夕礼拝

わたしたちの未来

「わたしたちの未来」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第50編1-15節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第3章13-17節  
・ 讃美歌:182、134

 わたしたちが、道の最後、自分の限界だと思っていたところに、イエス様は来て下さり、わたしたちがするべき正しいことを示し、さらにその先を示してくださいました。それはわたしたちできることの限界、その先です。その先にはわたしたちの未来が示されています。
 わたしたちがするべきわたしたちに可能な「正しいこと」、それは神様に対して罪を告白し、悔い改めて、神様に赦しを請うことです。それは、洗礼者ヨハネが先週の箇所で語っていました。誰よりも自分を大切にしてしまう、神様のことも隣人のことも支配したいと考えている、自分を守るために平気で人を傷つけることができる、そのようなわたしたちに、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ」ということを語っておりました。ヨハネは、自分の元に近づいて来る人々を、悔い改めさせ、罪を告白させ、水による洗礼を授けていたことが3章の前半で語られていました。また同時にヨハネは、自分の後に、自分よりも優れた方が現れ、その方が聖霊と火による、本当の洗礼を授ける、ということを神様から知らされており、その方が来るまでの道備えをしていました。その方とはイエス様です
 そのように、洗礼者ヨハネは人々を悔い改めに導いて、本当の洗礼を授けて下さるイエス様が来られるのを待っていました。
 本日共に聞きました、13節以下で、そのイエス様がついに登場します。その待ちに待ったイエス様が、ヨハネの元に現れたのです。ヨハネは、一目見て、この人こそイエス様であるとわかりました。ヨハネは、この時、やっと自分の役目を終えられると思ったかもしれません。この時で、水による悔い改めのしるしの洗礼を授けるという、お仕事を終えて、ここからはこの方が本当の洗礼を授けて下さると期待したと思います。ヨハネは、自分の仕事を終わることができるからという思いで、期待したのではなくて、本当の洗礼を自分も与ることが出来るということで期待したのと、自分の洗礼は悔い改めに導くだけのもので、ここに集まった人々に罪の赦しや、救いを与える完璧なものでないから、イエス様が来て、ここにいる者たちに、本当の罪の赦しや救いに至らせる真の洗礼を授けて下さると思い、喜び期待したのでしょう。

