夕礼拝

わが主、わが神

「わが主、わが神」  副牧師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第86編11-17節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章24-29節
・ 讃美歌 : 6、392

主イエスへの告白
 主イエス・キリストが神であり、自らの主であると告白をすることこそ、聖書の信仰の中心です。本日朗読されたヨハネによる福音書第20章には、主イエスの十二弟子の一人であったトマスが、十字架で死に、復活された主イエスと出会い、「わたしの主、わたしの神よ」との告白をしたことが記されています。ここに、キリスト者の信仰の告白が明快に言い表されていると言って良いでしょう。そして、ヨハネによる福音書が書かれたのも、この福音書を読んだ人が、トマスの告白を共にするためなのです。本日朗読された箇所に続く、20章の30節以下に、新共同訳聖書では、本書の目的との表題がつけられた箇所があります。その31節には、次のようにあります。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この福音書は、読んだ人が、主イエスに対する信仰を与えられ、それよって救われることを目的として書かれていて、トマスの姿を通して、それがどのようなことなのかを具体的に示しているのです。主イエスを自らの主であり、神であると告白をすることは、私たちにとって自明のことではありません。それは人間が自分の思いや力で主張する立場や主義のようなものではなく、神様の救いの御業の中で起こることだからです。トマスがそうであったように復活の主が共にいて下さる時に生まれる信仰の告白だからです。私たちは、自分で信仰の道を追求することによって、この告白に辿り着くのではありません。私たち人間は、自分を自らの人生の主人として歩んでいます。そして、そのような姿勢は、宗教的な主張の中においても表れて来ると言っても良いでしょう。そのような、私たちの歩みが変えられることを通して、イエス・キリストを主であり神である方として告白するのです。今日、私たちは、トマスの姿を示されつつ、トマスの信仰を共に告白する者とされたいと思います。

ヨハネが描くトマス
 ここに登場するトマスは、十二弟子の一人として、生前の主イエスに従い、主イエスと共に歩んで来た人でした。しかし、それは、真の意味で、救い主である主イエスと出会っていたというのではありません。主イエスが自らの主であり神であるとの信仰に生きてはいませんでした。ここで、その時のトマスの歩みを見てみたいと思います。ヨハネによる福音書以外の他の福音書は、トマスがどのような人であったのかを全く記していません。しかし、ヨハネはいくつかの場面で、トマスの姿を記しています。トマスと聞いて、先ず思い起こすのは、11章に記されていたトマスの姿です。11章には、主イエスが死んでしまったラザロを復活させるという物語が記されています。愛するラザロが危篤であると知らされた主イエスと弟子たちは、ラザロの下に向かいます。しかし、そこには、主イエスの命をつけ狙うユダヤ人たちがいます。下手に、ラザロの下に行けば、捕らえられてしまいかねません。弟子たちは、8節で、主イエスに次のように尋ねます。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。心の中には、身の危険を冒してまで、ラザロの下に生くのは止めたほうが良いのではないかというような思いがあったのでしょう。しかし、トマスだけは他の弟子たちとは違いました。16節には次のようにあります。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」。皆が、主イエスの後についていきながら、ユダヤ人を恐れ、犬死にしては適わないというような思いすら抱いているかに見えるこの時、トマスは、主イエスと一緒に死のうとの言葉を語りました。ここには、トマスの熱心に主イエスに従おうとする思いが表されています。このような熱心な信仰に生きるトマスの姿は、14章にも出てきます。主イエスが、十字架につけられる直前にお語りになった訣別説教と言われている箇所です。そこで、主イエスは、弟子たちに、自分がこれから世を去ることをお語りになるのです。それに対するトマスの反応が5節にあります。「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』」。トマスは、自分が少しでも納得出来ないことがあれば、説教の途中でも、ためらわずに質問する、大胆で正直な人だったに違いありません。彼は、ここでも、熱心に主の道を求め、それに従おうとしています。

