夕礼拝

救いの岩の上に

「救いの岩の上に」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第62編1-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第7章24-29節
・ 讃美歌:220、474

 マタイによる福音書5章から7章にかけての、「山上の説教」を夕礼拝において読み進めきて、最後の部分となりました。この最後の部分も、7章13節以下から語られてきた救いに関わる、警告勧告のパートになります。狭き門、広き門の話し、悪い木悪い実にと良い木良い実、自分の行いに頼って「ただ主よ主よと救いを」求める者と神様を父として信じ、父にすべてをゆだねて御心を行う者という、対照的な譬えが語られてきました。どれも、滅びるか救われて命を与えられるかということが関係していました。しかし、ひとつひとつ聞いて参りましたがどれも、滅びと救いを並べているが、イエス様が聞いている弟子や群集に対して、「あなたは悪い人で滅び、あなたは良い人で救い」と裁きを行うために語られてはいませんでした。しかし、誰もが滅びに該当しそうなものだけれども、それでも、イエス様は、この警告のパートで必死に救いの道、命の道に招いておられるということでした。それで、この最後の警告はどのようなものであるかといえば、また、二つの形が示されました。その二つの言葉をイエス様の語られた言葉で見て行きましょう。24節で、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とイエスは言われました。その逆に26節では「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われました。ここで、また二つの対照的な形がしめされました。一方はイエス様の言葉を聞いて行う人、もう一方はイエス様の言葉を聞いても行わないです。聞いて行う人のことをイエス様は、岩の上に家を建てた賢い人と言われ、聞いて行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人と言われました。この二つの形が今回一方が滅びに至る道で、もう一方が救いに至る道を指し示しています。もちろん、この言葉を素直に聞けば、イエス様の言葉を聞いて行う人が救いで、行わない人が滅びと理解できるでしょう。しかし、ここのイエス様の言葉は、そこまで単純なものではありません。もし、「聞いて行え」ば「救い」となるのならば、結局人の行いによって、わたしたちは救われるということになってしまいます。人がある程度善い行いをしていれば救われるとなるのならば、イエス様が十字架にお掛かりになったことなどは、無意味なことになります。そのようであるならば、神様という存在は、救いとほとんど関係ありません。あったとしても、最終的に善い行いをしたかしなかったという判断をする点だけが関係していることになります。それはつまり、神様を最後の審判という仕事をだけをするものに、わたしたちが勝手にしてしまうということです。そのような教えであるならば、「みなさん救われるために善い行いをしましょう」「滅びないために善い行いをしましょう」という、徳を高めれば、救われるという、他の宗教のようになってしまいます。ですから、ここで「わたしのこれらの言葉」と言われていることがなんなのかということが、大事になってきます。「わたしのこれらの言葉」それは、山上の説教で語られたイエス様の一つ一つの言葉です。単純にイエス様の山上の説教の言葉を思い出してみると、それは、あの8つの幸せの話し、殺してはならないこと、姦淫してはならないこと、復讐するのではなく与えること、わたしたちが愛され赦されたように敵を愛し赦すこと、そして、主の祈りを祈ること、地上で報われようとするのではなく、父なる神からの報いを求めて施し、祈り、断食すること、父なる神様にゆだねて思い煩わずに生きること、神の国と神の義をなによりもまず求めることです。まだまだ細かく言えば、言うべきことはたくさんあります。これらの言葉は、確かに善き行いに書かれています。施すこと、敵を愛し赦し、敵のために祈ることなどは、倫理道徳的にも優れていることのように聞こえます。ですから、山上の説教で語られている善い行いの教えを「聞くだけでなくちゃんと実践しなさいとイエス様が言われているんでしょ」とわたしたちは理解しそうになります。しかし、この教えを譬えまで含めて、聞いてみると、事柄はそんな単純でないことがわかります。「言葉を聞いて行う人」は、岩の上に、家を建てる賢い人に似ているとイエス様は言われています。雨にも風にも、洪水にも負けない、しっかりとして岩という土台があるから、建て上げたものが崩されることないものになる。逆に聞いて行わないものは、砂という土台となりえないものの上に家を建てているものであるとイエス様は言われます。そこでは、雨がふり、川が溢れて洪水となったとき、また風が吹いただけでも、建てたものは倒れる、ただ倒れるだけでなく、ひどい倒れかたになるとイエス様は言われています。
 この譬えを先ほどの考えのまま単純に受け取りますと、イエス様のこの山上の説教を聞いているだけで、なにも実践しないで生きていると、いつかこの人生の中で、苦しみや災難が訪れたときに、自分自身が崩れてしまうものになる、だから、ちゃんとイエス様の教えを聞いて実践しなければとイエス様は勧めておられるんだと理解するでしょう。だから、イエス様がいっていた施しであるとか、敵に罵られても罵り返さず、頬を打たれても、打ち返すのではなく、反対の頬をみせようとか、そのような行いを実践しなければという思いにもかられます。今まで、自分は、教会にきて礼拝で説教を聞いているのに、実際の生活ではまったくその言葉通りに生きていないなぁ。だから、なんだか、日常の中で、自分に苦しいことがあると、すぐ自分自身が崩れてしまうのかと、そういうことを考えた方もいるかもしれません。
 
