夕礼拝

覆いが取り除かれるとき

説教題「覆いが取り除かれるとき」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第53章1~12節
ルカによる福音書 第18章31~34節

イースターの翌週に
 先週、私たちはイースターを迎え、主イエス・キリストのご復活をお祝いしました。主イエスが私たちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に復活してくださったことを覚え、喜び、祝ったのです。その翌週の夕礼拝に私たちに与えられている聖書箇所は、ルカによる福音書18章31~34節です。ここでは、主イエスが十二人の弟子たちにご自分の(十字架の)死と復活を予告されたことが語られています。いわゆる「受難予告」と呼ばれるものです。先週、主イエスの十字架の死からの復活を聞いたのに、本日、その予告について聞くことに、私たちは時間が戻ってしまったという違和感を覚えるかもしれません。せっかく主イエスの復活を祝ったのに、その前に戻るのか、というような思いが過(よ)ぎらなくもないと思います。もちろんこの夕礼拝ではルカ福音書を連続して読んでいますからそれは仕方のないことだと言ってしまえば、それまでですが、しかし私は、イースターの翌週にこの箇所が与えられていることはむしろ意義深いことだと思っています。ふさわしい箇所が与えられた、と思うのです。それは、私がなんとなくそう感じたというより、この箇所からそのことを示されたということです。本日の箇所を読み進める中で、そのことに目を向けていきたいと思います。

三回目の予告
 さて、先ほど申したように、この箇所で主イエスはご自分の死と復活を予告されています。とはいえ今回が初めての予告ではありません。小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」とあるように、これまでも二度主イエスはご自分の死と復活を予告されていました。最初は9章22節で、そこで主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われていました。二回目が9章44節で、そこでは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われていました。三回目の予告がこれまでの一回目、二回目の予告よりも詳しくなっていることが分かります。その冒頭で「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」と言われているように、主イエスは今、エルサレムへと向かっています。この箇所の後、19章では主イエスがエルサレムから直線距離で20キロほどのところにあるエリコの町に入られたことが語られていますし、28節以下ではエルサレムへ入られたことが語られています。ですから本日の箇所は、主イエスがエルサレム入場を目前にして、十二人の弟子たちにこれまでよりも詳しく、ご自分の死と復活を予告された箇所なのです。
 受難予告の内容を見ていく前に、もう一つ触れておきたいことがあります。いわゆる「共観福音書」と呼ばれるマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書は、いずれも主イエスの三度の受難予告を記しています。マタイ福音書とマルコ福音書にも、ルカ福音書の本日の箇所で語られている三回目の受難予告と対応(並行)する箇所があるのです。ルカとマタイ、マルコを比べると共通点もありますが違いもあります。私たちは三回目の受難予告で、特にルカ福音書だけが語っていることに目を向けて、この箇所を読み進めたいのです。

主イエスの十字架と復活は旧約聖書全体の成就
 主イエスは十二人の弟子たちにまずこのように告げました。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する」。「人の子」は、主イエスがご自身を言い表すときに用いた言葉ですから、主イエスについて「預言者が書いたことはみな実現する」と言われていることになります。ここで「預言者」とは旧約聖書の預言者、たとえばイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった誰か特定の預言者を指しているわけではありません。ですから「人の子について預言者が書いたこと」とは、旧約聖書の預言書のどの箇所なのだろうか、と考えてもあまり意味がありません。そうではなく「預言者が書いたこと」とは旧約聖書全体を指しているのです。人の子について、つまり主イエスについて旧約聖書全体が告げていることはみな実現する、と言われているのです。別の言い方をすれば、主イエスが苦しみを受けられ、十字架で死なれ、復活されることは、旧約聖書全体の成就であるということです。三回目の予告でこのことを語っているのはルカ福音書だけであり、このことはルカ福音書と(その続きである使徒言行録)の大切なメッセージでもあります。説教の冒頭で、イースターの翌週にこの箇所が与えられていることは意義深いと申しましたが、そのように受けとめることができるのは、この受難予告でルカ福音者だけが見つめている、主イエスの十字架と復活が旧約聖書全体の成就であるというメッセージに目を向けることによってです。このことについては、説教の後半で、改めて目を向けたいと思います。

