主日礼拝

罪を赦し、赦されて生きる

秋の伝道礼拝 
説教題「罪を赦し、赦されて生きる」 牧師 藤掛順一

詩編 第51編1~21節
マタイによる福音書 第6章12節

負い目=罪
 本日皆さんとご一緒に味わう聖書の言葉は、マタイによる福音書第6章12節です。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。これは、イエス・キリストが弟子たちに「このように祈りなさい」と教えた、いわゆる「主の祈り」の一部です。この礼拝においてもこの後その「主の祈り」をご一緒に祈ります。週報の最後の頁にその祈りの言葉が記されています。その中の、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」というのが本日の箇所の祈りです。聖書では「負い目」となっているところが、この祈りでは「罪」となっています。「負い目」とは「罪」のことなのです。本日はこのことを先ず考えたいと思います。
 「罪」という言葉から皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。「犯罪」でしょうか。しかし犯罪を犯すことだけが罪ではないし、犯罪を犯していなくても罪を犯すことがあることを私たちは知っています。例えば意地悪をして人を傷つけることは罪です。そういう罪を私たちが意識するのは、自分が人によって傷つけられて嫌な思いをした時でしょう。そういう時に私たちは、人が自分に対して罪を犯していることを意識して、怒りや悲しみを覚えるのです。そのように私たちは、人の罪によって自分が傷つくことにはとても敏感です。しかし自分も同じように人を傷つけていることには鈍感で、なかなか気づきません。人の罪はよく分かるけれども、自分の罪を意識することはなかなかできないのが私たちです。でも、人に傷つけられて嫌な思いをすることがあるということは、自分も人を傷つけて嫌な思いをさせてしまうことがあるということです。つまりお互いの罪によって傷つけたり傷つけられたりしているのが私たちの現実なのです。だからお互いさまなのだと言いたいのではありません。お互いの罪によって傷つけ合ってしまっているところに、私たちの大きな苦しみがある、と言いたいのです。

罪は私たちを苦しめている
 この苦しみは、お互いさまだから仕方がない、と済ましてしまうことはできないし、忘れようとしても忘れられません。私たちは、自分が人を傷つけたことはすぐに忘れてしまいますが、人に傷つけられたことはいつまでも覚えています。ということは、自分が傷つけた相手も、そのことを忘れることなくいつまでも覚えているのです。罪によって生じた恨みは、ほうっておけばそのうち解消するものではありません。いつまでも恨んでいても仕方がないからもう忘れよう、と思っても、そして忘れたつもりでいても、ふとした時にまたその恨みが湧き上がってきます。表面に現れなくなっているだけで、恨みは無くなっていないのです。罪が「負い目」と言い換えられるのはまさにそのためです。負い目とは負債、つまり借金という意味です。借金は自然になくなることはありません。返すまでは負債として残る。罪も同じです。罪は償わなければなくなりません。法律にふれる犯罪を犯したら、罰金を払ったり、あるいは懲役に行ったりという仕方で償いをして初めてその罪は帳消しになるのです。犯罪だけではありません。誰かを傷つける罪を犯してしまったら、それによって破れてしまった関係を修復するためには償いが必要です。先ずは心から謝らなければなりません。そして相手に与えた損害や傷を癒すための努力をしなければなりません。そういう償いを誠実にすることが、罪を乗り越えて和解するための道です。ところが私たちはそれがなかなか出来ません。自分が人を傷つけたとしても、なかなか心から謝ることも、償いをすることもできないのです。むしろ、「私も悪いかもしれないが、こちらにも言い分がある」と思う。そう思っている限り本当に謝ることはできません。そしてそういう私たちは、自分に罪を犯した人が、自分の言い分ばかりを言い立てて謝ろうとしない、と思うのです。私たちはお互いにそういうふうに思いながら生きているのではないでしょうか。人との間でいつも、あの人は自分に負い目があるのに、それを返そうとしない、けしからん、と腹を立てている。逆に自分はあの人に負い目があると思うことがあっても、でも返したくない、だって自分だけが悪いわけではなくて、相手にも問題があるんだから、自分だけが負い目を感じる必要はないはずだ、とやはり腹を立てる。そのように、人の罪に対しても、自分が罪を犯していても、どちらにおいても腹を立てているのです。そしてその怒りやいらだちが残り続ける。そういう怒りやいらだちを抱えて生きていくことはストレスです。苦しみです。罪は、人が自分に対して犯した罪も、自分が人に対して犯した罪も、いずれの場合も負い目となって残り、私たちを苦しめるのです。

