夕礼拝

憐れまずにはいられない

説教題「憐れまずにはいられない」 副牧師 川嶋章弘

エレミヤ書 第31章18-20節
ルカによる福音書 第15章11-24節

放蕩息子のたとえ
 本日と次週は、「放蕩息子のたとえ」として知られている、主イエスの譬え話に聴いていきます。その冒頭で「ある人に息子が二人いた」と言われているように、この譬え話は、父親とその二人の息子の話です。長い譬え話ですが前半と後半に分けることができ、前半11-24節では弟について、後半25-32節では兄について語られています。本日は弟について語られている前半部分を読んでいきます。

弟が求めたこと
 この弟がいわゆる「放蕩息子」でした。あるとき彼は父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。現代で言えば、「生前贈与」を求めたことになるでしょうか。私たちが生前贈与をする場合、それは、主に親が亡くなった時の相続税を抑えるためだと思います。しかし弟が「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言ったのは、もちろん相続税対策ではありません。私たちは、親が生きている内に親から財産を贈与されたからといって、親との関係を断ち切ることはないでしょう。しかし弟が求めていたことは、まさに父親との関係を断ち切ることでした。あたかも父親が死んだかのように見なして、父親から財産の分け前を受け取り、父親を捨てようとしたのです。父親のもとで生きるのではなく、父親から離れ、自分の力で自分の好きなように生きたい。このことこそ彼がなによりも求めていたことなのです。しかしそのためには先立つものが必要です。だから相続のときに受け取るはずの財産を、父親が生きている内に手に入れようとしました。それを元手に父親から自由になって生きようとしたのです。弟は父親から財産を受け取ると、何日もたたない内に、その財産のすべてをお金に換えました。当時、相続のときに受け取る財産はお金や株式などではなく、主に土地と家畜でしたから、弟は自分のものになったばかりの土地や家畜を売ってお金に換えたのです。そして「遠い国に旅立ち」ました。
 私たちはこの弟のことをなんて自分勝手で、恩知らずな、父親の気持ちを考えようとしない息子なのだろうと思います。自分は親に対してさすがにここまではしない、とも思います。確かに私たちの多くは、親との関係に色々な確執があったとしても、余程のことがない限り、完全に関係を断ち切ろうとはしないでしょう。だから私たちは、自分がこの弟のように生きているわけではないことに、いわゆる「放蕩息子」ではないことに安心するかもしれません。しかしこのたとえを通して、本当に見つめられているのは神様と私たちの関係です。そうであるならば私たちは、自分はこの弟とは違うなどと言っていられません。私たちは神様に対して、まことに恩知らずで、身勝手な者であり、父なる神様の思いを考えようとしない者だからです。

弟の生き方はかっこいい?
 もっと言えば、私たちはどこかでこの弟のように生きたいと思っているのではないでしょうか。私たちの社会では、「放蕩息子」と言われている弟の生き方は、むしろ望ましい生き方、かっこいい生き方だからです。彼のように生きたいと思っている人は少なくないのです。そんなことはないと思うかもしれません。しかしそう思うのは、私たちが弟の身に起こったことの顛末を知っているからではないでしょうか。要するに彼が失敗したことを知っているからです。でももし彼が成功していたらどうでしょう。あるいは失敗しても、そこから再起をはかって、遂に成功を収めていたらどうでしょう。私たちは彼を成功者、勝ち組だと思うのではないでしょうか。彼こそ、この社会が求める生き方の体現者だと思うのです。自分の力で自分の好きなように生き、自分のやりたいことを実現していく。私たちの社会では、このような生き方こそ価値があると考えられています。私たちもこの価値観の影響を受けているのです。だから私たちも、どこかで弟の生き方をかっこいいと思い、こんな風に生きてみたいと思っているのです。

神から離れて生きようとする
しかしまさにここに私たちの問題があります。言い換えるならば私たちの罪があるのです。私たちは失敗したから弟の生き方が間違っていたと思いがちです。しかしそうではありません。失敗したら罪で、成功したら罪ではない、ということではないのです。そうではなく弟の罪、そして私たちの罪とは、私たちが自分の人生を自分のものだと思っていることにあります。自分の命すらも自分のものだと思っているのです。だから自分の好きなように自分勝手に生きようとするのです。弟は父親のもとで生きることに窮屈さを感じ、もっと自由に生きたいと思って、父親のもとを離れて遠い国に旅立ちました。同じように私たちも、神様のもとで生きることに窮屈さを感じ、神様から離れて自分勝手に生きようとするのです。そのように生きるのが自由に生きることだと思っているのです。ですから弟の姿は、まさに私たち罪人の姿にほかならないのです。

