夕礼拝

主イエスの弟子であるために

説 教 「主イエスの弟子であるために」
旧 約 ヨブ記 第1章13-22節
新 約 ルカによる福音書 第14章25-35節

旅の再開
 ルカによる福音書14章を読み進めて来ました。本日は25節から最後までを読みます。前回まで見てきたように、1-24節は一つの場面で、安息日にファリサイ派のある議員が催した食事会での出来事が語られていました。しかし本日の箇所の冒頭には「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」とありますから、ここではその食事会の場面から、主イエスに大勢の群衆が一緒について行く場面へと移っているのです。私たちは、主イエスが、今、エルサレムへ向かって進まれていることを思い起こさなくてはなりません。9章51節で「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と言われていましたが、その時から、主イエスはエルサレムに向かって旅をされているのです。それは巡礼のためでも、物見遊山のためでもありません。51節に「天に上げられる時期が近づくと」とあり、また13章33節に「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とあったように、主イエスは十字架で死なれ、復活させられ、天に上げられるためにエルサレムへ向かっているのです。ひと時エルサレムへ向かう足を止めて食事会に参加された主イエスは、本日の箇所で、再びエルサレムへ向かう旅を、十字架の死へ向かう旅を再開されるのです。

二つのたとえ
 再びエルサレムに向かって進み始めた主イエスに、大勢の群衆が一緒について行きました。後ろからついて来るその大勢の人たちの方を振り向いて、主イエスがお話しになったことが26節以下で語られています。ところが26節以下を読んでみると、分かったような気もするし、分からないような気もするのではないでしょうか。部分部分は分かるけれど、全体として、主イエスがこの箇所で何を私たちに伝えようとしているのかがよく分からないのです。その原因の一つは、28-32節で語られている主イエスのたとえが、前後とどう結びついているのか分かりにくいことにあると思います。
 そこでまず28-32節の主イエスのたとえに目を向けていきます。ここで主イエスは二つのたとえを語っています。28-30節では、塔を建てるときのたとえが語られていて、このように言われています。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」。なんのためのどんな塔かははっきりしませんが、たとえば手の込んだ堅固な見張りの塔を造るとしたら、塔を建てるのにどれぐらい費用がかかるかを計算し、その費用が支払えるかを考えるだろう、と言われているのです。その準備を怠れば、土台を築いただけで完成できなかった、という目も当てられない事態が起こり得るし、それを見ていた人々から、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と笑われてしまうに違いないのです。
 31-32節では、王が戦争をするときのたとえが語られていて、このように言われています。「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」。ここで言われているのは、一万の兵で二万の兵を迎え撃つのは無謀だ、不可能だ、ということではありません。そうではなく二万の敵軍を、一万の自軍で迎え撃つときは、まずそれができるかどうかを考えてみるはずだ、と言われているのです。考えもせず、準備もせずに、気合いだけで二倍の敵軍を迎え撃つことはしないはずだ、ということです。そしてもし考えた結果、分析した結果、迎え撃てないと判断したら、敵がまだ遠くにいる間に使者を送って講和するだろう、と言われているのです。

まず腰をすえて
 この二つのたとえの両方で使われている言葉が、「まず腰をすえて」です。28節では「まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」と言われ、31節では「まず腰をすえて考えてみないだろうか」と言われています。ですからこの二つのたとえを通して主イエスは、なにかを行うときには、ろくに考えもしないで、準備もしないで取り組むのではなく、「まず腰をすえて」、落ち着いて考え、しっかり準備してから取り組むことを教えておられるのです。それは、私たちに賢くあるよう教えている、ということでもあるのではないでしょうか。費用を考えずに塔を建てるのも、兵力差を分析せずに戦争をすることもまことに愚かなことです。誰もがその愚かさを分かっています。しかしそれにもかかわらず、先の日本の戦争がそうであったように、人間はしばしばそのような愚かなことをするのです。だから主イエスは私たちに賢くあるよう教えておられるのです。