 しかし、そのような、ヨハネの思い、期待は裏切られます。イエス様はなんと、ヨハネの元に来て、ヨハネが授けていた、水による洗礼を受けられようとされました。ヨハネは、「自分がイエス様に洗礼を授けてもらうのがふさわしいのに、イエス様に洗礼を授けるなんて、立場が逆である」と思いました。それは14節のヨハネの発言から分かります。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言っています。さらにその発言は、イエス様が洗礼を受けることを思いとどまらせようとして、言った言葉であると14節に書かれています。
 「これでは立場が反対です」と言ったヨハネに対してイエス様はこのようにお答えになりました。15節、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。ここで「正しいこと」と言われている言葉は、元の言葉では「義」と訳すことができます。ですが、この義は神様の正しさを表す「義」ではなくて、ここでは人間が行うべき正しいこととしての「義」が意識されています。イエス様が洗礼をお受けになったのは、それがイエス様にとって罪の悔い改めの洗礼が必要だったからではなくて、それが人間として正しい、なすべきことだからなのです。イエス様は、一人の人間として、正しい、なすべきことを全て行われる、それがイエス様が受洗されたことの一つの意味です。神様のみ前で罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことは、人間が、人間として生きる上で大事な、なすべきことです。イエス様は、そのことを、わたしたち人間の先頭に立ってして下さったのです。さらにイエス様の受洗には意味があります。それは、わたしたちが新たになるということです。受ける必要のなかった洗礼をイエス様が受けられたのは、ここに救いの道があるということをご自身の体を持って示してくださるためです。イエス様は、水による洗礼を受けると同時に、16節で天から聖霊を受けられたことを語っています。イエス様が身を持って示してくださったのは、悔い改めて水の洗礼を受けてそれで終わりということではなくて、聖霊を受けてあなたがたは新たに造りかえられる必要があるということを示してくださっています。わたしたちは、自分で悔い改めて、罪を告白をすれば、自分の罪が赦され、救われるというのではないのです。自分で罪を告白しても、罪を赦してもらうことは、自分の力ではできません。そのために、イエス様は、神の子である御自分の命と引き換えに、わたしたちの犠牲になり、神様に赦しをもらうための犠牲になってくださいました。そのようにして、神様の赦しを頂くことがゆるされたわたしたちですが、それでわたしたちの救いが完成したというわけではありません。わたしたちは罪を犯すこの古い体を捨てねば、わたしたちは神様の御前に本当に立つことはできません。言い換えると神様の国には、わたしたちは、いまの罪を犯す体と心と魂のままでは、神の国に入ることができないのです。水による洗礼は、自分たちの人間の出来る限界の事柄が書かれています。それは神様の前で悔い改めて、赦しを請うことです。しかし、これをしたからといって、救われるわけではありません。わたしたち側からできることの限界、最高の事柄を行っても、わたしたちは救われることがないのです。滅びしかありません。しかし、イエス様はこの受洗を通して、その限界の先を示してくださいました。それは、聖霊によって、わたしたちが新たに作り変えられるということです。水の洗礼を受けると同時に、霊が降ってきます。イエス様は、水の洗礼と霊の洗礼が結びつくということをその身を持って示してくださいました。その二つの要となっているのが、イエス様の十字架の死と、復活です。わたしたちが今教会で行っている洗礼は、イエス様につながり、イエス様の犠牲の十字架の死に共に与り、イエス様と共に死に、イエス様の復活の出来事を通して、イエス様と共に復活し、聖霊が注がれて、新たな体になるということです。ここには、水の洗礼が示す死と、霊の洗礼が示す再創造が表されています。
 イエス様が洗礼を受けた直後に17節で父なる神様がこのように宣言されます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」。この言葉はイエス様が洗礼を受けて、神の子となったということを宣言するための言葉ではありません。そして、この言葉はイエス様に向けられたのでなくて、これは、周りにいる群衆のための言葉でありました。「あなたは」わたしの愛する子と神様は言われずに、「これは」わたしの愛する子と言いました。イエス様に向かって「これは」と言っているということは、第三者に向けて語っている言葉です。まわりにいる群衆に、イエス様が神の子であるということを認知させるため、さらにこの物語を読んでいるわたしたちにもイエス様が神様の子ども、神の子であることを認知させるために語られて言葉です。
 この神様の宣言の言葉にはさらに、深い意味があります。それは、わたしたちの未来を指し示してくださっています。さきほど、イエス様の洗礼を受けるという行為から、わたしたちは神様に悔い改めて赦しを請うことが必要であり、またそのイエス様の十字架の犠牲によって、わたしたちは救われ、さらに霊による洗礼に与ることができるということが示されているということを述べました。その霊による聖霊に与ったものは、聖霊によって新しい体、新しい命に生きるものとなります。新たに造りかえられた者は、神様の子どもたちの一人です。それは霊がわたしたちに与えられて、あなたは神の家族であると、証印を押してくれているからである。エフェソの信徒への手紙1章13節で「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」?この証印とは、わたしたちが神様のものである、神様の子であるということを保証するための、印です。これは聖霊によって押されます。ですから、わたしたちが、霊を受けるということと、わたしたちが神様の子どもの一人となるということには、密接に関係しています。従って、「これは、わたしの愛する子」という神様の宣言は、既に洗礼を受けたわたしたちにも向けられている言葉であり、これから洗礼を受ける人にとっては、未来に語られる言葉です。   
 わたしたちが、イエス様の備えて下さった、教会の父子聖霊の名による洗礼を受けるときに、わたしたちは、霊を受けると同時に、父なる神様から「あなたはわたしの愛する子、私の心に適うものである」とおっしゃって下さるということです。「わたしの心に適うもの」すなわち「神様の御心に適うもの」であると神様が宣言してくださるのです。   

