説教 「お前は神の子か」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第110編1-7節
新約聖書 ルカによる福音書第22章63-71節
二つの場面に分けられる
ルカによる福音書を読み進めてきて、本日は22章の終わりを読みます。続く23章では主イエスの十字架の死が語られています。私たちはこれから主イエスが十字架刑に至る一歩一歩を、その重苦しい場面を読み進めていくことになります。別の言い方をすれば、人間の罪が噴出している場面を読み進めていくことになるのです。
本日の箇所は二つの場面に分けられます。小見出しでも分けられていますが、63~65節と66~71節です。63~65節は、場面としては54~62節と同じ、大祭司の家での出来事ですから、両者を切り離して読むことはできません。その54~62節では、ペトロが「主イエスを知らない」と言ったことが語られていました。主イエスが人々に捕らえられ大祭司の家に連行されると、ペトロはこっそりついて行って、大祭司の家の中庭に入りました。しかしその大祭司の家の中庭で、周りの人たちから問いただされたペトロは、三度「主イエスを知らない」と答えました。「三度」とは「完全に」ということです。ペトロは完全に主イエスとの関係を否定したのです。そのようにペトロが答えたのは、彼が恐れと不安に支配されていたからです。主イエスと同じように自分が捕らえられることを恐れ、また大祭司の家の中庭で孤立し、周りの人たちから注がれる敵意ある視線を恐れました。ところがそのペトロを、主イエスが振り向いて見つめられたのです。主イエスが見つめてくださったことによってペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出します。そして大祭司の家の外に出て、激しく泣いたのです。
大祭司の家の庭と家の中
それに続く本日の箇所の63~65節にはこのようにあります。「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった」。このことが起こったのは、ペトロが三度「主イエスを知らない」と答え、主イエスに見つめられることによって主イエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた後ではありません。そうではなくそれと同時に、並行して起こりました。ペトロが大祭司の家の中庭で、周りの人たちから問いただされているときに、主イエスはその家の中で拘束され、見張りの者たちから侮辱されたり、殴られたり、ののしられたりしていたのです。「イエスを侮辱したり殴ったりした」は、直訳すれば「イエスを殴りながら侮辱し続けた」となります。見張りの者たちは一回だけ主イエスを殴って侮辱したのではなく、繰り返し殴りながら侮辱し続けました。「目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた」というのも同じで、一回だけではなく繰り返し尋ね続けたのです。大祭司の家の中庭ではペトロが「繰り返し」問いただされ、家の中では主イエスが「繰り返し」殴られ侮辱されののしられていました。そのただ中で、しかし主イエスは振り向いてペトロを見つめられたのです。そのまなざしは、ペトロを非難し裁くまなざしではありません。少し前に主イエスはペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われていました。主イエスのまなざしは、ペトロの信仰が無くならないよう祈るまなざしであったのです。主イエスは、孤立して周りの人の目を恐れ、主イエスとの関係を否定してしまったペトロを見捨てることなく、なお見つめてくださり、信仰が無くならないようまなざしを注いでくださったのです。
主イエスのまなざしの中で
殴られ侮辱されののしられ続ける中にあって、なおペトロの信仰が無くならないようにペトロを見つめられた主イエスのお姿に、十字架上の主イエスのお姿が重なります。主イエスは十字架上でご自分を十字架に架けた者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。主イエスが十字架上で彼らに注がれたまなざしは、ペトロに注がれたまなざしと同じであったのではないでしょうか。主イエスはご自分との関係を完全に否定し、取り返しのつかない罪を犯した、そのペトロの罪を、そしてペトロと同じように主イエスを拒んでしまう私たちの罪を赦し、私たちの信仰が無くならないために十字架で死んでくださいました。ペトロに注がれた主イエスのまなざしが、十字架上の主イエスのまなざしが、すべての罪人に、私たち一人ひとりに注がれています。この主イエスのまなざしの中でこそ、私たちは罪の赦しにあずかり、新しい信仰を与えられて生きることができるのです。大祭司の家の見張りの者たちの侮辱と暴力とののしりの中にあっても、主イエスがペトロにまなざしを注いでくださったことは、このことをも見つめているのです。
最高法院で
