主日礼拝

私たちはキリストのもの

説教 「私たちはキリストのもの」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第94編8-11節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第3章16-23節

16、17節の文脈の中で
 私が主日礼拝を担当するときにはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。前回は3章9~17節を読みました。本日は、前回お読みした箇所の最後16、17節を含めて23節まで読みます。16節でパウロはこのように言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。前回は、私たちが神の建物であり、主イエス・キリストという土台の上に神の建物を建て上げていくことを中心にお話ししましたから、この16節には少し触れただけでした。そのため少々中途半端ですが、本日は段落の途中の16節から読み始めることにしました。しかしそれだけが理由ではありません。18節以下が16、17節と結びついているからでもあります。18節の冒頭には「だれも自分を欺いてはなりません」とありますが、これだけを取り出すならば、一般的なことを教えているようにも思えます。しばしばこの社会でも、自分を欺くのではなく自分に誠実に生きなさいと言われたり、私たち自身も自分に誠実でありたいと思ったりします。パウロもここで同じようなことを言っているのでしょうか。そうではないことが、16、17節の文脈の中で読むことによって示されていくのです。

あなたがたは神の神殿である
 さて改めて16節を見ると、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と言われています。新共同訳では「自分が神の神殿であり」と訳されていて、私たち一人ひとりが神の神殿である、と言われているように思えます。実際パウロは、キリスト者一人ひとりが神の神殿である、と語っている場合もあります(6章19節)。しかし16節の「自分が」という言葉は原文にはありません。原文を直訳すれば、「あなたがたは神の神殿である」となります。ちなみに聖書協会共同訳はそのように訳しています。「あなたがたは神の建物である」と言われていたように、ここでは「あなたがたは神の神殿である」と言われているのです。そうであれば、「あなたがた」とはキリスト者一人ひとりのことではなく教会のことです。コリント教会のことであり、横浜指路教会のことです。教会が神の建物であると言われていたように、ここでは教会が神の神殿である、と言われているのです。それは、目に見える建物、目に見える教会堂が神の建物であり、神の神殿である、ということではありません。神が招き集めてくださった私たちの群れが、神の建物であり、神の神殿なのです。

教会が神の神殿であるとは
 教会が神の神殿であるとは、何を意味しているのでしょうか。日本で暮らしている私たちは「神殿」と聞くと、そこに神が祀られている、そこに神が住んでいるというイメージを持ちやすいと思います。しかし聖書において「神殿」とは、そのような場所ではありません。イスラエルの民は、かつて荒野の時代に、「(臨在の)幕屋」という移動式の聖所(神殿)を持っていて、その幕屋の一番内側に「至聖所」と呼ばれる場所がありました。そこには十戒の二枚の板を収めた契約の箱が置かれていましたから、その至聖所は神がおられる場所ではなく、神が臨んでくださる場所であったのです。後にソロモン王は神殿を建てました。しかしそのとき彼はこのように祈っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません…どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください」(列王記上8章27、30節)。このようにイスラエルの民にとって、神は天におられるのであり、神殿は神の住むところではありません。そうではなく神殿は、天におられる神が神の民に出会ってくださる場所なのです。パウロが教会は神の神殿であると言うとき、このイスラエルの民の神殿を思い浮かべていたに違いありません。つまり教会が神の神殿であるとは、教会に神が住んでおられるということではなく、天におられる神が教会において、とりわけその礼拝において私たちに出会ってくださる、ということなのです。先ほどお話ししたように、教会は神が招き集めてくださった者たちの群れです。その群れが礼拝するとき、神がその群れに臨んでくださり出会ってくださる。だから教会は神の神殿なのです。パウロは「神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とも言っています。「神の霊」、つまり聖霊が教会に臨んでくださることによって、神は私たちに出会ってくださり、語りかけてくださり、御心を示してくださるのです。

