夕礼拝

手で造ったものなど神ではない

「手で造ったものなど神ではない」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章9-20節
・ 新約聖書:使徒言行録 第19章21-40節
・ 讃美歌:16、452

神のご支配に生きるエフェソの人々  
 主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、第三回目の伝道旅行をしているパウロは、エフェソの地に約三年間も滞在し、多くの人々に伝道しました。   
 そして、今日読まれた箇所の直前の20節にあるように、「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」のです。  

 20節の「このようにして」というのは、先週の夕礼拝で共に聞いた8節以下の出来事のことです。   
 エフェソでパウロは、主イエス・キリストの福音を告げ、神の国、つまり神のご支配を宣べ伝えていました。そこで神ご自身が、パウロを用いて目覚ましい奇跡の業を行なわれました。パウロの手ぬぐいに触れるだけで、病が癒され、悪霊が出て行ったのです。   
 それを見た魔術師たちが、試みに、パウロが宣べ伝えている「イエスの名」を使って悪霊を追い出そうとすると、悪霊に返り討ちにあってしまった、という出来事です。      

 悪霊に襲われてしまったのは、魔術師たちが、神のご支配に従うのではなく、神の力さえも自分のために利用しようとしたからです。そのように、自分を神よりも高くし、神に逆らおうとするところでは、悪霊の力はますます強くなります。悪霊というのは、人を神から引き離す力のことだからです。   
 一方で、パウロは、主イエスの救いにあずかり、主イエスのものとされ、主イエスを自分の主人として、神のご支配のもとに生きています。   
 そのように、天も地もすべてを支配しておられる、真の神に従うところにこそ、本当の平安があり、自由があり、魔術や悪霊からも解放する力があるのだ、ということが人々に示されました。  
 そして、エフェソの町の大勢の人々が、魔術をやめ、魔術の書物を焼き捨てて、真に主の言葉に生きる者、主イエスが招いて下さった神のご支配のもとに生きる者となりました。  
 「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」のです。

御霊に導かれるパウロの計画  
 そして、本日お読みした21節には「このようなことがあった後(のち)、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った」とあります。  

 「このようなことがあった後」という文章は、ギリシャ語を直訳すると、「これらのことが満たされた後」と訳すことが出来ます。それは、エフェソの地を中心に、約三年をかけて、主の言葉が十分に語られ、多くの人々に、神の国、神のご支配が行きわたり、人々に満たされた、ということを表していると思います。  

 それで、パウロは次の伝道の計画を立てました。まずは、エルサレムに行くこと。また、その後にローマに行くということです。   
 聖書には「パウロは…決心した」とありますが、以前の口語訳聖書では「パウロは御霊に感じて」と訳されていました。「プニューマ」というギリシャ語の単語を「心」と訳すか「霊」と訳すかで、「心において決めた」となるか、「霊において決めた」となるか、訳が変わってくるのです。   
 しかし、これまでのパウロの歩みを見ても、すべては聖霊の導きによって、神の御心に従って、伝道の旅が進められていることが分かります。ここでも、パウロは「御霊に感じて」、つまり、今後の歩みを神に祈り求め、聖霊の導きによって、エルサレムへ行くこと、そしてローマへ行くことを示され、決意したことでしょう。   

 その出発前、パウロがいましばらくエフェソに滞在している間に、本日お読みしたところの「騒動」が起こりました。

デメトリオの訴え   
 それは、デメトリオという銀細工師が発端でした。彼は他の銀細工職人や関係者たちの、元締めのような存在だったようです。彼らの仕事は、24節にあるように、アルテミスの神殿の模型を銀で造るというものでした。      

