夕礼拝

モーセの誕生

「モーセの誕生」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第1章1-2章10節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第7章17-22節
・ 讃美歌 : 83、392

エジプトへ下ったイスラエルの子ら
 今月より、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記からみ言葉に聞いていきたいと思います。創世記を先月で読み終えましたので、その続きである出エジプト記に入ろうということです。創世記の最後のところには、「ヨセフ物語」が語られていました。この物語は、アブラハムの子孫であるイスラエルの人々がエジプトに住むようになったいきさつを語っています。アブラハムの孫であるヤコブの子であるヨセフが、兄たちの妬みと憎しみによってエジプトに奴隷として売られ、しかし結局エジプトの総理大臣となってエジプトの人々を飢饉から救い、同じ飢饉によって生きるすべを失っていた父ヤコブと兄弟たち、およびその家族をエジプトに招いたのです。このヨセフのおかげでイスラエルの民はエジプトに移住することによって生き延びることができたのです。本日の箇所の最初の所、1章1~5節にこうあります。「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」。2~4節に名前があげられている11人とヨセフとがヤコブ、別名イスラエル、の12人の息子です。彼らとその家族の総勢七十人がエジプトに移住したのです。

奴隷とされたイスラエルの民
 それから何世代もの年月が流れました。その間、イスラエルの人々は増え広がっていきました。6、7節にそのことが語られています。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」。エジプトに移住した時は七十人だったイスラエルの人々は、何世代か下った数百年後には一つの民族に発展していたのです。そのように順調に発展していったイスラエルの民の運命に大きな変化が訪れます。それが8節です。「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」とあります。「ヨセフのことを知らない新しい王」というのは、「新しい王朝」のことです。ヨセフによって大飢饉から救われたことは、その時の王朝が続いている間は常に記憶され、エジプトの人々はヨセフの家族の末裔であるイスラエルの人々に対して好意的だったのです。しかし政変が起り、王朝が変わりました。新しい王朝は、「おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」とあるイスラエルの民の存在に脅威を感じるようになったのです。王は国民にこのように警告した、と9、10節にあります。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」。一握りの家族だった時は何も問題がなかったけれども、一民族として無視できない存在となったイスラエルは、エジプトにとって危険な存在と見なされるようになったのです。この王朝の交代とそれによる政策の転換によって、イスラエルの人々のエジプトにおける立場はにわかに悪くなっていきました。11節、「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した」。要するに、イスラエルの人々は奴隷とされ、強制労働を課されて苦しめられるようになっていったのです。

神の祝福によって
 けれどもイスラエルの人々はそのような中でもなお増え広がっていきました。12節に「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので」とあります。これは単にイスラエルの人々の生命力の強さを語っているのではありません。これは神様の約束の成就、実現、つまり神様のみ業なのです。その約束とは、創世記12章の始めのところで神様がアブラハムに与えて下さった約束です。創世記12章1、2節にこうあります。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように』」。アブラハムはこの約束を信じて、故郷を離れて旅立った、それがイスラエルの民の歴史の始まりだったのです。奴隷とされた苦しみの中でもイスラエルの民が増え広がっていったのはこの神様の約束の成就です。神様の祝福が彼らの上に豊かに注がれていたのです。

寄留の民の苦しみ
 しかし皮肉なことに、この神様の祝福が、彼らの新たな苦しみの原因となったことが12節の後半から14節にかけて語られています。「エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」。イスラエルの民のこの姿は、時代の移り変わりの中で翻弄される寄留の民の姿です。神様の祝福によって繁栄し、増え広がっていったイスラエルの民でしたが、他国に寄留しているために、彼らの繁栄はかえってその国の人々の警戒感、恐れを引き起こし、差別され、抑圧され、ついには奴隷とされてしまったのです。主イエス・キリストを信じる新しい神の民である私たちキリスト者も、この世においては寄留者、旅人です。主イエス・キリストによる救いにあずかり、信仰に生きる者となることによって、私たちはこの地上に故郷、安住の地を持つのではなく、本当の故郷である神様のみもとに向けて旅する者となるのです。その旅人としての歩みの中で私たちも、時代の変化や社会の変化に翻弄されます。いわれのない憎しみを受けることがあります。不条理とも言うべき苦しみの中に置かれることがあるのです。イスラエルの民が体験したのはそういう、寄留者、旅人としての苦しみだったのです。