「赦せない」ことによって苦しみが深まる
 その罪による苦しみから解放される道は、償いがなされることの他にもう一つあります。それは罪の赦しが起こることです。自分が人を傷つけてしまった時、相手がそれを赦してくれるなら、私たちは負い目から解放されます。返さなければならない負債、借金が重くのしかかっていたのが、もう返さなくてもいいよと言ってもらうことによって身軽になることができるのです。逆に人が自分を傷つける罪を犯した時に、その相手を本当に赦すことができれば、怒りを抱えて生きるストレスから解放されます。赦せない、という思いをかかえていることによって、私たちは苦しむのです。そしてそれが新たな罪を生み、お互いの苦しみがさらに深まっていくのです。
 今、パレスチナにおいて起っているのはまさにそういうことです。イスラエルとハマスの対立は、どちらが正しくてどちらが悪い、と単純に言えるようなことではありません。長い歴史的な背景があるのです。評論家のような話になりますが、そもそもの始まりは、第一世界大戦の時、つまり百年少し前に、イギリスが、戦争への協力を得るために、当時オスマン・トルコの支配下にあったあの地に住んでいたアラブ人つまりイスラム教徒たちに、独立した国を築くことを認めると約束し、ユダヤ人たちにも、自分たちの国を造ることを認めると約束し、それと同時にフランスとロシアとの間で、戦後あの地を分割統治する密約をしていたという、いわゆる「三枚舌外交」をしたことにあります。アラブ人もユダヤ人も、自分たちの国を築けるという希望を抱いたのです。それによって、それまでは平和共存していた人々の間に対立が生じました。そして第二次世界大戦後、国連の決議に基づいてユダヤ人によるイスラエル共和国が建国されました。その範囲は当初はかなり限定されていましたが、イスラエルは世界各地のユダヤ人たちの経済力に支えられた圧倒的な軍事力をもって、何度かの戦争によって領土を広げていきました。その過程で、土地を追われた多くのアラブ人がパレスチナ難民となったのです。だからアラブ人の間にはイスラエル、ユダヤ人を「赦せない」という思いがあります。それに対抗して自分たちの国を守ろうとしているユダヤ人も、例えば今回のハマスによる攻撃を「赦せない」と思っています。長い歴史的な背景があり、多くの人の命が失われてきた事情の中で、お互いに「赦せない」と思っているのです。その思いによって、憎しみが憎しみを生み、今のようなまことに悲惨なことが起っています。罪を赦すことができないために、国と国、民族と民族の間に悲惨な戦いが起るし、私たち一人ひとりの生活においても、ストレスに満ちた苦しみが起るのです。

罪の赦しを祈り求める
 イエス・キリストはそのような私たちに、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈るように教えました。これは人の罪を赦し、また自分の罪が赦されることを願う祈りです。罪を赦し、赦されて生きることができるようにして下さい、という祈りです。その前の11節には「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りが教えられています。日々の生活を支える食べ物を祈り求めることの次に、罪の赦しを祈り求めなさいとイエスは言われたのです。罪の赦しは、日々の食べ物と同じくらいに大事だ、ということです。毎日の食事をとれなければ健康に元気に生きていくことができないのと同じように、罪を赦し、赦されることなしには、私たちの人生は苦しみに満ちたものとなり、生き生きと喜んで生きることができない。この祈りによってイエスはそのことを教えているのです。