自分の救い主を求めるトマス
 ヨハネによる福音書に記されたトマスの言葉から、トマスの姿を見つめて来ました。このトマスの信仰とはどのようなものなのでしょうか。私たちは、誰かに従っている時、その人に一生懸命仕えることがあっても、自分も一緒に死のう等ということは、なかなか言えるものではありません。しかしトマスは、信仰に燃え、自分が歩むべき道を探し求め、その中で、主イエスと共に死んでも良いとまで語っています。しかし、この立派で力強く見えるトマスの信仰の中に、人間の自らの業としての信仰が表れていると言うことが出来るでしょう。トマスはどのような思いで、一緒に死のう等と言う言葉を語ったのでしょうか。もちろん、この時のトマスは主イエスが人間の罪のために十字架で死に、三日目に復活する救い主だ等ということは頭にありません。ですから、ここでトマスは、自らが一方的に主イエスに従い、自分の生涯を捧げて死ぬことしか考えていないのです。トマスは、自分で、主イエスを、自らの命を捧げても良いような方に祭り上げ、その主イエスについて行こうとしているのです。自分の命を捧げることが出来るような救い主に従っているという信仰の手応えを求め、自分が望むような形で信仰生活を全うしようとしていると言っても良いかもしれません。その結果、自ら道を切り開き、勇ましく、主イエスに従うことによって、救いの確かさを自分自身の中に見出そうとしているのです。このような姿勢は、トマスだけのものではありません。トマスほどではないにしても、他の弟子たちもやはり、同じような思いで主イエスに従っていたのです。そして、このような姿勢は、この世で、キリストに従おうとする全ての者たちに見出される姿勢ではないでしょうか。私たちは、どこかで、信仰というのを聖書の知識を深めたり、修練することによって罪から離れることによって、自らの力で到達して行く道のように考えているところがあります。そのようにして、自分の業によって自分の救いを得ようとしているのです。それは、聖書が語る真の信仰と言うよりも、人間の宗教心というような、自己主張と言った方が良いでしょう。

主イエスの下から逃げ去る弟子たち
 自分から救いの道を求め、それを究めようとしていたトマスは、主イエスの後に従い通すことはありませんでした。この後、主イエスが逮捕され、十字架につけられる時、トマスをはじめとして、弟子の誰一人として主イエスと同じ道を歩んでいた者はいなかったのです。十字架に赴かれる主に従い通すことは出来ませんでした。それは十字架に赴く主イエスのお姿が、自分の思い描いていた救い主の姿とは異なっていたからでしょう。弟子たちは、積極的にではありませんが、消極的な形で、主イエスを死においやったのです。それは、人間が、自分が主となって、自分の思い描く救い主を求め、自ら信仰の道を究めて行こうとすることが、主イエスを十字架で殺したということに他なりません。しかし、同時に、主イエスの十字架は、弟子たちを始めとして、人々の罪によってのみ引き起こされたのではありません。主イエスは、ユダに裏切られて、敵対者たちに逮捕される時、御自身を捕らえるために向かって来る人々が、ナザレのイエスを捜していると言うのに対して、「わたしである」と御自身をお示しになります。更には、「わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい」と語って、御自身の周りにいる弟子たちを去らせようとするのです。主イエスがお進みになる十字架の道は、神の子が人間の罪を贖うために、罪に対する裁きを人々に変わって受けて下さるという出来事です。人間の罪というのは、神の下を離れ、神に対立して生きているということに他なりません。そのことの故に、私たちは、神様の裁きとしての死を死ななくてはならなりません。主イエスは、その罪による死の力に向き合い、人々に変わってそれを引き受けようとされているのです。そして、そこに赴くことが出来るのは、神の子である主イエスのみなのです。主イエスが逮捕されて、十字架に向かって行く途中、弟子のペトロは、主イエスを裏切り、又、他の弟子たちも、主イエスの下を逃げ去ってしまいました。一緒に死のうと豪語したトマスも、主イエスと一緒にいませんでした。弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れていました。しかし、主イエスの道に従うことが出来なかったという事実を、弟子たちの恐れのみに原因づけて考えてはならないでしょう。弟子たちが去ったのは、主イエスが十字架に向かうのは、神の深い意志であり、そこで、主イエスが主イエスのみが担うことが出来る、罪人に対する神の裁きに向かい合っているからです。それ故、主イエスは弟子たちを去らせようとしたのであり、弟子たちも、十字架まで従うことはなかったのでしょう。

主イエスの復活
 このようにして、弟子たちは、主イエスの下を離れ、主イエスは十字架上で殺されました。その後の、トマスを除いた弟子たちの様子は20章の19節に以下に記されています。主イエスが十字架で殺された後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。主イエスを失った絶望と、主イエスを死においやった世の殺意が自分たちにも及ぶのではないかとの恐怖に打ちのめされていたのかもしれません。しかし、そのような場所に復活の主イエスが来られます。弟子たちに御自身を現して下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったのです。死の力に対する恐れに捕らえられている弟子たちに、真の平安を告げて下さったのです。この平安を告げて下さったのは、主イエスが、十字架で人間の罪に対する裁きとしての死を担い、復活によってその死を克服して下さったからに他なりません。それは、弟子たちにとっても喜びに満たされるような出来事でした。

