夕礼拝

罪人を招くために

「罪人を招くために」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第25章1-10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第2章13-17節
・ 讃美歌 ; 2、432

 
 今日お読みした箇所は、主イエスとファリサイ派と言われる人々との議論が記されている箇所です。その最後で、主イエスはご自身がこの世に来られた目的を語られています。「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」。主イエスが世に来られた目的は「罪人を招く」ということであり、この目的のために、主イエスはこの世を歩まれたというのです。この議論は、一人の徴税人を弟子にするという出来事から引き起こされます。レビという徴税人が主イエスに声をかけられて、従うのです。

 「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」とあります。「再び」とありますように、主イエスが湖のほとりに来られたのは二度目でした。以前来られた時、この場所で、ガリラヤ湖で漁をしていた四人の漁師に声をかけられて、弟子とされたのでした。以前歩かれた時、おそらく、主イエスは一人であったことでしょう。その時はまだ、宣教の歩みを始めたばかりの時でした。一人湖のほとりに立って、漁師達をご覧になったのです。しかし、今度は違います。既に、ご自身に従っている弟子達が共におり、それに加えて、主イエスの周りには「群衆が集まってきた」というのです。そこで、主イエスは、ご自身のもとに集まってくる群衆に向かって、教えられたのです。主イエスの周りには人だかりが出来、大勢の人が、主イエスを取り囲んでいたでしょう。しかし、この時も、主イエスは以前漁師たちをご覧になったように、一人の人に目をとめられるのです。通りがかりに収税所に座っている一人の人です。そして、漁師たちにしたように、声をかけられるのです。

 14節には、「アルファイの子のレビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。今日与えられた箇所で、レビが召されたことについて書かれているのは、この一節だけです。短い文章です。聖書は、レビが、収税所でどのような立場であったとか、そこで何をしていたかとか、どのような仕事をしていたかということは記していないのです。ここでアルファイの子レビの状況について私たちが知ることが出来るのは、彼が「収税所に座って」いたということだけなのです。以前、ガリラヤ湖のほとりで漁をしていた四人の漁師を弟子にした時、主イエスがご覧になったのは、漁師達が、網を打つ姿、又、網の手入れをしている姿でした。そして、自らが、側に近づいているのにも気づかないで、あくせくと仕事に励んでいる人々に「わたしについて来なさい。」と声をかけられたのでした。
 それに対して、レビに声をかけられた時、主イエスが見られたのは、彼が、必死になって税を集める姿ではありません。又、集めたお金を数えている姿でもありません。ただ、彼が、「座っていた」ということを見られたのです。もちろん、徴税人が暇な職業であったとか、レビが窓際族であったというのではありません。このレビのいた湖のほとりというのは交通の要所で、レビは通行税を取っていたのです。漁師に劣らず徴税人も忙しかったことでしょうし、彼は道ばたにいたわけですから、最前線にたってお金を集めていたことでしょう。しかし、この時、主イエスが、見られたのは、そのような姿ではありません。彼が「座っている」ということを見られたのです。私たちは、ここで、この「座っている」ということが示しているレビの状態に思いを寄せたいと思うのです。