・土台の上に建てている家は同じ=行いは同じ
 しかし、この譬えをよくよく聞いていきますと、あることに気付かされます。それは、この譬えに出てくる二人の人物、賢い人と愚かな人が、一方が善い行いをしっかりしていたから助かった、もう一方が悪い行いをしていたからだめになったというような、勧善懲悪のような話しになっていないということです。この譬えの中の賢い人が、別に倫理道徳的に優れたことをしたということをこの譬えからは、読み取ることはできません。ですから、この譬え話は、まず善悪や、倫理道徳的に優れたことをしっかり行いなさいという話ではないことがわかります。時に、山上の説教は、敵を愛し赦しなさいであったり、姦淫してはならないということだったりが切り取られ、倫理道徳的な行いを勧める話しであるかのように受け取られます。ここで、イエス様は、山上の説教の最後で、そのようなここで倫理道徳的に善い行いをしなければ、あなたの人生は崩されるというようなことをかたったのではないことをおさえておきたいと思います。さらにもうひとつこの譬えをよく聞いていると気付かされることがあります。それは、この譬えに出てくる二人の人物、賢い人と愚かな人は、どちらも「家」を建てているということです。わたしたちが「聞いて行わない」ということは、行いをしない、つまり聞いても「なにもしない人」を想像します。その想像を、無理矢理この譬えに当てはめれば、それは、その愚かな人は、家を建てようとしない人だ。逆に、行っている人は、きちんと家を建てた人だ。家を建てなかった人は家がないから、雨風にあたると、厳しい状況になる、命の危険がある。逆に家があるひとは、雨風から守られる。この方が、イエス様のいっていた「行う人」、「行なわない人」ということを単純に理解しようとするには、わかりやすい譬えだと思います。しかし、イエス様はそうはおっしゃっていないんですね。先ほどの、ちゃんとイエス様の言われたことを実践しなければいつか自分は崩れるからちゃんと行いをしようというわたしたちの考えは、家をたてなければ雨風によって、苦しんでしまうからきちんと家をたてようという考えと同じです。しかし、このイエス様が語られた譬えでは、賢い人も愚かな人もどちらも「家」は建てています。賢い人も、愚かな人も、どちらも、ひと時の雨風はしのぐことができます。この二人にとって、家は、どのようなものであるかわかりませんが、家とは、帰るべき場所、守られ休息できる場所であるでしょう。そのような場所を、どちらの人も得ようとして家を建てています。つまり、もしイエス様の言われたことを実践するということが、家なのであるならば、どちらも、それはしているということです。二人は、自分に平安が与えられる、憩いが与えられる、帰るべき、戻るべき場所を、この二人は得ようとして、家を建てたのです。この二人は家を建てるという同じ「行い」はしています。ですから、このイエス様の最後の教えは、譬えの中身を見ると、単純に行いをするか、しないかという区別ではないことがわかります。また善い行いをどれだけしたか、しないかという、善い行いの量の差で区別されるということでもありません。

・土台が違う
 では、二人の違いはなんだったのかと言えば、それは土台でした。賢い人が土台にしていたのが、「岩」。愚かな人が土台にしていたのは、「砂」でした。この違いです。二人とも、自分の帰るべき場所、憩いの場所、平安の場所を建てました。しかし、賢い人の家は、雨風にまけず、倒されませんでしたが、愚かな人の家は、雨風にまけ、倒れてしまいました。家が倒れてしまったということは、愚かな人は、落ち着ける場所、憩いの場所、帰るべき場所を失ったということです。この愚かな人も、イエス様の教えを聞いています。なぜならば、彼は「聞いて」行わない人だからです。ですから教えは聞いているのです。それで、そして、教えを聞いて「わかった」と思い、家を建てたのでしょう。彼は、善い行いをすれば、神様に救われる、守られる、平安を与えられると思ったのかもしれません。平安と休息、慰めを与えられたい、だからそのような善い行いをして、実を結ぼう、そのような善い行いをしたという結果としての「家」を建てました。この愚かな人は、「わたしは、これほど神様のために働いた、人のために使えたという成果が、自分の安心になり、その『家』に住まうことで、守られる」と思っていました。しかし、その人は、一度「雨風」「洪水」という苦難がくると、その家が壊される。自分は頑張ったという成果としての「家」が崩されてしまうのです。なぜ、崩されてしまったのか、それは、「砂」の上に建ててしまっていたからです。

