夕礼拝

わたしたちの負い目

「わたしたちの負い目」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第51編3-4節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章12節
・ 讃美歌 : 16、436

「負い目」と「罪」
 主イエスが、私たちに親しく「このように祈りなさい」と教えて下さった、マタイによる福音書第6章の主の祈りを順番に読みつつ、御言葉に聞いております。本日の祈りは、全部で6つある主の祈りのうちで第5番目の祈りです。前半の3つの神様に関する祈りに続いて、後半の3つの私たち人間に関する祈りのうちで2番目のものにあたります。マタイによる福音書第6章12節の祈りは次のようなものです。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。私たちがいつも祈っている主の祈りの言葉で言うと「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りになります。私たちが祈っている言葉とこの聖書の言葉と違うところは私たちが「罪」と言っているところが「負い目」となっていることです。この主の祈りはもう一箇所ルカによる福音書の11章にも並行箇所がありますが、そこでの「主の祈り」においては「わたしたちの罪を赦してください」となっています。従って、マタイによる福音書がここで「負い目」と言っていることは、私たちが祈る主の祈りの「われらの罪をも赦したまえ」とあるように、ルカによる福音書によると「罪」と言っても良いのです。

罪とは
 主の祈りの後半の、私たちの人間に関する祈りの2番目にこの祈りが教えられていることは一体どういうことでしょうか。宗教改革者のカルヴァンはこの部分をこう言っております。「わたしたちの祈りは常に必ずわたしたちの罪の赦しから始めなくてはならない」と述べています。祈りとは、私たちと神様との最も親密な交わりであり、関係です。罪とは、そのような私たちと神様との最も親密な関係を根本から破壊するものです。罪とは、神と私たちの間に立ちはだかる壁であると言えます。この壁がある限り、祈りは不可能になってしまいます。そこで、この罪の赦しを求める祈りこそが、一切の祈りに先立つ祈りであると言えます。このような意味でカルヴァンは「わたしたちの祈りは常に必ずわたしたちの罪の赦しから始めなくてはならない」と言っているのです。

罪赦された者の祈り
 ところが、この主の祈りでは、実際にはこの罪の赦しを求める祈りは6つの祈りの中の第5番目の祈りです。人間に関する祈りの中で2番目となっております。本日の祈りの1つの前の祈りは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」とあるように、私たちに必要な糧、日毎の食物についての祈りです。私たちに必要な糧についての祈りのあとで本日の祈りがあります。一体、どうして私たちの祈りのうちで必ず先ず第一に祈られるべきこの罪の赦しについての祈りが、私たちの糧についての祈りの後で祈られているのでしょうか。先ほどカルヴァンの言葉を紹介しました。カルヴァンは「わたしたちの祈りは常に必ずわたしたちの罪の赦しから始めなくてはならない」と言っております。この本日の罪の赦しについての祈りは、実は最初に祈らなければならない祈りだというのが、カルヴァンの意見であるようです。それでは、この主の祈りの順番はあまり関係がなく、偶然なものだと考えても良いのでしょうか。私たちはこの祈りが他ならない主の祈りであることを、思い起こさなくてならないでしょう。これは一般に祈りについて述べられているものではなく、まさしく「主」の祈りなのです。神様と私たち罪ある人間との間に救い主として立ち、私たちの祈りを執り成してくださる、主イエス・キリストが「だから、こう祈りなさい」と教えて下さっておられる祈りなのです。つまり、主の祈りとは、罪赦されていない者の祈りではなくて、イエス・キリストによって罪赦されている者の祈りなのです。

具体的に確認するために
 このように主の祈りが、罪赦されていない者の祈りではなくて、キリストにおいて罪赦されている者の祈りであると申しました。それでは本日の祈りがここで、「わたしたちの負い目を赦してください」と祈るとは一体何を意味するのでしょうか。それは罪の赦しを一層具体的に私たちに確認させてください、ということに他なりません。この罪の赦しを求める祈りが、私たちに必要な糧を求める祈りに続いて祈るように教えられているのは、まさしく具体的な確認のためなのです。毎日必要としている糧、食物ほど具体的なものはありません。それと同じように罪の赦しもまた、主イエスによって与えられていることを具体的に確認させてください、ということを祈り求めることがここで教えられているのです。