さて、本日の箇所の第二の場面の冒頭66節では、「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して」と言われています。主イエスは、夜の間は大祭司の家で拘束されていましたが、「夜が明けると」、「最高法院」へと連れて行かれたのです。夜が明けるまで最高法院へ連れ出されなかったのは、正式な裁判を夜中に行うことが禁じられていたからのようです。「最高法院」は、原文のギリシア語では「スネドリオン」という言葉ですが、それが英語では「サンヘドリン」となりました。「最高法院」より「サンヘドリン」という言葉のほうがよく知られているかもしれません。この「最高法院」、サンヘドリンは大祭司が議長となり、祭司と律法学者と長老の中から選ばれた70人の議員(議長を含めると71人)で構成されるユダヤ教の最高議会でした。当時のユダヤ教は政治と宗教が分離されていませんでしたが、しかし政治についての決定権はサンヘドリンにはなく、ユダヤを支配していたローマ帝国にありました。そのためサンヘドリンが決めることができたのは、宗教的な事柄についてだけです。本日の箇所でもサンヘドリンの議員たちは宗教的な事柄について、別の言い方をすれば、信仰の事柄について主イエスを裁判にかけたのです。
お前はメシアか
彼らは主イエスにまずこのように問いかけました。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」。メシアはヘブライ語で、もともと「油注がれた者」を意味し、旧約聖書では神様によって特別な務めを与えられた者を指します。預言者や祭司を指すこともありますが、多くの場合は王を指しました。しかし時代が下がると、イスラエルの民の王国は滅亡し、王もいなくなったため、「油注がれた者」は「やがて来る救い主」を意味するようになります。イスラエルの民を救い、守る、まことの王、まことの救い主を意味するようになったのです。ですからサンヘドリンの議員たちは主イエスに、「お前が救い主なら、そうだと言うがよい」と問いかけたことになります。彼らもイスラエルの民ですから、救い主を待ち望んでいたに違いありません。しかし彼らの「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」という問いかけは、主イエスが本当に救い主であるかどうかを問うているのではありません。そもそも彼らは主イエスがメシア、救い主であるとまったく信じていなかったし、期待してもいなかったのです。だから主イエスは議員たちの問いかけにこのように答えられました。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」。たとえ主イエスが、「私はメシアである、つまり救い主である」と答えても、彼らは主イエスがメシアであるとは、主イエスが自分の救い主であるとは決して信じないのです。それどころかメシアを勝手に名乗り、社会の秩序を乱す者として、つまり偽メシアとして、主イエスを政治的な犯罪者としてローマ帝国に突き出したはずです。要するに彼らの問いかけは、自分の救い主を求める真剣な問いかけではなく、主イエスを陥れるための問いかけに過ぎなかったのです。
問いかけること、問いかけられること
さらに主イエスは「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」とも言われています。たとえ主イエスが議員たちに、「私をメシアだと信じるか」と尋ねても、彼らは決して答えない、と言われているのです。本来、主イエスに問いかけることは、主イエスから問いかけられることを伴います。主イエスに「あなたは救い主ですか」と真剣に問うことは、主イエスから「あなたは私を救い主だと信じるか」と問いかけられることを伴うのです。私たちも信仰の歩みの中でそのような経験をしてきたのではないでしょうか。私たちが色々なきっかけを通して聖書や教会に関心を持ち、教会の礼拝へと足を運ぶと、そこでは説教において「イエスは救い主である」と語られています。しかし私たちはそれを聞いてすぐに、イエスは自分の救い主である、と信じられるわけではありません。むしろ「本当にそうなのだろうか」と疑問に思うのではないでしょうか。そこから私たちは、「イエスは自分の救い主なのだろうか」と問いつつ、あるいは「あなたは私の救い主なのですか」と主イエスに問いかけつつ、聖書を読んだり、礼拝で説教を聞いたり、教会の人たちと交わりを持ったりして歩んでいきます。自分で本を読んで勉強することもあるかもしれません。そのように歩んでいく中で、あるとき私たちは、主イエスから「あなたは私を救い主だと信じるか」と問いかけられていることに気づきます。この問いかけに、「はい、私はあなたを救い主だと信じます」と答えるのが、信仰を持って生きるということです。知識を積み重ねてイエスは救い主だと理解することが、信仰を持って生きることではありません。「イエスは救い主なのだろうか」という問いに、何かを通して、あるいは誰かを通して答えが与えられるのが、信仰を持って生きることでもありません。そうではなく主イエスに「あなたは本当に私の救い主なのですか」と真剣に問うていく中で、主イエスから「あなたは私を救い主だと信じるか」と問いかけられ、この問いかけに「はい、信じます」と答えることが、信仰を持って生きることなのです。この夕礼拝にも「あなたは本当に私の救い主なのですか」と主イエスに真剣に問いかけている方がいらっしゃるかもしれません。その方々が、主イエスから「あなたは私を救い主だと信じるか」と問いかけられ、その問いかけにお答えするときが来ることを、その時が備えられていることを、私は信じております。このように私たちが主イエスに真剣に問いかけるとき、主イエスに問いかけているようで、実は主イエスから問いかけられています。しかしサンヘドリンの議員たちは、主イエスを陥れるために問いかけているに過ぎませんでした。主イエスに問いかけることは、主イエスから問いかけられることだとは思いも寄らなかったのです。だから主イエスは自分が問いかけても、彼らは決して答えない、と言われたのです。
