夕礼拝

わたしの主

「わたしの主」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1―13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章41―46節  
・ 讃美歌:7、452

救世主
 本日はご一緒にマタイによる福音書第22章41節から46節から御言葉に聞きたいと思います。私たちは、普段、当たり前のように、「イエス・キリスト」という言葉を用いる機会が多いと思います。中には「イエス」が名前で、「キリスト」は姓と思っておられる方も多いのではないでしょうか。厳密に言いますと、イエス・キリストという呼び方自体が、その呼び方そのものが1つの信仰告白です。「イエス・キリスト」とは「イエスはキリスト」と告白しているということです。「イエス」とは、確かに名前です。けれども、「キリスト」というのは、本来は、「油注がれた者」という意味の普通名詞です。新約聖書の中では「クリーストス」というギリシア語が用いられていますが、それが元来は「メシア」というヘブライ語の翻訳です。「メシア」というのは、英語風に発音すれば、「メサイア」です。この言葉を日本語に翻訳するときは、「救世主」と書かれたりします。けれども、もともとこの言葉に「救世主」という意味があったわけではありません。しかし、イスラエルの歴史の中で、救い主を待ち望む願いと結びつくようになっていったのです。

メシアを待ち望む中で
 旧約聖書の時代、王や祭司や預言者が、神様によって選び立てられるとき、その頭に香油が注がれました。それによって、神が御自身の業のためにお選びになった者が、「メシア」と呼ばれるようになりました。当時のイスラエルは大国に挟まれるようにして、政治的にも経済的にも揺さぶられ続けた小さな国でした。そのイスラエルは、神から遣わされたメシアによって、一切の抑圧と束縛から解放されることを信じ、待ち望むようになっていきました。主イエスがお生まれになる少し前の時代には、救い主としてのメシアを待ち望む信仰は、頂点に達していたと言われます。イスラエルは、ローマ帝国の支配下に置かれ、政治的軍事的な独立を奪われていました。人々は重い税金に苦しみ、支配者と手を組んだ一部の裕福な特権階級にしいたげられていました。今こそ、約束のメシアが現れて、正義と公平を貫き、ユダヤの独立と解放を成し遂げて下さるに違いないと、人々の心の中にはそのような救い主の出現を待ち望む思いがありました。メシアという称号には、そのような時代の願望が結びついていました。主イエスはそのような時代に、そのような国で、お生まれになったのです。

主イエスこそ
 ある時、主イエスは、ファリサイ派の人々が集まっているところで、一つの問いを投げかけられました。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」(42節)。以前の口語訳聖書では、「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」となっていました。主イエスの問いは「キリストは誰の子か」という問いを彼らに投げかけられたのです。ファリサイ派の人たちは旧約聖書に精通していたので、迷わずにこう答えました。「ダビデの子です」(42節)。メシアがダビデの子孫から出るという期待も、旧約聖書の預言に基づくものでした。クリスマスに読まれる有名な聖句にこうあります。イザヤ書第11章1節ですが「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:1)とあります。このような預言の言葉を根拠としながら、解放者としてのメシアは、ダビデの子孫として来られる、と信じられるようになりました。そして、人々がイエスの権威ある言葉と力ある業を目にしたとき、この方こそは、約束の救い主キリストではないかと噂するようになったのです。主イエスと弟子たちが、エリコの町を出てエルサレムに向かって旅を続けようとしておられたとき、道端に座っていた二人の盲人は、主イエスがお通りだと聞いて、声を上げて叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。あるいは、主イエスがロバの背に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々は口々に歓呼の叫びを上げて主を迎えました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。主イエスこそ、約束された救い主、ダビデの子として来られた方に違いない。そのような期待と信頼を込めて、人々はイエスを迎えたのです。

ダビデの子
 ところが、主イエスはファリサイ派の人々に対して、更に問いただして行かれます。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。(44節)このままでは、少し分かりにくいので、少し整理をしてみます。主イエスがここで引用しておられるのは、旧約聖書、詩編の第110篇1節の言葉です。この言葉は、初代教会の信徒たちの間では、キリストの王としての支配を証言する言葉として、大切に読まれたものです。キリスト証言の言葉として大事にされ、主イエスの証言集にまとめられていたとも言われます。ここ以外にも、使徒言行録やヘブライ人への手紙などに引用されています。ヘブライ語の原文でみると、冒頭の「主」という言葉は「ヤーウェ」という言葉です。この「ヤーウェ」とは天地万物を造り、イスラエルを選び出された神の名前です。そして二つ目の「わたしの主」というのは、詩人が王と仰いでいる君主を呼ぶ言葉です。この詩編は、「ダビデの詩」と記されていますから、ダビデがメシア的な王を「主」と呼んでいることになるわけです。そうだとしたら、どうしてメシアはダビデの子であろうか、と主は問われるのです。一体、主イエスは何をおっしゃりたいのでしょうか。メシア、キリストが「ダビデの子」と呼ばれることを否定しようとしておられるのでしょうか。もしもそうだとしたら、逆に積極的に、イエス・キリストはダビデの子孫であることを証ししようとしている、他の聖書の箇所との関係をどのように捉えたらよいのでしょうか。