借金を免除され
 また、マタイによる福音書やルカによる福音書が用いている罪という表現の代わりに「負い目」という表現をここで用いているのもまたこの赦しの具体的な確認のためであると言えます。この「負い目」という言葉は「借金」という意味です。口語訳聖書では「負債」となっていました。罪とは、借金、負債のようなものだと言うことです。「わたしたちの負債を赦してください」、それは神様に借金の棒引きを願っているわけではありません。罪の赦しを神様に祈り願っているのです。借金をしているわたしたちが、イエス・キリストの十字架の出来事により棒引きされていること、赦されていることを具体的に確認させて下さい、というのが私たちの毎日の祈りとなるように、と主イエスは教えておられるのです。 
 なぜ罪が借金という言葉で喩えられるのでしょうか。借金は返さなければならないものだからです。返すまでは、負債が残るのです。罪を犯すことにおいてもそれと同じです。罪に対してはその償いが求められるのです。

人間関係において
 隣人との交わりにおいても同じです。相手に対して罪を犯したり、相手が自分に対して罪を犯します。それによって関係が破れてしまう。それを修復するためには、やはり犯した罪の償いが必要です。償いとはただ何かお詫びの品物を渡すということではなく、まずは犯した罪を心から反省して詫びることです。そして相手に与えた損害や傷をできるだけ癒すための努力をすることです。そういうことがあって初めて、和解することができる、仲直りすることができる、それが人間どうしの罪の問題の解決の道です。ところが私たちはなかなかそれが出来ません。自分が人に対して罪を犯した、という状況においても、なかなか心から詫びることも、償いをすることもできないのが私たちの姿です。表面的には償っていても、心の中で「自分にも言い分がある」と思ってしまうことがあります。そう思っている限り本当に詫びたり、償いをすることはできないでしょう。反対に私たちが、人が自分に罪を犯したという状況の中では、相手を絶対に赦せないと思ってしまうことがあります。それは、ちゃんと償いがなされていないと思うからです。相手がちゃんと非を認めて、心からあやまり、償いをしない限り、赦すことはできないのです。私たちはお互いにそのような思いを抱きながら生きているのではないでしょうか。私たちはお互いどうしの間で、罪の負債を数え合いながら、そして相手の罪には腹を立てるようにして生きているのです。

神様に対して
 主イエス・キリストはそのような私たちに、「こう祈りなさい」と祈りの言葉を教えて下さいました。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。」私たちは人間どうしの間で罪を犯し合い、お互いがお互いに対して負い目を持ちつつ生きております。しかし私たちが本当に赦しを求めなければならないのは、神様に対してなのだと、この祈りは教えているのです。カルヴァンは次のように言っております。「わたしたちが願っている赦しは、わたしたちが他の人々にする赦しによるのではない。」と言います。つまり、わたしたちがどのように他人の罪を赦すのかということと引き換えに、私たちの罪が赦されるのではないということです。それでは主イエスはどうして私たちが自分に負い目のある者を赦しましたように、私たちの罪を赦してください、と祈るように教えられたのでしょうか。

