夕礼拝

真の救い主

「真の救い主」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第110編1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第12章35-37節
・ 讃美歌 ; 237、356

 
はじめに
本日は、アドベント(待降節)第三主日です。この時、私たちは、救い主の到来を待ち望みます。先週も申しましたが、私たちの信仰生活において「待つ」という姿勢はとても大切です。私たちは、常に、私たちを遙かに超えた所から真の救い主が来るのを待つのです。私たちにとって、この救い主の到来は、聖霊が働く中で、御言葉を通して示されます。私たちの信仰生活は、御言葉を通して、主イエスが臨んでくださるのを待つ歩みだと言ってよいでしょう。聖霊の働きの中で御言葉を通して、主イエス・キリストのお姿を示される。その時に、私たちは、救い主との出会いが与えられるのです。この礼拝においても、御言葉を通して真の救い主である主イエスが臨んでくださることを祈り求め、聖霊を通して示される救い主を受け入れるのです。そのような中で、キリストが私たちの罪の世に来て下さることを示されつつ、真の救い主を讃えるのです。本日お読みした箇所は、主イエスが律法学者を非難した記事が記されています。この箇所は、又、世を生きる私たちに御言葉をもって救い主が到来するとはどのようなことかが示される箇所でもあります。

主イエスの問いかけ
 マルコによる福音書は第11章で主イエスのエルサレム入城を記した後、神殿で行われた主イエスと様々な人々との議論を記して来ました。議論の相手は、祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派と言った、宗教的指導者たちや、最高法院を構成する人々です。この人々は主イエスを憎み、主イエスと対立していました。彼らの多くは、主イエスを試し又陥れるという目的で議論をしかけて質問したのです。そのような人々との議論は、本日の直前の箇所で終わります。12章34節には「もはや、あえて質問する者はなかった」とある通りです。主イエスに向かって問いを発する人々との議論は終わったのです。そして、続く35節では「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた」とあるのです。主イエスは依然として神殿の境内で語っておられます。しかし、試そうとして議論をしかけてくる人々の問いに答えているのではありません。大勢の群衆に向かって、主イエスの方から問いかける形で教えておられるのです。ちなみに、マルコによる福音書において、主イエスが公の場でお語りになるのは本日の箇所と、それに続く律法学者に対する非難をもって終わります。この後、主イエスがお語りになるのは、すべて弟子達に対してです。ここでお語りになったことは、主イエスの公の活動の締めくくりとも言ってよい大切な教えであると言っても良いかもしれません。
 しかし、本日の箇所で主イエスがお語りになったことを聞く時、私たちは、果たしてここで語られていることが、重要なことなのだろうかとの思いがいたします。一読して、なるほどと思うよりも、主イエスは何をおっしゃりたいのだろうと感じる方もおられるのではないでしょうか。
主イエスは「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言うのか」とおっしゃいます。メシアというのは救い主、キリストのことです。主イエスは、律法学者がキリストはダビデの子であると言っていることを否定しておられるのです。まるで、「メシアはダビデの子」などではないと言っておられるかのようです。しかし、そうであるならば、私たちが聖書によって示されることには矛盾が生じます。なぜなら、私たちが、聖書を読んで示されるのは、キリストはダビデの子としてお生まれになるということだからです。

メシア、ダビデの子
旧約聖書にはいたる所に、ダビデの子としてメシアが来ることが語られています。例えば、クリスマスに良く読まれる箇所ですが、イザヤ書第11章には次のように記されています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる」。エッサイというのはダビデのことです。ダビデという株から若枝が育って、そこに主の霊が留まるというのです。ここには、救い主がダビデの子孫から生まれることの預言が記されています。更に、このことは新約聖書にも受け継がれています。ルカによる福音書第1章30節以下には受胎告知の場面、マリアがイエスを身ごもることを天使から告げられる時のことが記されています。そこで、天使はマリアに次のように語ります。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。ここには、世に来るキリストとダビデの王座が結びつけられて語られています。旧約、新約問わず、聖書は、キリストがダビデの子として生まれることを告げているのです。
更に思い起こしたいのですが、マルコによる福音書10章46~52節には、主イエスがエリコの町を出て行こうとされた時、道端に座っていたバルティマイという盲人の物乞いが、必死に主イエスに救いを求めたことが記されていました。そのとき、バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。主イエスは彼に向かって、「何故わたしをダビデの子と言うのか」等とはおっしゃいませんでした。それどころか、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とお語りになりその病を癒されたのです。つまり、主イエスご自身も、自らがダビデの子としての救い主であることを認めておられたのです。つまり、主イエスは、ここでの教えで、ダビデの子孫として来られるという聖書の記述は誤りだと言いたいのでも、ご自身がダビデの子孫ではないと言いたいのでもないのです。

