夕礼拝

主イエスの権威

「主イエスの権威」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第45章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第11章27-33節
・ 讃美歌 ; 202、353

 
再びエルサレムに
「一行はまたエルサレムに来た」。再び主イエスはエルサレム神殿にやって来ました。マルコによる福音書は第11章からエルサレムでの主イエスの姿を記しています。 主イエスは、日々神殿を訪れ、御業を行い、又、人々と議論をしながら、ご自身のことを示されました。直前の箇所には、主イエスが、エルサレム神殿の境内で売り買い していた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返されたことが記されていました。主イエスは祈りの家である神殿で人々が自分の思いのままに 振る舞い、自分の家であるかのように占有していたことに対してお怒りになったのです。
 神殿祭儀に従って行われる礼拝を整えていく中で、人々が暴利を貪っていたのです。それだけではありません。一部の人々の祈りが妨げられていたのです。当時の神殿 には中央に大祭司が年に一度だけ入れる、「至聖所」がありました。その周りに祭司だけが入れる「聖所」があり、その周りにユダヤ人の男性だけが入れる「イスラエル 男子の庭」、その周りにはユダヤ人の婦人だけが入れる「イスラエル婦人の庭」、そして、その外側に異邦人が入れる「異邦人の庭」があったのです。祭儀律法に従って、 神殿が階級によって重層的な構造をしていたのです。そして、最も外側にある「異邦人の庭」が、ここで境内と言われている場所です。異邦人のための祈りの場がユダヤ 人たちの礼拝を整えるための場所になっていたのです。主イエスは、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という詩編の言葉を引用しつつ、 人々が、その家を強盗の巣にしてしまっているとおっしゃいます。神殿が、すべての人の祈りの家ではなくなっていたのです。
 ここで、主イエスが語っているように神殿を強盗の巣にしている張本人は、この神殿の中心にいた、祭司長であり律法学者たちでした。祭儀律法を担い、律法によって、 自らを権威づけていた人々です。この時、神殿においては、祭司長や律法学者こそ、祭儀を含めた、神殿の一切を司る権威を持っていたのです。主イエスにしてみれば、 この人々こそ、神の家であるはずの神殿を我が物顔で占有して、自分たちの家であるかのように振る舞っていた人々だったのです。しかし、一方の彼らにしてみれば、 主イエスの行動は我慢ならなないものです。自分たちが権威を持って支配している神殿が、いきなり荒らされて、さらに、強盗呼ばわりされたのです。この主イエスの 行動を受けて、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスの言葉を聞いて、「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」のです。

何の権威によって
 彼らは、すぐに主イエスを捕らえることは出来ませんでした。群衆がイエスの教えに打たれていたため主イエスを恐れていたのです。そのために、祭司長、律法学者、 長老たちが主イエスの下にやって来て尋ねたのです。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」。主イエスに対する怒りを 全面に出すことをせずに、理性的に論争を挑むことによって、主イエスを追いつめようとしたのでしょう。ここで問いかけられているのは、主イエスの神殿での乱暴な 振る舞いは何の権威によって行っているのかという問いです。権威の所在について問いかけたのです。
 この神殿において、権威を持っているのは、祭司長や律法学者たちです。彼らは、当時の宗教的指導者であり、律法の専門家でした。律法について詳しく学び、律法を 厳格に守る生活をすることで、これらの地位についていたのです。正式にラビに任命されて、宗教的な事柄の一切について権威をもっているのです。おそらく自分たちこそ、 神からの権威によって行動していると自負していたことでしょう。彼らにしてみれば、主イエスは、ナザレの大工の息子でしかありません。何か特別な地位にあるわけでも ない主イエスが、いくら人々の人気があるからと言って、いきなり神殿に入って来て、境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっく り返したのです。彼らから見れば、秩序の破壊でしかありません。これだけのことをするならば、それ相応の権威がなければ出来ないはずです。そのようなことが出来る 権威はどこにあるのかと問いただしたのです。これは、私たちの感覚からしても最もな問いです。私たちの生活する社会においても、どのような職務であれ、ある権威に よって、その職を実行する地位に任命されることによって、その職責を果たす者になるのです。権力を行使する正当な立場を与えられるのです。