 今日お読みした箇所には、「徴税人や罪人」という表現が出てきます。徴税人が罪人と並んで記されているのです。このことは、この当時、徴税人という人々がどのような存在であるかを示しています。私たちの感覚ですと、罪人と聞いて、特定の職業をイメージすることはありません。しかし、この当時、外国人や、遊女等は、明確に罪人と定められていました。この人々は、神の救いから遠い人とされていたのです。そして、徴税人というのも又、その職業に従事しているだけで、罪人と見なされていたのです。
 この当時の徴税人というのは現代社会において私たちがイメージする税を集める仕事とは少し異なります。この当時ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。徴税人は、支配国であるローマに納めるための税金を集めていたのです。ローマ帝国は、自分たちで直接税を納めるのではなくて、ユダヤ人の中から特定の人を定めて、徴税権を与えて、税を集めていたのです。ここにローマの支配の狡猾さがあるのですが、自分たちではなく、支配国の人に税を集めさせることにより、ローマに対する憎しみを緩和させていたのです。この人々は決められた分をローマに納め、それを越して、取り立てた分が自分の取り分となっていました。ですから、時に、ローマの権力を振りかざして、法外な取り立てを行い、私腹を肥やすということがあったようです。同じユダヤ人たちからは、異邦人のために働く、同胞に対する裏切り者、神の救いから外された罪人であると見なされていたのです。
 このユダヤにおける徴税人のことを思う時に、アウシュビッツの収容所にカポーという人がいたことを思い起こします。ユダヤ人でありながら、収容されている人々を監視する役目を与えられていた人々です。彼らは、収容されている他のユダヤ人たちと異なり、重労働から免除されていました。この人々は、時に、ドイツ兵よりも残酷に同胞であるユダヤ人に接したそうです。本来ユダヤ人でありながら、自分が生き抜くために、良心を痛めつつもドイツ人に魂を売ってしまったのでしょう。最初は、自分の立場に矛盾を感じ、自分を責めていたかもしれません。しかし、そのような自分を責める思いは、周囲の人々が自分に浴びせる憎しみのまなざしを一層強く意識させます。いつの間にか、それから逃れるようにして、激しく同胞を痛めつけるようになっていったのかもしれません。そして、自らを守ろうとする思いは、自分の矛盾した立場に開き直り、自分のなしていることに対して、無感覚になっていったのではないでしょうか。同胞を傷つけることに何のためらいもなくなり、むしろ、そのことに自分の生き甲斐を見いだすようになっていったのかもしれません。
 レビをはじめ、この時のユダヤ人社会における、収税人も、カポーほどではないにしても、同じような立場にあったのではないでしょうか。ローマの手下になって、人々から税を取り立てる。同胞から憎まれる中で、人々を信用できなくなる。そして、いつしかお金だけが頼りになり、お金を集めることだけが生き甲斐になってしまう。そして、そのような自分に開き直り、そのような生き方こそ、自分の姿であると思いこんでしまう。そして、いつしか、収税所でお金に執着して、その他のことには関心も示さずに、孤独の中で座り込んでしまうのです。それが、彼の日常でした。この人は、主イエスが近づいているのに気がつきませんでした。群衆はイエスを求めて、イエスの下に集まっているのです。そして、ご自身を求めて集まって来る群衆に向かって主イエスが教えておられる時にも、その側に行ってみようと思わない。立ち上がってみることをしないのです。主イエスの下に行くことなく、ただ、座っているのです。神の支配が近づき、主イエスが天の国の教えを語っているのにも関わらず、その声を聞くことが出来ないのです。このようなレビの状況を、聖書は、「座っていた」という一言で物語っているように思います。

 ここで、主イエスは、座っているのを「見られ」たとあります。ただ、目に入ったというだけではありません。レビの置かれている状況を深く理解されたのではないでしょうか。そして、レビに「わたしに従いなさい」と声をかけるのです。その声を聞いて、「彼は、立ち上がってイエスに従った」のです。彼は、主イエスに声をかけられることによって、立ち上がることが出来たのです。本日の箇所の直前には、四人の男の人が運んできた、中風の人を主イエスが立ち上がらせたことが記されていました。自分の足で主イエスの下に来られない人を、運んできた人の信仰を見て、罪を赦し、起きあがらせたのです。今日の箇所でも、主イエスはレビの下に行き、立ち上がらせるのです。それは、自らの罪の中に居座っているものを、そこから立ち上がらせるということであると言ってよいでしょう。そのようにして、ご自身に従うものとして下さるのです。

 この後、聖書は、主イエスと、レビが、レビの家に行き共に食事をしたことを記します。レビは、主イエスを家に招き入れたのです。そして、主イエスは、レビと共に食事の席につかれたのです。ここで、食事の席につくと訳されている言葉は、「祝宴につく」という意味の言葉です。「ねそべる」という意味もあります。この食事はただの食事とは異なる食事であったことが分かります。お祝いの宴のような食事なのです。この当時、このような食事の時に、ねそべるようにして座って食べる習慣があったようです。私たちは、知人の家に行って「ねそべる」ということは滅多にありませんが、時々、よっぽど信頼している仲間との間などで、寝そべる人がいることがあります。この当時、宴の席で、ねそべったというのは、その席につく人々との信頼関係を現しているように思います。主イエスは、この時、私たちが、腹を満たすために、ファーストフードで食事を取るように食事を取られたというのではありません。ゆっくりと腰をおろして、お祝いの席を設けられたということなのです。それは、自分の家族であるかのようにレビを深く信頼されたということなのです。この時、「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子達たちと同席していた」とあります。大勢の人がイエスに従っていたのです。その中には、徴税人や、罪人も混ざっていたのです。主イエスは多くの罪人と食事を共にされたというのは、その人々と深く交わりをもたれたということなのです。

