夕礼拝

祈りつつ生きる

「祈りつつ生きる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第42編1―43編5節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第15章33―34節  
・ 讃美歌:132、493

神との交わりに生きる
 本日の夕礼拝は、神奈川連合長老会の青年修養会の開会礼拝を兼ねて行われています。明日にかけて行われるこの修養会の主題は「主の祈り」です。この主題を意識して、本日は通常のレビ記の続きではなく、「祈りつつ生きる」という題でお話しをしようと思います。  祈りつつ生きることこそが、信仰をもって生きることです。信仰者の生活がそうでない人の生活と違うのは、祈りつつ生きているという点においてです。祈るとは、神様に向かって語りかけることです。つまり神様と対話すること、コミュニケーションを取ること、神様との交わりに生きることです。それこそが信仰なのであって、それがなければ、そこにあるのは信仰ではなくて、人間の思想や信条です。思想や信条ならば、学んで理解するだけで事足ります。自分の考えなのですから、自分の心の中だけで完結し、祈る必要はないのです。しかし神様を信じる信仰に生きることは、ある思想に共鳴するとか、一つの考え方に立つことではなくて、神様を信じ、神様との交わりに生き、神様に従っていくことです。つまり信仰には相手があるのです。自分の心の中だけでは完結しないのです。相手からの語りかけ、つまり神様のみ言葉を聞き、そしてそれに応答してこちらからも語りかけていく、そういう双方向の関係、やりとりがなされて初めて信仰に生きることができるのです。それゆえに、神様に向かって語りかける祈りは信仰に不可欠なものです。もしも、信じているが祈っていない、という人がいるとしたら、その人は神様を信じているのではなくて、自分の考え、思想をめぐらしているだけなのです。

祈ることの難しさ
 祈りつつ生きることはこのように信仰に生きることの中心であり、なくてはならないことです。しかし祈ることはとても難しいことでもあります。なぜなら、生まれつきの私たちは、本当の意味で祈ることを知らないからです。祈り「らしきもの」は誰でも知っているし、することができます。例えば大自然の偉大さの前で人間がいかにちっぽけな存在であるかを思わされる時、私たちは自然に対する畏敬の念を覚えます。そこには人間を超えた何らかの存在に対する祈りに似た思いがあると言えるでしょう。そのような畏敬の念は自然のみでなく、いわゆる神仏に対しても向けられます。神社やお寺の仏像の前で手を合わせ、家族の健康や平安、あるいは入試の合格などを願うことは祈りの一つの姿だと私たちは思うのです。けれどもそれらのことは、祈り「らしきもの」であって、本当の意味での祈りではありません。なぜなら本当の意味での祈りは、先ほど申しましたように、祈る相手との双方向の交わりを前提とするものであり、それは交わり、コミュニケーションの相手のことをしっかりと意識していなければ成り立たないからです。大自然に対する畏敬は、宗教的な感情ではあっても、双方向の交わりにはなりません。元旦に神仏に手を合わせて一年の平安や入試の合格を祈願している人たちは、自分が祈り願っている相手の神なり仏なりを明確に意識して、その神や仏との交わりに生きているでしょうか。むしろ何に対して祈っているのかはよく分からないまま、ただ自分の願いを一方的に述べているだけなのではないでしょうか。そういう意味では、家の仏壇に手を合わせ、先祖の霊に向かって語りかけることにおいては、祈る相手が明確に意識されていると言えるかもしれません。ただそこに果して、語りかけている先祖との双方向の交わりが成り立っているかははなはだ疑問です。誤解しないでいただきたいのですが、今言っていることは、仏教や神道における祈りへの批判ではありません。仏教や神道の信仰においては、それが祈りなのであって、それでよいのです。しかし聖書の信仰においては、神様との双方向の交わりこそが信仰ですから、それが成り立っていない祈りは本当の意味での祈りにはなっていない、祈り「らしきもの」に留まっているということになるのです。つまり聖書が教えているところの本当の意味での祈りには、祈る相手である神様を明確に意識し、その神様からの語りかけを受け、それに応えていくという双方向の交わりがなければならないのです。しかしそのような神様との交わりは、生まれつきもともと身についているようなものではありません。宗教的感情や祈り「らしきもの」は人間の心に生まれつき自然にあるものだと言えるでしょうが、本当の意味での祈りに生きることは、生まれつきの私たちは誰も知らないし、できないのです。だから、祈ることは難しいのです。私たちがなかなか祈れないのは、どういう言葉で祈ったらよいか分からないからではなくて、神様との双方向の交わりに生きるということを基本的に知らないからなのです。