律法学者に対する批判
 では何故、主イエスはここで、メシアが「ダビデの子」ではないかのようにお語りになるのでしょうか。ここで、注意しなくてはいけないことは、主イエスは律法学者を批判して、このように語っておられるということです。律法学者たちの中にある態度を指摘し、非難しておられるのです。律法学者たちは、メシアはダビデの子と言うことで、自分たちにとって都合の良い救い主を思い描いていました。
それは、イスラエルを支配する国から解放する救い主の姿です。イスラエルは、常に、隣国との対立の中で、苦しみを経験して来ました。強国の侵略を恐れ、時に、その支配に服していたのです。そのような歴史の中で、ダビデというのは、唯一イスラエルの王として絶大な力を誇った人です。イスラエルの歴史において、後にも先にもダビデほどの王は生まれませんでした。人々は、ダビデのような王が現れて、苦しみから救い出してくださるという期待を持っていたのです。メシアはダビデの子と言う時、征服者を滅ぼす、力強い政治的な指導者が現れるということが考えられたのです。そして、いつしか、ダビデ王国の再興をもたらす者こそイスラエルの救い主と考えられるようになったのです。そして、そのような考え方からすれば、主イエスはメシアであるはずはありません。主イエスはエルサレムにお入りになった時、子ろばにお乗りになりました。その姿は、律法学者たちが思い描く力強いメシアの姿とは、かけ離れています。おそらく、律法学者たちは、「私たちの救い主は、こんなみすぼらしい、どう考えてもダビデ王の生まれ変わりとは言えないような者であるはずはない」との思いを抱いたことでしょう。「メシアはダビデの子であるではないか。そうであれば、主イエスなどは、救い主であるはずはない」。そう判断したのです。

民衆の態度
ここで、主イエスは、律法学者の態度を非難しつつ群衆に向かって語っています。ここで問題になっている態度は、律法学者と言われる人だけのものではありません。ユダヤの民衆も又、メシアを律法学者と同じ思いで、「ダビデの子」と言っていなかったかと言うとそうではありません。先ほどバルティマイが「ダビデの子よ」と叫んだことを見ました。又、主イエスが、エルサレムに入城された時の、民衆が叫んだ言葉は次のようなものです。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」。このような民衆の叫びの背後に、律法主義者たちと同じような思い、自ら思い描く、自分の願望を叶えてくれる救い主を求める思いがなかったとは言い切れないでしょう。主イエスは、律法学者を非難することによって、誰の信仰生活においても、生まれる態度を指摘しておられるのです。

救い主を判断する者となる。
律法学者を非難することによって、主イエスが指摘する人間の態度の根本にあるのは、救い主を自分の思いによってとらえ、自分の中で思い描いている救い主の姿に従って、真の救い主を判断するということです。御言葉を自分なりに聞いて自分の思いに適する救い主のイメージを造り上げてしまう。そして、いつの間にか、自分の方が救い主の主人となって、私の救い主とはこのような方でなければならないと、判断する者になってしまうのです。そのような中で、表面的には、聖書の言葉が語られ、それが受け入れられていても、真の救い主が受け入れられていないということがあるのです。知識でだけ救い主を捉え、自分の思いに従って理想のメシアを思い描く時、そこで、自分の下に来てくださる、真の救い主を求め、受け入れ、讃えるということが忘れられてしまうのです。救い主を待つ姿勢、そして、讃えつつ迎え入れる姿勢がなくなってしまうのです。
本日お読みした箇所の後に続く箇所には、律法学者に対する具体的非難が記されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」。律法学者たちの信仰がどのようなものかが良く分かると思います。信仰生活、神に対する敬虔が、人々から見た自らの徳を高めるために利用されている。信仰が自分の栄光のために用いられているのです。自分自身が主人になり、救い主を判断する者になり、真の救いを待ち、救い主を受け入れるということがなされなくなってしまう中で、信仰は、自分の栄光のためのものになってしまうのです。