主イエスの弟子であるために
 主イエスの二つのたとえは、私たちがしっかり備えてから取り組むことを、私たちが賢くあることを教えています。そうであるならこの箇所全体で主イエスは、何のためにしっかり備え、何のために賢くあるよう語っているのでしょうか。その手がかりは、この箇所全体で3回繰り返されている主イエスのお言葉にあります。そのお言葉が「わたしの弟子ではありえない」です。26、27節に、そして二つのたとえの後、33節に、この言葉があります。ですからこの箇所全体のテーマは、主イエスから「わたしの弟子ではありえない」と言われないためにはどう生きたら良いのかにあります。言い換えるならば、主イエスの弟子であるためにはどう生きたら良いのかにあるのです。
 そのように言われると私たちは、この箇所の小見出しに「弟子の条件」とあるように、主イエスの弟子になるための条件が語られていると思ってしまいます。しかし「わたしの弟子ではありえない」という主イエスのお言葉は、直訳すれば「わたしの弟子であることはできない」であり、「わたしの弟子になることはできない」ではありません。ここで主イエスが語っているのは、主イエスの弟子になるためにはどうしたら良いのか、ということではなく、主イエスの弟子であるためには、主イエスの弟子であり続けるためにはどうしたら良いのか、なのです。本日の説教題を、「主イエスの弟子になるため」ではなく、「主イエスの弟子であるため」としたのはそのためです。「わたしの弟子ではありえない」という主イエスのお言葉に挟まれた二つのたとえは、主イエスの弟子であり続けるために、私たちがしっかり備えなくてはならないことを、賢くあらねばならないことを見つめているのです。今、主イエスはエルサレムに向かって、十字架の死に向かって進んで行かれます。その主イエスについて行こうとする人たちに、つまり主イエスの弟子であり続けようとする人たちに、主イエスは振り返って話されたのです。そして主イエスが話されたことは、主イエスの弟子であり続けようとする私たちに向けられた言葉でもあるのです。

主イエスが本当に伝えようとしていることを受け止める
 主イエスの弟子であり続けるために、私たちはしっかり腰を据えて、備えなくてはなりません。具体的にどう備えるのかが、26、27節でこのように言われています。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。さらに33節では、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われています。主イエスの弟子であり続けるために私たちがなすべき備えは、家族を憎み、自分の命を憎み、自分の十字架を背負い、自分の持ち物を一切捨てることだ、と言われているのです。とても厳しいお言葉です。主イエスの弟子であり続けることの厳しさが示されています。主イエスの弟子であり続けるためには、十分な備えが必要であり、賢さが必要なのです。費用を計算せずに塔を建てても完成しないように、兵力差を分析せずに戦争をしたら負けるほかないように、備えと賢さなしには、主イエスの弟子になったとしても、最後まで弟子であり続けることはできません。「あの人は主イエスの弟子になったけれど、最後まで弟子であり続けられなかった」と人々から笑われてしまうことになるのです。この主イエスのお言葉から私たちはまず、主イエスの弟子であり続けることの厳しさをしっかり受け止める必要があるのです。
 しかしその上で、主イエスが家族を憎みなさい、自分の命を憎みなさい、あるいは自分の持ち物を一切捨てなさい、と言われるとき、主イエスが本当に私たちに伝えようとしていることをしっかりと受け止めなくてはなりません。そうしなければ、家族を憎み、自分の命を憎み、自分の持ち物を捨てるなんて、できるはずがないと諦めてしまいかねないのです。あるいは逆に、これらの主イエスの言葉を利用して、自分が家族を憎むことや自分自身を憎むことを正当化しかねないのです。