祈りつつ生きることを学ぶ
 ですから、祈りつつ生きることは自然にはできません。私たちは祈ることを学ばなければならないのです。そして祈ることを学ぶとは、祈りの言葉を学ぶことではなくて、神様との双方向の交わりに生きることを学ぶということです。主イエスが教えて下さった「主の祈り」も、祈りの言葉を教えて下さったというよりも、「あなたがたは私の父である神とこういう交わりに生きることができるのだ」ということを教えて下さったものであると言うべきでしょう。そのことについてはここではこれ以上深入りしません。青年修養会に参加する方々はこのことを覚えつつ講演を聞き、語り合っていただければと思います。この礼拝においては、神様との交わりに生きた人の具体的な姿を見つめていきたいと思います。旧約聖書から詩編の第42編と43編、そして新約聖書からマルコによる福音書第15章33、34節を朗読しました。これらの箇所から、神様との交わりに生きた人の姿を見つめることによって、祈りつつ生きるとはどういうことかを学びたいのです。

神への渇き
 先ず、詩編の42、43編です。この二つの詩は、本来は一つであったと思われます。そのことは、42編の6節から7節の始めと、最後の12節、そして43編の最後の5節が同じ言葉になっていることから分かります。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。リフレイン、折り返し句として三度語られているこの言葉が、この詩の基本的な調べとなっています。この詩人は、魂がうなだれ、呻くような苦しみの中にいるのです。その苦しみがこの詩にはいろいろな形で言い表されています。42編の最初の2節には「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」とあります。冒頭のところは以前の口語訳聖書では「しかが谷川を慕いあえぐように」となっていました。日本に住む私たちの感覚では、「谷川」と言えば、緑濃い山奥の谷間を流れる清流です。しかしこの詩が歌われた地の風土にはそういう場所は殆どありません。新共同訳が語っているように、これは「涸れた谷」なのです。つまり雨期にはそこに川が流れるけれども、今は乾期でその川は涸れており、水がないのです。ですからそこには緑の木も草も全くありません。赤茶けた荒涼たる世界です。渇きに苦しむ鹿が、水を求めてその谷に降りて来るけれども、そこに水はないのです。それで鹿は悲痛な声をあげている、ここに歌われているのはそういう光景です。詩人はそのような、癒されない渇きの中にいます。それは神を求める魂の渇きです。3節の冒頭には「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」とあります。彼の魂は命の神を渇き求めているのです。しかし涸れた谷に水を求める鹿のようにその渇きを癒すことができない。それゆえに彼の魂はうなだれ、呻いているのです。