・砂という土台
 では「砂」という土台は、一体何を意味するのでしょうか。聖書で、「砂」ということをメタファーとして用いることはほとんど出てきません。似ているものとしては、「土の塵」があります。この「土の塵」は、創世記に登場します。創世記では、神様が「土の塵」で人を形造ったとあります。人は、そもそも無価値な土の塵、砂のような存在であったが、神様によって、命ある、価値あるものにされたということがあります。ですから、砂というのは、「土の塵」である人を、指し示しているかもしれません。そうであるならば、砂とい土台は、脆く崩れやすい「人」であり、つまり脆く崩れやすい自分自身が土台となっていると理解できます。あの愚かな人も、自分が善い行いをしたという成果である「家」を建てましたが、その土台となっていたのは、その行いを頑張った自分自身であったと言えるでしょう。確かに、わたしたち自身が、自分を苦難から、守る根拠、土台となるのならば、それは脆く崩れやすいと言えます。いくら、この世での、功績、業績を積んでも、能力を高めても、お金をもっても、本当に自分自身を守ることができるか、帰る場所、憩う場所、平安となる場所を支えることができるは疑問です。お金があれば、あらゆる災害から身を守れるかと言えばそうではないでしょう。わたしは、去年、石巻のある漁村のお手伝いに行った時に、牡蠣の養殖で家を二つも建てた社長に出会いました。しかし、その社長の大きな立派な家は、津波で2つともながされました。その時、社長は家に戻ろうとしたけれども、津波に巻き込まれて、違う家の屋根に打ち上げられ、一晩そこで過ごしたそうです。他人の家の屋根から、自分の家が津波にのみ込まれるのを見たその時、こんな一瞬で自分が努力してきた、積み上げてきた自分の財産はなくなってしまうのかと思ったといっていました。思い出のアルバムもなくなってしまった。過去の栄光、財産もすべて守ることはできなかったと言っていました。命だけが残ったといっていました。聖書でも、技術力、武力により街が発展し、だれから攻撃をうけても大丈夫だと誇っていたような、ノアの時代の人々は、あの洪水によってすべてを流されました。人の力、人の技量、人の業で家を守ろうとしても、言い換ればそれらを、守りの根拠、土台としても、それはいともたやすく、崩れ去るのです。