ヨハネの権威はどこから
 主イエス、祭司長、律法学者たちに問い返します。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに 言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」。ここで、主イエスは洗礼者ヨハネのことを持ち出します。洗礼者ヨハネは、 神から遣わされて、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた人でした。神によって立てられて、人々に神に立ち返るべきことを語ったのです。そうすることによって、主イエスの道備えを したのです。洗礼者ヨハネは、まさに天からの権威によって行動したのです。
 しかし、マルコによる福音書第6章に記されていますが、この洗礼者ヨハネは、神の権威によって行動したがために、領主であったヘロデによって首をはねられ殺されて しまいます。しかも、ヘロデは、ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていたにもかかわらず、殺害するように命じてしまったのです。ヘロデは、宴会の席で、義理の 娘が踊って人々を喜ばせた時、その褒美として「何でもやろう」と約束します。娘は、ヨハネを憎んでいた母ヘロディアに唆され、洗礼者ヨハネの首を要求したのです。 ヘロデは、人々の前で約束してしまった手前、仕方なく、自らの体面を保つためにヨハネを殺してしまうのです。洗礼者ヨハネの殺害を命じたのは、ヘロデです。しかし、 このヨハネの殺害ということにおいては、律法学者やファリサイ派の人々も決して無関係ではありません。彼らも又、ヨハネの言葉に従わなかったのです。だからこそ、 ヨハネは牢に捕らえられていた時も、ヘロデの振る舞いを咎めることもなかったのです。彼らも、ヨハネは天からの権威で行動していることを認めていなかったからです。 そのような中で、ヨハネは死んでいったのです。洗礼者ヨハネの殺害は、この世の権力にある者が、神からの権威によって行動する者を殺した出来事であったと言って良い でしょう。神殿において権力を握っていた、祭司長や律法学者も又、ヘロデの立場にあったら同じ決断をしたことでしょう。

祭司長、律法学者の議論
 主イエスの問いかけに対して、彼らは、すぐに返答することが出来ませんでした。そこで、どう答えるべきかを論じ合うのです。31節には次のようにあります。 「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……」。もし、ここで「天からのものだ」 と答えれば、何故ヨハネを信じずに殺してしまったのかということになります。では自分たちが行動した通りのことを語って、「人からのものだ」と答えればよかったので しょうか。しかし、そうすることも出来ませんでした。「彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネを本当に預言者だと思っていたからである」とあります。「預言者」という のは、神からの権威によって神の言葉を語る者のことです。人々が神からの権威によって語っていることを認めていたのです。洗礼者ヨハネを信じ、その教えを受け入れた 人が大勢いたのでしょう。そのため、「人からのものだ」と言ったとしたら、群衆からの支持を失いかねないのです。祭司長や律法学者が依り頼んでいた権威は、真の神からの 権威ではありませんでした。そのため、彼らは、民の上に立って権威を振るっていながらも、人々を恐れていたのです。もし本当に神からの権威によって立てられているのであれば、 人々を恐れることなく、ヨハネの教えの誤りを指摘して、人々を導いたはずです。

わからない
 最終的に彼らは「わからない」と答えます。彼らは、この問いかけに対して明確に答えるのを避けました。彼らは、はっきりと答えることが出来ませんでした。それは、 彼らが自分自身を守ろうとしたためです。自分たちが、宗教的指導者として人々によって認めら続け、支持され続けることが、彼らの目的でした。
 主イエスは、彼らが答えられず「わからない」としか答えられないことを分かっていて、彼らを追いつめるために、このような問いかけをされたのではありません。むしろ、 人々に真の権威を示そうとされているのです。主イエスが、この問いによって、先ず、権威には人からのものと神からのものがあることを示しています。そして、本当に従う べき権威は、人からのものではなく、神からのものなのだということを明確にしているのです。
 その上で、主イエスは、ヨハネが悔い改めの洗礼を伝えたのは、人からの権威によってではなく、神からの権威によってであったこと、更には、主イエスご自身が行って いる御業も、神からの権威によって行われているということを示そうとしておられるのです。
 さらに、ここで主イエスの問いかけによって、祭司長や律法学者がよって立っている権威が、神からのものではないことがはっきりします。彼らは、群衆を恐れていました。 それは、ヨハネを殺したヘロデと同じです。彼らの権威が神からのものではなく、人からのものだったからです。結局、彼らの行動は、人々の顔色を伺いつつ行われているのです。 主イエスの問いかけに対する返答によって、祭司長たちや、律法学者たちは、自らが本当に神からの権威によって行動しているのではないことを露呈してしまいました。

  人からの権威によって
 自分たちにこそ権威があると考える者によって、悔い改めを迫るヨハネは殺されました。そして、今神殿を真の神の家としようとして行動する主イエスも又、殺されようとしています。 人々が真の権威を持った者の言葉に従うことが出来ないからです。権威があると思いこんでいる者は、自らを悔い改めることが出来ないのです。神の権威が示される時、人間は、その前で 悔い改めなくてはなりません。そして、本当の神からの権威に自らを服従させなくてはならないのです。しかし、そうすることよりも、自らが持っている権威に固執してしまうのです。そ して、権威を持った者として振る舞い続けるために、神の権威によって立てられた者を殺してしまうのです。人からの権威によって、自分たちの思いを実現しようとしている者は、神の権 威によって行動する者と激しく対立せざるを得ないのです。
 この祭司長や律法学者の姿勢は、私たちと無縁のものではありません。私たちは、誰しも、主イエスの権威に対して疑問を持つことがあります。主イエスには、本当に神の権威があるの かと疑問をもちます。私たちは、直接、地上を歩む主イエスと接することは出来ません。しかし、御言葉を通して、主イエス・キリストを示されます。しかし、御言葉によって、示されて いる神からの権威は本当に従うべきものなのかという疑問を持つのです。そして、時に、主イエスの振る舞いが神からのものであるのかということに対して、「わからない」と答 えてしまうことがあるのです。主イエスが、ご自身こそ、神の権威によって語っているということを示し御言葉を語っても「わからない」との判断を下すのです。それは、私 たちも、又、神からの権威に服することをどこかで拒んでいるからです。自らの権威を放棄することが出来ないのです。人間からの権威を追い求める一方で、自らを悔い改め、 真の神の権威の前に服することが出来ないのです。