神の神殿を壊すことへの警告
 この神の神殿である教会を、私たちは建て上げていきます。神の建物の一部である私たちが、神の建物である教会を建て上げていくように、神の神殿の一部である私たちは神の神殿を建て上げていくのです。ところがしばしば私たちは、神の神殿を建て上げるどころか壊してしまいます。パウロは17節でそのことを見つめています。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」。神が神の神殿を壊す者を滅ぼされるというのは、まことに厳しい言葉であり、私たちはこのことに恐れを抱かずにはいられません。そしてこのことは、恐れるべきことでもあります。私たちは神の神殿を壊すことへの警告をしっかり受けとめなくてはならないのです。しかし私たちは単に恐れるだけではありません。なぜならこの厳しさには、神がそれほどまでに神の神殿である教会を愛し、大切にし、守ろうとしてくださっていることが示されているからです。独り子を十字架に架けてまで神の神殿である教会を建ててくださった神は、その神の神殿を、教会を何としても守ろうとしてくださいます。この神の愛と守りのもとで、私たちは神の神殿である教会を建て上げていくのです。

神の神殿を壊す分派争い
 コリント教会において、神の神殿を壊していたのは分派争いをしていた人たちでした。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと言い合って、パウロ派、アポロ派、ケファ派による分派争いが起こっていたのです。本日の箇所の18節以下で語られているのは、神の神殿を壊しているこの分派争いの原因です。ですから16、17節の文脈の中で読むならば、18節冒頭の「だれも自分を欺いてはなりません」とは、自分を欺くのではなく自分に誠実に生きなさい、というような一般的な教えではなく、神の神殿の一部である自分を欺いてはならない、ということです。神の神殿の一部である自分を欺いて、分派争いをして、神殿を壊してはならない、ということなのです。

この世の知恵を求める
 神の神殿の一部である自分を欺くとはどのようなことなのでしょうか。それが、「だれも自分を欺いてはなりません」に続いて、「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら」と言われています。つまり「自分はこの世で知恵のある者だと考える」ことが、自分は知恵ある者だと思い上がることが自分を欺くことなのです。それなら私たちは自分が知恵ある者と思っていなければ、自分を欺くことから逃れられるのでしょうか。自分はまだまだ知恵ある者とは言えないから、もっと知恵を求めていかなければならないと謙遜すれば、自分を欺かないことになるのでしょうか。そうではありません。自分には知恵があると思い上がる者も、自分には知恵がないと謙遜する者も、どちらも知恵を求め、誇ろうとしていることに変わりはありません。コリント教会の中には、確かに自分の知恵を誇っている人たちがいました。しかしそれは誰もが自分を知恵ある者と考えていたということではありません。自分にはまだまだ十分な知恵がないから、もっともっと知恵を求めなくてはならない、そのためにはパウロ先生の教えを重んじるグループに入るのが良さそうだ、いやアポロ先生の、いやケファ先生の、というように考えていた人たちがいたのです。この人たちはむしろ自分には知恵がないと謙遜していたのだと思います。しかしそのように謙遜しつつ、◯◯先生と特別な関係になれば、より多くの知恵を得ることができると考えていました。まさにこのような人たちが分派争いを行い、そのためにコリント教会の人たちの間に「ねたみや争いが絶えな」(3章3節)かったのです。

神の前では
 しかしここで私たちは立ち止まらざるを得ません。この世の知恵を求めることはそんなに悪いことなのだろうか、と思うからです。「この世」はこの世界というより、この時代という意味の言葉ですから、この時代の知識や知恵を求める必要なんてない、身につける必要なんてない、と言われているのでしょうか。子どもが聞いたら、「じゃあ勉強しなくていいじゃん」と言うかもしれません。しかし子どもだけでなく大人も「それなら現代の知識や知恵を身につけることは意味がないのでは」と思ったりもします。しかしそうではないでしょう。キリスト者であっても、いえキリスト者であるからこそ、この時代に生きる者として、現代の知識や知恵を学び、それらを吸収し、身につけていかなくてはならないはずです。少なくともそのことに怠惰であることの言い訳に、このみ言葉を用いてはならないと思います。そうであれば私たちは何に関して、どんなことに関して、この世の知恵、この時代の知恵を求めてはならないのでしょうか。言い換えるならば、私たちは何に関してこの世の知恵に頼ってはならないのでしょうか。19節に「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」とあります。「神の前では」と言われています。それは「救いについては」ということです。つまり「神の前では」、「救いについては」、この世の知恵、この時代の知恵は愚かなものだ、と言われているのです。パウロはそのことを示すために18節、19節で、旧約聖書の二つの箇所を引用しています。「神は、知恵のある者たちを その悪賢さによって捕らえられる」が、ヨブ記5章13節からの引用で、「主は知っておられる、知恵のある者たちの論議がむなしいことを」が、共に読まれた詩編94編11節からの引用です。どちらの引用も、単に世の知恵を身につけることを批判していると受けとめるべきではありません。確かに自分の知識や知恵を悪用して罪を犯し、その結果、逮捕されるという事件が報じられることもありますが、ここではそのようなことが見つめられているのではないでしょう。あるいは世の知識や知恵に基づいて議論することは空しい、意味がない、と言われているのでもありません。そうではなく、知恵を求めることによって救いを得ることができると思っている、そのような者たちの議論や思いはむなしい、空っぽである、と言われているのです。この世の知恵を求め、自分の知恵を増やしていくことによって救われる、つまり自分が上昇していくことによって救われる、と考えていたコリント教会の人たちは、まさにむなしい議論を、むなしい分派争いをしていたのです。しかしそれは「神の前では」愚かなことです。私たちの救いは、自分が上昇していくことによって獲得することは決して出来ないからです。

