夕礼拝

信仰による苦境

「信仰による苦境」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第5章1-第6章1節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第10章32-39節
・ 讃美歌 : 318、469

交渉開始
 エジプトで奴隷とされ苦しめられているイスラエルの民を救い出し、神様の約束の地へと導くために、モーセとその兄弟アロンが神様によって立てられ、遣わされました。出エジプト記第5章は、彼らがいよいよエジプト王ファラオのもとに行き、イスラエルの民を解放するようにと交渉を始めたことを語っています。モーセとアロンはファラオのもとに行ってこう語りました。1節、「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」。イスラエルの民を去らせて、荒れ野で主なる神様のために祭りを行わせることを彼らはファラオに要求したのです。それは3節においても繰り返されています。「どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」。こちらは、3章18節で、主なる神様が、エジプトの王にこう言いなさい、とお命じになった通りの言葉です。モーセとアロンは、主に示された通りのことをファラオに要求したのです。

礼拝するために
 ここに大切なことが示されています。出エジプトの出来事、エジプトでの奴隷状態からのイスラエルの民の解放の出来事の意味あるいは目的がここに示されているのです。その意味、目的とは、イスラエルの民が、主なる神のために祭りを行うこと、具体的には主に犠牲をささげて礼拝をすることです。モーセらは、奴隷とされているイスラエルの民を去らせることを要求しましたが、それは、主なる神様の民であるイスラエルが、主を礼拝し、主に仕えるためなのです。この要求は、ファラオの心を逆撫でせずに交渉を進めるための方便としてモーセが考えたことではありません。今申しましたように3章18節で主なる神様ご自身がこのように言えとお命じになったのです。さらにその前の3章12節にもこうありました。「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える』」。モーセが民をエジプトから導き出した時、民は神の山で主に仕える、つまり主なる神様を礼拝する者となるのです。エジプトからの解放はそのために行われるのです。そしてさらに、この要求が最終的に受け入れられるのは12章の31節ですが、そこでファラオはこう言っています。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい」。ファラオがついに認めたのは、イスラエルの人々がエジプトから出て行き、主に仕えることなのです。この12章にまで至る長い交渉がこの5章から始まるわけですが、その最初から、モーセが要求したのは、イスラエルの民を去らせ、主のために祭りを、主に犠牲を捧げる礼拝をさせよ、ということだったのです。

本当の解放、自由
 私たちはこのことを、出エジプト記の軸としてしっかりと心に留めておかなければなりません。出エジプト記が語っているのは、単なる奴隷解放の物語ではないのです。アメリカのいわゆる公民権運動や、南アフリカのアパルトヘイトとの戦いと重ね合わされるような、人種や民族による差別や抑圧との戦い、基本的人権の確立のための闘争の物語ではないのです。モーセが要求したのは、イスラエルの民への差別と抑圧をやめ、人権を認めよ、ということではなくて、主なる神様の民であるイスラエルに自分たちの神を礼拝させよ、ということだったのです。そういう意味では出エジプト記は、礼拝の自由のための戦いの物語なのです。しかし例えばアメリカの昔の黒人奴隷たちは、この物語を自分たちの解放への希望の書として読み、ここから慰めと力を与えられました。出エジプト記はそのように、社会的抑圧の中に置かれている人々に希望を与える解放の書として読まれてきたし、これからもそのように読まれ続けていくでしょう。そのような力を出エジプト記が持っているのは、ここに語られているのが単に政治的社会的な解放や、人権を守るための戦いではなくて、神様を礼拝する自由への解放だからです。これこそが、人間の本当の解放、本当の自由への脱出の物語なのです。人間の本当の自由、解放とは、神様を礼拝し、神様に仕えることができるようになることです。その解放、自由を語っているがゆえに、出エジプト記は、あらゆる差別や抑圧の中にいる人を慰め、解放と自由への希望を与える書としての力を持っているのです。

神のみ心によって
 もう一つ、ここで注目しておくべきことは、この解放の要求が、「イスラエルの神、主がこう言われました」という宣言の中でなされていることです。イスラエルの民を去らせて、荒れ野で祭りを、礼拝を行わせよと要求しているのは、民ではなくてむしろ主なる神様なのです。モーセは、人民の代表として人民の要求をファラオに伝えたのではありません。主なる神様から遣わされて神様のみ言葉を伝えたのです。エジプトの奴隷状態からのイスラエルの民の解放は、民の自由への求め、要求によって実現したのではなくて、ご自分の民をご自分に仕えさせ、礼拝させよ、という主なる神様のみ心によって実現したのです。イスラエルの民が、モーセという指導者の下に団結して解放を勝ち取ったのではなくて、主なる神様がその恵みのみ心によって、奴隷とされているイスラエルの苦しみを受け止め、彼らを解放して下さったのです。モーセはその神様のみ業のために用いられたに過ぎません。1節の要求の言葉には、このこともはっきりと示されているのです。