乱暴な仕打ちを受け
 主イエスはご自身のご受難と死については、このように告げられました。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。必ずしもこのすべてがルカ福音書で語られるわけではありませんが、ヨハネ福音書を含む福音書全体を見れば、主イエスがこれらの苦しみを受けられたことが分かります。特にここで注目したいのは、三回目の受難予告の中で、ルカ福音書だけが「乱暴な仕打ちを受け」と語っていることです。この「乱暴な仕打ちを受け」と訳されている言葉に注目したいのです。この言葉が口語訳では「はずかしめを受け」と訳され、聖書協会共同訳では「侮辱され」と訳されていることからも分かるように、この言葉は必ずしも身体的な暴力を受けることだけを意味しません。この福音書の11章45節では、主イエスがファリサイ派の人たちを非難されたのに対して、律法の専門家が「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言っています。この「侮辱する」が「乱暴な仕打ちを受け」と同じ言葉ですが、ここでは明らかに身体的に痛めつけることではなく、精神的に痛めつけること、侮辱することが言われています。その一方で、マタイ福音書22章1節以下で語られている主イエスのたとえの中で、王が王子の婚宴に招待した人たちに送った家来に対して、「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(4節)と語られている部分がありますが、この「乱暴し」が「乱暴な仕打ちを受け」と同じ言葉です。ですからここではむしろ相手を殺してしまうほどの暴力が言われています。このようにこの言葉は身体的だけでも精神的だけでもなく、その両方で相手を痛みつめることを意味しているのです。ルカ福音書はこの言葉を用いることによって、主イエスがそのご受難と死において身体的にも精神的にも大きな痛みと苦しみを受けられたことを見つめているのです。

神と隣人に対する傲慢
 しかしこの言葉で見つめられているのはそれだけではありません。そのように相手を身体的に、あるいは精神的に痛めつけることの根本になにがあるのか、ということをも見つめられています。この言葉は新約聖書では数回しか使われていませんが、ギリシア語で書かれたほかの書物でも使われていて、ギリシア人にとって重要な言葉でした。そのようなこともあり、『新約聖書のギリシア語』(バークレー)という本でも、この言葉が取り上げられています。それによれば、この言葉はもともとギリシア語で「傲慢」を意味する「ヒュブリス」という言葉に由来します。そしてこの言葉が根本的に見つめているのは、「神と人との双方に対して自己を主張する傲慢」です。神様に対して自己を主張する傲慢とは、自分が神様によって造られた者、被造物であることを忘れ、自分がまるで神様と同じであるかのように考え、振る舞うことです。また神様に対する傲慢は、人に対して、隣人に対して自己を主張する傲慢と切り離すことができません。同じく『新約聖書のギリシア語』によれば、「ヒュブリス、気ままな傲慢、侮辱は、人を冷たい、突き放した態度で傷つけ、うしろからその人がひるむのを見ている心で」あり、「傷つけるために傷つけることであり、つねに、傷つけた人を故意にいやしめようとする下心がある」のです。ルカ福音書の著者は、この言葉を用いることで、主イエスが身体的にも精神的にも大きな苦しみと痛みを受けられた、その根本には、人間の神様に対する傲慢と、隣人に対する傲慢があることを見つめているのです。
 神様と隣人に対する傲慢こそ、私たち人間の罪です。私たちは神様によって造られ、命を与えられ、生かされているにもかかわらず、自分が被造物であり、神様が創造主であることを忘れ、神様に背いて、自己中心的に、自分勝手に、自分の力を頼みとして生きようとします。私たちは神様が私たちのところに遣わしてくださった独り子を拒みます。神様が差し出してくださった愛を拒むのです。また私たちが神様を忘れ、自分勝手に生きるとき、私たちは隣人に対しても傲慢になります。神様を忘れ、神様の眼差しを無視するとき、私たちは自分が間違っているかもしれない、と思わなくなるからです。神様こそが絶対であり、自分は間違うことがある、いやしばしば間違ってばかりいるということに気づけず、自分こそが絶対であり、自分ではなく相手が間違っていると思うようになり、自分の正しさを主張して相手を傷つけたり、貶めたりするのです。そういうことが私たちの社会で、ネットで、テレビで溢れかえっています。いえ、他人事のように言って済ませるわけにはいきません。ほかならぬ私たち自身が隣人を悪く言うことで、貶めることで、自分の正しさを守ろうとしているのです。私たちは神様が差し出してくださった愛を拒み、隣人が差し出す愛を拒む者であり、神様を愛せず、隣人を愛せない者なのです。ここに私たちの傲慢があり、罪があります。この私たちの傲慢が主イエスを侮辱し、十字架に架けて殺しました。主イエスに精神的にも身体的にも大きな苦しみと痛みを負わせたのです。

