夕礼拝

古い自分、新しい自分

「古い自分、新しい自分」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; ヨエル書、第1章 6節-14節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第5章 27節-39節
・ 讃美歌 ; 298、442、80

 
1 この日、主イエスは中風の人をいやした家から出て行って、町の中を歩いておられました。主が収税所を通られた時、そこにレビという徴税人が座っておられるのを御覧になりました。この時代の徴税人は、ローマ帝国の税金取立ての仕事を請け負っていた人たちであり、ローマがユダヤを支配する時の手先となっていた人たちです。彼がいたカファルナウムの収税所は、ガリラヤ地方に入ってくる商品にヘロデが課した税の収税所であったと思われます。周囲からは、自分が生きていくために仲間と国をローマに売り渡した売国奴と見なされていたわけです。ユダヤ人としての誇りも、同胞に対する愛も失っている軽蔑すべき人間と見られていたのです。それに加えて徴税人は、政府に収める金額以上にできる限り金をしぼり集め、余分の金を自分のもうけとすることも多くありました。だからますます嫌われたのです。収税所にやって来る人々も、おそらく最低限の用事を済ませたらいそいそと帰っていったことでしょう。そこには決して楽しい会話も生まれないのです。なるべく早く帰りたい、こんなところにはいたくない、こんな人とは話もしたくない、たとえ税金を納める事務的なやりとりでもうんざりする。この収税所に出入りする人たちはみんなそう思っていたのではないでしょうか。レビはどう思いながらここで過ごしていたのでしょうか。彼だってもしかしたら好きでこの徴税人になったのではないかもしれない。生きていくためにやむなくこの仕事に就いたのかもしれない。守り支えるべき家族があったのかもしれない。世話をするべき親や親戚がいたのかもしれない。彼の人生の背後には人知れぬ悲しみがあったのかもしれないのです。その日、彼は収税所に座りながら、人生の空しさを思い、人々との交わりから断たれている人生を悲しんでいたのかもしれません。
 主イエスの言葉は、そんな彼の心の奥にまでスッと入っていったに違いありません。「わたしに従いなさい」(27節)。彼はこのとき、何年ぶりに生きた呼びかけの言葉を聞いたでしょうか。いや、こんな魂を揺さぶるような、心と体を激しく揺さぶるような言葉を、彼は生まれて初めて聞いたのではないでしょうか。この徴税人が収税所に座っているのを主イエスが「見た」と言われている時、その「見る」という言葉には、特別にその人を選んで、深く理解するという意味合いが含まれています。主はこの時、この徴税人レビの思いを、これまでの歩みを、彼のすべての破れと失敗を、交わりから絶たれた孤独と寂しさを、すべて察し取り、レビを誰よりも深く理解してくださったのです。そのすべてを受けとめてくださったのです。その上でおっしゃられたのです、「わたしに従いなさい」と。  
レビは何もかも捨てて立ち上がりました。彼のそばには取り立てた多額のお金があったかもしれません。その心の中には、人々から自分自身を守ろうとしてきた長い年月の間にしみついた頑なな思い、自分を大事にする思いが深く根を下ろしていたかもしれません。周りの冷たい視線から必死に自分を守ろうとし、萎えた心を一生懸命奮い立たせ、下に向かう頭を何とかもたげさせて、頑張ってきたのです。思い出したくもない過去の自分があったでしょう。自分が蔑まれ、傷つけられたこと、馬鹿にされ、無視されたこと、同胞を恨み、社会を憎み、もっと税金をしぼりたてることで仕返しをしてきた、そういう過去へのとらわれがあったでしょう。しかし彼は今、その自分のすべてを理解して、自分を引き受けてくださるという招きの声を聞いたのです。生き方を変えられる言葉を与えられたのです。うずくまる魂を立ち上がらせる力を与えられたのです。
そこで宴会が始まったのです。「盛大な宴会」が催されたのです。彼はこの時、自分を選び招いてくださった主イエスだけを食卓にお招きしたのではありませんでした。そこに徴税人やほかの人々を大勢招いたのです。レビは主のお言葉を通して、人々との生きた交わりを再び与えられたのです。彼は主イエスを他の徴税人たちにも紹介したのです。このお方との交わりを通して、自分たちは新しい自分となり、新しい人生を歩み始めることができるんだ、そのことを知らされたのです。私たちの今までの歩みにも破れがあり、悲しみがあります。誰にも話せないような過去があるかもしれません。その過去にとらわれ続けているということがあるかもしれません。思い出したくもない出来事や時代を心の奥底に抱えているのです。しかし実はそこでこそ、私たちは神と出会うことができるのです。自分の最も醜いところ、見栄や取り繕いをすべて取り払われたところ、そのむきだしの魂に、主は「わたしに従いなさい」と、おしゃってくださるのです。そこに「古い自分」が過ぎ去って、「新しい自分」が生まれる出来事が起こるのです。神様に愛され、受け入れられている自分を知り、喜んで「新しい自分」を受け入れ、肯定できる歩みが与えられるのです。 