十字架につけられたキリストに救いはある
 パウロは18節の終わりで「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい」と言っています。この世で愚かに思えることに、本当の知恵、神の知恵、つまり救いがあるのです。このことはこの手紙でこれまでも語られてきました。1章22節以下でこのように言われていました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがキリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。私たちの救いは「十字架につけられたキリスト」にあります。それ以外のどこにもありません。しかし「十字架につけられたキリスト」に私たちの救いがあることは、この世の知恵では、まことに愚かなことのように思えます。なぜそんな弱々しくみすぼらしいキリストの十字架の死に、しかもただ弱々しくみすぼらしいだけでなく、ローマ帝国による処刑であったキリストの十字架の死に、私たちの救いがあるのだろうか、と思うからです。だから「十字架につけられたキリスト」はユダヤ人には躓かせるもの、ギリシア人には愚かなものであったのです。しかし神は、その独り子イエス・キリストを十字架に架けることによって私たちの救いを実現してくださいました。キリストが私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださったことによって、私たちの罪が赦され、私たちは救われたのです。「十字架につけられたキリスト」にこそ、そこにだけ私たちの救いがあります。コリント教会の人たちも、私たちもこのことを信じて、洗礼を受け、救いにあずかり、神の神殿である教会の一部とされました。そうであるならば、神の神殿の一部である私たちが、世の知恵を求めることによって、自分の力によって救われると考えるのは、自分自身を欺いていること、キリストの十字架によって救われ、神の神殿の一部とされた自分自身を欺いていることになるのです。
人間を誇ってはならない
 だからパウロは21節で、「ですから、だれも人間を誇ってはなりません」と言っています。「だれも人間を誇ってはなりません」は、1章31節の「誇る者は主を誇れ」をひっくり返して語っている、と言えるでしょう。パウロ派に、あるいはアポロ派に、ケファ派に属することを誇るのなら人間を誇っていることになります。しかしパウロは、そのように人間を誇るのではなく主イエス・キリストを誇りなさい、と言います。キリストの十字架にこそ私たちの救いがあるのだから、キリストを頼みとして、キリストを誇りなさいと言うのです。

すべてはあなたがたのもの
 それに続けてパウロは、「すべては、あなたがたのものです」と言っています。原文には「なぜなら」という言葉があるので、「なぜならすべてはあなたがたのもの」と言われていることになります。「だれも人間を誇ってはならない。なぜならすべてはあなたがたのものだから」と言われているのです。驚くべきことではないでしょうか。コリント教会の人たちは世の知恵を求め、自分の力によって救われると考え、人間的なつながりを誇り、そのために分派争いをし、神の神殿である教会を壊していました。私たちもしばしば自分の力や行いによって救いが得られるかのように勘違いしてしまいます。そして自分の力や行いに頼るとき、私たちは結局、互いに比べ合い、裁き合ってしまうのです。あるいは私たちは神との関係をほったらかしにして、人間的なつながりを優先してしまうこともあります。教会においても自分にとって居心地の良い人間的なつながりを優先してしまうことがあります。そのようにして私たちは人間を誇り、隣人を傷つけ、自分自身を傷つけ、そして神の神殿である教会を壊してしまうのです。ところがパウロは、そのようなコリント教会の人たちと私たちに、「そのように生きるのは間違っている」、「それでは駄目だ」と言うのではなく、「すべてはあなたがたのもの」と言います。人間を誇るよりも、もっと豊かな誇るべきものがある、と言うのです。自分の力に頼り、ほかの人と比べて、自分自身と隣人を傷つけてしまっていることに目を向けるのではなく、「すべてはあなたがたのもの」であることに目を向けなさい、と言うのです。
キリスト以外のどんなものも私たちを支配しない
 「すべては私たちのものである」とは、私たちがすべてを支配していて、好き勝手にすることができるということではありません。22節の終わりから「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と言われています。「すべては私たちのものである」とは、「一切は私たちのもの」であるとは、私たちが主イエス・キリストのものであり、それゆえ主イエスの父なる神のものである、ということです。もっと言えば、私たちがキリスト「だけ」のものであり、キリストだけに支配されているということです。「すべては私たちのものである」というみ言葉は、私たちがすべてを支配できると告げているのではなくて、キリスト以外のどんなものも私たちを支配しない、と告げているのです。