私たちの傲慢と罪をすべて負って
 私たちは神様と隣人とに対して傲慢に生きてしまう自分を必ずしも「それで良い」と思っているわけではないでしょう。自分の傲慢さに気づいて愕然とし、そうならないよう気をつけようと思ったり、頑張ったりします。でも私たちは自分の力では決して自分の傲慢さ、罪から逃れることはできないのです。だからこそ私たちの傲慢、罪は一層深刻である、と言わなければなりません。私たちは自分の力では逃れることのできない傲慢さに捕らえられ、神様に背き、隣人を傷つけて生きている自分自身に苦しみ、幻滅して生きているのです。しかしまさにそのような私たちのために主イエスが十字架で死んでくださいました。神様を無視する私たちの傲慢さが主イエスを十字架に架けて殺したにもかかわらず、その十字架の死によって、主イエスは私たちを傲慢と罪の支配から解放してくださり、救ってくださったのです。本日共に読まれたイザヤ書53章は、この主イエスのご受難と死を指し示しています。その8節には「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」とあり、11節には「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」とあり、12節には「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」とあります。「わたしの僕」と言われている神様の僕によって、ここで告げられていることが実現すると預言されているのです。そしてこの預言が実現したのは主イエス・キリストにおいてです。神様の独り子イエス・キリストこそ「わたしの僕」、神様の僕であり、私たちの背きのゆえに神様の手にかかり、私たちが正しい者とされるために私たちの罪を自ら負って、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられてくださったのです。私たちの過ちを担い、神様に背いた者である私たちのために執り成しをしてくださったのです。主イエスが自分自身の力ではどうすることもできない私たちの傲慢と罪をすべて負ってくださり、十字架で死なれることによって、私たちは傲慢と罪の支配から解放されたのです。

主イエスの言葉が分からない
 主イエスの三度目の受難予告が語られた後、34節でこのように言われています。「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」。三回目であるにもかかわらず、しかも一回目、二回目よりも詳しく予告されているにもかかわらず、十二人の弟子たちはこれらのことが、「何も分からなかった」し、主イエスの言われたことが「理解できなかった」のです。三回目なので、しかも今までよりも詳しいので、すべては分からなくても少しは分かったとか、少しは理解できた、と言われているなら分かります。しかしそうではありません。何も分からなかったし、何も理解できなかったのです。主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスの最も近くにいた十二人の弟子たちですら、主イエスの死と復活が分かりませんでした。それは、主イエスが死ぬはずはないと思っていたとか、復活するなんてあり得ないと思っていた、ということではないでしょう。そうではなく主イエスの十字架の死と復活が、自分と関わりのあることとして分からなかった、理解できなかった、ということです。主イエスが自分のために十字架で死なれるとは思っていなかったのです。このように彼らが主イエスの言われたことを理解できなかったのは、「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」いたから、と言われています。主イエスの言葉の意味が隠されているというのも、その言葉の一つ一つの意味が分からないということではなく、主イエスが告げられたことの本当の意味が分からなかった、つまり主イエスの言葉を他人事としてではなく、自分のこととして受けとめることができなかった、ということでしょう。この「隠されている」という言葉は、「覆いが掛けられている」という意味の言葉です。「覆いが掛けられていた」ので、十二人の弟子たちは主イエスの言葉の本当の意味が分からなかったのです。

