夕礼拝

最も良いものを与えたい

「最も良いものを与えたい」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記 第2章23-25節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第7章7-12節
・ 讃美歌: 351、483

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうす れば、開かれる」。これはただの格言ではありません。この教えは、要求することが、大事だ。見つけようと 、探し始めることが大事だ。根気よく頑張ることが大事だという道徳的な教えではありません。これらの言葉 は、イエス様のわたしたちに対する、祈りへの招きです。これらの言葉には、隠された大前提があります。そ れは、「求める」べき相手がいらっしゃるということです。今日わたしたちは、そのお方に目を注ぐこと、ま たその御方とどのように向き合い、祈っていくかを再確認すること、その御方がどのようなお方であるか、ま たその御方が何をしてくださったか、その御方が何をわたしたちに望んでおられるかを知ることを、イエス様 から、求められています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という言葉を聞く時に、素直にその言葉を受け止めるということ よりも、疑いの念を抱く人が多いのではないかと思います。それは「本当に、求めれば与えられるのか、探せば 見つかるのか、門をたたけば開かれるのか」、という疑問です。今は受験シーズンの終盤です。自分の希望す る学校に向かって多くの受験生たちが努力している。熱心に、「どこどこの大学に入りたい」と願い求めれば 、必ず実現するとは言い切れません。必ずしもそうではない、ということを私たちは知っています。熱心に求 めても、何でもそのように与えられるわけではないということを、いろいろな体験を重ねていくことによって、 経験的に知っていきます。そのような経験を元にして、イエス様の言っておられることを聞くと、その教えが、 なんとも虚しいことかと判断してしまいそうになります。しかし、わたしたちの経験だけを元に、イエス様の 言葉の意味を解釈し、判断することは、あまりに一方的で、それではイエス様の言わんとする事を受け止める ことができなくなってしまいます。ここで、冷静に、もう一度これらの言葉と向き合い、聞いていきたいと思 います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」この「与えられる 」と「開かれる」という言葉は、実は、受動態、受身の形で表わされています。受け身であるということは、 与える、開く方が別におられるということが実は隠れています。実はイエス様はこの言葉を語る時に、求める者 に与え、門をたたく者に門を開く方の存在、意識しておられます。「探しなさい、そうすれば、見つかる」と いうのは受身の形ではありませんが、他の二つとの関連で言えば、ここでも、探す者に与え、見出させて下さ る方の存在が考えられていると言えるでしょう。求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開 いて下さる方の存在、それこそが、わたしたちが先ほど経験を元に考えた「求める者には本当に必ず与えられ るのか」という疑いに、欠落していることです。求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開い て下さる方、それは勿論父なる神様です。この神様を抜きにして、ただ「求めれば与えられる、探せば見出せ る、門をたたけば開かれる」ということだけを受け止めていこうとするならば、それこそ何の根拠も保証もな い、むなしい教えになってしまいます。9、10節の「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を 与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」と、続く11節の「このように、あなたがたは悪い 者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求め る者に良い物をくださるにちがいない」というイエス様の言葉は、この神様の存在を私たちに気づかせようさ れている言葉です。