主日礼拝

朽ちない霊の体

説 教 「朽ちない霊の体」 夏季伝道実習神学生 増尾 隆司
旧 約 ダニエル書 第12章1-3節
新 約 コリントの信徒への手紙一 第15章35-44節

 きょうはご一緒にコリントの信徒への手紙一15章35節~44節のみ言葉に聞きたいと思います。
 このコリントの信徒への手紙一は、パウロがコリントにあるキリスト教会に送った手紙です。コリントの教会はパウロがいわば開拓伝道した教会です。しかし、パウロが去ったあと、いろいろな考えの伝道者が訪れ、混乱状態にありました。そのような中で、開拓伝道をしたパウロに教会の具体的な問題に答えてもらおうと信徒から質問が寄せられ、それに対し、パウロが具体的な答えを記してコリントの教会にあてて出したのがこの手紙です。教会の信徒からの具体的な質問に対する答えは手紙の前半に書かれました。いっぽう、きょうの箇所を含む後半は、必ずしも信徒からの質問があったとは限らないのですが、パウロがコリント教会の現状についていろいろなところから情報を得て、ぜひ次のことは分かってほしいと考えて記したと考えられる箇所なのです。
 そして後半の中心部分、15章で述べられていること、それがキリストの復活、そして私たちの復活についてなのです。きょうの箇所のすこし前の12節に「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」とあります。本日の聖書箇所は35節からですが、12節にあるように、コリントの教会に死者の復活を否定する考えがあり、そして、もし復活があるというなら、どのような体で復活するのか、と聞く者があったことが、きょうの箇所のみ言葉をパウロが記すことにつながりました。
 コリント教会の中のある人たちが死者の復活を否定しているわけですが、これはどういう人たちだったのでしょうか。この人たちはキリストの復活を否定してはいなかったのですが、わたしたち人間の復活は否定していたのです。もっと正確に言えば、キリストの復活は魂におけることで、体の復活ではない、と言っており、わたしたち人間においても、魂の復活はあっても体の復活はないとしていたのです。
 この人たちは、魂を重視し、信仰を精神的にのみ理解し、体のような低次元のものは信仰には無縁だとしていました。ギリシャ哲学の人間理解は魂とからだの二元論だと聞かれたかたもいらっしゃると思います。つまり、古代ギリシャでは、尊い魂が体の牢獄に捕えられているのが、人間の生きているときの状態で、死んだら魂は体の牢獄から解き放たれると考えられていたのです。ですから、この不滅の魂が人間のいわば本体で、体は仮の住まいにすぎない低いレベルのものとされていたのです。この理解にたった一部のコリントのキリスト者は、たとえみだらな行いをしても、それは体のことであって、魂の清さとは関係ないと考えたのです。そのような、みだらな行いの例はこの手紙の6章にいやというほど記されています。
 それはさておき、この人たちは、キリストは魂において復活したと考えたのです。そして、魂において復活したキリストを、人間がやはり魂で受け止めれば、それによって人間も魂において復活する、と考えていたのです。つまり彼らは復活を魂におけることとし、体の復活を否定していたのです。それに対してパウロは、キリストは体をもって復活したことを強調しています。
 キリストが体をもって復活させられたことは、すべての福音書が明らかにしていることです。キリストが復活させられたあとには空の墓が残されていました。体をともなって復活させられたので、ご遺体はもうお墓の中に残っていなかった、ということです。マタイ福音書ではこれは復活を偽装するために弟子たちがやったことだ、主イエスのご遺体を弟子たちが墓からもちさったのだ、との話を、祭司長たちがユダヤ人のなかに広めたとあります。これからわかることは主イエスの墓は確かに空だったことです。さらに主が十字架で処刑されたときに、逃げ出してちりぢりになっていた弟子たちにこのような謀りごとができたとはとても思えません。また、ルカ福音書においては、復活の主イエスは焼いた魚を食べておられます。このようなことからも、聖書が、主イエスが体をもって復活されたと語っていることはあきらかです。
 聖書は、人間を魂とからだの二元論では捉えていません。人間は体もちゃんとあってこそ人間です。だから人間の救いとは、体の復活を伴うものなのです。魂だけが復活して救われるということはないのです。そしてその体の復活は、この世の終わり、終末に神によって与えられることです。信仰を持つことによって魂が復活するなら、それはこの世を生きる中で起こることですが、体の復活は、この世の歩みの中で起こることではありません。それは神によってこの世が終わる終末に、神が与えて下さる救いなのです。その終末の救いの保証、約束として、父なる神は主イエス・キリストを体をもって復活させて下さったのです。