 エフェソには、アルテミスという女神の、非常に大きく立派な、総大理石の神殿がありました。今は、神殿は原型を留めていませんが、その立派さは世界七不思議の一つに数えられるほどでした。   
 27節の後半、でデメトリオが「アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光」と言い、35節でエフェソの町の書記官が、「エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ」と言っているように、このアルテミスの神殿の存在は世界に広く知れ渡っていました。これはエフェソの町の人々の誇りであり、心の拠り所であったでしょう。   
 祀られているアルテミスという女神は、ギリシャ神話ではアポロンと双子であり、清純な女狩人とされていますが、エフェソでは古くから信仰されていた豊穣多産の女神と結びついています。     

 そして、デメトリオらは、この神殿に参拝する人向けに、小さな女神像を入れた神殿の模型を銀で造って販売していました。人々はそれを購入して、神殿に奉納したようです。  
 そのようにして金儲けをしていたデメトリオたちでしたが、どうやらあからさまに利益が落ちてきたようです。デメトリオは、それはパウロが教えていることのせいだと思いました。   
 26節以下で、デメトリオはこのように言っています。   
「諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなく、アジア州のほとんどの全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」  
 パウロが人々を「たぶらかした」というのはデメトリオ側の言い分ですが、実際に、パウロの話を聞いた多くの人々が、神殿の模型を買わなくなったのでしょう。

手で造ったものなどは神ではない  
 パウロは、「手で造ったものなどは神ではない」と人々に教えました。   
 手で造ったものとは、「偶像」のことです。偶像の神とは、人々が、自分が叶えて欲しい願いや、願望を実現するために、自分たちの言うことを聞いてくれる神を、自分の手で造りあげたものです。人々の欲望や願いの数だけ、偶像の神が生み出されることになります。   
 しかし、そのようにして、人の手によって造られた偶像は、本日のイザヤ書にあったように、無力で、当然、命のない、虚しいものです。   
 また、具体的な形を造らなくとも、人は自分の心の中で自分の頼る神を造り上げます。それを拠り所とし、自分の中で絶対だと思っていることに従います。それは、生きて、すべてを支配しておられる真の神を神とせず、偶像を神として拝んでいることと同じなのです。      

 パウロが「手で造ったものなどは神ではない」と語る時、異教の神を拝んでいたエフェソの人々に、パウロが教えたことは、「この世界をお造りになり、わたしたちに命を与え、すべてを支配し、導いておられる、生ける唯一の、真の神がおられる」ということです。  
 この神に遣わされた、御子イエス・キリストが、神に逆らったわたしたちの罪を、ご自分の十字架の死によって赦し、真の神に立ち帰るように、真の生ける神を信じ、神の恵みのご支配のうちに生きるようにと、招いて下さっている、ということです。  

 そして、主イエスの救いを信じ、真の神を知ったエフェソの人々は、もう偶像に頼らなくて良くなったのです。罪と死に勝利し、すべてを支配しておられる復活の主イエスが、自分と共におられる。そして、自分の願望を叶えることよりも、人を愛し、導いて下さる、真の神と共に生きることにこそ、人の本当の喜び、本当の価値があると、知ったからです。  

 主イエスの福音を聞いた人々は、そのように生き方を新しく変えられていきました。パウロを通して主の言葉が語られ、神の国、神のご支配が宣べ伝えられる中で、福音と出会った人々の生き方が変わり、生活が変わり、そして町の経済活動に影響を及ぼすほどになったのです。これが、福音の力であり、神の恵みによって新しく変えられた人々の姿なのです。

無秩序な群衆の集会  
 しかし一方、デメトリオは商売あがったりになり、パウロを何とかしたいと思って、仲間や人々を煽動しました。  
 彼の主張は、27節以下にあるように「これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまう」。そして、「女神の御威光さえも失われる」ということです。   

 彼にとって、女神の御威光は自分の仕事の利益に関わることです。女神の御威光は自分の金儲けのために必要であり、そのためにデメトリオは、女神の御威光を何としてでも守らなければなりません。彼の「女神の御威光さえ失われてしまう」という心配は、決して信仰深さから出た言葉ではありません。まず「我々の仕事の評判」が第一であり、女神は彼らの仕事に仕える存在なのです。   