一万タラントン赦されて
 マタイによる福音書第18章21節以下にこのような主イエスの喩え話があります。ある王様に、一万タラントンの借金をしていた家来が、その借金を赦してもらい、帳消しにしてもらった。ところがその人が、自分に百デナリオンの借金をしている人を赦さなかった、それを聞いた王は怒って、彼に対する借金の帳消しを取り消しにした、という話です。ここでは借金とその帳消しが罪とその赦しを表わす喩えとして用いられています。一万タラントンというのは、一生かかっても絶対に返すことはできない莫大な金額です。それに対して百デナリオンというのは、百日分の賃金、ですから年収の三分の一ぐらいの金額です。それは決してはした金ではありません。相当な額であると言えるでしょう。しかし一万タラントンと比べれば、僅かな額でしかないのです。この家来は、一万タラントンの負債を赦してもらった、それなのに百デナリオンの負債を赦さなかったのです。それに対して主人、王様は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言ったのです。神様に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すこととの関係がここに示されています。神様は私たちの一万タラントンの負債を赦して下さったのです。その赦しの恵みを受けた者である私たちは、自分に百デナリオンの負債のある隣人を赦すべきだ、「私たちの負い目を赦してください」という祈りに「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉をつけ加えて祈るようにお命じになった主イエスの思いなのです。
 私たちはどのようにして、自分が本当に神様によって一万タラントンの負債を赦された者なのかを知ることができるのでしょうか。私たちは自分がそれほど莫大な負債を、罪をかかえた者であるということを認めることもできません。けれども、私たちは神様との関係を持ち、関わって下さっていることを示される時に初めて私たちは自分の罪の大きさに気づくことができるのです。それは、主イエス・キリストの十字架の死においてです。キリストの十字架こそ、神様が私たちと関係を持ち、関わって下さった場です。そこにおいて神様はその独り子の命を、私たちの罪の赦しのために犠牲にして下さいました。私たちの罪の大きさはその主イエスの十字架においてこそ現われています。神様の独り子が十字架にかかって死ななければ償い得ないほどに、神様に対する私たちの罪は大きいのです。私たちは自分の力では一生かかっても罪を償い切ることはできません。それはまさに一万タラントンの罪と言えるのです。そしてその一万タラントンを神様が赦して下さった、それが主イエス・キリストの十字架の死です。その恵みのもとにすでに私たちは生きているのです。その恵みこそ、私たちが一万タラントンの負債を赦された家来と同じ立場であるということです。私たちは、一万タラントンの負債を、それがすでに赦されたものとしてのみ知ることができるのです。

既に赦されて
 この主の祈りを祈るように教えられている私たちは、既に主イエス・キリストの十字架の死による救いの恵みを頂いています。主イエスは既に私たちのために、十字架にかかって死んで下さったのです。ですから私たちは一万タラントンの負債、限りのない負債を既に赦された者なのです。ですから私たちが「私たちの罪を赦して下さい」と祈り求めるのは、この主イエスによって既に与えられている罪の赦しの恵みを本当に受け、それによって生かされていくことができるように、という願いなのです。そういう意味では私たちは、この祈りにおいて祈り求める罪の赦しを神様が与えて下さることを確信することができます。与えられるかどうかわからないあやふやなものを願い求めているのではないのです。神様は私たちの罪を赦して下さるのです。それではなぜそこに「私たちが自分に罪を犯した人を赦す」ということが前提として、あるいは条件のように付け加えられているのでしょうか。これは、私たちが人の罪を赦したら、それと交換条件で神様も私たちの罪を赦して下さる、ということではないのです。そうではなくて、私たちは、自分に罪を犯した人を赦す、ということを通してこそ、私たちを赦して下さっている神様のみ心、その恵みを本当に知ることができる、ということでしょう。罪を赦す、それは負債を免除する、借金を帳消しにすることに喩えられています。借金を帳消しにするということは、貸した金はもう戻って来ないということです。つまり、貸した人が損をするのです。神様は私たちの一万タラントンの負債を、帳消しにして下さいました。それは、それだけの損害、それほどの負債を神様が引き受けて下さったということです。その損害が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死だったのです。罪を赦すということには、そういう損害が、痛みが伴います。主イエスは、私たちが、自分に罪を犯した人を赦すことにおいて、その損害を、痛みを私たちも体験し、それを負うことを求めておられるのです。それを自分も体験し、負うことを通してこそ、私たちは神様が独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちを赦して下さったその恵みを本当に知る者となるのです。一万タラントンを赦された恵みは、それに応えて百デナリオンを赦すことにおいてこそ本当にわかるのです。百デナリオンは決して小額ではありません。簡単に赦してしまえるような小さな額ではありません。それを赦すためには、私たちは相当の損害を、苦しみを引き受けなければなりません。自分が損をしなければなりません。まさに、人を赦すということは簡単ではありません。しかしそれを敢えてすることを主イエスは私たちに求めておられるのです。そうすることの中でこそ、神様が主イエス・キリストによって私たちの罪を赦して下さった、その恵み、その大きさ、深さを本当に知り、その恵みの中で生きることができるのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りつつ生きるとはそういうことです。私たちは、互いに赦すことのできない現実の中を歩んでおります。主イエス・キリストの十字架によって、神様によって罪が赦されたのです。その恵みの中で生きることこそ、私たちが歩むべき道なのです。その恵みの中を歩むとき、私たちは神と隣人との間に新しい関係が生まれてくるのです。

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