。ことの成り行きを見届けて心を痛めた他の家来たちの報告を受けた王は、一度赦したこの家来を再び呼び出した上でこう告げます、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。こうして王は、この家来を牢役人に引き渡し、借金をすっかり返済するまで出てこれないようにした、というのです。
デナリオンというお金の単位では、一日働いて得る報酬を1デナリオンと数えています。そうすると百デナリオンの借金とは、100日分の給料、だいたい年収の三分の一にあたる額のお金を貸していたわけです。決して小さな金額ではない。痛みを伴うお金を貸しているわけです。それではこの家来が王からしていた借金の額はどううでしょうか。1タラントンというのは、6000デナリオンに相当すると言われます。すると1万タラントンというのは、その一万倍、つまり6000万デナリオンにあたることになるわけです。ということは6000万日分の給料にあたる額のお金を、この家来は王から借り受けていたことになるわけです。これは年数に換算すれば16万4383年働かなければ返せないほどの借金だ、ということです。とても人の一生で返せるお金ではない。いや、何世代にわたってもとても返せるような額ではない、途方もない数字です。
このお話を通して、主イエスが示しておられるのは、実は私たちみんながこの家来と同じような存在である、ということです。途方もない額の借金を、ただ王様である神さまによって、憐れまれ、赦していただいたのが私たちなのです。それなのに私たちは、自分が16万4000年分の給料にあたる額の借金を帳消しにしていただきながら、自分が貸した100日分の給料にあたる額の借金を返せないでいる仲間を赦すことができないのです。100日分の給料、それは確かに軽く考えることのできない額のお金です。これを帳消しにするのは痛みを伴うことです。自分も損をすることです。けれども、あなたがたが、自分の貸した金について受けた損害によって激しい怒りに捕らわれる時、それとは比べものにならないほどの大きな赦しを既にいただいている自分自身の姿を見失ってはいないのか。あなたが赦されるために父なる神がどれだけ損をし、苦しまれたのか、そのことにどれだけ思いをいたしたというのか、それが主の問いかけておられることではないでしょうか。

5 「負い目」という言葉を辞書で引いてみますと、「返さなければならない借金・負債・借り」という意味が出てまいります。私たちはほかの人が自分に対して持っている負い目には大変敏感であります。あの人はあの時、あんなひどい言葉をもって自分のプライドを傷つけた。この人はあんな迷惑を自分にかけて、自分の計画を挫折させたのだ。思い出すのも煩わしい、苦々しい思いをいくつも列挙できるかもしれません。ところがその一方で、自分自身がほかの人に対して持っている負い目には、驚くほど鈍感なのです。マンションで生活していると、隣の家のペットの鳴き声に苦情を言いに行った、その同じ人がその晩、大音量でクラシック音楽を聴いていた、ということも起こるわけです。自分に与えられた損害にはとても敏感なのに、自分が他人に与えている苦しみや痛みには気づかないで平然と日々を送っている、そこにあなたの負い目があるのではないか、私たちはここに至って思わされるのであります。
私たちはきっと思うのではないでしょうか。そうは言っても、私にはどうしても赦せない人がいる。思い出すだけでイライラしてくるような人がある、と。その人を覚えつつ祈ることが難しいとしたら、まずそのように祈れない自分の現状、人を赦せない自分の有り様を認めることから出発してみることが大切なのかもしれません。そうです、私たちはそもそも人を赦せない、他人の自分に対する負い目ばかりを問題にする頑固で、頑な者なのです。私たちは、ただ「自分に負い目のある人を赦しなさい」、と命令されるだけでは、誰をも愛し、赦すことはできません。そういう自分がどうしたら変えていただけるのか。