ファラオVS神
 モーセたちのこの要求を聞いたファラオはどうしたでしょうか。2節にその反応が記されています。彼は、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と言いました。「イスラエルの神、主がこう言われた」というモーセの言葉に対してファラオは、「そんな神を私は知らないし、知らない神が何を言おうと聞くつもりはない」と言ったのです。ファラオのこの拒否は、主なる神様に対する拒否です。主なる神様のみ言葉として語られたモーセの要求を拒むファラオは、イスラエルの民の要求をではなくて、主なる神様ご自身を拒んだのです。ここに、主なる神様対ファラオという対立の図式が示されています。ここから始まる交渉は、モーセとファラオとの間に展開されていきますが、それは実は主なる神様とエジプト王ファラオの戦いなのです。
 さてモーセたちは3節の後半で、もしもファラオがこの要求を認めないならば、「神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」と言いました。この「わたしたち」は「この国」と言い換えた方が分かりやすいでしょう。イスラエルを去らせないなら、神が疫病や、剣つまり敵による侵略という災いを下してこの国を滅ぼされる、とモーセは語ったのです。これは単なるブラフではなくて、主なる神様が3章19、20節でお語りになったことを受けています。そこで主は「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう」とおっしゃいました。このみ言葉によっても、ここで対立しているのは主なる神様とファラオなのだということが分かります。

労働力
 この要求と脅しを聞いたファラオは4、5節でこう言いました。4節には「モーセとアロン、お前たちはなぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちも自分の労働に戻るがよい」、5節には「この国にいる者の数が増えているのに、お前たちは彼らに労働をやめさせようとするのか」とあります。ここに、ファラオがモーセの要求をどのように受け止めたのかが示されています。つまり彼はこの要求を、イスラエルの民を仕事から引き離し、労働をやめさせようとするものとして受け止めたのです。これはファラオにとってイスラエルの民は「労働力」でしかない、ということを示しています。人間が生きた人格としてではなく、労働力という数字に換算できるものとしてしか見られない、そこにエジプトにおける奴隷状態の本質があるのです。その点に注目するならば、イスラエルの民が置かれていた状況をより広い視野で見つめることができるようになり、決して奴隷にされているわけではない私たちが、実はこのイスラエルの人々と同じ状況にあることを知ることができるのです。

支配者の常套手段
 大切な奴隷労働力が失われることを心配したファラオは、すぐに命令を下します。6~9節です。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。だから、自分たちの神に犠牲をささげに行かせてくれなどと叫ぶのだ。この者たちは、仕事をきつくすれば、偽りの言葉に心を寄せることはなくなるだろう』」。イスラエルの民に課されていた労働の主なものはれんが造りでした。れんがの大事な原材料の一つに「わら」があります。それまでは、わらは当局が調達し、それを用いてイスラエルの人々がれんがを造っていました。しかしこれからはもうわらを支給しない、それも自分たちで集めろ、しかもこれまでと同じ数のれんがを造れ、というのです。要するにイスラエルの人々はこれまでよりずっと厳しい仕事を課されることになったのです。ファラオのこの命令は、支配者が反抗する者を押しつぶすための常套手段です。つまり、反抗すればする程自分たちがより苦しくなるだけだ、という状況を作り、反抗する気持ちを萎えさせていくのです。抑圧されている人々がそれに対抗して立ち上がろうとする時には必ずこういうことが起るのです。
 また14節にはこうあります。「ファラオに任命された追い使う者たちは、監督として置いたイスラエルの人々の下役の者らに、『どうして、今までと同じ決められた量のれんがをその日のうちに仕上げることができないのか』と言って、彼らを打ったので」。ここに、「監督として置いたイスラエルの人々の下役の者ら」とあるのは、イスラエル人の中で任命された監督たちです。奴隷の中から、奴隷を監督する者を任命して、彼らを使って奴隷の労働を管理させるのです。監督として任命された者たちは、他の奴隷たちよりも優遇されます。そうすることによって、奴隷どうしの間に、支配と被支配の関係を作り、支配されている者たちの恨みが直接には同胞である監督たちに向かうようにするのです。これも支配者の常套手段です。監督に任命された人々は、支配者であるエジプト人と、自分の下にいる同胞のイスラエル人奴隷の間に挟まれて、どちらからも責められ、文句を言われ、苦しんでいます。中間管理職の悲哀に似た姿がここにあります。
 そして20節以下に語られているのは、このようにして以前よりも苦境に陥ったイスラエルの人々が、モーセとアロンに抗議した、ということです。21節「彼らは、二人に抗議した。『どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです』」。要するに、あなたたちがファラオに「イスラエルの民を去らせよ」などと要求したばっかりに、我々はかえって苦しい目にあっている。どうしてくれるんだ、ということです。自分たちのこの苦境はあなたがたのせいだ、と言っているのです。実はこれこそがファラオの目論見です。ファラオは、イスラエルの民により厳しい命令を下すことによって反抗の気力をそぐと共に、彼らの間でのモーセとアロンの指導力、影響力を失墜させようとしているのです。モーセとアロンに従っていると苦しみが増すばかりだ、とイスラエルの人々に思わせようとしているのです。これは支配における高度なテクニックです。抑圧されている人々を煽動し、反抗運動を導いている指導者が、人々の信頼を失い、指導力を失うように仕向けるのです。イスラエルの民はファラオのこの高度な戦術にまんまと陥ったのです。