大いなる脱出
 出エジプト記は、このエジプトにおける奴隷の苦しみから、神様がイスラエルの民を救い出し、エジプトを脱出させて下さったことを語っていきます。出エジプト記は大いなる脱出の物語です。「出エジプト記」というのはおかしな名称ですが、英語ではこれをExodusと言います。この言葉はギリシャ語に遡るのですが、それは「外へ」という言葉と「道」という言葉が組合わさって出来た言葉です。つまり訳せば「外への道」「道を通って外へ出る」ということで「脱出」と訳すのが相応しいのです。具体的には、イスラエルの民がエジプトから脱出するわけで、それを「出エジプト記」と訳したわけです。

旧約聖書の信仰の要
 このエジプトからの脱出の出来事は、イスラエルの人々にとって、歴史上の一つのエピソードに過ぎないものではありません。特別な意味を持つ出来事です。主なる神様が人間の歴史に介入なさって、奴隷とされて苦しんでいたイスラエルの民を救い出し、奴隷の家エジプトから脱出させて下さった、この主なる神様による解放、救いの出来事を、イスラエルの民は自分たちの歩みの原点として常に覚え、思い起していったのです。人々がそのことを忘れてしまい、エジプトから脱出させて下さった主なる神様に背いてしまった時には、預言者たちが現れて、この大いなる脱出の出来事を思い起こせ、と繰り返し語りました。その一つの箇所を読んでみたいと思います。ホセア書の第11章1、2節にこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」。また12章10節に「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる。わたしがあなたと共にあった日々のように」、14節に「主は一人の預言者によってイスラエルをエジプトから導き上らせ、預言者によって彼らを守られた」とあります。13章の4節にも「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない」とあります。僅か3頁の間にこれだけ、主なる神様によるエジプトからの脱出のことが繰り返し語られているのです。ホセアの当時、イスラエルの人々は主なる神様を忘れ、バアルという偶像の神、五穀豊穣の神を拝むようになっていました。そういう同胞に対してホセアは、我々の出発点は主なる神様によるあのエジプトからの脱出ではないか、この原点に立ち帰って、主なる神様をこそ礼拝し従おう、と呼びかけているのです。出エジプト記に語られているエジプトからの脱出の出来事は、このように、旧約聖書において、常に立ち帰るべき信仰の要です。旧約聖書に語られているイスラエルの民の歴史も、十戒を中心とする神様の戒めも、このエジプトからの脱出の出来事を土台としているのです。つまりこの出エジプト記は、旧約聖書の信仰を理解するための鍵であると言うことができるのです。

神を畏れる
 さて先ほど14節までを見ましたが、15節以下にも、エジプトの王によるイスラエルの民への圧迫がさらに激しくなったことが語られています。王はヘブライ人、つまりイスラエルの民の二人の助産婦に命じて、ヘブライ人の出産において、男の子なら殺し、女の子なら生かしておくように命じたのです。助産婦に命じたというのは、死産だったように見せ掛けさせようということです。しかし彼女たちは王の命令に従いませんでした。それは彼女らが神を畏れていたからだと17節にあります。つまり彼女らは、この世の絶対権力者であるエジプトの王よりも、主なる神様を畏れたのです。死産に見せかけて男の赤ちゃんを殺してしまうことは、助産婦である彼女たちがしようと思えばできたことです。しかし彼女らは、人間の目には分からず、気付かれないことでも、主なる神様は見ておられる、ということを覚え、神様を畏れたのです。神様を信じるというのはそういうことです。人間の目をのみ意識するのではなく、隠れたことを見ておられる神様の目の前を歩むことこそが信仰なのです。神様は、この信仰のゆえに彼女らに恵みを与えて下さいました。彼女らのみでなく、イスラエルの民全体がこのことによって数を増し、甚だ強くなった、と20節にあります。民族が、逆境の中でも本当に健全に力強く発展していくための力となるのはこのような信仰なのだ、ということを私たちはここから読み取ることができます。人の目をごまかして自分の目先の利益だけを追い求めていくという、最近の食品表示偽装などに現れている風潮は、民の滅びへとつながるものです。倫理観の崩壊こそ、国の、民族の衰退の徴です。逆境の中でも、つまりそのことによって不利益を被ったり、場合によっては殺されたりする危機の中でも、倫理観を保って生きることができる人間こそが、社会を健全に築き、また保っていくことができるのです。そしてそういう倫理観は、人は誰も見ていなくても神様はご存知であることを知り、その神様をこそ畏れ、神様の前で責任をもって生きるという信仰によってこそ支えられるのです。