トマスの疑い
 しかし、この時、24節にあるように、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」というのです。何故、トマスは、弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか。おそらく、主イエスの後に従い続けることが出来ず、主イエスを捨てて逃げ去ってしまった自らの罪の姿を知らされて、どうしたら良いか分からずに孤独の中にふさぎ込んでいたのでしょう。トマスは、結局、自ら語った言葉通りに、主イエスと一緒に死ぬことが出来ませんでした。正確には、トマスが出来なかったと言うよりも、主イエスご自身が、トマスがご自身と一緒に死ぬことをお赦しにならなかったと言った方が良いかもしれません。しかし、トマスにしてみれば、自分の思い描いていた信仰に生きる歩みが挫折したことになります。熱心であっただけに、いたたまれない思いを抱いていたのでしょう。だれよりも熱心に主イエスの後に従おうとし、その熱心さによって大言壮語していた自分の姿を思う時、主イエスの側から逃げ去ってしまった自分の罪の姿を悔やまずにはいられなかったのではないでしょうか。自分の罪に打ちのめされる中で、信仰の友である他の弟子たちとさえも一緒にいられない状況であったのでしょう。25節には次のようにあります。「ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見ました』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』。」。トマスは信仰の友が告げる復活の主の知らせに対しても聞く耳をもてません。このトマスの発言は、信仰の確かさを求めるトマスらしいものであるとも言えます。しかし、この言葉は、トマスに限らず、真の救い主を見失って、神様の恵みの御業を見ることが出来ない時の、人間が発する言葉なのではないでしょうか。ただ自分の理解によって確信が得られないことは信じられないと言うのです。トマスは、この時も、自分の力や業、理解している知識によって、自ら到達して行く信仰に生きていると言えるでしょう。

トマスと主イエスの出会い
 そのようなトマスに主イエス御自身が現れて下さいます。聖書は、26節で、弟子たちの群れの中にいるトマスの姿を記します。それは八日の後でした。この時、主イエスはトマスのために御自身を現して下さるのです。それは、トマスがいなかった時、弟子たちに御自身を現した時と同じ仕方でした。この日も、家の扉には鍵がかけられています。それは、ただ物理的な状況を述べているのではありません。家の扉だけでなく、トマス自身の心の扉にも鍵がかかっていたことを意味しています。自らの罪や弱さに直面し、神様の救いの恵みが見出せない中、自分の中に閉じこもっていると言えるでしょう。しかし、復活の主イエスは、その扉を通りこして、「あなたがたに平和があるように」と語って下さいました。自分自身の罪を知らされ、そのことの中で、心を閉ざすトマスの下に来て下さったのです。トマスが罪の中でふさぎ込み、鍵をかける心の扉を突き破り、トマスに対しても他の弟子たちと同じ平安を告げて下さったのです。主イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とおっしゃいます。主は敢えて、トマスの要求に答え、御自身の体を差し出しながら、トマスに信仰への道を示して下さいました。ここには、主イエスが、罪人が、真の信仰を与えられ、真の救いの命にあずかって行くために、御自身の体を差し出して下さる方であることが象徴的に現されています。この時、トマスが、主イエスに触れたのか触れなかったのは大きな問題ではありません。十字架で、自らの罪のために、御自身の全てを差し出して下さる方である主イエスとの出会いの中で、トマスは真の信仰へと導かれたのです。

復活の主との出会いの中で
 トマスは、自分が主イエスのために死ねると考えていました。自分で主イエスの道を究め、救いに到達出来ると考え、熱心にその道を追い求めていたのです。しかし、自分が、主イエスのために死ねないどころか、主イエスの方が自分のことを究め、その罪を知って下さっていることを知らされます。さらには、その死によって罪から贖い出し、それによって生かされていることを知らされたのです。その時、自分が仕える救い主を求め、自分で自分の人生を意義づけようとする歩みから、主イエスの十字架の救いに委ねる歩みに導かれました。ここにトマスの信仰の転換を見ることが出来ます。信仰、救いの道を歩むことにおいて、自分が主体になることから、真の主となって下さるキリストを見出すことへの転換です。この転換こそがトマスの真の救い主との出会いでした。救い主との出会いとは、自分が救い主を追い求めていくことの中で生まれるのではありません。自分の力で救い主を求め、それに到達しようとしていることの背後に、実は、真の救い主を十字架にかけてしまう人間の罪があることを知らされ、救い主、キリストの方が、自分を求め、自分の救いのために歩んで下さっていることを知らされる時に起こるのです。救い主との出会いとは、自分が救いを追求して行くことによって、自らの命を捨てることが出来るような方を見出すことではありません。私たちを真に生かすために、私たちを求め、自らを差し出している主を示されることです。つまり、それは、私たちが自らの罪によって十字架と復活の主との出会いの中で起こります。私たちは、トマスのように、自分の人生を意義づけるような信仰生活を求め、主イエスに従っている自分の歩みに信仰の確かさを求めることがあります。しかし、復活の主は御言葉によっていつも御自身を示して下さっています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。御自身の全てを差し出して、信仰の道に招いて下さっています。この主イエスに応答し、この方を自らの神、主と告白しながら、信仰の歩みを続けて行く者でありたいと思います。

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