召天者記念

生きている者の神

説 教 「生きている者の神」 牧師 藤掛 順一
旧 約 出エジプト記 第3章4-6節
新 約 マルコによる福音書 第12章18-27節

召天者記念礼拝
 本日のこの礼拝は召天者記念礼拝です。この教会において信仰者として歩み、そして天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々のことを覚えてこの礼拝を守っています。お手もとに召天者の名簿をお配りしました。1995年以降の召天者のお名前が記されています。昨年のこの礼拝以降新たにここに加えられたのは、飯田智さん以降の16名の方々です。そして勿論、1995年より前に天に召された方々も大勢おられます。私たちが名前も知らない多くの人々が、これまでこの教会に連なって歩み、そして天に召されていきました。同じように私たちも、遅かれ早かれ皆天に召されていきます。私たちは皆、召天者の予備軍です。召天者を覚えて守るこの礼拝は、私たち一人ひとりの行末を思いつつ守る礼拝でもあるのです。

召天者記念礼拝に相応しい聖書箇所
 ところで、後から気がついて愕然としたのですが、3年前の2020年の召天者記念礼拝でも、本日と全く同じ聖書箇所と全く同じ題で説教をしました。召天者記念礼拝に相応しい箇所を選んだのですが、3年前にも同じ箇所を選んだことを覚えていなかったわけで、私も召天者の仲間入りが近くなったということでしょう。しかしこのことは、本日の聖書箇所が、召天者記念礼拝で読まれるのにいかに相応しいかを示していると受け止めていただきたいと思います。本日の聖書箇所には、死者の復活についての主イエスの教えが語られています。その教えを聞くことこそ、召天者を覚えてささげるこの礼拝において私たちがなすべき最も大切なことなのです。召天者を覚え、また自分たちの行末を思いつつ守るこの礼拝において、私たちは、既に天に召された方々の思い出に浸るということもあるでしょう。またその方々の信仰を思い、それを受け継ごうという思いを新たにすることも大切です。その方々が今主のみもとで平安を与えられていることを覚え、私たちも将来主のもとでその方々と再会することができると期待するということもあるでしょう。しかし、この礼拝においてなすべき最も大切なことは、それらのことではなくて、召天者の方々も、そしてその予備軍である私たちも、将来復活するのだ、と告げて下さった主イエスのお言葉を受け止めることなのです。

「復活はない」と言っているサドカイ派の人々
 しかし復活なんて言われてもちょっとなあ、と思った人たちのことがここに語られています。「復活はないと言っているサドカイ派の人々」です。主イエスの当時、つまり二千年前にも、復活はない、と言っている人たちがいたのです。彼らは現代の私たちのように、死者の復活など科学的、医学的にあり得ない、と考えていたのではありません。この頃はまだ、科学か信仰か、という時代ではないのです。彼らはなぜ復活はないと言っていたのか、その理由に関心のある方は、ものの本を読んで学んでみられたらよいでしょう。しかし理由はどうであれ、彼らが「復活はない」という思いをもってここで主イエスに問いかけたことは、私たちも「そうだよな」と思うのではないでしょうか。
 彼らの問いかけの前提には、モーセを通して与えられた神の律法の中に、「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と語られていることがあります。これは家系を絶えさせないための掟だったわけですが、これを前提として彼らは極端な例を持ち出します。七人の兄弟がいて、長男が子を残さずに死んだ。この掟に従って次男以下六人が順次長男の妻と結婚したが、皆子を残さずに死んでしまった。この場合、復活したら、この女性は誰の妻になるのか、一人の女性に七人の夫がいる、ということになるのか。それがサドカイ派の人々の問いです。彼らは、一人の女性が複数の夫を持つことは律法で禁じられているのだからあり得ない、だからこの律法から、復活はないことが証明される、と思ってこの問いを主イエスに投げかけたのです。