幼児虐殺?
 計画が失敗に終わったエジプト王はついに直接的手段に訴えます。22節「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」。民族を根絶やしにしようとする大虐殺の命令がついに下ったのです。しかし歴史的には、このような命令が出されたことは事実ではないだろうと思われます。本当にこのような幼児虐殺があったなら、聖書の中にその悲惨な記憶がもっと記されてよいはずですが、そういうことはほとんど語られていません。イスラエルの民が奴隷とされて苦しめられていたことは事実ですが、このような幼児虐殺があったことは事実ではないと思うのです。このような話が語られているのは、2章の、モーセの誕生と生い立ちを語る物語の舞台設定のためです。生まれたばかりのモーセがナイル川に流され、エジプトの王女に拾われて育てられた、という話の設定としてこの幼児虐殺の命令が語られているのです。

モーセの生い立ち
 第2章には、神様によるイスラエルの民のエジプトからの脱出の主人公となるモーセの誕生が語られていきます。レビ族のある家に男の子が生まれ、両親は三か月の間隠まっていましたが、ついに隠しきれなくなり、パピルスの籠に防水処置をしてその中に赤ん坊を入れ、ナイル川に流しました。これは、両親がこの子の運命を神様に委ねた、ということです。その結果、赤ん坊はエジプト王ファラオの王女に拾われ、王女の子として育てられることになりました。様子を見ていたモーセの姉が母親を乳母として紹介し、モーセは王女からの委託によって母親の手で育てられることになりました。こうしてモーセは自分の家で、母親のもとで、しかしエジプトの王女から預けられた子として育てられていったのです。モーセの母親はモーセを、エジプトの王女からではなくて神様から預けられた子供として育てたに違いありません。神様に運命を委ねて川に流したわが子が、神様によって再び彼女に預けられたのです。この子はもはや自分のものではなくて、神様のもの、神様から預けられた子だ、母親のそのような信仰によって育てられたことによって、モーセの心に、自分という人間の、また自分の人生の、本当の主人、所有者は誰かを問う思いが育まれていったと言えるでしょう。モーセの人物像を理解するための一つの鍵がここにあります。モーセは様々な体験を通して、自分という人間が神様のものであることを体験し、学んでいったのです。そのことの中で彼は、あの大いなる脱出の導き手、指導者となったのです。彼の両親が彼の命を神様に委ねたこと、そして母親が神様から預けられた子として彼を育てたことからその歩みが始まったことを私たちは覚えておきたいと思います。

