主日礼拝

み心が行われますように

説教題「み心が行われますように」 牧師 藤掛順一
             
詩編 第40編1~12節
マタイによる福音書 第6章10節

誰の意志の実現を願っているか
 マタイによる福音書第6章にある「主の祈り」を読み進めていまして、本日は第三の祈り「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」を味わいたいと思います。私たちがいつも祈っている言葉で言えば、「み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ」です。「神さまのみ心がなりますように、行われますように」と祈っているわけですが、その「み心」とは「神のご意志」という意味です。英語で言うならば、heartとかではなくてwillです。神のご意志がその通りに実現しますように、と祈っているのです。
 私たちは日々、誰の意志が実現することを願いながら生活しているのでしょうか。大抵の場合、自分の意志、自分の思いや願いが実現することを願いつつ生きているのではないでしょうか。自分の意志の実現のために日々あくせくし、それが少しでも実現すれば喜び、自分の思いとは違う事態になると悲しみ嘆く、そういう日々を送っているのではないでしょうか。毎週の礼拝で、また毎日の生活において主の祈りを祈り、「み心が行われますように」と祈っていながら、現実に私たちが願い求めているのは、神のみ心ではなくて、自分の意志や願いが成ることだ、ということがあるのではないでしょうか。本当に心から「み心が行われますように」と祈るのは決して簡単なことではありません。そのためには、自分の思い通りになることを願うことをやめて、神のみ心が成ることを求めるように方向転換をする必要があるのです。私たちが大切にしている「ハイデルベルク信仰問答」の問124は、この第三の祈りを、「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」ということだと説明しています。自分自身の思いを捨て去る、ということなしに、この祈りを本当に祈ることはできないのです。

私の思いではなく
 そのことは、これまでに味わってきた第一と第二の祈りにおいても、実は同じです。スウェーデンの人で、第二代の国連事務総長を務めた、ダグ・ハマーショルドという人がいました。1961年に、アフリカ、コンゴでの内戦の和平のために出向いた中で、飛行機事故で亡くなった人です。彼は熱心なクリスチャンであり、主の祈りに基づいて次のように祈っていたことが伝えられています。
み名が聖とされますように、私の名ではなく。
み国が来ますように、私の国ではなく。
み心が行われますように、私の思いではなく。
この三っつ目の祈りにあるように、み心が行われますようにと祈るとは、「私の思いではなく」、つまり自分の意志が行われるのではなくて、ということであるわけですが、同じことが第一と第二の祈りにおいても語られています。「み名をあがめさせたまえ」、つまり「み名が聖とされ、あがめられますように」という祈りは、私の名ではなくて神のみ名が聖とされ、あがめられますように、ということです。「み国をきたらせたまえ」の国とは支配という意味です。ですからこれは神のご支配が実現しますように、という祈りです。それは私の国、私の支配ではなくて、神の国、神のご支配の実現を求める、ということです。このように、主の祈りの前半の三つはどれも、自分の栄光、自分の支配、自分の意志ではなくて、神の栄光、神の支配、神のみ心の実現を求めるという内容なのです。これらの祈りを祈るとは、自分の栄光、自分の支配、自分の思いを捨て去ることなのです。

第三の祈りがある意味
 だとしたら、「み国を来らせたまえ」という第二の祈りと、「み心が行われますように」という第三の祈りは同じことを言っていると言えます。「み国」つまり「神のご支配」が実現するとは、神のみ心が行われることですから、この二つは同じことなのです。主の祈りが教えられているもう一つの個所であるルカによる福音書の第11章には、第三の祈りはありません。ルカにおける主の祈りの前半は「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」だけです。だから第三の祈りは主イエスご自身が教えて下さった祈りではなくて、後からつけ加えられたものなのかもしれません。しかしだったら第三の祈りはなくてもよいのか、というと、そうではありません。この第三の祈りがつけ加えられたことには意味があるのです。内容は第二の祈りと同じだと言えます。しかしこの第三の祈りによって私たちは、先程の問い、つまり、私たちは誰の意志の実現を求めているのか、神のご意志なのか、それとも自分の意志なのか、という問いの前に立たされるのです。「み名があがめられますように、み国が来ますように」という祈りを私たちはともすれば他人事のように、つまり自分とは関係のない所でみ名があがめられ、み国が来ますように、という思いで祈ってしまうことがあります。つまりこの祈りを祈りながら、自分は何も変わらずに平然としている、ということも出来てしまうのです。しかし、「み心が成りますように」という第三の祈りを祈る時に私たちは、自分は果たして神のみ心が成ることを願っているだろうか、自分の思いが成ることばかりを求めてはいないだろうか、という問いかけを受けるのです。そこに、この第三の祈りの意味があります。だから私たちはこの第三の祈りも、主イエスが教えて下さった祈りとして大切にしたいのです。さらに言えば、第一と第二の祈りは、結局この第三の祈りに集約される、とも言えると思います。自分の思いではなくて神のみ心が行われることを求めていなければ、神のみ名があがめられ、み国が来ることを求めることはできないのです。