人生のどん底
 さて弟は父親から財産を受け取ると、それを全部お金に換えて、父親のもとから離れて遠い国に旅立ちました。そこで彼は放蕩の限りを尽くし、父親から受け取った財産を無駄遣いしてしまったのです。何もかも使い果たしてすっからかんになったとき、さらに追い打ちをかけるようにひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困り始めました。それで彼はある人のところに身を寄せます。すると、その人は彼に畑で豚の世話をさせたのです。仕事にありつけて良かったということにはなりません。律法によれば、豚は汚れた生き物であり、食べてはいけないものでした。そのためユダヤ人は豚を飼うことがなかったのです。弟にとって、豚の世話をさせられるのは屈辱的なことであったに違いありません。彼は、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思うほど飢えていましたが、「食べ物をくれる人はだれもいなかった」のです。彼の人生はまさにどん底にあったのです。

神から与えられたものを無駄遣いする
 弟は自分の力で自分の好きなように生きるために、父親のもとから離れたはずです。しかし彼はたどり着いた場所で、命じられて屈辱的な豚の世話をしなくてはなりませんでした。父親のもとから離れて自由を得るどころか、なおいっそう不自由になったのです。このような結果になったのは、言うまでもなく彼が放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いしてしまったからです。しかしそれは、単にお金をめちゃくちゃに使ったということだけではありません。父親から受け取ったものを自分の好き勝手に使ったことこそが無駄遣いなのです。仮に彼が器用に立ち回って財産を増やしたとしても、彼が無駄遣いをしたことに変わりはありません。父親から与えられているものを、本来自分のものではないものを自分のほしいままに使うならば、その結果がどうであれ放蕩の限りを尽くしているのです。私たちも同じです。神様から与えられているものを、本来自分のものではないものを自分の好き勝手に使うならば、放蕩の限りを尽くしていることになります。たとえ自分自身は堅実にお金を使っていると思っていたとしても、そうなのです。

神がすべてを与えてくださる
 私たちに命を与えてくださったのは神様です。生まれた環境、育ってきた環境も私たちが選んだのではなく、神様が与えてくださいました。これまでの人生の中で獲得してきたように思っているものも、神様が与えてくださったものなのです。もちろん私たちは努力して学校に入ったり、資格を取ったり、就職したりします。しかしこれらのことも、神様が私たちに賜物を与えてくださっているからできることです。しかし私たちはしばしばこのことを忘れ、あたかも自分の命を、自分の持っているものを自分の力で獲得したかのように勘違いし、好き勝手に使って良いと思ってしまうのです。本当は、神様が与えてくださらなければ、私たちはなにもできません。弟は、自由に生きようとして父親のもとから離れて旅立ちました。しかしそれすらも、父親から財産を与えられることによって初めて実現したことです。父親から与えられたものがなくては、父親から離れることもできない。そのことに弟は気づいていません。私たちも自分の好きなように自由に生きたいと思います。あるいはそのように生きていると思っています。しかしそのように生きることも、神様が私たちに命を与えてくださったから、私たちに環境と賜物を与えてくださったからできているのです。そのことに私たちは気づけていないのです。

助ける者はいない
 弟が何もかもを使い果たし、飢えで苦しんでいたときに、彼に食べ物を与える人は誰もいませんでした。彼が本当に困った時に彼を助ける者はいなかったのです。彼の周りに人がいなかったのではないでしょう。むしろ大勢いたに違いありません。自由に生きているように見える彼をかっこいいと思っている人、彼のお金目当ての人、彼と一緒にいれば飲んだり食べたりできると思っている人、そのような人たちが彼のところに多く集まっていたのです。しかしその人たちは、彼がすべてを失った途端に彼を見捨てたのです。かっこよく生きられなくなり、お金もなくなり、飲むのも食べるのも苦労するようになった彼と共に生きようとする人、彼を助けようとする人は誰もいなかったのです。神様が私たちに命を与え、賜物を与え、あるいはお金を与えてくださるのは、私たちがそれを用いて神様のために、隣人のために生きていくためです。しかし弟はそうしませんでした。どん底に落ちたとき誰も助ける人がいなかったことは、彼が神様から与えられたものを正しく用いなかったことを示しています。それは神様から与えられたものを正しく用いないと酷い目に合うぞ、ということではありません。神様から与えられたものを自分のものと勘違いし、自分勝手に用いて生きるとき、自分が持っているものを失うことによって、人々が自分から離れていくかもしれないという不安と恐れを抱かざるを得ない、ということなのです。たとえ大勢の人に囲まれていても、その人たちがいつ自分から離れていくか分からないという不安と恐れを抱えて生きていくことになるのです。