怠け者
 ファラオとの最初の交渉の結果はこのように散々なものでした。イスラエルの民はかえって深い苦しみの中に突き落とされたのです。私たちはここに、私たちの信仰の歩みにおいて起ることを重ね合わせることができます。ファラオに対して奴隷の解放を要求すること、それは先ほど見たように、主なる神様を礼拝する自由を求めることです。信仰に生きる自由を求め、それを認めさせようとすることです。しかしこの世の生活の中でこのことを求めていこうとする時、私たちは様々な抵抗、妨げに直面します。特にこの日本の社会においては、礼拝を大切に守ろうとすることは仕事の妨げになる、という思いがあります。この5章にも、主なる神様を礼拝することを求めるイスラエルの人々に対してエジプト人が、「お前たちは怠け者だ。だから主に犠牲をささげに行かせてくれなどと言うのだ」と言っているところが二度あります。神様を礼拝し、信仰に生きようとすることに対して、仕事をないがしろにする怠け者、という非難が浴びせられる、私たちはこの社会においてそういうことを体験しているのではないでしょうか。直接そのように言われることはなくても、周囲の雰囲気から、そのような無言のプレッシャーを感じている人は多いでしょう。だから、日曜日には仕事をしない怠け者だと思われないためにウイークデーに人一倍仕事に励んでいる、という人もいます。礼拝の時間と重なる町内会の奉仕を、朝早く起きて、割り当て以上にしてから来る、などの気配りをしているという人もいます。神様を礼拝することが社会的に全く認知されておらず、とても珍しい変人のすることのように思われているこの社会においては、礼拝に出席することだけでも、様々な妨げとの戦いを強いられるのです。信仰をもって生きようとする時、私たちはこのような苦境に立たされます。イスラエルの民と同じことを私たちも体験するのです。