私たちが抱く復活への疑問
 私たちはこれで復活はないことが証明されるとは思いませんが、彼らと同じような疑問は持ちます。彼らが語ったのはあまりにも極端な例ですが、夫や妻と死別して、あるいは離婚して、再婚するということは私たちの間にもあります。復活したら、どちらの人が自分の夫あるいは妻となるのか、二人の夫あるいは妻がいる、ということになるのか、そうなったら果してうまくいくのか、という心配は私たちも抱きます。結婚して夫婦として生きている人の中には、復活してもこの人と夫婦でいたい、と思っている幸せな人もいるでしょうが、復活してまでこの人と一緒なのはご免だ、と思っている人もいるでしょう。さてどうなるのでしょうか。さらには、死んだ時の姿のままで復活するのではあまり有り難くない。もっと若くて元気だった姿にしてほしい。でも何歳ぐらいがいいだろうか。希望を聞いてもらえるのかな、などと思ったりもします。生まれつき何らかの障がいをもって生きた人が復活したら、その障がいはどうなるのだろうか、という疑問もあります。そういう問いは際限なく広がっていくのです。そしてそのように考えていると、復活なんてありそうもない、あるいは分からない、と私たちも思います。そこに科学的な知識も加わって、死者の復活などあり得ない、荒唐無稽な教えだ、と私たちは思うのです。

根本的な思い違い
 サドカイ派の人々の問いに対して、主イエスはこうお答えになりました。24、25節です。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。これは私たちに対するお言葉でもあります。復活について先ほどのような疑問を持つ私たちは、聖書も神の力も知らないために、根本的な思い違いをしているのです。その思い違いを指摘しているのが「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というお言葉です。ここに、死者の復活とはどういうことなのかが語られています。主イエスのこのお言葉を聞いて受け止めることが大事なのです。

この世の歩みの継続ではなく、新しい創造
 「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともない」。これは、この世を生きている間は夫婦であっても、復活した時にはもう赤の他人になる、ということを言っているのではありません。ここに語られているのは、この世における生活や関係が復活においてそのまま続いていくのではない、ということです。復活は、死によって中断したこの世の人生の再開ではないのです。私たちが抱く先ほどのいろいろな疑問、復活したら夫婦の関係はどうなるのかとか、何歳ぐらいの姿で復活するのか、障がいはどうなるのか、といったことは全て、今私たちがこの人生において体験していることが、復活においてもそのまま続く、ということを前提とした問いです。しかし主イエスは、復活はこの世の人生の延長ではない、と言っておられるのです。では復活において私たちはどうなるのか。「天使のようになるのだ」と主イエスはおっしゃいました。それは、白い衣を着て背中に翼が生える、ということではありません。聖書において天使は、神によって創られた被造物であって神ではありません。しかし天使は肉体を持って生きている人間がかかえている様々な制約から解放されています。翼があって空を飛ぶことができる、というのはそういうことを意味しているのです。つまり天使は人間を超えた被造物です。復活において私たちは、その天使のようになるのです。それは、神が私たちを新しく創造して下さり、今のこの体に伴う様々な制約、苦しみ悲しみから解放して、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さるということです。だから復活においては、今の私たちの体や生活がそのまま再開され、継続されるのではなくて、神の新しい創造のみ業がそこでなされるのです。神によって新しく造られた自分が生き始めるのです。自分が自分でなくなってしまうのではありません。それでは復活になりません。自分は自分であり続けるけれども、今のこの人生における束縛、苦しみ、悲しみの全てから神が解放して下さり、新しく生かして下さるのです。だからそこで肉体の病や老いや障がいなどの苦しみが続いていくことはありません。何歳ぐらいの姿で復活するのかとか、障がいはどうなるのか、という問いは無意味なのです。また私たちがこの世で持っている人間関係をも、神は復活において新しくし、完成して下さるのです。夫婦の関係も、それ以外の様々な人間関係も、私たちはそれによって喜びをも得ているけれども同時に苦しみ悲しみをも味わっています。そういう人間関係の全てを、神は復活において完成させ、そこにある様々な問題やそれによる苦しみ悲しみを取り除き、祝福されたものとして下さるのです。ですから、今のこの世における人間関係が復活したらどうなるのか、ということを心配する必要は全くありません。この世における私たちの人間関係がどんなに喜ばしいものであっても、あるいは逆にどんなに苦しみに満ちた問題だらけのものであっても、復活において神はそれを全く新しい、祝福に満ちたものとして下さるのです。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というお言葉によって主イエスはそういうことを告げておられるのです。
 その復活において与えられる新しい体とはどんなもので、新しい関係とはどんな関係なのか、それを私たちは今は知ることができません。私たちが知っており、体験しているのは、今のこの体であり人間関係です。神が新しく創造して下さる体と人間関係を、今のこの古い体や人間関係から類推することはできません。今のこの体や人間関係の延長上に復活における体や人間関係があるわけではないのです。そこに、あのサドカイ派の人々の思い違いがあるのだし、私たちが抱く先ほどの疑問もそこから生じるのです。ですから大切なのは、復活の体やそこにおける人間関係はどういうものなのかと詮索することを止めて、復活の時には、神が私たちを新しく創造して下さり、あらゆる制約、苦しみ悲しみから解放された体を与え、祝福に満ちた関係を与えて下さる、その神の力を信じ、信頼することなのです。