神の子
 私たちが読み続けておりますマタイによる福音書の、その冒頭には、一つの系図が記されています。新約聖書の冒頭に、カタカナの名前が連続して書かれています。マタイによる福音書は、この系図を大切なものとして記しています。その最初の言葉は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。マタイ自身も、主イエスがダビデの子孫であることを大切に記しています。そこに約束の成就を見たのです。しかし、すぐに続く降誕物語の中で、このダビデの子は、実は聖霊によって宿ったと記されます。ダビデ家の血筋であるヨセフの関与しないところで、神の力によって宿ったというのです。この辺りは、同じ福音書の書き出しでも、マルコによる福音書を見ますと興味深いところです。マルコによる福音書の冒頭には、こう記されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。対してマタイによる福音書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」から書き始めます。マルコは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記す。書き方が少し違いますが、ここにもイエス・キリストのまことのお姿が見えてきます。イエス・キリストは確かにダビデの子孫として、約束の子としてお生まれになりました。しかし、それだけではないのです。ダビデの子であると同時に、神の子なのです。

真の救い主
 「ダビデの子」というのは、いわば血筋であります。地上的なつながりです。主イエスは決して、ダビデの子であることを否定はされません。問題は、メシアがダビデの子であるか、それともダビデの主であるか、というようなことではないのです。主イエスは誰かということを正しく捕らえるためには、地上的な肉のつながりだけを見ていては十分ではないのです。使徒パウロはこのことを鋭く描きました。ローマの信徒に宛てた手紙の冒頭にこうあります。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。聖なる霊による視点を忘れて、肉のつながりの中だけで主イエスを見るとき、キリストが誰であるかを正しく捕らえることはできません。イスラエルの人たちは、「ダビデの子」という呼び名で、地上の解放者を待ち望みました。かつてのダビデの王国のような、偉大な統一王国を回復するための、政治的な解放と自由独立を期待しました。そしてそのような解放者としてのメシアの役割を、ダビデの子に託そうとしたのです。しかし、ダビデの子がどれほど偉大であっても、それは人間です。果たして人間が本当の救い主、解放者になれるのでしょうか。多くの歴史に残る指導者たちも救い主、解放者として望まれ登場しました。そのことは、当然昔のこと、遠い国の話ではありません。私とは関係のないということではないでしょう。人間には自ら独裁者となり、自ら神になろうとする欲望があります。表面的には、救い主としてのメシアを待ち望んでいると言いながらも、結局は、自分たちの願いや思いを実現してくれる都合のよい救い主を求めてしまうのです。メシアに対して、自分の必要ばかりを突きつけてしまうのです。しかし、主イエスはまことのメシアでした。人々の要求に自らを合わせ、その場限りの安易な平和を約束する似非メシアではなく、神の子として、神の真理を貫くメシアでした。だからこそ、人々に受け入れられなかったのではないでしょうか。そして、憎まれ、捨てられ、十字架にかけられたのです。

御国への招き
 主イエスの十字架の出来事をしっかりと見つめるとき、私たちは、そこでこそ本当の神の御心が示されます。人間が解放者になり、自ら神になろうとするのとは、全く正反対のことが、イエス・キリストにおいて起こりました。人間が神になるのではありません。神が人間になることによって、その限りない謙遜の中で、まことの解放を成し遂げて下さったのです。神の子が、ダビデの子として生まれてくださったのです。神の独り子イエスこそは、神によって油注がれた者、メシア、キリストです。イエス・キリストこそは、まことの王なのです。新しい神の国の王です。私たちを罪と死の支配から解放し、私たちの生活を神の真理によって支配してくださる王なのです。イエス・キリストはまことの祭司です。動物の犠牲によってではなくて、御自身の命を献げて、私たちの罪の赦しのために犠牲の献げ物となってくださった方です。そして今もなお、私たちを取りなしてくださる大祭司なのです。イエス・キリストはまことの預言者です。私たちにいつも神の言葉を語り聞かせ、神の真実を証ししてくださる預言者です。いや神の言葉そのものとして、私たちの内に住んでくださる方であります。御子イエスは、父である神の御心に従って、油注がれたメシアとして私たちを救い出すために、人となられました。私たちの上に君臨するためではなく、私たちをして仕えさせるのでもなく、ただ私たちに命令するのでもなく、むしろ、最も低いところにまで下られ、私たちを下から支えて下さる真の救い主です。私たちは、この方によって召し出され、御国の民とされました。そして、御国の掟へと招かれています。  御国の掟へと招かれているとはどういうことでしょうか。それは今日の御言葉の直前に記されているように、神を愛し、隣り人に仕えるとい、神様からの掟への招きです。神によって油注がれた者として、私たちの王であり、祭司であり、預言者である方が、自ら私たちに先立って歩み、私たちをまことの救いの道、命の道へと先導してくださるのであります。

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