あなたがたは自分の子供がパンを欲しがっている時に石を与えるか、魚を欲しがっている のに蛇を与えるか、そんなことをする親はいないはず。そのあなたがたには天の父がいる。その父は、子である あなたがたに必ず良いものを下さる。あなたがたは悪い者、罪ある者、問題や欠けを多く持った者であっても 、自分の子供にはできるだけ良いものを与えようとするではないか。まして、天の父であられる神様、完全で あり全能であられる方が、子として愛していて下さる私たちに良いものを与えて下さらないはずはない。これ らの言葉を語り、イエス様はわたしたちの目を、天の父なる神様に向けようとされ、また神様とわたしたちが 、父と子の関係であることを再認識させようとされているのです。
ここでは、人間の親の姿から天の父なる神様のお姿が、類推されて語られています。神「親は必ず自分の子 供に良いものを与えようとする。」このことはなんとなしに受け止められるような気がします。しかし、中に はこの命題に、疑問を持つ人もいるかもしれません。わたしも、今は一人の子の親です。息子に良い食べ物、 良いおもちゃ、良い寝床を与えたいと、純粋に思います。しかし、今、子どもたちの目線から言えば、本当に 必ず、親が良いものを与えてくれているのかということを疑問に思うことがあると思います。最近、神奈川県 に住む五歳の幼児が、食べるものを与えられないで、餓死してしまったということもありました。親だから子 供を愛し、子供のために必ず良いものを与えようとしている、ということは、当たり前のことではないという 現実があります。それは、そのような特別なニュースになるようなことだけの話ではありません。わたしたち は、人として、親である自分は子供に良いものを与えようとしているという思いがあります、しかしわたした ちが、子供のために本当に良いものが何かを知っており、それを与えることができているかというと、そこに は疑問符がつきます。良いものを与えようと思ってはいるけれども、本当に良いものを与えることができてい るとは限りません。わたしも、息子が、アンパンマンせんべいも好んで食べるので、このせんべいが好きなんだ ろうなと思い、事あるごとにあげていたんです。最近息子は離乳食を食べ始めているのですが、じつは離乳食 を上げ始めた最初の頃、あんまり、しっかりと離乳食を食べてくれなかったんです。ちょっと妻もそれが心配 になり、市が開いている離乳食に関する勉強会に出て、そこの栄養士の方と相談したところ、栄養士の方は、 おそらく「アンパンマンせんべいが原因だろう」言いました。離乳食よりも、固いものを先に食べると、その 食感に慣れてしまい、硬さのない離乳食を好まなくなるとのことでした。わたしは、それで後悔しました。息 子が離乳食を食べないから、お腹が空いているだろうと思い、好きなアンパンマンせんべいをあげたのですが 、まさかそれが原因だったなんて思ってもみませんでした。わたしは、良かれと思って、あげているものが、 良くないものだったんです。このようにわたしたちは、よかれと思ってはいても、パンの代わりに石を与えて いたり、魚の代わりに蛇を与えたりしてしまっていることがあるでしょう。わたしたち、人間の親とは、不完全 なものであり、また子を傷つけてしまうこともある罪ある者なのです。しかし、神様は完全な方です。神様は、 わたしたちの父として、何を、どのタイミング与えるのかをすべてご存知な方です。その父である神様は、子 供である私たちに本当に良いものを与えたいと願っており、実際に与えてくださるのです。
「信頼すべき父なる神様が、私たちに良いものを与えて下さる」これが、求める者は与えられ、探す者は見出 し、門をたたく者は開けてもらえることの根拠です。神様が、父としての愛とお考えをもって、私たちに与えよ うとしておられる良いものを私たちは受けます。ですからこれは、私たちが自分の欲しいものを何でも手に入 れることができる、ということではありません。このイエス様の教えは、私たちの望みや願いが何でもかなう 、という話ではないのです。与えてくださる神様のことを抜きにした願望というのは、それは単なる独り善が りな欲望です。イエス様がここで、「求めなさい」「探しなさい」「叩きなさい」と言われましたが、そのこと をすれば、ポンっと魔法のように願ったものが出てくるというわけではありません。わたしたちが「求めなさ い、そうすれば与えられる」という話を最初に聞いた時には、与えてくださる対象ということよりも、「ちゃ んと与えられるのかどうか」ということで頭がいっぱいになり、「与えられた」状況を考えた時にも、それは なにか夢が実現した、大学に合格した、苦しい病や苦しい状況から脱することができたなどなど、そのような 状況ばかりを想像します。