罪を裁き、赦すことができるのは神のみ
 大事なことは、この祈りは、「私たちが罪を犯した相手の人が私たちを赦してくれますように」ではなくて、神に「わたしの罪を赦してください」と祈り求めている、ということです。私たちは人間どうしの間で罪を犯し合っており、お互いがお互いの罪を「赦せない」と思いつつ生きています。しかし私たちが罪の赦しを本当に祈り求めるべき相手は神なのだ、とこの祈りは教えているのです。
 本日共に読まれた旧約聖書の個所は、詩編第51編です。この第51編は、1,2節のタイトルによれば、「ダビデ王がバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」の歌です。ダビデは、自分の部下ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕して、ウリヤを戦場でわざと戦死させてその妻を奪ったのです。その罪を預言者ナタンに指摘された時にこの詩が生まれました。ダビデが罪を犯したのは、ウリヤとバト・シェバに対してです。つまり彼の罪は人間に対する罪です。それなのに、この詩の6節でダビデは「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と言っています。ダビデは自分が人に対して犯した罪をなかったことにしようとしているのではありません。10節に「あなたによって砕かれたこの骨」とあるように、彼は自分の罪に対する神の怒りによって、骨が砕かれるような苦しみを覚えているのです。王であるダビデに対して、人は誰もあからさまに罪を責めようとはしません。しかし神は、彼の罪を見逃すことはなく、怒って、責めておられるのです。それは「良心の呵責」などという自分の心の中だけの生易しいものではありません。「あなたのみにわたしは罪を犯しました」という彼の言葉は、私の罪を本当に裁くことができる方はあなたのみです、ということです。人に対して犯している私たちの罪を本当に裁くことができるのは神なのです。そしてそれは、私たちの罪を本当に赦すことができるのも神のみだ、ということです。この祈りによってイエスは、「罪の赦し」を与えることができる唯一人の方である神に、それを祈り求めなさい、と教えておられるのです。

「赦せない」という泥沼からの解放
 私たちは、自分が人に対して罪を犯していることを自覚します。だからその相手に罪の赦しを求めるべきことを知っています。でもその時私たちは、自分だけが悪いわけではなくて相手にも問題がある、相手のせいでこうなったんだ、だから相手が先に自分に赦しを求めるべきだ、相手が謝るならこちらも謝ってもよい、自分から先に謝るのはいやだ、とも思ってしまいます。それはつまり相手を「赦せない」ということです。自分が相手に対して罪を犯していても、相手を「赦せない」と思ってしまうのです。赦せないから、赦しを求めることもできないのです。私たちは「赦せない」という思いの泥沼にはまり込んで、抜け出せずにもがいているのではないでしょうか。イエス・キリストは、その泥沼から私たちを救い出すために、神に罪の赦しを祈り求めるこの祈りを教えて下さったのです。神に罪の赦しを祈り求めることによってこそ私たちは、人を赦せないという思いの泥沼から抜け出して、人との間に新しい関係を築いていくことができるのです。そのためにこの祈りに付け加えられているのが、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉です。私たちの祈りにおいては、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく」です。私たちの祈りの言葉ではこちらの方が先になっていますが、原文の順序はこの聖書の言葉の通りで、「わたしたちの負い目を赦してください」の後に「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と語られているのです。それは、私たちが人の罪を赦したら、それと引き換えに神が私たちの罪を赦してくれる、ということではありません。この祈りはあくまでも、神に、私たちの罪を赦して下さい、と願っているのであって、そのための交換条件を示しているのではありません。しかし主イエスがここで見つめているのは、神に罪の赦しを祈り求めていくところでは、自分に罪を犯している人との関係も変わっていく、ということです。「赦せない」という泥沼から抜け出して、人を赦すことができるようになることが、そこでこそ起こるのです。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく」という言葉はそのことを見つめているのす。私たちは、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく」となかなか祈れません。「赦せない」という思いの泥沼に深くはまってしまっているからです。主イエスはそのことをよくご存じの上で敢えて、このように祈りなさいと命じておられるのです。このように祈ることによってこそ、「赦せない」という思いの泥沼から抜け出す道が開かれていくからです。