神の力と死の力とではどちらが強いのか
 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」という主イエスのお言葉はそのことを語っています。復活を信じるというのは、私たちの体がどうなるとか、人間関係がどうなるということをあれこれ考えて理解することではなくて、神の力を信じることです。神の力が死よりも強く、死に勝利して私たちを新しく創造し、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さり、人間関係を祝福に満ちたものへと完成させて下さることを信じるのです。つまり復活を信じるか否かは、結局は、神の力と死の力のどちらが勝利すると信じるのか、ということです。先ほど、召天者を覚え、また自分たちの行末を思いつつ守るこの礼拝においてなすべき最も大切なことは、私たちは復活する、と告げている主イエスのお言葉を受け止めることだと申しましたのはそのためです。神の力と死の力、そのどちらが強いと思うのか、と私たちは問われているのです。死の力の方が強い、神の力も死には打ち勝つことができない、勝利するのは死の力だ、と思うなら、私たちは死に支配されて終わるのです。生きている間にどれだけ神を信じていても、死においては神は手も足も出ない、ということです。そうであるなら、死を召天、天に召されるなどと表現することはごまかしでしかありません。死んだ者は天に召されたのではなくて、神から切り離されて死に支配されたのです。天国に行って幸せになるというのも、死の支配とその恐ろしさをごまかすために人間が考え出したまやかしに過ぎません。死が私たちを最終的に支配する力であるならそういうことになるのです。しかし聖書は、そうではないと告げています。神の力は死よりも強い。最終的に支配するのは死ではなくて神の恵みだ、と聖書は語っているのです。そうであるなら、死の力に捕えられて地上の命を終えた人々も、なお神のご支配から切り離されてはおらず、神のみもとに召されて平安を与えられている、つまり召天者なのです。そして、神は世の終わりの救いの完成の時に、死の力を滅ぼして、その支配から彼らを解放して、永遠の命を生きる新しい体を創造して下さるのです。そのことによって、神の力の死に対する勝利が明らかになり、完成するのです。神の力は死の力よりも強いので、召天者の方々も、その予備軍である私たちも、神が死の支配から解放して復活させて下さることを、希望をもって待ち望むことができるのです。この希望を確認することこそが、召天者を記念するこの礼拝の目的なのです。

主イエスの復活によって神の勝利が示されている
 神の力は死の力に勝利する。そのことを神は、独り子主イエスを死者の中から復活させることによって示して下さいました。主イエスの復活こそ、死に対する神の勝利の現れであり、そして召天者と私たちの復活の希望の拠り所です。その主イエスの復活を、聖書が私たちに告げてくれています。聖書は私たちに、神の力が死に勝利して主イエスを復活させて下さったことを、つまり神の力は死よりも強いことを告げているのです。この聖書のみ言葉を聞いて受け止めることによって私たちは、神が死の支配から私たちを解放して復活させて下さり、主イエスと共に永遠の命を生きる者として下さるという希望に生きることができるのです。