打算の紛れ込んだ悔い改め
 しかしこの弟は人生のどん底で、我に返りました。自分が何者であるかを思い出したのです。自分がかつていた場所を、父親のもとで生きていたときのことを思い出したのです。今、自分は飢え死にしそうだけれど、父親のもとには「あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」ことを思い出し、父親のところに帰ろうと思ったのです。そして彼は父親にこのように言おうと心に決めました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。この言葉は、彼の罪の告白の言葉です。彼は自分の罪を認め、その罪を悔いているのです。ここに彼の悔い改めを見ることができます。私たちは自分の罪に気づき、それを悔いることなしに悔い改めることはできません。自分の罪に気づき、このままではだめだと悔いて神様のもとに帰ろうとするのです。それが私たちの悔い改めです。神様のもとから離れ、神様に背き、自分勝手に生きていた自分には、神様の子どもと呼ばれる資格はないけれど、それでも神様のもとに帰りたいと願うのです。しかしこの弟の悔い改めにしても、そして私たちの悔い改めにしても、それは決して完璧なものではありません。まことに不十分なものです。弟は父親のところに帰れば、少なくとも飢えることはないだろうとも思っていたはずです。なんの打算もなく父親のもとに帰ろうとしたのではないのです。私たちの悔い改めも、そこに打算が紛れ込んでいることがあります。神様のところに戻れば、なにか良いことがあるのではないか、今よりはましになるのではないか、と思うのです。私たちの悔い改めは、打算が紛れ込んだまことに不十分なものでしかないのです。

神と親に対して罪を犯す
 弟が「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と告白していることにも注目しなくてはなりません。「天に対して」とは「神様に対して」ということです。つまり彼は神様と父親に対して罪を犯したと語っているのです。この主イエスのたとえは、父親の姿に神様の姿を見ていますが、それだけでなく、私たちが神様に対して罪を犯すとき、最も近い隣人である親に対しても罪を犯すことをも見つめています。神様のもとから離れ、神様との良い関係を失って生きるとき、隣人との良い関係も失われます。神様との良い関係の中でこそ、私たちは本当に隣人との良い関係を持つことができるからです。このことは先ほど見たように、弟が何もかもを使い果たし、食べるものに困っていたときに、誰も彼を助けなかったことにも示されています。神様との関わりが失われているのであれば、隣人との関わりも信頼のおける関わりにはならないのです。神様との関係と隣人との関係は、言い換えるならば、神様を愛することと隣人を愛することは切り離すことができません。このたとえは、このことをも見つめているのです。

息子の帰りを待ち続ける
 弟は父親のもとに向かいました。すると父親は、息子がまだ遠く離れていたのに見つけて、「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。遠く離れていたにもかかわらず息子を見つけることができたのは、父親が毎日、家の外に出て、息子の帰りを待ち続けていたからです。そして父親は息子の姿を認めると、息子に走り寄って行ったのです。驚くべきことです。自分を死んだものと見なし、自分と関係を断ち切って自分から離れていった息子の帰りを、父親が毎日、家の外で待ち続けるなんてあり得ないことです。帰って来たとしても、家の扉を何度も叩き、「どうか開けてください、どうか許してください」とでも言わなければ、家の中から出てこないのが普通ではないでしょうか。息子は父親に、家へ向かいながら心の中で繰り返していたに違いない、あの罪の告白の言葉を言おうとしました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」。そして続けて、「雇い人の一人にしてください」と言うはずだったのです。しかし父親は、息子の言葉を遮ります。「雇い人の一人にしてください」とは言わせず、父親は僕たちに命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。足に履物を履かせるのは、雇い人ではないことのしるしです。つまり父親は、誰が見ても息子と呼ばれる資格のないこの弟を、本人もその資格がないと思っていたにもかからず、自分の息子として迎え入れたのです。