神の善いみ心
 先程の「ハイデルベルク信仰問答」に、「唯一正しいあなたの御心に」とありました。自分の思いは正しくなくて、神のみ心こそが正しいのだ、と言っているように感じますが、「正しい」と訳されているのは「良い」という言葉です。神のみ心こそが良いことなのだ、と「ハイデルベルク信仰問答」は語っているのです。その「良い」とは「恵み深い、愛に満ちた、善なる」ということです。ここでもう一度、この主の祈りが語られた文脈を思い起こしたいと思います。6章5節以下に、祈りについての教えが語られています。その中で、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りとは対照的な、短い簡潔な祈りとして、主の祈りが教えられたのです。異邦人がくどくどと言葉数多く祈るのは、そうしなければ神は聞いてくれないと思っているからです。なかなか聞いてくれない神に腰をあげてもらうためにくどくどと言葉数多く祈る、それが、まことの神を知らない異邦人の祈りです。主イエスは、あなたがたと神との関係はそれとは違う、とおっしゃいました。それが8節の「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」ということです。私たちが祈る相手である神は、私たちの天の父となって下さり、父として、子である私たちを愛し、私たちが願う前から、必要なものをご存じであり、それを与えて下さる方なのです。あなたがたはその神の子とされているのだから、こう祈りなさい、と言って主イエスが教えて下さったのが主の祈りです。その第三の祈りが「み心が行われますように」です。その「み心」とは、私たちを愛し、必要なものを必要な時に与えて養い、導いて下さる、天の父なる神のみ心です。私たちの父である神の「恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心」が行われることをこの祈りは求めているのです。

運命からの解放
 ですから、「み心が行われますように」と祈ることは、何をするか分からない得体の知れない神の意志に身を委ねるような不安なことではありません。神のみ心と運命とは違うのです。運命は、何が起こるかわからない、不気味な力です。私たちの人生を、またこの世を支配しているのは、そのような不気味な力ではなくて、神の善きみ心なのだ、と聖書は語っているのです。ですから「み心が行われますように」と祈りつつ生きることは、運を天に任せて生きることとは違います。天の父である神の、恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心を信じて、その実現を願いつつ、希望を持って生きることです。人は希望がなければ生きられません。でも私たちの抱く希望は、単なる願望に過ぎない場合も多いのです。しかし主の祈りにおいて「天の父よ、み心が行われますように」と祈ることを教えられている私たちは、天の父である神の恵みのみ心に希望を置いて生きることができるのです。この祈りを教えられている私たちは、不気味な運命の力に翻弄されているという恐れから解放されているのです。

神の善きみ心が分からなくなる
 しかしそこには当然疑問が起って来ます。神のみ心は天の父としての善きみ心、恵みのみ心だ、ということはどうして言えるのか、神のみ心が善きみ心であるなら、どうしてこんな苦しみや不幸が自分を、またこの世界を襲うのか、「み心が行われますように」と祈っていたらこんな苦しみがふりかかってきた、その苦しみの現実のどこに、神の善きみ心を見ることができるのか、という疑問です。この疑問をすっきり解消してしまえるような答えはありません。神のみ心を私たちが全て理解して説明することはできないのです。しかしただ一つ言えることは、主イエス・キリストご自身が、この深刻な疑問を背負って歩まれたということです。そのことを語っているのが、この福音書の26章36節以下の、いわゆる「ゲツセマネの祈り」の場面です。捕えられ、十字架につけられる直前に、主イエスはゲツセマネという所で祈られました。26章の38、39節を読みます。「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」。主イエスは「父よ」と呼びかけて祈っておられます。神の独り子であられる主イエスは、神のみ心が父としての恵みのみ心であることを誰よりもよく知っておられたのです。しかしその独り子である主イエスが今、父である神のみ心に従っているがゆえに死ぬばかりの悲しみの中にいます。その悲しみの中で「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。捕えられ、十字架につけられて殺されることは、主イエスにとっても耐え難い苦しみなのです。この現実のどこに、神の父としての善きみ心があるのか、と思わずにはおれないことなのです。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というのが主イエスの正直な思いなのです。しかしそれに続いて主イエスは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。父なる神の善きみ心がわからない中で、「私の思いではなく、み心が行われますように」と祈って主イエスは十字架の死への道を歩み通されました。そのことによって、神に背いている罪人である私たちを赦して神の子として下さる神の救いのみ心が実現したのです。つまり神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心が、主イエスの十字架の死によって明らかになったのです。ですから私たちは、神の恵みのみ心が見えなくなり、分からなくなる時、神の善きみ心などどこにあるのかと思わずにはおれない時に、神の独り子であられる主イエスが、深い苦しみの中で、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたことを見つめたいのです。父なる神のみ心は、主イエスがこの苦い杯を飲み干すこと、即ち捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることでした。主イエスが「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という「わたしの願い」ではなく、「み心のままに」と祈って歩まれたことによって、私たちのための神の救いの恵みが、つまり神の善きみ心が実現したのです。神のみ心は、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは違っていることがしばしばです。私たちにはそのみ心が、苦しみや悲しみと感じられることが多いのです。しかしそれらのことを通して最終的に実現していくのは、神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心なのです。