モーセの書にも
 しかしこれは、主イエスの復活の後の時代を生きている、言い換えれば新約聖書を読むことを許されている私たちに与えられている恵みです。本日の箇所の、主イエスがサドカイ派の人々の問いにお答えになった時点では、主イエスの復活による死に対する神の勝利はまだ示されていません。しかし主イエスはここで、神の力が死に勝利することは、旧約聖書に既に示されているのだ、と語っておられます。それが26節以下です。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか」と主イエスはおっしゃいました。「モーセの書」とは、旧約聖書の最初の五つの書、創世記から申命記までのことで、それはモーセが書いたと言い伝えられていたのです。サドカイ派は、このモーセの書のみを聖書として重んじていました。彼らがまさに信仰の土台としているモーセの書の中に、死者が復活することが語られているのだ、と主イエスはおっしゃったのです。「柴の箇所」とは、先ほど共に読まれた出エジプト記第3章の、神の山ホレブで主なる神が燃える柴の中からモーセに語りかけた場面です。そこで主はモーセに、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃいました。ここに、死者が復活することが語られている、と主イエスはおっしゃったのです。

わたしはあなたを生かす
 これがどうして死者の復活を語っていると言えるのか、これは主なる神がモーセに、私はあなたの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブに現れた神である、とご自分をお示しになっただけの言葉ではないか、と私たちは思います。しかし、主なる神は今モーセを、エジプトで奴隷とされているイスラエルの民を解放する救いのみ業のために派遣しようとしておられるのです。その困難な働きのためにモーセを選び、召し出すに当って主は、「わたしは必ずあなたと共にいて救いの業を実現する」と約束しておられるのです。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」というお言葉も、その約束として語られています。つまりこのみ言葉は、「私はかつてはアブラハム、イサク、ヤコブの神だったけれども、彼らは死んでしまったから、今はもう死の支配下にあって、私とは切り離されている。私が彼らの神だったのは昔のことで今はもうそうではない」ということではありません。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神だ。そのことはとこしえに変わることはない。私はあなたの神だ、と私が宣言したなら、その人はいつまでも、どんなことがあっても私の民であり、私はその人と共におり、その人を生かす。死の力も、私のもとから彼らを奪い去ることはできない。たとえ死によって肉体の命が失われても、私は最終的には死を滅ぼして彼らを新しく生かす。その私が今、あなたの神となり、あなたをイスラエルの民の解放のためにエジプトへと遣わすのだ」。主なる神はそのようにモーセに語りかけたのです。

生きている者の神
 それゆえに主イエスはこのお言葉を27節で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言い換えられたのです。それは、神は生きている者だけを相手になさり、死んだらもう神とは関係なくなる、ということではありません。神が「わたしはあなたの神だ」と宣言して下さったなら、その人は必ず生きる、ということです。この世の人生においてどのような苦しみ悲しみの中にあるとしても、神はご自分の民として下さった人を生かして下さるのです。肉体の死によってこの世の人生を終え、死の支配下に置かれても、その人はなお主なる神のご支配の下にあり、主のみもとに召されて平安を与えられており、そして、世の終わりに主が死を滅ぼして復活させ、永遠の命を生きる新しい体を創造して下さることを希望をもって待ち望む者とされているのです。主なる神は、召天者の方々を、そして私たちを、ご自分のもとに呼び集めて、「わたしはあなたの神だ」と宣言して下さいました。召天者の方々も、私たちも、この主なる神の民とされているのです。その神は、死の力に既に勝利して主イエスを復活させて下さった方です。私たちはその神の力に支えられてこの世の人生を歩み、やがてみもとに召されて召天者となり、神の新しい創造のみ業によって、永遠の命を生きる新しい体と、祝福に満ちた関係が与えられる復活を、平安の内に待ち望む者とされるのです。

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