自分自身を王として生きている
私たちは議員たちのこのような姿に深い幻滅を覚えます。彼らが主イエスを救い主と信じようともせずに、主イエスを陥れようとしている姿に、彼らの罪の深さを思います。しかしその姿は、私たちと無関係な姿なのでしょうか。メシアはまことの救い主、まことの王を意味すると申しました。ですから主イエスを自分の救い主と信じることは、主イエスを自分の王とする、ということです。けれども私たちは主イエスを信じていると言いながら、しばしば主イエスを自分の王として生きるのではなく、自分自身を王として生きています。主イエスのご命令に従って生きるのではなく、あるいは主イエスを遣わした父なる神様のみ心に従って生きるのではなく、自分の思いや願いに従って生きようとしています。主イエスを自分の救い主だと信じていると言いながら、自分の都合が悪くなると、主イエスはもう自分の救い主ではない、と思ったりします。困難に直面すると、神様は自分のことを大切にしてくれていない、といじけたりします。そうやって自分にとって都合の良い救い主を求めるなら、私たちは結局、主イエスを自分の王として生きているのではなく、自分自身を王として生きているのです。それでは、主イエスを本当に自分の救い主として信じて生きていることにはなりません。サンヘドリンの議員たちが主イエスを陥れようとしたのは、まさに主イエスの存在が自分たちにとって都合が悪かったから、邪魔だったからです。自分たちが守っている秩序を、自分たちの持っている地位や権力を脅かされたくないから、彼らは主イエスを殺そうとしたのです。そうであれば私たちも、私たちこそ、主イエスを殺そうとする者ではないか。自分の都合が悪くなると、主イエスを殺そうとする者ではないか。私たちこそ、主イエスを自分の救い主だと信じていると言いながら、いぜんとして自分自身が王のままで、邪魔になったら主イエスを殺そうとする者、自分の人生から主イエスを排除しようとする者なのです。ここで描かれている議員たちの姿に、私たちは幻滅しているだけでは済まされません。彼らの姿に自分自身の姿を見なければならないのです。説教の初めに、主イエスが十字架刑へと至る一歩一歩において、人間の罪が噴出していると申しました。しかしそれは、自分とは関係ない、どこかの誰かの罪が噴出している、ということではない。ほかならぬ私たちの罪が噴出しているのです。
全能の神の右に座る
主イエスはさらにこのように言われました。69節です。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。「人の子」は、主イエスがご自分のことを呼ぶときに用いた言葉、称号です。ですから「今から後」、ご自分は「全能の神の右に座る」と言われていることになります。主イエスのこの言葉は、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」という議員たちの問いかけへの答えというより、主イエスの宣言です。主イエスはご自分がこの後、十字架に架けられて死なれ、復活され、天に昇られて、全能の父なる神の右に座られることを宣言しているのです。父なる神の右に座るとは、主イエスが父なる神に等しい者として、父なる神から委ねられて、この世界を支配されるということです。このことにおいて、共に読まれた旧約聖書詩編110編1節のみ言葉、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」が実現しました。主イエスの十字架と復活と昇天を通してこのみ言葉が実現し、天におられ、神の右に座しておられる主イエスがこの世界を恵みによって支配される。主イエスはこれからこのことが自分の身に起こると、このことが自分において実現すると宣言されたのです。主イエスが「私はメシアである」と言っても、議員たちは決して信じないし、主イエスが「私をメシアだと信じるか」と尋ねても、彼らは決して答えることはありません。しかし主イエスがメシアであることは、救い主であることは、この後、主イエスが十字架で死なれ、復活され、天に昇られ、神の右に座して、私たちの救いを成し遂げてくださることによって明らかになるのです。と言っても、私たちは自分の目で、主イエスが神の右に座していることを見られるわけではありません。主イエスを救い主だと信じるとは、自分の目では見えなくても、主イエスの十字架と復活と昇天によって実現した救いを信じ、神の右に座しておられる主イエスの恵みのご支配を信じることです。主イエスの「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」という宣言を信じることなのです。そうであれば主イエスは、「あなたはこの宣言を信じるか」とも問いかけているのではないでしょうか。