その秘密は、この祈りを教えてくださったお方自身の中にあります。この祈りの言葉をしゃにむに守らなければならない戒めとして、主イエスご自身から切り離してしまうならば、この祈りは何の力をも持たないでしょう。私たちが何よりも神に負っている途方もない負い目、あの生涯働いても決して返すことのできないほどの借金のために、主イエスが何をしてくださったのかを、見つめること、どこまでもそのことに眼差しを向け続けることから、新しいことが始まるのです。主の祈りが教えられる直前の場面は、マルタとマリアについてのお話でした。その前は、傷ついた人の隣人となったサマリア人の話でした。どちらにおいても、主イエスが私たちのために何をしてくださったのか、を見つめることが出発点でした。そこに示された途方もない主の愛に打たれる時、それは私たちの生き方にも反映しないではおかないのです。主イエスがまず私たちの隣人となってくださったからこそ、私たちも助けを必要とする人の隣り人となることができます。主イエスがまず自分の姉妹を赦せず、人を裁いてばかりいる私たちを招いて、その足下で御言葉を聴かせてくださるがゆえに、私たちも真実の奉仕に生きることができるのです。同じようにここでも、この祈りを教えておられる主イエスが、私たちに何をしてくださっているかが大事なのです。
主イエスは、この途方もない私たちの負い目、神さまに対して負っている負債を帳消しにするために、十字架におかかりになったのです。16万年分の賃金をもはるかに超えるような神に対する借金を帳消しにするために、父なる神がその独り子を、十字架の苦しみと死の中で失うほどの痛みを負われたのです。大損をされたのです。その神の痛みを覚えるときに、主の問いかけが聞こえてくるのです。あなたはなおも、「私はこの人を決して赦せませんが、どうぞ私があなたにした借金は帳消しにしてください」、と自分は少しの痛みを負うこともせずに、平然と言ってのけることが果たしてできるか、と。むしろあなたも百日分程度の借金を赦すことで、主イエスの味わわれた御苦しみにいささかでも与るべきではないのか、という問いかけです。

6 先ほどお読みいただいた詩編においては、自らの罪におびえる詩人が、しかし神の下に赦しがあることを信じるゆえに、主の御言葉を何よりも待ち望む心が歌われておりました。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」。隣り人を愛することができない、自分の罪に苦しむならばなおいっそう、私たちは主イエスのもとにある赦しを祈り求めるのです。御言葉を待ち望むのです。主イエスがその十字架において私たちに注いでくださっている愛に自らを明け渡します。その愛によって頑なな心を癒されて初めて私たちは、同じように神が心にかけてくださっている隣り人を新しく受け取り直すことができるのです。この人のためにも主は十字架におかかりになった、それほどまでに主が愛してやまないお方として、受け入れ、その負い目をも受け入れる歩みへと導かれるのです。
 このことに思いを巡らしつつ、ドイツの牧師ティーリケが語った言葉を、最後に味わいたいと思います。「むしろ、われわれは、この苦難の圧倒的な力のただ中で、主の御苦難を思うべきである。われわれは、主の貧しさを忘れずに覚えている時に、すべての貧しい者たちのことを忘れない。主の捕縛を思う時に、すべての捕われ人のことが、いつもわれわれの思いの中に現れる。主の死を思う時に、われわれは、死に瀕したすべての人を助け、彼らの頭に助けの手、守りの手を置く。主の御苦しみは、われわれすべてに代わっての苦しみである。そして、われわれが彼に対してなすすべてのことを、われわれは、また、主のいと小さき兄弟に対してもするのである。そして、われわれが主に対してしないことを、われわれの兄弟に対してもまたしないのである」。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、自らがあなたによって赦されている途方もない罪の大きさを忘れて、あの人が悪い、この人も赦せない、と怒りと呪いに駆られる罪深い私共であります。どうかまずあなたが御子主イエスにおいて成し遂げてくださいました大いなる罪の赦しの出来事を見つめさせてください。それを目の当たりに示してくださる御言葉を、見張りが朝を待つにもまして待ち望ませてください。あなたの愛によって私たちの頑なさを癒やしてください。御子イエス・キリストの御苦しみに与って、私共もまた、自分に負い目のある者をも赦し受け入れる、それがどんなにささやかな形でなされる
小さな一歩であるとしても、確かな一歩を踏み出すことができますように。この一歩がまた、世界の平和をもつくり出す確かな一歩であることに確信を持たせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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