 また、これを聞いた人々がひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫び出した、とあります。人々にとっては、「女神の御威光が失われる」と聞いて、自分たちの町の誇りが汚された、と感じたのでしょう。   
 そうして町中が混乱してしまいました。町の人々はパウロの同行者のガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場へなだれ込んだ、とあります。   
 パウロは群衆の中に入っていこうとしましたが、弟子たちに止められ、またアジア州の高官である友人たちにも、劇場に入らないように頼まれた、とあります。   
 この騒動の時、パウロは何もできなかったのです。      

 そして、32節には「群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」とあります。騒動を見たり聞いたりして、訳もわからず人々が押し寄せ、パニックになったのです。      

 さて、ここで出て来る野外劇場というのは、約二万五千人も収容できる規模であったと言われます。そして32節で使われている「集会」という言葉は、ギリシャ語で「エクレーシア」という言葉です。これは聖書で「教会」と訳される大切な言葉ですが、ここでは、ギリシャ都市の政治において、民衆の意志決定をする集会のことを指します。   
 この時、人々はそれぞれの自分の思いや主張を口々にわめきたて、何も分かっていない者さえおり、集会は混乱を極める一方でした。また、途中で群衆が一斉に「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほど叫び続けるということも起こったようです。まるで集団ヒステリーのような状態です。      

 この混乱した群衆を、町の書記官がなだめました。書記官という役職は、当時の都市の政務官のようなものだったそうです。   
 書記官は集会に集まった群衆に対し、エフェソの町がアルテミスの神殿を守っているという、世界の人々が承知している事実が覆される訳ではないのだから、無謀なことをするな、と説得しました。また、公に訴えられるようなことを、パウロたちはしていないから、もし訴えるなら、正式な手続きを取るようにと言いました。   
 これは、書記官がキリスト教を弁護してくれた、という話ではありません。この書記官は、信仰のことも、また人々の仕事や利益のことも、どうでもよかったはずです。   
 彼が恐れたのは、40節にあるように、「本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある」ということでした。ローマ帝国の属州にあるエフェソは、そこで混乱や騒動が起これば、そこの治安を任されている者が厳しく責任を問われます。   
 結局この書記官も、自分自身の身を守ることだけを考えていたのです。   
 そして、騒動は収まり、混乱した集会を解散させることが出来た、というのが、今日お読みしたところの出来事です。

集会と教会  
 今日の箇所で描かれているのは、エフェソでキリストの福音を知り、神のご支配のもとに生き始めた人々がいる一方で、真の神のご支配を知らずに生きている人々の姿です。   
 ある者は金や富に仕え、またある者は町の誇りを自分の誇りとして声高に訴え、ある人々は周囲の人々に流され、ある者は自分の地位を一番に考えます。   
 自分の思いや、望みや、欲望を一番とするところで、人は偶像の神を造りだします。そして、神を拝んでいるように見せながら、実は自分自身を神とし、自分の思いに服従しているのです。   
 しかもこの誘惑は、決して人ごとではなく、いつでもわたしたちの近く潜んでおり、神のご支配から遠ざけて、心を支配しようとします。   
 そして、そのように神以外のものを神とし、偶像を拝む人々が集まる時、その集会はそれぞれの思いや欲望が主張されて、無秩序と、混乱で満たされてしまうのです。      

 先ほど、「集会」という言葉に「エクレーシア」というギリシャ語が使われていることをお話ししました。そして、聖書の中で、「教会」と訳されているのも、同じ「エクレーシア」という単語です。この、わたしたちの「教会」です。同じエクレーシアでも、この「集会」と「教会」の間には決定的な違いがあります。      

