説 教 「救わずにはいられない」 副牧師 川嶋 章弘
旧 約 申命記 第5章12-15節
新 約 ルカによる福音書 第14章1-6節
ファリサイ派の議員主催の食事会
私が夕礼拝の説教を担当するときにはルカによる福音書を読み進めてきました。1か月、間が空きましたが、本日から再び共にルカ福音書のみ言葉に聞いていきます。本日から14章に入ります。冒頭の1節に「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。安息日の礼拝の後に、ファリサイ派のある議員の家で客を招待しての食事会が行われ、そこに主イエスも招かれたのです。本日は6節まで読みますが、この場面は24節まで続きます。1節から24節まで、ファリサイ派の議員が催した食事会で、主イエスがほかの招待客と共に食卓を囲む中での出来事が語られているのです。
敵意に満ちた食事会
これまでもルカ福音書は、主イエスがファリサイ派の人から食事の招待を受けてきたことを語ってきました。7章36節には、「あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」とありました。また11章37節にも、「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた」とありました。このように二度三度、主イエスはファリサイ派の人から招かれて食事会に参加しています。しかしその食事会の雰囲気といえば、和気藹々としたものではありませんでした。特に先ほどの11章37節から始まる箇所では、食事の席で主イエスがファリサイ派の人たちと律法の専門家を厳しく非難したために、この箇所の終わり53-54節ではこのように言われています。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」。食卓を共に囲む中で、律法学者やファリサイ派の人たちは激しい敵意を主イエスに対して抱くようになったのです。私たちが食事会と聞いて思い浮かべるのは、和気藹々とした交わりの会だと思いますが、主イエスが招かれた食事会は、それとは程遠い、主イエスへの敵意が燃え上がっているような緊張感に満ちた会だったのです。本日の箇所でも、ファリサイ派の議員が主イエスを食事会へ招いたのは好意からではなかったに違いありません。主イエスの言葉じりをとらえるチャンスを狙って食事会へと招いたのです。「人々はイエスの様子をうかがっていた」とは、食事会に招かれた人たち(その多くはファリサイ派の人たちや律法の専門家)が、主イエスへの敵意を抱きつつ、主イエスの振る舞いや言葉につけ入る隙がないか、その様子をうかがっていた、ということなのです。
ファリサイ派の姿に私たちの姿を見る
ところで私たちは、主イエスがご自分に激しく敵対していたファリサイ派の主催する食事会へわざわざ赴かれたことを不思議に思います。わざわざ自分に対する敵意が満ちている場所へ行かなくても良いのではないかと思うのです。私たちが同じ状況にあれば、なにかと理由を探して招待を断ろうとするのではないでしょうか。しかし主イエスはそのような場所へと赴かれ、自分に敵意を抱いている相手と関わりを持とうとされるのです。もうこんな連中とは関わるのはやめた、とは言われないのです。私たちはこの主イエスの振る舞いに感心して、「主イエスはなんて寛容な方なのだろうか」と思っているようではなりません。そうではなく私たちは主イエスが関わりを持とうとされているファリサイ派の姿に、自分自身の姿を見なくてはならないのです。かつて私たちは主イエスに敵対して生きていました。それは、イエスを自分の主として生きていなかった、ということです。イエスを自分の人生の主人として生きるのではなく、自分自身を自分の人生の主人として生きていたのです。いえ、かつてだけではありません。主イエスによる救いに与った後も、私たちは幾度となく主イエスに従って生きることから離れ、自分自身を自分の主として生きようとしてしまいます。私たちは主イエスに敵対して生きてしまうのです。
主イエスに敵対して生きる私たちのところに