誰に仕えるのか
 そのように、ここでのイスラエルの人々と同じ信仰による苦境の中に置かれている私たちが、この箇所から読み取り、見つめるべきことは何でしょうか。それは、この苦境の中でイスラエルの人々が一つの問いに直面している、ということだと思います。その問いとは、自分たちは誰に仕える者なのか、誰の僕なのか、という問いです。モーセは、イスラエルの民に主なる神様を礼拝させよとファラオに要求しました。主なる神様を礼拝するとは、主なる神様に仕えるということです。イスラエルは、主なる神様にこそ仕えるべき神の民なのだから、本来仕えるべき主に仕える自由を与えよ、と要求したのです。ファラオはその要求を拒み、より厳しい仕事を課してきました。それは、お前たちが仕えるべき主人は私、ファラオなのだ、お前たちは私の僕なのだ、ということです。そのことをイスラエルの人々に認めさせようとしているのです。15節から16節にかけて、イスラエルの中から立てられた下役の者らがファラオにこのように言っています。「どうしてあなたは僕たちにこのようにされるのですか。僕らにはわらが与えられません。それでも、れんがを作れと言われて、僕らは打たれているのです」。ここに「僕」という言葉が三度語られています。いずれも、「わたしたちはあなたの僕です」という意味で語られています。この「僕」という言葉と、先ほど読んだ3章12節で神様がモーセに、「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」とおっしゃった、「仕える」という言葉は実は同じ言葉です。「僕」とは「仕える者」という言葉なのです。つまり主を礼拝する者は主に仕える者、主の僕であり、ファラオに仕える者はファラオの僕なのです。この信仰による苦境の中でイスラエルの民は、あなたがたはいったいどちらに仕える者であろうとしているのか、という問いの前に立たされているのです。私たちも同じです。私たちは、誰に仕える者として、誰の僕として生きようとしているのでしょうか。主なる神様でしょうか、それともこの世の支配者、この世において力を持っている者なのでしょうか。信仰者としてこの世を生きる私たちは、この問いを常に問われていくのです。
 信仰によって私たちは、この世の歩みにおいてはしばしば苦境に陥ります。信仰などない方がこの世を生きるのがずっと楽だし、迷いやジレンマに陥らずにすむのに、と思うことがあるのです。それにも関わらず、この苦しみを、迷いやジレンマを背負いながら、私たちが信仰者として生きるのは、この信仰に生きるところにこそ、つまり主なる神様を礼拝しつつ生きるところにこそ、本当の自由があるからです。この世の様々なファラオが、「お前が仕えるべき主人は私だ、お前は私の僕なのだ」と私たちに語りかけて来ます。神を礼拝することなど時間の無駄であり、信仰は怠け者のたわ言だ、あるいは9節の表現を用いれば「偽りの言葉に心を寄せること」だというプレッシャーが有形無形に加えられて来ます。この世のファラオはそのようにして私たちを、奴隷の身分に繋ぎ止めておこうとするのです。このファラオの下では、私たちは、一人の人間としてではなく、数字に換算できる労働力としてしか、モノとしてしか見られないのです。しかし私たちが主なる神様に仕え、主なる神様の僕として生きようとする時、この神様は、私たちを奴隷として繋ぎ止めておこうとはなさらないのです。むしろ私たちをこの世のファラオの支配から解放し、本当の自由を与えて下さるのです。主なる神様は私たちを単なる労働力として、モノとして扱うのではなくて、生きた、人格を持った一人の人間として尊重して下さいます。どのくらい尊重して下さるのか、それは、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、神様の子として下さるほどにです。つまり主なる神様の僕となり、神様に仕え、礼拝する者となる時、私たちは、神様ご自身がむしろ私たちに仕えて下さり、私たちの救いのために独り子の命をささげて下さったことを示されていくのです。私たちは、誰に仕える者として、誰の僕として生きようとしているのでしょうか。誰に仕える者となることに、本当に私たちが自由に、生き生きと生きる道があるのでしょうか。信仰による苦境の中で、私たちはこのことをしっかりと自らに問うていきたいのです。

神の強い手によって
 しかし、信仰による苦境はなまやさしいものではありません。イスラエルの民に責められたモーセは、主のもとに帰って訴えました。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。モーセも神様に、「こんなはずではなかった」と文句を言ったのです。それに対して神様は6章1節でこうお答えになりました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」。この主のお言葉を私たちもしっかりと聞かなければなりません。エジプトの奴隷状態からの解放は、もともとモーセの交渉によって実現するようなことではないのです。「わたしの強い手によって」と繰り返されています。主なる神様が強い手によってファラオを屈服させ、ついにイスラエルを去らせるようになるのです。モーセは、イスラエルの民は、主が強い手によって行なわれる救いのみ業をただ「見る」のです。私たちの救いにおいてもそれは同じです。私たちは、自分でこの世の支配者に打ち勝って自由を獲得することなど出来ません。むしろ信仰による苦境の中で苦しみ、神様に文句を言い、右往左往してしまうのが私たちです。しかし主なる神様が、強い手によって、救いのみ業を行なって下さったのです。それが主イエス・キリストの十字架と復活です。私たちは、この主イエス・キリストの十字架と復活による救いのみ業によってこそ、罪の支配から解放され、また私たちを支配するこの世の力から解放され、神様を礼拝し、神様に仕える自由を与えられるのです。モーセはファラオを相手に、厳しい交渉をなお続けていかなければなりませんでした。そのように、私たちの信仰による苦境もなお続きます。私たちの力で事態を打開したり、解決したりできるわけではありません。しかし、主イエス・キリストの父なる神様が、強い手をもって必ず私たちの救いを、解放を実現して下さるという約束を信じて、忍耐しつつ、ひるまず、信仰に留まり続けたいのです。

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