 少し前の20節でパウロは「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。「初穂」とは秋の本格的収穫の先駆けとして、その年最初にとられた穀物のことです。そのままで神に供え、収穫に感謝することが、日本を含む各地で行われてきました。だから、キリストが初穂として復活したということは、それに続いて、わたしたちにも、将来、復活があたえられるという約束なのです。キリストに与えられたのが体の復活だったように、わたしたちにも将来、この世の終わりに、体の復活が与えられるのです。その約束を与えるために、父なる神は主イエスを体をもって復活させて下さったのです。
 このコリント教会の一部のひとたちは、ギリシャ的な霊肉二元論から、復活は魂におけることで体の復活などないと考え、主イエスの体をもっての復活も、そして自分たちの将来の体をもっての復活も否定していたわけですが、私たちも、それとは全く違う理由ですが、主イエスの体の復活も、わたしたち自身の体の復活も、「たわごと」のように受け取り、「信じられない」と思っているのではないでしょうか。キリストの復活は神が死の力を打ち破り、キリストに永遠の命を生きる新しい体を与えてくださったという御業ですが、それはただキリストのための御業ではなく、そのことによって神はわたしたちをも、死の支配から解放して永遠の命を生きる新しい体を与えて下さると約束して下さったのです。復活とは、死んだ体が蘇生するというだけのことではなくて、神が死を滅ぼして下さる、つまり神の恵みが死に勝利することです。わたしたちを最終的に支配するのは死ではなく、神の恵みなのだということを、神がキリストの復活によって宣言して下さったのです。
 わたしたちの最大の問題は、なんと言っても死の問題です。わたしたちは死に振り回されていると言ってもいいと思います。死がわたしたちを支配しているのが、私たちの生まれついての現実です。しかし、この復活の恵みにより、死はもはやわたしたち最大の問題ではなくなるのです。もはや死にわたしたちが支配されることはないのです。つまり、復活の希望をわたしたちが抱くことによって、必ずわたしたちに訪れる死の問題でくよくよと悩み続けたり、あるいは、死んだらすべては終わりだとして、この地上の生をひたすら刹那的な欲望のために生きるようなことから解放されるのです。
 私たちの歩みは死に支配されて終わるのではなくて、「体のよみがえり」という救いが約束されています。復活を信じるとは、このことを信じることなのです。すなわち、これはわたしたちの死んだ体の蘇生があり得るのか、という話ではなく、神から復活の新しい体をいただき、そのことによって、もはや死にわたしたちは支配されなくなる、ということなのです。
 つづいて、きょうの箇所ですが、死者はいったいどのように復活するのか、と問われたことに対して、パウロが復活の体について主から示されたことを述べているのです。35節、まずパウロはコリントの教会からの問いをくりかえしています。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体でくるのか」と聞いたひとがいたということです。36節、それに対してパウロは「愚かな人だ」といいます。こんな真剣ななやみ、しかも、誰も解決も説明もしたことのないことについて聞くことが、どうして愚かなことなのでしょう。死んだあとの復活で、どのような体となるのか、気になるのは当然だと思います。一体いくつの年令の体になるのか、生前、病気や障害があった人はその病気や障害をもった状態で復活するのか、とか疑問はつきないのです。そういうことを考えだすと、これは結局、復活などということはありえないという思いにつながるのです。
 ですから、コリントの教会の人たちが「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体でくるのか」と問うのは、こころの底で彼らが「復活などありえない」と思っており、結局はそこから来ている問いであるということが分かります。それで、復活があるというなら、いったい、その復活はどのようにおこるのか、そして、その体はどんなものか、言ってみてほしい、という問いを発したのだと思います。そして、そのように彼らが問うたことについて、パウロはあなたたちは愚かだ、と言ったのでした。
 それは、復活が、神が人間を死の支配から解放して、まったく新しい体を与えて下さることだからです。それがどんな体なのかは、今この世を生きているわたしたちには分かりません。「神が新しい体を下さる」ということを見つめることこそが大切なのです。つまり、今のこの体に代表される、この世の歩みの延長上に復活があるのではなく、神が死に勝利してわたしたちを死の支配から解放し、神のもとで新しく生かして下さることこそが、復活のもつ意味なのです。その意味で、パウロは「どんな体で復活するのか」と問うことは愚かなことだ、といったのです。