けれども主イエスは、主イエスに敵意を抱くファリサイ派の食事会に赴いてくださったように、主イエスに敵対して生きてしまう私たちのところにも来てくださいます。今、主イエスは天におられますから、地上のご生涯の出来事を語っている本日の箇所と同じように、目に見える形で主イエスが私たちのところに来てくださるのではありません。そうではなく聖霊のお働きによって天におられる主イエスが私たちのところに来てくださるのです。主イエスによる救いに与り、その救いの恵みの内に生かされているにもかかわらず、イエスを主として生きることを拒み、自分自身が自分の人生の主人であろうとしてしまう私たちのところに、主イエスに敵対して生きてしまう私たちのところに、主イエスは来てくださるのです。ファリサイ派の主催する食事会へと赴かれ、自分に敵意を抱いている相手と関わり続けられたように、主イエスはまことに自分勝手に生きている私たちと関わり続けてくださいます。救いに与ったのにイエスを主として生きようとしない私たちとは、もう関わるのはやめた、とは決して言われないのです。私たちを決して見放すことなく、み言葉を通して、聖霊のお働きによって私たちに関わり続けてくださいます。14章1節から24節で、ご自分に対する敵意に満ちた食事会において、主イエスはみ業を行われ、そこに集まっている人たちに語られています。同じように、主イエスを拒んで生きてしまう私たちに、主イエスは聖霊のお働きによってみ業を行ってくださり、語りかけてくださっています。この食事会で主イエスがファリサイ派の人たちに語った言葉は、私たちに語られている言葉でもあるのです。
敵意が頂点に達する場所へ
そもそも今、主イエスはエルサレムに向かって歩まれています。それは、主イエスに対する敵意が頂点に達する場所に向かっているということにほかなりません。13章33節で主イエスは「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」と言われていました。人々の敵意によって十字架に架けられ殺されるために、主イエスはエルサレムへと向かわれているのです。ファリサイ派の人たちを含むユダヤ人を救うためです。ユダヤ人だけでなくすべての人たちを、そして私たちを救うためです。主イエスというお方は、私たちのために敵意のただ中に赴かれて行く方なのです。
水腫を患っている人
さてこの食事会の場に、「水腫を患っている人」がいました。「水腫を患っている」とは、なんらかの病気が原因で、体の中に体液がたまってしまっている症状のことです。皮膚の下に水がたまっている場合は、いわゆる「むくみ」となります。なぜこの人が食事会に来ていたのかは、色々と想像することができます。ファリサイ派の人があえてこの人を食事会に招いて、安息日に主イエスが彼を癒すかどうか試そうとしたのかもしれませんし、主イエスご自身が彼を食事会に連れて来たのかもしれません。ただ4節に「すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった」とあり、癒された後、この人が食事会に残らずに帰ったことを考えれば、この水腫を患っている人は、ファリサイ派の人たちにとって「招かざる客」であったのではないでしょうか。私は、7章36節以下で「罪深い女」と呼ばれている女性が、主イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いたのを知って、その家にやって来たのと同じように、この人も、主イエスのもとに行きたいと願って、食事会に紛れ込んでいたのだと思います。
沈黙が示していること
今、主イエスの目の前に水腫を患っている人がいます。主イエスは食事会に出席していたファリサイ派の人たちや律法の専門家にお尋ねになりました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。それに対して、「彼らは黙っていた」と4節冒頭で語られています。彼らが黙っていたのは、主イエスの問いに対する答えに悩んでいたからではありません。安息日に病気を治すことは律法で許されているのか、許されていないのかが分からなくて迷っていたのではないのです。彼らの答えは、はっきりしています。彼らにとって「病気を治す」という治療行為は、安息日にしてはならないことであったのです。