天におけるように地の上にも
 そしてさらに、主イエスがこのように祈って十字架の死へと歩んで下さったことによって、神のみ心が、「天におけるように地の上にも」実現したのです。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈っています。天において実現している神のみ心が、地の上にも実現しますように、というわけです。しかし、み心が天において行われているとはどういうことでしょうか。天という、この地上とは全く違う別の世界、神の世界があって、そこでは神のみ心、ご意志が完全に実現している、しかしこの地上ではなかなかそうはいかない、ということでしょうか。そんなふうに天と地を切り離してしまうことは聖書の教えではありません。天における神のみ心が、地上の私たちと無関係に実現していることはないのです。天における神のご意志、み心、それは、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして、その十字架の苦しみと死、そして復活によって、私たちの罪を赦して神の子として下さる、つまり神が私たちの父となって下さる、という救いのみ心です。その天における神のご決意、み心が、主イエスがこの世にお生まれになり、人間として生きて下さったことによって実現したのです。主イエスが、天における神のみ心を受け入れ、「わたしの願いどうりではなく、み心のままに」と祈って、十字架の死への道を歩み通して下さったことによって、天における神のみ心は地上においても行われたのです。

み心の実現を求めて祈ることができる恵み
 主イエスが地上においても実現して下さった神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心によって私たちは、罪を赦されて、神の子として新しく生きることができます。そしてその救いにあずかった私たちは、天の父となって下さった神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心に信頼して、「天の父よ、あなたのみ心が行われますように」と祈りつつ生きていくのです。そのように祈りつつ生きることには、「自分自身の思いを捨て去り」という戦いが伴います。主イエスはその祈りの戦いを私たちに先立って戦い抜いて下さいました。私たちはその主イエスの後に従って、主イエスと共に「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈っていくのです。それは厳しい戦いであることは確かです。しかし、「死ぬばかりに悲しい」という深い苦しみの中で、「み心が行われますように、私の思いではなく」と祈る時に私たちは、主イエス・キリストが父なる神のみ心に従って、私たちの救いのために十字架の死へと歩んで下さった、その恵みを実感することができるのです。そしてそこにこそ、まことの慰めと、単なる願望ではない確かな希望が与えられるのです。自分の力ではどうすることもできない苦しみの中で、つまり自分の意志や願いの通りにはならない現実の中で、「神さまの善きみ心が行われますように」と祈ることができることは大きな恵みです。私たちの人生、自分の思いや願い、意志が実現することなどそう多くはありません。そのことばかりを願い求めているなら、人生は苦しみ悲しみに満ちたものとなり、うらみつらみだらけになります。しかし私たちは、自分の思いや願いから目を離して、主イエス・キリストの十字架によって示された神の善きみ心、恵みのみ心を信じて、「み心が行われますように」と祈ることを教えられています。それは本当に幸いなことなのです。

み心を行っていく私たち
 先程の「ハイデルベルク信仰問答」問124の文章にはさらに続きがあります。「そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです」。神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心を知らされた者は、そのみ心に支えられて、神が自分を召し出して、与えて下さった務めを、喜んで忠実に果たしていくのです。そのような私たちの働きによって、み心がこの地上に行われていくのです。「み心が行われますように、天におけるように地の上にも」という祈りは、私たちがこの地上でみ心を行っていくことができますように、という祈りでもあるのです。み心を行うというのは、これが神のみ心だと自分が考えたことを行うことではありません。それはみ心ではなくて自分の思いによって生きているに過ぎません。神のみ心とは、神が独り子主イエス・キリストによって示し、実現して下さった、恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心です。それこそが、私たちの行うべきみ心です。先ほど共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第40編の9、10節に「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻み、大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じません」とあります。「正しく良い知らせ」つまり神が独り子イエス・キリストによって地上に実現して下さった、恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心を伝えることこそが、み旨を行うことです。つまり主イエス・キリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝えること、伝道することです。来週の主の日は、神学校日、伝道献身者奨励日です。神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心を直接宣べ伝える伝道献身者が新たに起こされていくことを祈り求めていきたいと思います。しかし勿論伝道献身者だけがみ心を行うのではありません。私たち一人ひとりが、主イエスが実現して下さった神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心に支えられて、それぞれに与えられている人生を喜んで生きていくこと、そしてそこで与えられている務め、役割、使命あるいは重荷をしっかり負って歩むこと、それもまたみ心を行うことです。「み心の天に成るごとく、地にも成させたまえ」と祈りつつ生きることによって私たちは、神の恵み深い、愛に満ちた、善なるみ心に信頼して希望をもって生きていくことができます。そしてそれと共に、そのみ心をこの地上においても行って下さる神のみ業に仕える者とされていくのです。

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