詩編110編
36節には、主イエスが、「どうしてメシアはダビデの子なのか」とお語りになる聖書的な根拠が語られています。「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足元に屈服させる時まで」と』。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。
主イエスはここで詩編110編を引用します。この詩は厳密には、ダビデ自身のものではないとされています。しかし、この詩はダビデのものとして聖書に収められています。ここにはダビデの信仰が歌われている。そのような意味で、私たちは、これをダビデが歌った詩として聞くのです。ここで、最初に「主は」と語られているのは、主なる神を表す言葉です。そして、「わたしの主」と言われているのは「主人」という言葉で救い主、メシアを意味します。ここでは、主なる神が、救い主に向かって語りかけている場面が歌われているのです。ダビデ王が神から遣わされた救い主を讃える詩編において、救い主を「わたしの主」と呼んでいるのです。ダビデ自身は、本当の救いは、自分のような地上の王によってもたらされるのではないことを知っており、王としての自分の存在をはるかに越えた救い主が、神によって立てられることを受け入れ、その主を讃えているのです。主イエスは、この詩編を引用することによって、 律法学者が「メシアがダビデの子だ」と主張しつつ、自分の造り上げたメシア像にしたがって真の救い主を判断し、讃えることがなくなってしまった信仰を指摘しておられるのです。そして、律法学者の態度の背後に潜む罪を指摘しつつ、真の救い主を受け入れ、讃える態度を示そうとしておられるのです。

罪人の系譜の中にお生まれになった救い主
 ダビデ王は、イスラエルの歴史の中で、確かに最も偉大な王であったと言えるでしょう。しかし、聖書が記すダビデの姿は、偉大な王としての姿だけではありません。聖書は、ダビデの人間的な弱さ、罪の姿をも記しています。マタイ福音書1章1節には主イエス・キリストの系図が記されています。そこには、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。主イエスは紛れもなく「ダビデの子」として記されています。しかし、その系図を辿って行きますと、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ダビデの罪が指摘されているのです。ダビデは、自分の部下ウリヤの妻を略奪して子供をもうけた王でした。家来が戦争に出かけている間、その家来の一人ウリヤの妻バトシェバが水浴している姿の美しさに心ひかれ、関係を結びます。それによってバトシェバは身ごもりますが、その罪を隠蔽するために、ダビデは、ウリヤを一番危険な戦場に送って殺害してしまう。聖書は、そのような罪に満ちたダビデの生涯を記しているのです。つまり、主イエスが「ダビデの子」であるという時、それは、単に、力強い王として救い主が来られることを意味するのではありません。欲望と恥が刻まれた人間の罪の歴史のただなかに、救い主が来てくださるということを示しているのです。主イエスは、ダビデの子として、人間の罪の歴史をわが身に引き受けつつ、その罪からの救いをもたらすまことの王として来られた神の子なのです。

罪に勝利する救い主
 ダビデは、自分のような王をはるかに越えた「王」が、神によって立てられることを望んでいました。そして主イエスこそ、その王に他なりません。主イエスは、ダビデの子であることを引き受けつつ、ダビデをはるかに越えた恵み深き支配をもたらす方として世に来られました。神のもとにおられ、ご自身神と等しい方でありながら世に来られ、人々の罪のために十字架に付けられ、そのことによって、人々の罪の贖いを成し遂げてくださったのです。このキリストが、私たちの敵である罪を足もとに屈服させて下さる救い主なのです。
 私たちは誰しも、律法学者の態度から自由ではありません。御言葉が語られ、救い主の姿を示される。しかし、その救い主を受け入れる時、自分の思いに引き寄せる形で、救い主の姿を思い描いてしまう。そして、自分の中の観念的な知識に従って救い主を判断し裁く者になってしまうのです。そこに私たちの罪があると言っても良いでしょう。しかし、主イエスは、十字架を通して私たち人間に裁かれることによって、私たちの罪を贖い、罪に勝利してくださっているのです。
 私たちはこの救い主が御言葉によって示されるのを常に待ち望むのです。私たちが自分の観念的な理解だけで救いを捉え、自分は救い主を知っていると思いこむ中で、知らず知らずのうちに、真の救い主を判断する者になってしまう。そこで、心からの讃美を忘れてしまう。そのような人間の罪に満ちた歩みに向かって語りかけておられるのです。律法学者たちに「どうしてメシアがダビデの子なのか」と語ったのと同じように、自分の思いに従って救い主を造り上げている私たちに語りかけるのです。私たちの下に救い主が来られるというのは、まさに、このような形で主イエスがご自身を示してくださることにおいてです。そこで、自分の望むような形で救い主を思い描いている救い主の像が根底から覆される。その時、私たちの罪を贖ってくださる、真の救い主として主イエスを受け入れるのです。
「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とあります。この時、群衆は、主イエスが罪を贖う真の救い主であることを知らされていません。しかし、真の救い主を示す御言葉を聞いて、人々は喜んだのです。私たちは、御言葉によって、真の救い主が確かに来て下さり、私たちの罪を打ち破ってくださっていることを知らされる時に、真の喜びを経験するのです。そして、主イエスこそキリストであると讃えるのです。

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