・岩とは
 では、反対に賢い人が建てた家の土台である「岩」とはなんなのでしょうか。ある人が、岩の上に家を建てた人というのは、イエス様であると言っています。つまり、イエス様の生き方を見た時に、イエス様は何をご自分の土台にしているかを、見るとその「岩」がなんであるかわかるということです。その人は、『イエス様は「父なる神様に愛されている」ということを、霊的真理として、土台として、生きている』と言いました。確かに、イエス様は、さかのぼって考えると、山上の説教を語られる前、おびただしい数の病人を癒す前、伝道を始める前、荒野で誘惑を受けるその前である洗礼を受けられた時に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と父なる神様から宣言されていました。イエス様は、この父なる神様から愛されているという言葉、真理を土台に、あの誘惑という試練に打ち勝たれました。この誘惑こそ、たとえの中に出てくる、雨風です。誘惑してきた悪魔は、「おまえが神様から愛されているか証明せよ」と石をパンにかえることができたら、あなたは愛されているもののように力が与えられているということだ、神殿から飛び降りても守られればあなたは愛されて守られていることがわかるぞ、愛されている神の子にふさわしくすべての国々や権力を持つためにわたしを崇拝してみろと誘惑してきました。しかし、イエス様は「わたしは自分が愛されている価値があることを証明する必要はない。なぜなら、わたしは父に愛されている者、父の心に適うものだから」という確信、土台があったので、その誘惑に打ち勝ったのです。
 山上の説教でイエス様が語られたひとつひとつの言葉も、イエス様が土台としていたこの真理を指し示そうとされていました。それは、わたしたちも、「父なる神様の子として愛されている」ということです。山上の説教をの一番大事な鍵となる言葉は、「あなたがたの天の父」という言葉です。この言葉が、繰り返し繰り返し語られています。神様の独り子であられるイエス様が、ご自分の父である神を、「あなたがたの天の父」と呼んで下さったのです。この山上の説教で「わたしの父はあなたがたの父でもある、神はあなたがたの父となり、あなたがたを子として愛して下さっているのだ」と宣言して下さっているのです。それが、山上の説教の中心的なメッセージです。山上の説教が教えているのは、天の父なる神様の下で、その子として、神様の父としての愛を受けて生きることなのです。父である神様は、子であるわたしたちを、養い、守り、導いて下さいます。それはわたしたちがよいことをし、立派な人間となり、神様に愛されるに相応しい者となれば、ではありません。あるいはわたしたちが熱心に求めるならばそれに応えて恵みを与えて下さるというのでもありません。父なる神様は、わたしたちがどんな者であろうとも、父として愛して下さるのです。弱く罪を犯す人であり、神様の愛に相応しくないわたしたちの父となって下さるのです。そしてわたしたちが求めるより先に、わたしたちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さるのです。だから、その神様の父としての愛を土台にして生きなさいと教えられているのです。それが、「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むな」という教えです。「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩む」というのは、自分で自分の人生を支え、自分の持っているものを土台として、それによって人生を充実させていこうとするところに生じてくることなのです。自分が何を持っているか、何をすることができるか、そういう自分の中にあるものを拠り所、土台にして生きようとしているわたしたちに対して、この教えは、神様の父としての愛が既にあなたを支えている、あなたの土台となっている、と宣言し、そこにこそ人生の本当の拠り所があるのだと教えているのです。
 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのは、山上の説教が教えているこれらのことを受け止め、この教えに従って、天の父なる神様の子として生きることです。自分の財産、自分の才能、自分の成果に寄り頼むのではなく、神様の父としての愛が自分を支えていることを信じて生きることです。そこにこそ、わたしたちを本当に支える土台がある、とイエス様は言っておられるのです
 もし父なる神様の愛ということなしに、ここに語られているいろいろな教えを実行していこうと必死になったとしても、それは結局自分の正しさという砂の上に家を建てることにしかならないのです。
 ここには「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」ということが語られています。それはわたしたちの人生において直面する苦難や苦しみのことだ、と申しました。この世での苦しみにおいてもわたしたちを本当に支えてくれる土台として父なる神様に愛されていることというが大事だと言いました。しかし、これはわたしたちが生きている間に味わう苦しみのことだけが言い表されているのではありません。わたしたちの死の苦しみも含まれています。この雨風の最大の形は死です。そしてこの死というものは、他の様々な苦しみとは違って、わたしたちの人生をまさにその根底から全て押し流してしまうようなものです。死に直面する時、自分の中にどんな土台、財産、拠り所を持っていてもそれは虚しいことが明らかになります。その土台そのものを押し流してしまう大洪水が死なのです。そういう意味では、わたしたちの人生というのは、結局この死という大洪水によって押し流され、消えうせてしまうものだと言えます。わたしたちがこの人生の中で見出す土台は、結局生きている間だけのもので、死の力の前ではそれは無力である、ということかもしれません。しかしイエス様がここで、土台として示している岩は、生きている間だけの、限られた範囲のみにおける土台なのではありません。このイエス様の最後の警告も、他の警告と同様に、最後の時、滅びと救いが明らかになる時、死か命が決せられる、最後の審判を見据えています。山上の説教はそのしめくくりにおいて、世の終りの裁きを見つめています。
 そうであるならば、この「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってきても倒れない」どの土台の上にいきるのであれば、世の終りの裁きにも耐える、そこにおいても滅ぼされることなく、命に至ることができる、ということです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は、そういう土台の上に「家」という本当に帰るべき場所、戻るべき場所を築くことができるのだと言われているのです。ですからこの土台は、肉体の死においても失われてしまうことがない、そこにおいてもなおわたしたちを支え、世の終りの裁きの時まで支え続けてくれる土台です。その土台に据えられる「家」、帰るべき場所、本当に安息できる地は、絶対に失われることはないのです。その、帰るべき場所、本当に安息できる家とは、父の家であり、それが求めるべき神の国であります。わたしたちは、父の愛という土台の上に生きたとき、そこにはわたしたちの本当に戻るべき、安息の地、愛に満たされた父の家がそこにあるのです。イエス様は山上の説教で「それをこそ求めなさい」と言われています。それはあの「神の国を求めなさい」と言う言葉です。
 父なる神様は、その愛によって、イエス様をこの世に遣わして下さいました。そしてイエス様はわたしたちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、神様はわたしたちの罪を赦し、わたしたちの父となって下さり、わたしたちを子として下さったのです。そして神様はイエス様を、十字架の死から復活させて下さいました。死の力に対する神様の恵みの勝利がそこにあるのです。イエス様によって、天の父なる神様の愛を人生の土台として与えられて生きる者は、その父としての愛が、死の力にも打ち勝って新しい命を与えて下さることを信じて生きることができるのです。神様の、天の父としての恵みは、わたしたちの人生を支える土台であるだけでなく、死においてもわたしたちを支え続け、終りの日の裁きにおいても、わたしたちをしっかりと立たせ、命に至らせて下さるのです。そしてその土台の上に、わたしたちが一番に求めるべき、愛と平安にあふれた、失われることのない、父の家がたっているのです。今イエス様は、山上の説教の最後の最後で、わたしたちを招いておられます。あなたは「父なる神様に愛されている子だ」「だから、その言葉の上に生きなさい」そして「その愛の上に立っている父の家に戻って来なさい」とわたしたちを招いておられます。

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