わたしたちは「与えられた」という受動的なイメージではなく、願ったから叶った という、自分の出来事として、あくまでも自分の範囲内で起こった事柄としてイメージしていました。イエス様 はそのような意味で、求めるならば、与えられると言われたのかと言えば、そうではありません。むしろイエ ス様はここで私たちに教えてくださろうとしておられるのは、父なる神様との交わりです。神様が天の父とし て、私たちに必要なもの、良いものを与えて下さる、そのことは既に読んできた6章32節に語られていました。 ここは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と教えられている所です。私たちの 日々の生活には、このような様々な思い悩みがあります。しかしその中で、私たちに必要ものをすべてご存じ であり、それを与えて下さる天の父を信じて、その父の子として生きていくところに、思い悩みにおしつぶさ れてしまわない歩みが与えられるのだということをイエス様が教えてくださりました。本日のところもこれと同 じことが教えられています。良いものを与えて下さる天の父のもとで、その子として生きるところに、本当に 希望をもって積極的に、求め、探し、門を叩きつつ生きる歩みが与えられるのです。

ローマの信徒への手紙第8章32節に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方 は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。神様はわたした ちを子どもとするためにその御子を私たちのために死に渡して下さったのです。父なる神様はこの独り子であ るイエス様をわたしたちに差し出され、その独り子を信じ独り子に結ばれ独り子に従うもをご自分の子として 下さりました。神様が私たちに与えて下さる良いもの、その第一のものであり、最大のものはイエス様であると 言ってもよいでしょう。父なる神様は、イエス様を差し出されるほどに、わたしたちを愛して下さり、今子と して愛してくださっています。そのイエス様を差し出されるほどまでに、愛されているわたしたちが、地上を 生きるに必要なものを与えられないことがあろうか、そんなことは絶対にないとロマ書でパウロは断言してい ます。 求めたり、探したり、門をたたいたりしなくてもよいのではないか、何故わざわざ「求めなさい、探しなさい 、門をたたきなさい」と言われるのか、わたしたちは疑問を持ちたくなります。確かに、神様が天の父として 、子である私たちに良いものを与えて下さるというなら、それは私たちが求めたら与える、求めなければ与え ない、ということではないはずです。親は子に、子が求めなくても、あるいは求めるより先に、良いものを与 えます。求めなければ与えないという関係は真の親子の関係ではないでしょう。うちの息子は、小さい時は求 め方もわかりませんでした。それでもわたしたちが、求めるより先に与えていました。必ず与えてくださるこ とが前提でイエス様は、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われます。ここには、この教え のもう一つの大事なポイントがあります。わたしたちが父なる神様に対して、求め、探し、門をたたくことが 大事なのです。それは、祈ることです。先ほどイエス様はここで、求める者に与え、探す者に見出させ、門を たたく者に門を開いて下さる方に私たちの目を向けさせようとしておられると申しました。それは具体的には 、私たちがこの父なる神様に祈ることなのです。「求める、探す、門をたたく」というのは、自分の望んでい ることを得るためにあれこれと努力する、ということではなくて、神様に祈ることです。私たちは祈りの中で こそ、天の父なる神様に対して求め、探し、門をたたくことができるのです。