ルカ福音書は、主イエスが安息日に病人を癒されることに強い関心を持っています。ルカ福音書だけが、「安息日のいやし」について三つの出来事を語っているからです。本日の箇所は、三つ目の「安息日のいやし」の出来事ですが、同じ「安息日のいやし」を語っていても、三つの出来事には違いもあります。その違いの中で注目したいのは、主イエスが安息日に病人を癒されたことに対する人々の反応です。6章6節から11節では、安息日に主イエスが手の萎えた人を癒されたことが語られていました。その終わりにこの出来事を目の当たりにしたファリサイ派の人たちや律法学者が、「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」(11節)とあります。また13章10節から17節には、安息日に主イエスが「十八年間も病の霊に取りつかれている女」を癒されたことが語られていました。この主イエスの癒しを見た会堂長は腹を立てましたが、主イエスが「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)と言われると、「反対者は皆恥じ入った」(17節)のです。そして本日の出来事において、ファリサイ派の人たちと律法の専門家は、一言も話さずに沈黙しています。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」という主イエスの問いかけに、彼らは黙っていました。また5節の「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」という主イエスの問いかけにも、彼らは「答えることができなかった」のです。一つ目の出来事では、反対者たちは怒り狂っていました。二つ目の出来事では、反対者たちの声はあるものの、主イエスのお言葉によって彼らは皆恥じ入りました。そして本日の三つ目の出来事において、もはや反対者たちの声は無く、彼らは沈黙しているのです。このように福音書の物語が進んでいく中で、反対者たちの反応が弱まっていきます。言い換えれば、主イエスの勝利がはっきりしていくのです。それは、主イエスがファリサイ派の人たちや律法学者をやり込めた勝利というより、安息日をお定めになった神様の御心を明らかにされた勝利です。この三つの「安息日のいやし」を通して、「安息日を守りなさい」という十戒の戒めが示している神様の御心が明らかにされたのです。彼らの沈黙はこのことを示しているのです。
何のために安息日に仕事をしないのか
その神様の御心とは、安息日にこそ苦しんでいる者が救われて、神様との交わりに生きられるようになることにあります。共に読まれた旧約聖書申命記第5章12-15節に十戒の第四の戒めが記されています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」。確かに七日目は「いかなる仕事もしてはならない」と命じられています。しかしそれは何のためなのでしょうか。安息日に仕事をしてはいけません、という単なる規則として受け止めるのではなく、何のために安息日に仕事をしてはいけないと命じられているのかを、つまり神様の御心を受け止めなくてはならないのです。これまでもお話ししてきたように「聖別せよ」とは、神様のものとして区別しなさい、ということです。私たちが安息日に仕事から離れるのは、この日を神様のものとして区別し、神様に心を向け、神様を礼拝し、神様との交わりに生きるためなのです。先ほどの申命記5章15節に「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」とあります。イスラエルの民が安息日に、自分たちがエジプトでの奴隷状態から救い出されたことを思い起こしたように、私たちも安息日に、つまり日曜日に、自分たちが罪の奴隷状態から救い出されたことを思い起こし、その救いの恵みの内に今も生かされていることを味わい、その恵みを携えて新しい一週間へと遣わされるのです。しかしそれは、安息日に自分だけが救いの恵みに与れればそれで良いということではありません。主イエスは、目の前に病で苦しんでいる人がいるのに、弱さに苦しんでいる人がいるのに、罪の支配に苦しんでいる人がいるのに、その人が癒され、解放され、赦されて、救いの恵みを共に味わえなくて良いはずがない、と言われているのです。
神様の御心から逸れる