2 けれども、この交わりの回復を一緒に喜べない人たちがいました。ファリサイ派の人々や律法学者と言われた人々です。彼らは、あの中風の人が運び込まれた家にいた時と同じように、つぶやいて弟子たちに言うのです、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」(30節)。弟子たちはドキッとしたのではないでしょうか。彼らは新しい自分を既に生き始めています。けれどもそれがどういうことなのか、十分に答えて説明する言葉を持っていたわけではないと思います。けれどもその時お答えになったのは主ご自身でした。「主イエスに従う」とは、わたしたちに突きつけられる厳しい問いに、私たちではなく、主ご自身が答えてくださるということではないでしょうか。私たちの人生は「主に引き受けられた人生」なのです。主は彼らの問いにお答えになって言われます、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(32節)。律法学者たちがきちんと守っていると思っていた神の掟によれば、徴税人や罪人と食卓を共にするということは、その汚れを自分も身に受けるということを意味しました。最近、鳥インフルエンザが問題となっていますが、律法学者たちが徴税人たちを見る時の思いは、ちょうど現代人がウイルスを恐れるような思いだったのではないでしょうか。徴税人と自分たちとを区別し、評価して、あの人は罪人だ、この人は徴税人だと言って、その時点で交わりを断っていたのです。それで自分たちの清さが保てると思っていたのです。しかし主はご自分の来られた理由を、「罪人を招いて悔い改めさせるため」だとおっしゃってくださいました。この言葉はまた、律法学者たちに対する問いかけでもあるのです、「あなたたちは自分が思っているほど健康か。あなたたちも病人なのではないですか。ひょっとしたらかなりの病気ではないですか」。主イエスはこう問われているのではないでしょうか。
私たちの中にも、人を区別し、蔑む思いがあるのではないでしょうか。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味を持っていると言われます。自分と他者を区別し、この人よりはまだましだ、あの人よりは自分は清い、そうやって比較することで自分をかわいがり、大事にする思いを保っているのです。私たちは気づかぬうちにも、「神様、この徴税人のような者でないことを感謝します」という祈りを捧げているのです。自分をほめて大事にしてくれる人には親しみや愛情を持つのに、傷つけられたり、厳しい言葉を浴びせられたりすると、途端にその感情が憎しみや怒りに変わってしまう、交わりを自ら断ち切ってしまう、そういうことを経験するのです。私たちは、あの宴会に招かれている徴税人でもあり得るし、この律法学者たちでもあり得るのです。ただはっきりしているのは、徴税人たちは自らが神に逆らう罪人でしかないことを知り、主の招きに与かったことであり、律法学者たちはそのことを認めず、レビの家の外にたたずんでいることなのです。そしてもっとはっきりしているのは、主はこの徴税人たちも、それからひょっとしたらもっと憐れむべき心の頑なな律法学者たちも、同じように忍耐をもって招き続けておられるということなのです。