お前の神はどこにいる
 命の神を渇き求める彼の思いは3節の2行目から4節にかけてさらに具体的に示されています。「いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と」。神の御前に出て御顔を仰ぎ見たいと彼は願っています。しかしそれができないので、彼は昼も夜も涙を流してばかりです。その彼の苦しみと悲しみをよりいっそう深めているのは、人々が「お前の神はどこにいる」と絶え間なく攻めることです。この「お前の神はどこにいる」という言葉は11節にも語られています。「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/『お前の神はどこにいる』と」。「お前の神はどこにいる」という人々の嘲りこそがこの詩人の苦しみの中心です。何か苦しい悲しいつらい出来事があって、そこから神様が救い出して下さることを熱心に求めているのだけれども、その救いがなかなか与えられない、ということがこの詩人の苦しみの中心ではありません。むしろそのことの中で、「お前の信じている神はどこにいるのか。どこにもいないではないか。お前に何もしてくれないではないか。そんな神はいないのと同じだ、いたとしても全然力がなくて、頼りにはならないのだ」と人々から嘲られていることが、彼の苦しみの中心だったのです。  神様を信じて生きようとする時、私たちも同じ苦しみを覚えます。神様を信じて生きることによって全てがうまくいき、ハッピーになってしまうならよいですが、そんなことは決してありません。神様を信じている人にも、いろいろな苦しみや悲しみが襲って来るのです。そうなると、神様を信じていない周囲の人々は言い出します。「お前の信じている神はどこにいるのか。いないではないか。だから言ったろう。神など信じるのは無駄なことなのだ。それよりも、自分の力で一生懸命人生を切り開いていく方が確かなのだ。いやそれしかないのだ」。信仰者は世間の人々のそういう思いや声に取り囲まれて生きていると言えるでしょう。そしてそれは、世間の人々がそう言っているというだけではありません。自分自身もそう感じてしまうのです。「私の神はどこにいるのだろうか。本当に共にいて下さるのだろうか。結局私を守り支えては下さらないのではないだろうか」。そのように感じずにはおれない現実が私たちを取り巻いているのです。その中でこの詩人は10節にあるように、「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」と言っています。また43編の2節にも「なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ行き来するのか」とあります。神様は私を忘れてしまったのではないか、見放してしまったのではないか、私を苦しめている敵が「お前の神などどこにもいないではないか」と言っている、そのことの方が真実なのではないか、そういう疑いが自分の心にどうしようもなく湧きあがって来ることを詩人は感じているのです。そのために彼の魂はうなだれ、命の神への渇きに呻いているのです。

信仰者であるがゆえにこそ
 この詩人は、そういう渇きに呻きつつ、以前のことを思い起こしています。5節に「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを」とあります。「祭りに集う人の群れと共に神の家に入り、ひれ伏した」、つまり人々と共に神殿の祭りに集い、そこで神様のみ前にひれ伏して礼拝をした、その時のことを思い起こしているのです。「喜び歌い感謝をささげる声の中を」ともあります。その礼拝には喜びと感謝が溢れていた、神様の恵みを豊かに受け、喜びの内に神様を賛美したのです。この詩人はそのような喜びに満ちた礼拝を体験しており、神様のみ前に出て、神様の恵みをいただいた記憶を持っています。つまり彼は神様とその恵みを知っているのです。体験しているのです。つまり彼は神様を信じている人なのです。だから彼は、彼の魂は、神を求め、神に渇いているのです。もしも彼が神様を知らず、喜びをもって神を礼拝したことがなかったなら、苦しみや悲しみに陥ったとしてもこのように神を求め神に渇くことはなかったでしょう。彼のこの渇きの苦しみは、神を知っており信じているからこそ、神と共に生きているからこそ、あるいは少なくとも神とともに歩んだ幸いな体験を持っているからこそ起ってきているのです。今彼は、「いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか」という苦しみの中にいます。「お前の神はどこにいる」と人々に嘲られ、自分もそういう疑いに陥り、「なぜわたしをお忘れになったのか」と嘆いています。神様を信じて生きていく中で、私たちも、同じような思いに陥ることがしばしばあります。それは、信仰者として生きているからこそ体験する苦しみです。信仰がなければ、このような苦しみ、渇きを味わうことはないのです。

神を待ち望め
 このような信仰のゆえの苦しみ、渇き、呻きの中で詩人は、あのリフレインの言葉を三度繰り返しています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか」、それは「うなだれることはないのだ、呻くことはないのだ」という励ましです。自分の魂に向かってそういう励ましの言葉をかけているのです。それは、「つらいけれどもうなだれずに頑張ろう」と自分を鼓舞しているのではありません。「神を待ち望め」と言っています。励ましの根拠は自分の中にあるのではなくて、神を待ち望むことにこそあるのです。神を待ち望むことの中で、「御顔こそ、わたしの救い」と告白することができる、そこに希望がある、と言っているのです。