ファリサイ派の人たちや律法の専門家も安息日に命を救うことは、第四の戒めに違反しないと考えていました。だから5節で主イエスは「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われているのです。彼らも安息日に自分の大切な子どもや、大切な財産である家畜の命を救うことはためらわないのです。しかしたとえ病気で苦しんでいても、命に関わらないのであれば、安息日にその病気を治してはならないと考える。そうやって線引きをする。命に関わる場合は助けても戒めに違反しないけれど、命に関わらない場合は助けたら違反する、そう考えるのです。私たちは、このように考えるのはおかしなことだと思います。神様の御心にそのような線引きはあるはずがないと思います。「安息日であっても」というより、「安息日だからこそ」神様は救いの御業を行ってくださり、癒してくださり、赦してくださる。私たちが信じている神様は、そのようなお方だと思っています。しかしそれにもかかわらず、私たちはしばしばファリサイ派の人たちと同じように考えてしまうのです。それは私たちが、病気になっても命に関わらない場合は、日曜日には病院に行ってはならないと考えてしまう、ということではありません。そのように考える人はいないと思います。そうではなく私たちもしばしば神様の御心を受け止め損なってしまう、ということなのです。ファリサイ派の人たちが「安息日に仕事をしてはならない」という十戒の戒めに示された神様の御心から逸れてしまったように、私たちも神様の御心から逸れてしまうのです。なぜでしょうか。神様ではなく自分自身に心が向いているからです。ファリサイ派の人たちは、主イエスが安息日に病人を癒すかどうかに目を向けていました。しかしそれは主イエスに目を向けているようで、実は自分自身に目を向けているのです。神様の御心ではなく、自分たちの線引きが、自分たちの正しさが守られているかどうかに目を向けているのです。同じように私たちも主イエスに目を向けているようで、自分自身に目を向けてしまっていることがあるのです。そして、神様ではなく自分自身に目が向いているならば、私たちは隣人に目を向けることもできません。今、目の前にいる人の苦しみよりも、自分の線引き、自分の正しさを守ることを優先してしまう。そのことに心を奪われてしまうのです。自分自身に心を向けて生きるとき、言い換えるならば自分自身を自分の人生の主人として生きるとき、私たちは神様に心を向けようとせず、それゆえに隣人にも心を向けようとしないのです。本来、安息日は、日曜日は、神様に心を向ける日であり、それゆえに隣人に心を向ける日でもあります。しかし私たちはしばしば安息日に、日曜日に、自分自身にばかり心が向いてしまい、安息日に示されている神様の御心から逸れてしまっているのです。
救わずにはいられない
そのような私たちが本日の箇所で何を見つめるべきなのでしょうか。最初に、ファリサイ派の姿に私たちは自分の姿を見ることができると申しました。確かにそうです。しかし私たちが本当に自分の姿を見るべきなのは、安息日に主イエスに癒していただいた水腫を患っている人ではないでしょうか。この箇所で、この人は一言も発していません。この人の気持ちも何も語られていません。ただ主イエスの前にいただけです。病を負って、苦しみを担って主イエスの前にいただけです。しかし私たちはこの人を見過ごすことはできません。この人こそ私たちだからです。ほかならぬ私たちが、病や弱さによる苦しみに押し潰されそうになり、なによりも罪の力に押し潰されそうになって主イエスにすがるしかなかったのです。その私たちを、主イエスは救わずにはいられない、と憐れんでくださったのです。「安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と主イエスは言われます。「すぐに引き上げない者がいるはずがない」、「すぐに癒やさない者が、すぐに救わない者がいるはずがない」、と言われます。主イエスは「すぐに救いたい」、「救わずにはいられない」、と言われるのです。安息日であってもです。いえ安息日だからこそです。苦しんでいる者が救われて神様との交わりに生きられるようになることこそが、神様の御心だからです。私たちは主イエスの「すぐに救いたい」、「救わずにはいられない」という深い憐れみによって救われた者なのです。
私たちを救わずにはいられないという主イエスの思いが、ご自身をエルサレムへと、敵意の只中へと、十字架の死へと向かわせます。その十字架の死によって私たちは救われたのです。私たちは水腫を患い、苦しみを担って主イエスの前にいた人に自分自身の姿を見ます。この人と同じように苦しんでいた私たちを、主イエスが「すぐに救いたい」、「救わずにはいられない」と憐れんでくださり、十字架で死んでくださったことに目を向けるのです。そのことによってこそ、私たちは自分にばかり心を向けることから解放され、神様に心を向け、隣人へと心を向けるように変えられていくのです。日曜日ごとに、安息日ごとに、私たちを救わずにはいられない、という主イエスの憐れみと、その十字架の死による救いを、私たちは告げ知らされているのです。