 37節にあるように、蒔かれた種は、そのままの姿をとどめることはなく、その古い姿は死んで、新たに芽が出て育ちます。蒔くものは種であって、育ったあとの姿の植物ではないのです。つまり、古い体を捨てて、まったく新しい体になるのです。ここで、はっきりパウロは言っているのです。神は新しい体をくださる。この世の歩みは結局死に支配されて終わるが、神は死を打ち破って新しい命を与えて下さる、そこにこそ救いがあるのだと。38節以下にあるように神はみこころのままに、体をお与えになるのです。そして太陽、月、星の輝きが違い、星と星の輝きも違っているように、天上の体と地上の体は輝きが異なっています。神がくださる新しい体と地上の体とでは、輝きに違いがあるといいます。
 ここで注意しなくてはならないのは、復活の体といまの体にはちがう輝きがあるとパウロが言っていることです。つまり復活の体だけがすばらしく、地上のいまの体は意味がないとは言っていないのです。どちらも神がおつくりになったもので、それぞれの輝きを持ったものなのですが、その輝きがちがうというのです。ですから、いまのこの地上の体を大切にすることは神のみ旨にかなっていることなのです。しかし、一方、復活の新しい体を神から与えられ、永遠の命を生きる者とされること、まさしく、これが救いの完成なのですが、その恵みはさらにすばらしいものであり、その新しい体の希望がわたしたちには与えられていることこそをパウロは強調したいのです。
 さらに、卑しいものが輝かしいものに、弱いものが力強いものに復活すると言います。いまの体も大切なものだといいましたが、やはりそれを新しい復活の体とくらべれば、輝きや強さの差は自ずと存在します。復活の体のほうが輝かしく、力強いものなのです。古い体の延長線上の発想で、何歳くらいの状態で復活するのか、体の病とか障害はやはり残るのか、という懸念には意味がありません。そのような問題はまえの古い体のことであって、輝かしい新しい体にもちこされることではないのです。そういう意味ではこの新しい体は古い体とは連続していません。不連続なのです。でも、別のひとになるわけではありません。わたしはわたしとして復活させられます。その意味では連続しています。神が与えてくださる復活の新しい体は、古い体と違って、神が死に勝利してくださったことにより、永遠に朽ちない体であるという豊かな恵みに満ちあふれたものになるのは確実です。その神の約束された希望にわたしたちは生きたいと思います。
 そして、44節、自然の命の体がまかれて、「霊の体」が復活するのです、とあります。ここでも、復活の新しい体はいまの朽ちる自然の体とは違うということが述べられています。「霊の体」とはどういうものか、福音書には主イエスが復活させられたあとの主のからだが「霊の体」であったことが描かれています。ルカ福音書ではエマオ途上の弟子たちに同行してくださった復活の主イエスでしたが、弟子たちが食事を共にし、主だと分かった途端そのお姿は見えなくなりました。また、ヨハネ福音書では弟子たちが家に閉じこもっていたところへ、鍵をかけていたにもかかわらず、主は中に入ってこられました。あきらかに、十字架におかかりになるまえとは違った様子の主の新しいお体でした。そして、復活においてわたしたちは、これらの福音書に記されたような主イエスと同じ新しい体を与えられるということ、をパウロは言おうとしているのです。
 パウロは、いまのこの体からは復活の体のことを想像することは不可能であり、いまのこの体と復活の体の関係、対比を示すため、復活の体は今の体とは違うことを明確にするために、「霊の体」ということばを使ったのです。ですから、わたしたちがきょうのみ言葉から受け止めるべきことは、復活のまったく新しい体はいまの朽ちる自然の体とはちがうということ、復活の時に、わたしたちは輝かしい体に、そして強い体に復活するということです。虚しい朽ちる体であったものが、朽ちない力強い体に復活するということなのです。それは主イエス・キリストの救いにあずかり、主イエスと結び合わされることによって、私たちにもたらされる恵みであるのです。
 今回、私はこの夏期伝道実習中に3回、教会員のかたのお葬式に参列させていただきました。その3回とも火葬場まで、ご遺族のかたがたと一緒に参りました。火葬場では牧師先生のお祈りのあとに、ご遺体は火葬にふされ、しばらくお待ちして、ご遺族のみなさんによりお骨が拾われます。私もお骨を拾わせていただき、厳粛な気持ちとともに、ああ、こうやって人間は塵に戻るのだ、という実感が湧いてきました。そして、その火葬前のお祈りでは、必ず復活の希望が語られます。この塵にもどるかたも、復活のときには神から新しい体をいただけるのだ、ということが、どんなに大きな希望となることか、と深くこころに感じました。復活の希望こそが真実の希望であることを、このお葬式への参列を通じて、わたしは改めて学ばせていただきました。
 きょうは、復活の体についてパウロが主に示されたこと、それは復活の体が全く新しい体であることですが、それを聖書の御言葉によりわたしたちも聞くことができました。わたしたちは、いまは朽ちる自然の体をもって地上の生を歩みつつも、新しい永遠に朽ちない霊の体を、この世の終わりに神からいただける大きな希望をもつことが出来るのです。

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