わたしの神への祈り
 神が私を忘れ、見放してしまったのではないか、という嘆き悲しみの中にいる詩人が、どうしてこのように神を待ち望むことができるのか、「御顔こそ、わたしの救い」と告白することができるのか、それは不可解なことにも思われます。しかしまさにそこに、「祈り」の意味と力があります。そのことを示しているのが、42編の9節です。「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが」。主が慈しみを送って下さっているというこの言葉は、この詩において場違いのようにも感じます。次の10節には「なぜ、わたしをお忘れになったのか」と語られているのですから、矛盾している、とも思われます。けれどもそのように感じるのは、私たちがこの詩を人間の思想として、自分の心の中だけで完結する「思い、考え」として捉えようとしているからです。この詩人は、自分の考えや思想を語っているのではありません。彼は、神様に語りかけているのです。しかも、何となく人間を超えた存在というような漠然とした神ではなくて、「わたしの命の神」と呼べるようなはっきりとした相手である神様に向かって「あなた」と語りかけているのです。つまり彼は神様との間に、「わたしとあなた」という交わりを持って生きているのです。42編の1節も「神よ、わたしの魂はあなたを求める」となっています。7節の2行目も、「わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす」でした。「なぜ、わたしをお忘れになったのか、なぜ、わたしを見放されたのか」という嘆きも、「あなた」である神に向かって語られています。神様に見捨てられてしまったと感じるような苦しみの中で、彼はなお、「わたしの神」に「あなた」と語りかけ、自分の渇きを、呻きを、苦しみ悲しみを訴えているのです。そこに神様との交わりがあるのです。それが祈りです。「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」という現実の中で、詩人は夜ごとに「わたしの命の神への祈り」を主に向かって語りかけているのです。その彼に、主は昼ごとに慈しみを送って下さいます。その慈しみによって彼は、涙の現実の中でなお、「御顔こそ、わたしの救い」と告白しつつ、神を待ち望むことができるのです。43編の3、4節にこうあります。「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ」。「神を待ち望む」とはこのような希望に生きることです。祈りつつ生きることによって、つまり神様との双方向の交わりに生きることによって、このように深い嘆き、渇きの中で、なお神を待ち望みつつ、つまり希望を失わずに生きることができるのです。

主イエスの祈り
 主イエス・キリストご自身がまさにこのような神との双方向の交わりに生きた方でした。先ほど朗読したマルコによる福音書の15章33、34節は、主イエスが十字架の上で亡くなる直前に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたことを語っています。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。主イエスはこのように叫んで、十字架の上で死なれたのです。十字架の死は、神様に見捨てられてしまったという苦しみの現実です。本当は私たち罪人が受けなければならないこの苦しみ、絶望を、主イエスが代って引き受けて下さったのです。しかし主イエスはただ絶望の内に死んだのではありません。この叫びは、「わが神、わが神」という、神様に向けての叫びです。主イエスは十字架の死の苦しみの中で、「わたしの神よ」と神様に語りかけた、つまり祈ったのです。祈りにおける父なる神様との交わりの中で主イエスは死なれたのです。この主イエス・キリストの死が、私たちのための身代わりとしての死であり、主イエスのこの十字架の死によって、私たちの罪は赦され、罪によって失われていた神様との交わりが回復されました。主イエスの十字架の死によって私たちは、主イエスが父である神様との間に持っておられた交わりの中へと招き入れられています。「天にまします我らの父よ」と呼びかける「主の祈り」を主イエスが教えて下さったのは、あなたがたも私の父なる神を天の父と呼びかけて祈り、この父との交わりに生きることができるのだ、ということです。またこの主イエス・キリストによって私たちは、私たちが祈る相手である神様のことを、具体的に、はっきりと示されています。私たちは、何だかよく分からない漠然とした神的なものに向かって祈るのではなくて、独り子を人間としてこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、私たちを神の子として下さり、また主イエスを復活させることによって私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さっている、そのようにして私たちの父となって下さった神様に向かって語りかけ、この神様との双方向の交わりに生きることができるのです。この神様に祈りつつ生きることが私たちの信仰です。祈りつつこの神様との交わりに生きる者は、神様に見捨てられてしまったと感じるような苦しみ悲しみに魂がうなだれ、呻く時にも、神を待ち望み、「御顔こそ、わたしの救い」と告白しつつ歩むことができるのです。

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