 しかし、わたしたちは、わたしたちの現実を振り返ってみると、クリスチャンであっても、神様の御心にかなった生き方をできているかといえば、できていないと答える人が多くいると思います。十戒をちゃんと守れているかといえば、守れていないし。お祈りだって全然しない。日常生活で神様を愛するなんてことは忘れているし、自分の近くにいる隣人や近くにいる家族のことよりもやっぱり自分の思いを優先してしまう。隣人をゆるすことなく、怒ったり、批判したりすることがばかりである。
 神様はわたしが洗礼を受けるときに、わたしに「御心に適ったもの」宣言してくださったけど、わたしたちは、自分はちゃんとできていないから、わたしは神様に愛されていないのかもとさえ思ってしまいます。
 でもそれは、この箇所を読み違えているから起こる悩みです。イエス様は、父なる神様のみ心、お考え、ご計画を総てご存知であるから、み心に適う行動ができます。それは真実です。では、わたしたちはイエス様のように完璧に父なる神様の御心を知ることができ、そしてその御心に通りに行動することができるようになるのかと言えば、それはできません。わたしたちは「であるならば、ここで言われている父なる神様の言葉は、わたしたちに向けられた言葉じゃないじゃないか、イエス様だけに向けられた言葉じゃないか」と結論付けてしまいたくなりますが、それは早合点です。
 「私の心に適うもの」とは、「父なる神様の心に適ったもの」ということです。わたしたちに向けられた言葉として受け取る時、それは、父のみ心を完璧に知り、完全に従うことができるものということを言っているのではないのです。父なる神様が、ご自由に選ばれたものが、神様の心に適ったものなのです。そのものが持っている資質であったり、その人の功績であったりで、父なる神様は選ばれるのではないのです。父なる神様は、御自分の選びたい者を選ばれるのです。そのものがどんなに、神様の方を見ることを忘れてしまうものでも、隣人を、家族を、友人を、愛する人を傷つけてしまうものであっても、神様は、神様のご自身の自由によって、その人をお選びになられるのです。それが「神様の御心に適ったもの」です。その御心に適ったものは、神様に「愛する子」と認められます。
 イエス様が備えて下さった洗礼は、わたしたちを新たに作り変えるための洗礼です。火によってわたしたちの古い姿を焼き捨て、聖霊なる神様が注がれて新たなものへ造りかえられる、これが霊と火による洗礼、イエス様が授けてくださる洗礼です。イエス様は、水による洗礼をわたしたちのために受けて下さり、水による洗礼を通しても、霊の注ぎが受けられることを、示してくださいました。イエス様は、水による洗礼は受けなくてよい方であったのに、極限まで低くなって、わたしたちに本来必要な、悔い改めのしるしである水の洗礼を受けてくださいました。わたしたちは今、教会で行われる洗礼にあずかります。これは、水を用いる洗礼です。これはただ、悔い改めて、罪の赦しをいただくためだけの水の洗礼ではありません。イエス様が、この時、この水の洗礼を受けて下さったことによって、水の洗礼の意味がさらに付加されたのです。イエス様が授けてくださる霊と火による洗礼が、この水の洗礼を通して行われることになったのです。その洗礼は、今日の箇所に出てきたイエス様が水に浸されそこから出て、霊を受けられることによって示されました。水から上がると、同時に天が開け、聖霊が降ってくるのです。この事柄は、わたしたちの今行われる洗礼を、イエス様が身をもって示してくださっているということです。
 わたしたちが教会で父子聖霊なる神様の御名によって授けられる洗礼は、このイエス様の洗礼です。
 ですからわたしたちは、新たに作り変えられ、もはや罪を犯さないものになることをこの洗礼によって保証されています。しかし、洗礼を受ければ直ちにイエス様のようなものに完全に造りかえられるというわけではありません。わたしたちはこの世を生きている間に、そのようなものになるということはおそらくないでしょう。わたしたちが、罪を完全に捨て、新たな者に完全に作り変えられる時、それは、終わりの時、終末の時、復活の時です。朽ちる体が朽ちない体になる時、死ぬ体が死なない体になる時、罪を犯す体と心と魂が罪を犯さない体と心と魂になる時、それがわたしたちの完成の時です。

 ではわたしたちは死んで、復活する時に、そのような完全なものになるのならば、「今この世を歩むときには、少しも良い者には変えられないのか」と言えば、そうではありません。
 わたしたちは日々、聖霊なる神様によって造りかえて頂いています。日々新たにされています。もしわたしたちが、この世において、少しも自分が変わらないのであれば、わたしたちはこの世では、いつまでも、「神様に従って歩めないし」「隣人を愛することができずに、傷つけることしかできないもの」のままです。イエス様は、「神様を愛して、隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさい」ということを、最大の掟として、わたしたちに教えられました。わたしたちが、洗礼を受けても、昔のまま、罪に支配されていたころのままから、ひとつも変わることができないというのであれば、このイエス様の命令は、理不尽極まりないものでしょう。イエス様は、このような人には実現不可能なことを掟とされ、人が苦しむことを望まれているのかと言えば、そうではないでしょう。イエス様は、わたしたちにこの掟を守ることができるものであると、信じてくださっています。それは、やはり、聖霊なる神様がわたしたちの内にいて、わたしたちを作り変えてくださることを、イエス様も確信してくださっているからです。ですから、わたしたちは、この世に生きている間にも、罪を犯すことはなくなりませんが、少しずつですが、罪を犯さなくなるもの、神様を愛せるもの、隣人を本当に愛せるものに、変えられていくことが、洗礼によって保証されているのです。
 そのわたしたちの未来の姿が、今日このイエス様が洗礼を受けて下さるこの物語で示されているのです。わたしたちが、なぜ、そのようにしてイエス様はわたしたちの未来の姿を示して下さり、またわたしたちの罪を赦してもらうために十字架に掛かってくださり、また聖霊なる神様は、罪ある私たちを見捨てずに、今も必死にわたしたちを造りかえてくださるのかといえば、それは、父なる神様が、わたしたちを愛し、御自分の自由によってわたしたちを選んでくださったからです。ただその一点につきます。洗礼を既に受けられている方々、父なる神様は既にわたしたちに対して「あなたはわたしの愛する子である、わたしの御心に適うものである」と宣言してくださっています。今はまだ洗礼を受けておられない方、父なる神様は、そのあなたを、洗礼に招いておられます。洗礼を受けられる未来のその日に「あなたはわたしの愛する子である。御心に適うものである」と宣言されることを父なる神様は心待ちにされております。
 父なる神様の愛と自由な選び、イエス様の尊い十字架の犠牲と復活の恵み、聖霊なる神様の導きとわたしたちを造りかえてくださる尊いお働きに、感謝して、自分が造りかえられることを信じ、神様に祈り、神様に頼り、この地上を共に歩みたいと思います。祈りましょう。

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