覆いが取り除かれるとき
 ですから主イエスの言葉の本当の意味が分かるためにはこの覆いが取り除かれなければなりません。それは、いつなのでしょうか。いつ、弟子たちは主イエスの言葉の本当の意味が分かるのでしょうか。それは、十字架で死んで、復活された主イエスが弟子たちに出会ってくださり、聖書を説き明かしてくださったときです。そのことを通して、三回目の予告でルカ福音書だけが見つめている、主イエスの十字架と復活が旧約聖書全体の成就であると分かったときなのです。
 この福音書の24章44節以下では、この「覆いが取り除かれるとき」について語られています。復活の主イエスが弟子たちに出会ってくださり聖書を説き明かしてくださったことが語られているのです。44節でこのように言われています。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、あなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、31節の「預言者が書いたこと」と同じように旧約聖書全体を指しています。本日の箇所で主イエスが十二人に予告されたことが、「あなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」であり、ご自分について旧約聖書全体に書いてある事柄は、必ずすべて実現すると、ご自分の十字架と復活は旧約聖書全体の成就であると言われていたのです。しかしそのとき弟子たちは何も分からなかったし、何も理解できませんでした。それが分かったのは、続く45節にあるように、主イエスが「聖書を悟らせるために」弟子たちの「心の目を開いて」くださったときなのです。そのとき、主イエス・キリストが苦しみを受け、十字架に架けられて死なれ、三日目に死者の中から復活したことが旧約聖書全体の成就である、と分かったのです。覆いは弟子たちの心に、そして私たちの心に掛かっています。私たちは自分の心に掛かった覆いを自分の力では決して取り除くことができません。ただ復活の主イエスが出会ってくださり、聖書を説き明かしてくださることによってのみ、私たちの心に掛かっている覆いは取り除かれるのです。

この私のために
 この夕べ、私たちに与えられた箇所は、主イエスがご自分の死と復活を予告された箇所であり、先週共に祝ったイースターよりも前の出来事です。しかしこの箇所は、主イエスの復活の光の下で読むときに私たちに慰めを与えます。復活の光に照らされて読むなら、この箇所は、ただ弟子たちが主イエスの言葉が分からなかったことだけを語っているのではなく、十字架で死なれ復活された主イエスが出会ってくださるときに、心に掛かった覆いが取り除かれ、弟子たちが主イエスの言葉が分かるようになることをも見つめているのです。同じように私たちも、復活の主イエスが出会ってくださり、聖書を説き明かしてくださることによって、私たちの心に掛かった覆いが取り除かれ、主イエスの十字架と復活が聖書全体の成就であることを知らされます。聖書の本当の意味が分かるようになるのです。このことが私たちに起こるのは、主の日の礼拝においてです。主の日の礼拝において、復活の主イエスが私たちに出会ってくださり、私たちの心に掛かった覆いを取り除いてくださるのです。「心の目が開かれる」とは、心に掛かった覆いが取り除かれるとは、主イエスの十字架と復活を他人事としてではなく、自分のこととして受けとめるようになる、ということにほかなりません。この私のために、この私の、自分ではどうすることもできない傲慢と罪のために主イエスが十字架で精神的にも身体的にも苦しみを受けられ、死んでくださり、そして復活して、この私を傲慢と罪の支配から救い出してくださった、と受けとめるようになるのです。私たちは、なお日々、神様と隣人に対して傲慢であることも少なくありません。神様を無視し、隣人を傷つけてしまうこともしばしばです。そのことに愕然とすることもあります。しかしそのような私たちのために主イエスが十字架で死に、復活されたことに目を向けるのです。主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みに、私たちがすでに入れられて生かされていることに目を向けるのです。そこにこそ本当の慰めがあるのです。
 これから聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、神様と隣人に対する私たちの傲慢さを圧倒する神様の救いの恵みを体全体で味わいます。ほかならぬこの私の傲慢と罪のために主イエス・キリストが死んで、復活してくださり、私たちをその支配から救ってくださった、その救いの恵みを味わうのです。私たちは聖餐において、心の覆いを取り除かれ、救いの恵みの内に生かされているところに与えられる、本当の慰めを豊かに受けるのです。

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