神に赦されることによって人を赦す者となる
 神に自分の罪を赦していただくことによってこそ、人の罪を赦すことができるようになる。そのことを、この福音書の18章23節以下で主イエスが語った譬え話が示しています。ある王に、一万タラントンの借金をしていた家来が、その借金を赦してもらい、帳消しにしてもらった。ところがその人が、自分に百デナリオンの借金をしている人を赦さなかった、という話です。まさにここでは借金を帳消しにすることが罪の赦しの譬えとして用いられています。一万タラントンというのは、一生かかっても絶対に返すことはできない莫大な金額です。それに対して百デナリオンは、百日分の賃金、ですから年収の三分の一ぐらいの額です。それは決してはした金ではない、相当な額です。しかし一万タラントンとは比べものになりません。この家来は、一万タラントンの負債を王に赦してもらったのに、仲間の百デナリオンの負債を赦しませんでした。それに対して王は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言いました。あなたがたは神に一万タラントンの負債を赦していただいたのだから、自分に百デナリオンの負債のある人を赦すべきではないか、ということをこの話は私たちに語りかけているのです。

自分の一万タラントンの負債を知る
 しかし、そもそも自分が神に一万タラントンという莫大な負債、罪をかかえているということが私たちには分かりません。私たちが意識する罪は人との関係における罪ばかりです。その罪をどれだけ数え上げても、神に対する罪は見えてきません。神に対する罪が見てくるのは、神がどのようにして私たちの罪を赦して下さったのかを見つめることによってです。神はその独り子であるイエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さったのです。神の独り子である主イエスが、私たちの罪の償いのために、ご自分の命を犠牲にしてくれたのです。キリストの十字架の死によって自分の罪が赦された、ということを知る時に初めて私たちは、自分は一万タラントンの負債を神に対して負っていた、神に従わず、無視して生きている自分の罪はそれほどに深かったのだ、ということを知らされるのです。つまり私たちは自分が神に対して一万タラントンの負債を負っていたことを、神がその負債を赦して下さったことと共に知るのです。

既に実現している罪の赦しの中で生きるために
 この譬え話は、一万タラントンの負債を赦された者は、自分に百デナリオンの負債のある人を赦すべきだ、という話です。しかし本日のところの祈りは、神に私たちの負債、罪を赦して下さいと願っているのであって、そのことと結び合わされて私たちが人の罪を赦すことが語られているのだから、あの譬え話とは順序が違うではないか、と思うかもしれません。しかし大事なことは、この祈りを教えて下さったイエス・キリストは、もう既に十字架の死によって私たちの一万タラントンの負債を赦して下さっているのだ、ということです。主イエスの十字架によって神が私たちの罪を赦して下さった、という事実の中で私たちは、「私たちの罪を赦して下さい」と祈るのです。それは、主イエスによって実現した罪の赦しの恵みの中で本当に生きる者として下さい、ということです。神は独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を既に赦して下さっています。その恵みを本当に受けて、罪を赦されて生きる者となるために、この祈りは教えられているのです。

罪を赦し、赦されて生きるために
 その祈りに、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく」という言葉が付け加えられています。それは先ほどもお話ししたように、私たちが人の罪を赦したら神も私たちの罪を赦して下さる、ということではありません。私たちは、自分に罪を犯した人を赦すことによってこそ、自分の罪を赦して下さった神の恵みを本当に知ることができるのです。百デナリオンは百日分の賃金です。「別にいいよ」と簡単に言えるような額ではありません。それを赦して帳消しにしたら、大きな損害を受けるのです。つまり人の罪を赦すことには大きな苦しみが伴い、自分が損害を引き受けなければならないのです。そのことを主イエスは私たちに敢えて求めておられます。それによってこそ、神が独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さった、その恵みの大きさが本当に分かるからです。そしてその恵みが本当に分かることによってこそ私たちも、赦せない、という思いを乗り越えて、人の罪を赦す苦しみを背負っていこうという思いを与えられるからです。そして、人の罪を赦そうという思いが与えられるところでこそ、自分の罪を詫びて、赦しを求めていくこともできるようになるのではないでしょうか。そのようにして私たちは、罪を赦し、赦されて生きる者となっていくのです。イエス・キリストが教えて下さった、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りを真剣に祈ることこそ、「赦せない」という思いによる悲惨な戦いによって多くの人が傷つき、命が失われているこの世界の現実を変えていくために私たちにできること、なすべきことなのです。

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