私たちはキリストのもの
 22節では「パウロもアポロもケファも」と言われていて、伝道者がコリント教会の人たちを支配しているのではないことが見つめられています。しかし伝道者と信徒の関係だけでなく、あらゆる人間関係において、誰も私たちを支配することはできません。自分の親が、パートナーや恋人が、あるいは友人が、ほかの誰であっても、私たちを支配することはできません。私たちはキリストのものだからです。逆に私たちは、自分の親を、パートナーや恋人を、友人を、ほかの誰であっても支配することはできません。その人たちはキリストのものだからです。私たちがキリストのものであるとは、キリスト以外のほかのいかなる人も私たちを支配できないということであり、私たちがほかのいかなる人も支配できないということなのです。私たちはキリストだけのものであり、ほかのいかなる人の支配からも自由になっているのです。
 私たちを支配しているように思えるのは、人ばかりではありません。なによりも私たちは自分が死に支配されているように思えます。死が私たちを支配していて、死んだら終わりであるかのように思えるのです。しかしキリストのものとされた私たちは、もはや死に支配されていません。地上の生涯で迎える死で終わらない、世の終わりの復活と永遠の命の約束が与えられているからです。キリストは十字架で死なれ、復活され、永遠の命を生きておられます。そのキリストのものとされている私たちも、世の終わりに復活させられ、永遠の命に生きるようになるのです。だから私たちは死の支配からも自由になっているのです。
 また私たちは「今起こっていること」や「将来起こること」に支配されているようにも思えます。私たちは日々、今起こっていることに対処するので精一杯です。やらなくてはいけないことをこなすのに悪戦苦闘し、翻弄され、心身共に疲弊しています。そのような中で、今起こっていることに自分が支配されているように思わずにはいられません。しかしまさにそのような私たちに、「あなたがたはキリストのもの」だと告げられています。たとえ「今起こっていることに」対処するので精一杯であったとしても、翻弄されてしまっていたとしても、私たちがキリストのものであることは揺らぐことがない、と告げられているのです。「将来起こること」も必ずしも良いことばかりではないでしょう。むしろ多くの苦しみや悲しみがあり、時には絶望を感じることもあるかもしれません。しかしたとえそのような苦しみや悲しみの中にあっても、絶望の中にあっても、私たちがキリストのものであることは決して揺るがないのです。「今起こっていること」や「将来起こること」が、私たちを支配するのではありません。キリストが私たちを支配していてくださる。私たちのために十字架に架かって死んでくださるほどに、私たちを愛してくださるキリストが、私たちを支配していてくださるのです。
 私たちはキリストのものです。私たちの良いところだけが、キリストのものなのではありません。自分のすべてが、悪いところ、弱いところ、どうしようもないダメダメなところも含めて、すべてキリストのものです。だからキリスト以外のどんなものも私たちを支配することはできません。私たち自身は、日々の歩みの中で色々なものに支配されているように感じるとしても、感じるだけでなく翻弄され、疲弊しているとしても、しかしその私たちがまるごとキリストのものとされているのです。このことにこそ、本当の平安があり希望があります。いかなる人にも、今起こっていることにも将来起こることにも、死にすらも支配されない、絶望することのない、本当の平安と希望があるのです。私たちはキリストのものです。そのことを見つめることによってこそ、私たちは人間を誇ることから解放され、自分の力に頼り、ほかの人と比べて生きることから解放され、神の神殿の一部として、神の神殿である教会を建て上げていくことができるのです。

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