神の選びと召しによって
 成長したモーセはエジプトの王宮に連れてこられ、王女の子となりました。このこともまた、モーセの生い立ちを考える上で重要です。彼はヘブライ人であり、エジプト人によって奴隷とされ苦しめられている民の一人です。しかし同時に彼は、エジプトの王女の養子、エジプトの王宮の一員としての教育を受けたのです。このことによってモーセは、奴隷の民ヘブライ人の一人でありながら、エジプトの王家の人々とのつながりを持ち、エジプトの最高の教育を身に付けることができました。このことは彼がイスラエルの人々をエジプトから脱出させる働きをしていく上で好都合なことだったようにも思えますが、事はそんなに単純ではありません。エジプト人はイスラエルを奴隷として支配し、苦しめている民です。イスラエルの民の一員でありながら、エジプトの王家の一人でもあるというのは、支配する民と支配される奴隷の民との間で身を引き裂かれるような立場です。モーセは同胞が味わっている奴隷としての労働の苦しみや屈辱を自分では全く体験していません。むしろ彼らを支配し、苦しめる者たちの一員として生活しているのです。このような立場にあるゆえにモーセは、奴隷として苦しめられている同胞たちとその苦しみを共有し、同じ思いを分かち合うことが基本的にできないのです。しかしまた彼は、エジプトの王家の純粋な一員として支配者としての特権をのうのうと享受することもできません。同胞が苦しんでいるという事実が、常に目の前にあり、それが頭から離れないのです。モーセはその生い立ちによって、このような、まことに中途半端な、引き裂かれた立場に置かれたのです。この立場はイスラエルの民の指導者となってエジプトからの脱出を導いていくために決して好都合でも便利でもありません。むしろ彼は同胞から、「あなたのような人に我々の苦しみが分かるものか」と言われたり、「お前はエジプトの手先で、本当は我々を滅ぼそうとしているのだろう」と疑われるような立場に置かれたのです。私たちは、モーセの特別な生い立ちをそのように受け止めるべきでしょう。つまりモーセがこのように育ったことは、エジプトからの脱出の指導者となるために決してプラスの要素ではない、むしろマイナスの、妨げとなる事柄なのです。そのモーセが、これから読み進めていくように、神様によって立てられ、用いられて、あの大いなる脱出、エジプトの奴隷状態からの解放の指導者となっていったのです。それは、人間の目から見たら全く相応しくない、力もない、条件も整わない、マイナスの要素ばかりを抱えている、そういう者を神様が選び、用いて救いのみ業を行って下さったということです。モーセは、偉大な力を持った人だったから、あるいは特別な生い立ちと経験を与えられた人だったから、そういう自分の力や経験を生かしてエジプト脱出の指導者になったのではありません。むしろ自分の力では到底そのような大それた働きはできない、また自分の生い立ちや育てられた環境、受けた教育など、自分が背負いまた引きずっている事柄がその働きをするのにプラスになるどころか、むしろ妨げになる、そういう者が、主なる神様によって選ばれ、召され、遣わされることによって、この大いなる解放、救いの恵みのみ業のために用いられたのです。つまり出エジプト記に語られている大いなる脱出の出来事は、徹頭徹尾、神様ご自身のみ心による救いのみ業なのです。モーセはその神様のみ業のために用いられたのです。

キリストによる解放
 この、神様ご自身による大いなる脱出の出来事が、先ほど申しましたように、旧約聖書全体の要であり、旧約聖書の信仰を理解するための鍵なのです。言い換えれば、旧約聖書全体が、この神様によるイスラエルの民の奴隷状態からの解放の恵みを指し示しているのです。そして、新約聖書をも含めた聖書全体を視野に置いて見つめるならば、この大いなる脱出の物語自体が、さらにある一点を指し示しています。その一点とは、主イエス・キリストの十字架による救いの出来事です。主イエスの十字架において、イスラエルの民が体験したのと同じ、いやそれよりもさらに大いなる脱出、解放、救いの恵みが私たちに与えられているのです。私たちも、この世の様々な力に支配され、圧迫され、奴隷とされています。経済的な危機の中で、これから世界の、またこの国の社会が、また私たちの生活がどうなっていくのかという不安が今私たちを支配しています。私たちの生活は常にそのような社会の動きによって翻弄されています。また私たちの心も、様々な思い、悪意や憎しみや妬みや、人間の目をごまかせば何とかなるという神様を畏れない思いによって捕えられ、とりこにされています。それらは全て、神様の下で生きようとしない罪から生じていることです。生まれつきの私たちは皆、罪の奴隷となっているのです。その罪の支配から私たちを解放し、脱出させて下さるのが主イエス・キリストです。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪の奴隷状態から解放されたのです。そしてその救いは、私たちがそれに相応しいからではなく、徹頭徹尾、神様ご自身の恵みのみ心によって実現したのです。出エジプト記が語る、神様によるイスラエルの民の奴隷状態からの解放、脱出の出来事は、神様の独り子イエス・キリストによって私たちが罪の支配、その奴隷状態から解放される、その救いのみ業の先駆けであり、それを指し示す予告なのです。私たちはこれから、出エジプト記において、イスラエルの民に与えられた大いなる脱出、解放のみ業を見つめていきます。それを見つめていくことにおいて、私たち自身に与えられている主イエス・キリストによる罪からの解放、救いの恵みを覚えていくのです。そしてまた、神様のこの救いのみ業のために用いられたモーセの歩みを見つめることを通して、私たちも、このみ業のために用いられ、さらに多くの人々が主イエス・キリストによる神様の救いのみ業にあずかり、大いなる脱出、解放の恵みを与えられていくために仕える者とされていきたいのです。

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