お前は神の子か
この主イエスの宣言を聞いて、この主イエスの問いかけに対して、サンヘドリンにいた者たちは皆、「では、お前は神の子か」と、主イエスに尋ねました。すると主イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」とお答えになりました。この主イエスのお答えは、かつての口語訳では「あなたがたの言うとおりである」と訳されています。原文に忠実なのは新共同訳で、口語訳のように訳すのは難しいように思います。その一方で新共同訳は、「お前は神の子か」という問いかけに対して、主イエスが肯定されているのか否定されているのかはっきりしません。しかしこの主イエスのお言葉は、否定ではなく肯定として受け取るべきでしょう。その意味では、口語訳の「あなたがたの言うとおりである」という訳も正しいと言えます。なぜならご自分が十字架で死なれ、復活され、天に昇られて、全能の神の右にお座りになると宣言することは、ご自分が神と等しい者、すなわち神の子であると宣言していることにほかならないからです。それにもかかわらず主イエスが、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」とお答えになったのは、ここでも主イエスが、ご自分に問いかけることより、ご自分からの問いかけに答えることを重んじておられるからです。「あなたは神の子なのか」と主イエスに問いかけるのではなくて、「あなたは私が神の子だと信じるか」という主イエスからの問いかけに答えることが大切なのです。先ほどの「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」という主イエスの宣言を信じるか、という問いかけに答えることこそが大切なのです。主イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と答えられました。それは、主イエスが神の子であるとは議員たちが言っている、ということです。しかしそれは、彼らが主イエスは神の子である、と信じていたということではありません。主イエスが「自分は神の子である」と語っていれば、彼らは神を冒瀆する者として主イエスを裁くことができました。だから彼らは主イエスが「自分は神の子である」と語った証拠が欲しかったのです。彼らは主イエスの答えを聞いて、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言いました。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」という主イエスの答えに対して、彼らのこの言葉はちぐはぐな感じがします。しかし神の子を語る者として、神を冒瀆する者として、何としても主イエスを裁きたい彼らにとって、この主イエスの答えは、多少強引でも、本人による十分な証言であったのです。彼らはここでも、主イエスが神の子であるかどうかを真剣に問うているのではありません。主イエスから「あなたは私が神の子だと信じるか」と問いかけられていることに気づきもしません。ただ主イエスを陥れようとして、主イエスの証言を引き出そうとして、「お前は神の子か」と主イエスに問いかけたに過ぎないのです。
真剣に問いかけ、問いかけに真剣に答えて
私たちの信仰の歩みは、私たちが主イエスに、そして主イエスを遣わされた父なる神様に問いかけ、そして主イエスと父なる神様から問いかけられる歩みです。繰り返し「あなたは救い主ですか」、「あなたは神の子ですか」と問いかけ、「あなたは主イエスを救い主だと信じるか」、「あなたは主イエスを神の子だと信じるか」と問いかけられるのです。その一つひとつにおいて、私たちは真剣に神様に問いかけ、神様からの問いかけに真剣に答えていきます。サンヘドリンの議員たちのように、自分自身が自分の王であろうとするのではなく、自分の願い通り、思い通りに生きようとするのでもなく、主イエスを自分の王として生き、主イエスのご命令に従い、父なる神様のみ心に従って生きて行くのです。しかしこのことは、私たちの力や頑張りによるのではありません。むしろサンヘドリンの議員たちの姿に自分自身を見ることによって、私たちこそ都合が悪くなると、主イエスを殺そうとする者であることに気づかされることによってです。そしてその私たちのために、主イエスを殺そうとする私たちのために、主イエスが十字架に架かって死んでくださったことを見つめることによってです。主イエスの十字架と復活と昇天によって私たちが救われ、今、天におられ神の右に座しておられる主イエスの恵みのご支配のもとに私たちが生かされていることに気づかされるとき、私たちはその救いの恵みの中で、ペトロに注がれたのと同じ主イエスのまなざしの中で、主イエスを王として生きることができるのです。そこにこそ神様に真剣に問いかけ、神様からの問いかけに真剣に答えていく信仰の歩みが私たちに与えられていくのです。