3 なおも納得できない律法学者たちはヨハネの弟子たちやファリサイの弟子たちを引き合いに出して、問いを重ねます。もし主イエスの来られた理由が罪人の悔い改めのためならば、なぜその悔い改めにふさわしい実を結び、断食をしながら祈る姿を見せないのか、と責めたてるのです。律法学者たちは律法を守る形ばかりでなく、罪を悔い改めるその形も、律法の枠の中でしか考えられないのです。今、ここで始まっている神のご支配を見る目が閉ざされているのです。主イエスが新しい神の掟そのもの、いや、神ご自身であることに目が開かれていないのです。このお方がおっしゃり、行われることがそのまま新しい律法であることが分からないのです。
主は二つのたとえをもって新しい神の支配についてお語りになりました。新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てるなら、新しい服は台無しになり、継ぎ切れは古い服とつりあいがとれず、着るにはあまりにもみっともないことになるでしょう。また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れれば、発酵して生まれるガスの気圧に、古い皮袋は堪えられなくなり、張り裂けてしまうでしょう。新しいものを古い枠組みの中に押し込めようとすると、両方とも台無しになってしまうのです。同じように、主イエスという新しいお方を、律法という枠の中に押し込んで理解しようとすると、主イエスも律法も、本当に理解することができなくなるのです。「古いものの方がよい」と言って、古いぶどう酒を飲み続けているうちは、新しいぶどう酒の味を知ることはできないのです。
主イエスが来られたということは、旧約聖書の時代から神の民を養い導いてきた律法という神の掟が、このお方によって十分に実現され、その上で中身を新しくされて私たちに迫ってきているということなのです。もはや神の国は洗礼者ヨハネが伝えた神の裁きと怒りだけの日ではありません。その裁きと怒りをご自身に引き受けて、神の掟を全うし、私たちを救いの食卓に招いてくださる方を祝う日なのです。飲んだり食べたりして、喜び祝う日なのです。私たちの下に来てくださった花婿主イエスと共に生きることができる幸いを喜び、そこに生まれる交わりに生き続けるのです。花婿主イエスはこれから受難の道、苦しみの道を歩んでいかれます。花婿は十字架において奪い取られる定めにあります。あの預言者ヨエルが宣べ伝えた恐るべき主の日の裁きを思い、魂の断食すべき時を、私たちも経験します。けれどもそれはいつまでも続くことではありません。この十字架の向こうにある復活と高く挙げられること、聖霊の注ぎを通して、主はいつまでも私たちと共におられ、祝いの食卓の中心にいてくださるのです。もはや断食する姿を人々に見せることが悔い改めのしるしなのではありません。大事なことは「新しく造られること」(ガラテヤ6:15)なのです。私たちが洗礼を受け、神のものとされて歩むならば、その生き方一つ一つが悔い改めのしるしになるのです。私は先日、神学校の学生と話していて、悔い改めについて改めて示されることがありました。悔い改めそのものも、神様が与え、引き起こしてくださることに思いを新たにされたのです。そういえばあのレビも主の招きがあったからこそ、立ち上がることができたのです。悔い改めへと導かれたのです。悔い改めは、私が悔い改めようと思ってなす業でさえなく、神が恵みの中で引き起こしてくださるものなのです。

結 神のものとされた人生は、もはや過去の物差しで測ったり、古い枠組みに後戻りしたりすることはありません。主によってもたらされた「新しい自分」は、どんなに失敗しても、どんなに苦しんでも、どんなに傷ついても、もはや「古い自分」に後戻りすることはあり得ないのです。私たちの歩む道は御国の喜びの食卓を約束されている道なのです。

祈り 主よ、生きる力を失って収税所に座り込むような私たち、自分の病の重さに気もつかず、自分の思い込む清さに満足しているような私たち、どうかこの私たちを憐れんでください。あなたの招く悔い改めに与からせてください。「古い自分」から解放されて、「新しい自分」が今与かっている揺るがぬ恵みをいつも新しく味わわせてください。御国の食卓に連なる希望と喜びを、今新たにさせてください。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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