主イエスにのみ信頼して生きる
 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言われていました。主イエスは夫婦の関係、親子の関係、きょうだいの関係を壊しなさい、と言われているのでしょうか。そうではありません。そのように受け止めるなら、私たちは主イエスが伝えようとしていることから大きく逸れてしまいます。では家族を憎み、さらに自分の命をも憎むとは、なにを見つめているのでしょうか。マタイによる福音書10章37節で、主イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われています。「わたしにふさわしくない」とは、「わたしの弟子ではありえない」ということです。主イエスよりも父や母、息子や娘を愛する者は、主イエスの弟子ではありえない、と言われているのです。本日の箇所でも同じことが見つめられています。家族や自分の命を憎むとは、主イエスよりも家族を少なく愛する、主イエスよりも自分の命を少なく愛する、ということです。愛するとは信頼することです。ですから主イエスよりも家族や自分の命に信頼する者は、主イエスの弟子ではありえない、と言われているのです。主イエスの弟子であり続けるために私たちが備えるべきことは、家族との関係を破壊することではなく、家族よりも、自分の命よりも主イエスを愛することであり、主イエスに信頼することなのです。
 「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)とも言われていました。「自分の持ち物を捨てなさい」という主イエスのお言葉も、自分の財産をすべて捨てて、無一文になって生きることを求めているのではありません。そうではなく自分の持ち物に信頼して生きるのではなく、主イエスにこそ信頼することを求めているのです。今の生活に終止符を打って、すべてを捨てて出家して生きるのではなく、今の生活を続けていく中で、主イエスにのみ信頼して生きていくのです。「捨てる」と訳された言葉は、「さよならと言う」という意味の言葉です。主イエスにのみ信頼して生きるなら、私たちは自分の持ち物を握りしめようとしなくなり、いつでも自分の持ち物に「さよなら」と言えるようになります。主イエスの弟子であり続けるために私たちが備えるべきことは、自分の持ち物ではなく、主イエスに信頼することなのです。

本当の賢さに生きる
 このように家族や自分の持ち物よりも主イエスに信頼することが、私たちが主イエスの弟子であり続けるためにしっかり備えることです。そしてそのように生きることが、二つのたとえで見つめられていたように、私たちが賢くあることでもあるのです。しかしこの賢さは、私たちが通常考える賢さ、人間の賢さとはまったく異なるものです。多くの人たちは、通常、自分の持ち物を頼りにして生きるのが賢い生き方だと考えています。だから自分の持ち物を物理的にも精神的にも増やそうとします。自分の持ち物が減ると不安になるので、そうならないように必死になるのです。この福音書の12章13節以下で、ある金持ちが大きな倉を建て、そこに自分の穀物や財産をしまって、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と言ったことが語られていました。この金持ちの生き方こそ、自分の持ち物を頼りにして生きる生き方であり、この社会においてはしばしば賢い生き方と見なされるものです。ところが神様は、この金持ちに「愚かな者よ」と言われました。自分の持ち物を頼りにして生きるのは愚かな生き方だ、と言われるのです。私たちが主イエスの弟子であり続けるために賢くあるとは、人間の賢さに生きることではなく、むしろ人間の賢さを手放して、神様が示してくださる賢さに生きる、ということです。それは、主イエスに信頼して生きるところに本当の安心があることを弁えて生きる、ということです。私たちは、ある年齢までは自分の持ち物を増やしつつ歩んでいきますが、ある年齢からは自分の持ち物を失いつつ歩んでいきます。自分ができていたことや、持っている物を失っていくのは本当につらいことであり、なかなか受け入れられないことです。しかし自分の持ち物ではなく、主イエスにこそ信頼して生きるならば、それらのものを安心して手放すことができる、それらのものに安心して「さよなら」と言うことができるのです。このことを弁えて生きることが、本当の賢さに生きることなのです。

主は与え、主は奪う
 それにしても私たちはなぜ家族や自分の持ち物よりも主イエスに信頼して、神様に信頼して生きることができるのでしょうか。それは、父や母、夫や妻、子供、きょうだいが、そして自分の命すらも自分のものではなく、神様のものだからです。共にお読みした旧約聖書ヨブ記1章21節で、ヨブは子どもたちと財産を一瞬にして失ってしまったにもかかわらず、このように祈ります。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。私たちは裸で母の胎を出たのです。何も持たずに生まれてきたのです。人生の中で自分が手に入れたように思っているものは、すべて神様が与えてくださったものなのです。そもそも自分の命すらも自分のものではなく神様が与えてくださったものにほかなりません。家族も、自分の命や持ち物も自分のものではなく神様のものであり、神様が与えてくださり、そしてお定めになっているときに取り去られると気づかされることによって、私たちはその神様にのみ信頼して、主イエスにのみ信頼して生きるよう導かれるのです。