 今日のところで出て来た「集会」は、人々が集まってきて、そこで人々が意見を言い、自分の主張を叫ぶところでした。それぞれが支配されている自分の思いがあるのです。   
 しかし「教会」は、神が人を召集されました。そして、この神に召し集められた群れは、自分の願いや主張を叫び続けるのではなく、神の言葉を聞き、キリストの救いの御業を語り続けるのです。「教会」は、神に招かれ、キリストに救われ、聖霊によって一つに結ばれた、徹底して神のご支配にある群れなのです。

神のご支配に生きる者   
 そして、その神は、もちろん人の手で造られた神ではありません。   
 世界をお造りになり、わたしたちに命を与え、罪と死から救い出して下さった、生ける神です。この方が、わたしたち一人一人の名を呼び、御自分のもとに招き、救いに与らせ、恵みと祝福を注いで、共に歩んで下さるのです。      

 この真の神のご支配の許で生きることは、わたしたちにとって最も幸いなことです。   
 そして、わたしたちがその神のご支配にすっかり満たされ、その恵みの中で生きる時、わたしたちは変えられていきます。   
 キリストを信じたエフェソの人々が、魔術から解放され、魔術の本を焼き捨て、神殿の模型を買わなくなったように、わたしたちも、自分の思いやこだわり、様々な世の支配、欲望から解放され、生活が変化していくのです。   
 そして、エフェソの人々は、異教の神殿を破壊したり、冒?したりして、キリスト教こそ絶対なのだと主張したのではありませんでした。ただ、神の恵みに生き、神のご支配のもとで自由と平安が与えられ、一人一人の生き方が新しくされた。変えられていった。その変化がやがて、町に、社会に、影響を及ぼすようになっていったのです。福音を語り続け、福音に生き続けることが、神を証しし、周囲を変える力にもなっていくのです。      

 わたしたちも、神の恵みに生きる者として、神のご支配に入れられている者として、み言葉に聞き続けて歩む中で、生活が具体的に変えられていきます。   
 この日本も、多くの神々を拝み、さまざまな風習や迷信に支配されている点で、エフェソとよく似ているかも知れません。ここでわたしたちも、真の神を礼拝し、神のご支配の中を生きていくのです。他の支配から解放され、神にある真の自由と平安、その喜びを知っている者の具体的な生きる姿は、周囲の人々への一番の証しです。そしてそれは、いつしか周囲に影響を与えていくでしょう。また時に衝突を生むかも知れません。そして、わたしたちも、今回のパウロのように、もし騒動が起こっても、何も出来ないかも知れません。   
 しかし、パウロが聖霊の導きによって歩む道を示されたように、すべてを支配し、共にいて下さる神ご自身が、聖霊によって導きを与え、歩む道を示し、必ず守って下さることを、わたしたちは信じ、おそれず神に従っていくことが出来るのです。

生ける真の神と共に   
 本日は、聖餐の恵みに与ります。教会で語りかけられる、見える神の言葉です。神が招いてくださる、食卓です。主イエス・キリストの十字架の死に与り、わたしたちの罪が赦され、主イエスの命に新しく生かされていること。お一人の主イエスの体に、わたしたちが共に与り、キリストを頭とする一つの群れにされていること。その恵みが目に見えるしるしによって、確かにされる時です。天におられる主イエスと見え、わたしたちが、生ける真の神と共にあることを、味わい知る時です。   
 わたしたちは、すぐに陥ってしまう罪や誘惑から、またこの時、しっかりと神の方に向き直り、神に立ち帰り、新しく変えられて歩み出すことが出来ます。      

 また、まだ洗礼を受けていない方も、この食卓に、神は招いておられます。主イエス・キリストが神の愛を示して下さり、罪を赦し、復活の命を与えて下さいます。その恵みをしっかりと受け取って、信仰を告白し、洗礼を受け、神に変えられて、新しくされて、真の生ける神のご支配のもとで歩む者とされますように。そして、聖餐の恵みを共にすることが出来ますようにと祈ります。

関連記事

TOP