父なる神様が、私たちに、祈ることを求めておられます。私たちが神様に祈り求めることを願っておられ、 待っておられます。前にマタイによる福音書の「主の祈り」の前の所の部分の説教の時に、祈らないということ はどういうことなのかということを、説明しました。それはこのようなものでした。「神様とわたしたちは、父 と子の関係です。実際にある、人間の親と子の関係を思い浮かべるとわかることがあります。親は、子がなに も自分に語りかけなくても、愛しているが故に、住む場所も、食べるものの、用意し与えます。また良いもの を与えようとします。子が求めなくても、用意します。与えるものと与えられるものという関係は成り立って います。しかし、その関係があったとして親子に会話がなければ、どうでしょうか。その関係は冷えきってい るとしか言えません。祈りは会話です。祈りがないというのは、会話のない家庭のようなものです。わたした ちが父なる神様に祈らないというのは、子が親になにも話しかけないということと同じです。わたしたちが与 えられているのに父なる神様に祈らないという状況は、親が家に住ませ、いろいろなものを整え与えているの に、子は親を無視してなにもいわないような状況と一緒なのです。それを知った今、どうして祈らないでいい といえるのでしょうか。」ということを語りました。
わたしたちが、求め、祈る時、そこでわたしたちと神様との間に対話が成り立ちます。そして交わりが生まれ ます。神様は私たちとの間にそういう対話、交わりを持つことを願っておられるのです。「求めなさい、探し なさい、門をたたきなさい」という教えはその神様の願いの表れです。神様は、わたしたちとの対話を求めて おられるのです。神様は、私たちがご自分に向かって求め、祈ることを待っておられ、それが行われた時、喜 んで下さるのです。祈りとはそういう神様との交わりに生きることです。父なる神様はわたしたちが祈ってい ない時も、わたしたちを支えてくださっていました。しかし、今わたしたちに必要なものをすべてご存じであ り、それを必ず与えて下さる天の父なる神様を見つめる時に、わたしたちは、与えくださっていた方に感謝し て、またそれらを求めて祈ることができるという幸いが与えられるのです。イエス様は今日、父なる神様がど れほど私たちを愛しておられるのか、良いものを与えようとされているのかを、今日のみ言葉を通して再確認 させてくださり、またなによりも祈りによる父なる神様との交わりに生きなさいとわたしたちを促しておられ ます。
最後に残された12節の御言葉を聞いていきましょう。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、 あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」これは、黄金律と言われている箇所です。「だ から」、という言葉が最初に付いているので、前の文章との関わりがあるともされていますが、これは、5章 以来の、「山上の説教」において語られてきたことの全体を受けているということが考えられています。だか ら、この山上の説教の要約がここに書かれていると考えてもよいでしょう。しかし、今回は、この前の部分と 関係でこの部分でイエス様がなにをいわんとしているのかを聞いていきたと思います。この黄金律は当時のユ ダヤ教の社会でも浸透していた考えでした。それは、「あなたがされて嫌なことを、他者にしてはならない」 というネガティブな形で表現される黄金律でした。それを、イエス様は、ここであえて肯定的な言い方に変え 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と言われました。一見「人にして もらいたいことを、なんでも人にしなさいという」この教えは、とても良い教えのように聞こえます。良き行 い隣人にわたされ、どんどん広がっていくということをわたしたちはイメージできます。しかし、もし単純に 言葉だけ受け取ってしまうと、とても弱いものになります。この教えには、弱点があるのです。この教えの論 理ならば、「自分を殺してほしい」と心から願っている人がいるのならば、「人を殺してあげる」ということ が成り立ちます。ただ単に言葉だけを受け止める時、この黄金律は、危険な考えを生み出してしまう可能性が あるのです。わたしたちがこの教えを単純に受け止めてしまうと、黄金ではなく、ただの黄金に見えるように表 面だけ金属加工されただけの教えとなってしまうということです。メッキが剥がれてしまえば、ボロボロの教 えになってしまうのです。イエス様の愛によって、「この黄金律は真に金になった」といった人がいました。 律法が、イエス様によって完成されるように、この黄金律もキリストの愛をもってして完成します。
肯定的な表現で表わされるイエス様の語る黄金律は、隣人との交わりを意識しておられます。「あなたがさ れて嫌なことを、他者にしてはならない」という否定的な表現の黄金律に従うところには、積極的な他者との交 わりは生まれません。イエス様の「人にしなさい」という肯定的な言葉には、積極的な他者への近づき、交わり を意識しておられることがわかります。なによりも、イエス様の生涯を見つめるとき、ここで言われている言 葉の真意がわかります。