主イエスに信頼して生きるときに
 私たちが主イエスに信頼し、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と祈りつつ神様に信頼し、すべてを神の御手の内に委ねるときにこそ、私たちは本当に家族を愛し、自分の命を大切にし、自分の持ち物を用いていくことができます。夫婦の関係、親子の関係、きょうだいの関係において、私たちは喜びや慰めを与えられるだけでなく、苦しみや悲しみや葛藤を味わうことも少なくありません。ときには関係が壊れてしまって、自分たちの力では修復できないことも起こります。しかし私たちはそのような関係にある家族をも神の御手に委ねます。神様に信頼することによって、自分自身では愛せない家族をも神様が御手の内に置いてくださると信じ、その家族を神様に委ねることができるのです。家族を安心して手放し、神様に委ねることによって、私たちは本当に家族を大切にし、愛することができるのです。また、私たちは神様を愛する中で、自分自身を愛するよう変えられていきます。自分の命を大切にするようになるのです。神様が独り子を十字架に架けてまで自分を愛してくださっていると知らされることによって、私たちは神様がそれほどまでに愛してくださっている自分の命をも愛するように変えられます。神様が私たちに命を与え、そしてお定めになっているときにそれを取り去られることに気づかされるとき、私たちは、今、神様によって自分が生かされていることを大切にするようになるのです。主イエスは家族を憎み、自分の命を憎まなくては、主イエスの弟子であり続けることはできない、と言われました。家族や自分の命よりも主イエスを愛することによって、主イエスにのみ信頼して生きることによって、主イエスの弟子であり続けることができるのです。しかしそのように生きる中で与えられるのは、家族との関係を壊すことでも、自分の命を蔑ろにすることでもなく、むしろ本当に家族との関係を大切にし、自分の命を愛することなのです。主イエスにのみ信頼するときにこそ、主イエスの弟子として生き続けるときにこそ、自分の家族との関係が、自分自身との関係が、神の御手の中で整えられていくのです。
 自分の持ち物についても同じです。私たちが自分の持ち物ではなく、すべてを与え、すべてを取り去られる神様に信頼して生きるとき、私たちは自分の持ち物を握りしめることがなくなります。しかし同時に、今、自分に与えられている持ち物を、精一杯、用いるようにも導かれるのです。自分の持ち物に頼らないとは、自分の持ち物に無責任になることではありません。むしろ神様が自分に与えてくださっているものに責任を持ち、それが取り去られるときまで、それを管理し、精一杯、用いていくのです。主イエスにのみ信頼して生きるときにこそ、私たちは自分に与えられている持ち物を、本当に豊かに用いることができるのです。

自分の十字架を背負って
 主イエスにのみ信頼して、主イエスの弟子であり続けることこそ、「自分の十字架を背負って」生きることです。「自分の十字架」とは、自分の人生における、あれやこれやの重荷のことではありません。主イエスに従って生きることにおいて、主イエスの弟子であり続けることにおいて背負う十字架のことです。主イエスの弟子であり続けることには厳しさが伴い、腰をすえて備える必要があり、人間の賢さを手放す本当の賢さが必要です。しかし私たちが自分の十字架を背負って歩むとき、すでに私たちに先立って主イエスがその歩みを歩んでくださっているのです。主イエスがエルサレムへと、十字架へと歩んでくださり、その死と復活と昇天によって切り開いてくださった救いの完成への道を、私たちは自分の十字架を背負って歩んでいくのです。歩んでいく先にある救いの完成を見つめつつ、主イエスにのみ信頼し、自分の十字架を背負って主イエスの後に続き、主イエスの弟子として歩み続けていくのです。そしてそのように生きるとき、私たちは、主イエスの弟子として塩味を失わずに生きることができるのです。

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