神の憐れみ
 この父親の姿こそ、父なる神様のお姿です。神様は、ご自分のもとから離れ、自分の好きなように自分勝手に生きようとしてしまう私たちが、ご自分のもとに戻ってくるのを待ち続けてくださる方なのです。いつ帰るか分からない息子を毎日、家の外で待ち続けた父親のように、私たちが神様のもとに帰ってくるのを待ち続けてくださっているのです。神様なしに生きようとし、神様との良い関係を壊したのは私たちです。私たちに神の子と呼ばれる資格がないのは当然のことです。私たちも神様のみ前で「もう神様の子どもと呼ばれる資格はありません」と言うしかない者なのです。しかし神様はその私たちをご自分の子どもとしてくださいます。神の子としてくださるのです。神様がそれほどまでにしてくださるのは、なぜなのでしょうか。それは、父親が息子を見つけて憐れに思ったように、神様が私たちのことを憐れに思っていてくださるからです。「憐れに思う」と訳されている言葉は、人間の内臓を意味する言葉に由来し、「はらわたが痛む」と訳されることもあります。「心を激しく動かされる」とも訳せます。ギリシャ人にとって、この言葉を神に用いることはどうしても信じられないことだったそうです。彼らにとって神が神であるとは、神が人間に対して悲しみや喜びを感じない存在であることでした。もし神が人間に対して悲しみや喜びを感じるなら、それは人間が神に影響を与えたことになり、人間が神に対して力を振るうことになるからです。しかし私たちの信じる神様は、私たちが神様のもとから離れ、失われているのをはらわたが痛むほどに心配してくださり、その私たちが神様のもとに帰って来るのを見ると、走り寄って首を抱きしめ接吻するほど心を激しく動かしてくださるのです。誤解を恐れずに言えば、私たちの信じる神様は、ご自分が神であられることを危険にさらしてまで、私たちのために心を動かしてくださり、憐れんでくださるのです。その深い憐れみのゆえに、神様は独り子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださり、十字架に架けて私たちの救いを実現してくださいました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。神様が私たちのことをこのように言ってくださるのです。神様の深い憐れみによって、独り子を十字架に架けることによって、罪のもとで死んでいた私たちが生き返り、失われていた私たちが見つけ出され、壊れてしまっていた私たちと神様との関係が回復されたのです。
 私たちの悔い改めはまことに不十分なものです。弟がそうであったように、その悔い改めには打算が紛れ込んでいることすらあります。私たちは悔い改めることにおいてすら罪を犯すのです。しかしその不十分な悔い改めを神様は受け入れ、喜んでくださいます。神様の深い憐れみが、私たちの不十分な悔い改めを覆ってくださるのです。父親は「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」と言いました。不十分な悔い改めにもかかわらず、ご自分のもとに帰ってきた私たちに、神様はいちばん良い服を与え、指輪を与え、履物を与え、肥えた子牛を屠るように、さらなる恵みを与えてくださるのです。

憐れまずにはいられない
 共に読まれた旧約聖書エレミヤ書31章20節にこのようにあります。「エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにはいられないと 主は言われる」。主イエス・キリストの父なる神様は、私たちを「かけがえのない子ども」だと、「喜びを与えてくれる子ども」だと言ってくださいます。私たちが良い子だからではありません。神様に背き、放蕩の限りを尽くしていたにもかかわらず、そう言ってくださるのです。神様は、私たちを深く心に留めてくださり、私たちのために胸が高鳴るほどに心を動かしてくださいます。神様は、私たちを憐れまずにはいられない、とまで言われるのです。私たちを憐れまずにはいられない、と言われる神様のもとへ、私たちは立ち帰ります。まことに心もとない悔い改めであったとしても、その悔い改めを受け入れ、喜んでくださる神様に信頼して、神様のもとへ立ち帰るのです。私たちを憐れまずにはいられない、と言われる神様のもとにこそ、神様と共に生きることにこそ、本当の慰めと平安があり、罪と死から解放された本当の自由があるのです。

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