神の子であるイエス様がこの世に来て下さり、人となって、わたしたちの近くにまで来てわたしたちと関わっ てくださいました。またそれだけでなく、一番に低くなられ、痛み苦しみ、十字架を背負わされました。その受 難には、わたしたちのもっとも暗い本性、もっとも恥ずべき本性、弱さや苦しみを生み出す本性、それらの根 にある罪を背負うために、わたしたちの最も暗い所、深い所にまで近づいて来てくださったことが表わされて います。十字架上で亡くなられる時イエス様は、わたしたちに最も近づいてくださりました。わたしたちの深く に根ざしている罪を赦すために、深くにまで来てくださった。そのようにわたしたちの深い場所にまで近づい てきて下さり、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを新たなものとするために実際にわたしたちと関わり、交 わり、結びつくまで近づかれ、関係してくださった。イエス様が他人であるわたしに極限までに近づいてくださ ったということに、他者への近づきの意味が示されています。実際の交わりその極限までにわたしたちに関わ ってくださったというイエス様の愛の光に照らされることで、黄金律もまた、律法と同様に完成させられるの です。
わたしたちが、このイエス様の犠牲を知った上で、わたしたちが「してほしいと願うこと」を考えなおしてみ たいと思います。イエス様の犠牲を思い起こす時、わたしたちが最初に思うのは、御子を犠牲にさせてしまった という己の深き罪ではないでしょうか。そしてその罪のために苦しまれたイエス様と、わたしたちのせいで愛 する子失ってしまうという苦しみを受け止められた父なる神様からの「赦し」をわたしたちは求めるのではな いでしょうか。わたしは、この受難節レントの時になるといつもそのようなことを思います。隣人を傷つけて しまった、神様を忘れてしまったという、そのような罪の行い一つ一つに対して後悔をしますが、なによりも、 その行いの根源にある罪のために、イエス様が死なれたということを、後悔します。わたしの罪のために、わ たしの罪のせいで、イエス様が十字架に架けられた、そのわたしの罪のせいでイエス様はつばを吐きかけられ 、侮辱され、鞭打たれ、釘打たれ、槍で脇腹を貫かれ、死なれた。わたしがイエス様を苦しめ死なせたんだ、 その子のことを最も愛してした父なる神様を同時に苦しめたんだと思う時、涙が出てきます。ですから、この レントの時、レントの時以外も本当はいつも思っていたいのですが、そのことを忘れてしまうわたしは、この レントの時に、それらを思い出し、そのイエス様を苦しめ死なせたわたしを赦してくださいと祈っています。 しかし、イエス様は「あなたのその罪を赦すためにわたしは死んだのだ」「あなたは赦されている」「だから顔 をあげ、立ち上がりなさい」と言われます。
わたしたちは、イエス様の犠牲によって罪を赦されたものですが、罪のために犠牲となった御子見つめる時 、そのしてしまったことを「赦してください」といまだに祈り求めなければいけないものであります。ですか ら、わたしたちが、今も求めているものは「赦し」です。このことを踏まえてイエス様の黄金律を見直すと 、「あなたが赦されたいと願っているそのことを、隣人にしてあげなさい」と言われていることが分かります 。
この山上の説教で、イエス様は、隣人を赦してなさいと何度も言われています。それは主の祈り大事な要素で もありました。あなたは、赦しを求めている。そして、赦されている。だから、自分対して、赦しを求めてい るものに、あなたが赦しを与えなさいと神様は言われておられるのです。その赦しと、和解の関係から、わた したちは隣人との真の交わり始まります。神様とわたしたちとの相互の交わりも、わたしたちが赦されること から、始まりました。神様は、赦しと和解から始まる隣人との関係を、交わりを結びなさいとここで言われて いるのです。
わたしたちは、今日、祈りにおいて父との交わりを深めること、隣人に近づき赦しと和解をもって交わっていく ことを、イエス様から勧められています。これが、イエス様が山上の説教で語ろうとしている要の部分です。 父なる神様を愛し、隣人を愛することの具体的な行いの勧めを、イエス様から今日わたしたちは聞きました。 この言葉を受けた今が、わたしたちが変えられ、動き出す時です。

関連記事

TOP