 しかし、このことが、一つの議論を引き起こします。そのことを見ていた、「ファリサイ派の律法学者」が、主イエスの弟子達に「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。この主イエスがなされたことが理解できなかったのです。ファリサイ派という言葉には、「分かたれたもの」と言う意味があります。彼らは、律法によって救われるとして、厳格に律法を守る生活をしていました。そして、律法学者と言われている通り、人々を教える立場にあったのです。そのため、多くの人から尊敬をされていました。そして、この人々は、律法を守ることの出来ない人々を救いから外れたものとして見下していたのです。この人々にとって、神殿で力強く教え、人々を集めている主イエスの存在は面白くありませんでした。直前の箇所で、主イエスが、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言った時も「神を冒涜している」と心の中で思ったことが示されています。今日の箇所では、主イエスのなさった行動について、弟子に問いただすのです。この人々にとって、主イエスのなされた、罪人と共に食事をするという行動は、理解しがたいことでした。共に食事をするということは、その人と同じものになるということを意味しています。罪人と食事をすれば、食事をした人も罪人と同じようになることを意味するのです。ですから、ファリサイ派の人々は、決してこのような人々と食事をすることはしませんでした。ですから、自らを神の子であるとして、人々に教えられている主イエスが、自分たちが罪人として、見下しているものと共に食事をしている姿に、ファリサイ派の人々は躓いたのでした。
 私たちは、自分の理解出来ない、キリストの姿に躓きます。神の支配、神による私たちの救いを前にして、無理解によって、それに躓くということがあるのです。この躓きは、人間がファリサイ派の律法学者がそうであったように、キリスト以外に自分が救われるべき根拠を持つ時に起こります。救いの根拠によって、自分は健康なもの、丈夫な人だと思う時に、神による真の救いが見えなくなってしまうのです。そして、その躓きが主イエスを十字架に架けることへと繋がって行くのです。自分が健康である、丈夫であると思ってしまう人々の思いによって、主イエスは十字架に架けられたと行っても良いかもしれません。

 主イエスは、ご自身に躓く人々にたいして「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われます。レビは確かに罪人でした。お金を集めることだけが関心事となり、主イエスが来られても、罪の中に座っていて、立ち上がれなかったのです。ただ、主が見つめ、声をかけることによって、立たされた人です。罪の中に座り込んでしまう中で真に主イエスの救いを必要としていたのです。そして、そのようなものを招くために、主イエスは世に来られたのです。ただ、罪人に声をかけ、立ち上がらせたということだけではありません。その人と食事を共にして、同じものとなって下さるのです。
 この罪人と深く関わり、同じところに身をおいて下さった主イエスのお姿は、十字架によって明らかとなります。十字架において、この方が、私たちが抱える罪の中に深く入り込んできて下さっている。私たちが受けるべき罪を負って下さっているのです。そして、この十字架があるからこそ、罪の中で座り込んでしまう、私たちが真に立ち上がるものとさせられるのです。救いにおいては、自ら立ち上がることが出来ないものを立ち上がらせるために、ご自身は、十字架へと赴かれたのです。そこにおいてこそ、罪人を招くという目的が果たされているのです。

 私たちは、時に、レビのように、座り込んでいるという時があるのではないかと思います。主イエスの、福音の知らせを聞いても、それが、自分の生活の中で生きていないということもあります。自分の現状に開き直り、主イエスが語られていることに気づくことが出来なくなっていることもあります。又、一方で、自分が救われたものであるという確信を得ようとして、隣人と自分とを区別してしまうこともあります。どちらの場合も、自分の本当の姿、救いにおいては、丈夫な者ではなく病人であることに気付いていないのです。
 私たちは、主イエスが、担われた十字架を見る時に、自分自身の罪を知らされます。それが、本来、私たちが受けるべき、罪の代償であるからです。十字架においてこそ、私達の本来受けるべきものを主イエスが受けて下さっている。私たちは、この方の十字架の事実の前で、自分の罪と共に、私たちが真に救われていることを信じる時に、真に立ち上がることが出来るのです。私たちも又、この救いを知らされつつ、立ち上がり、主イエスに従うものとなりたいと思います。

関連記事

TOP