はっきりとお答えにならない主イエス
 私たちが、主イエスの権威が神からのものであることを認められずに、「わからない」との態度を取っている時、主イエスの権威がどこからのものであるかを、主イエスは はっきりとお語りになりません。本当に神からの権威を認めるためには、私たちの態度が変えられなければならないのです。主イエスに向かってどのような権威があるのかを 尋ねる態度でいる時というのは、自分こそは権威ある者だと錯覚し、主イエスを見下す過ちに陥っているのです。自分を御言葉の上に置いて、御言葉の判定者に仕立て上げて いると言ってよいでしょう。そのような態度でいる限り、主イエスがたとえ、「私は神からの権威で御業を行っている」と主張したとしても、それを受け入れることは出来ま せん。主イエスの御業は、すべて、父なる神からの権威に基づいて行われます。しかし、ここで、そのことをはっきりとお語りになったところで、祭司長や律法学者が納得す るはずもありません。むしろ、「神を冒涜した」と思われるだけでしょう。主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とお答えに なるのです。
 主イエスは、ここで機知に富んだ質問を投げかけることによって、祭司長や律法学者たちの問いを封じこめた上で、この人々には、何も語らないという態度を示しているの ではありません。この後、主イエスは、人々にお語りになるのを止めてしまったのではありません。主イエスは常に問いかけながら、ご自身の権威を示しておられるのです。 これまでの主イエスの歩みがそうでした、そして、この時もそうです。この後続く第12章の1節には、「イエスは、たとえで彼らに話し始められた」と言って、ぶどう園と 農夫のたとえをお語りになるのです。ある人が、農夫たちに自分の畑を耕させ、収穫を受け取るために、僕を農夫たちの所に遣わします。しかし、農夫は僕を殺してしまいま す。僕だけでなく、愛する息子をも殺してしまうのです。このたとえの愛する息子とは主イエスのことです。主イエスは、ご自身が神のもとから来たことをたとえで示される のです。

十字架での示し
 主イエスは、この後、実際に人々の手によって殺されてしまいます。それによって、神の権威に反抗している者たちの罪のための贖いとなって下さったのです。そこで明ら かになることは、神からの権威によって行われる主イエスの業は、人からの権威に固執し、神によって立てられた者を受け入れようとしない者たちを救うための業に他ならな いということです。この主イエスの救いに与る時に、私たちは、神の御業の偉大さを思わずにはいられなくなります。
 主イエスは、神からの権威を振りかざして、人々の上に君臨しようとしたのではありません。確かに、人間が自分で造り上げた権威によって、神の家をわが者顔で占有して いる神殿に入って行き怒りをあらわにされます。けれども、その怒りによって神の権威を振りかざして人々を裁いたのではありません。むしろ人間が受けるべき裁きをご自身 が受けて下さったのです。自分の権威を守るために必死になって、キリストの御言葉に対立する者の救いのためにご自身を捧げられたのです。

神の権威に服しつつ
 主イエス・キリストの歩みは、神の権威に従って歩まれる歩みでした。その生涯の様々な御業は、すべて、神からの権威によって行われたのです。その歩みにおいて示される決 定的に重要なことは、主イエスの歩みは十字架における救いの出来事に向かっているということです。そこで自分が権威者であると錯覚している人々を罪から解放するために、 自らを捧げて下さっているのです。人々が人からの権威によって裁く裁きに身を委ねつつ、人々の救いを成し遂げて下さったのです。私たちは、この御業に触れる時に、神の権 威が主イエスにこそあると知らされるのです。その恵みを知らされつつ、私たちはキリストの権威に服するのです。神からの権威に服するとは、自らの主体性をなくした人間にな ることではありません。自由の無い奴隷のような歩みをすることでもありません。むしろ、神との関係を回復されて、罪の力から解放された本当の自由を歩むことなのです。私た ちは、地上において様々な人からの権威によって自ら行動し、又、その権威に縛られそれに服しつつ歩みます。しかし、そのような中にあっても、真の権威を知らされて、キリ ストに従って歩む中で、私たちは、人からの権威を越えた、神からの権威に服して歩む者となるのです。人々ではなく神を恐れつつ、御言葉によって歩み出すのです。

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