夕礼拝

癒しと罪の赦し

「癒しと罪の赦し」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第103編1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章17-26節
・ 讃美歌:236、456

癒しと罪の赦し  
 本日は、ルカによる福音書第5章17~26節の物語をご一緒に読んでいます。この物語には二つの流れがあって、それらが織りなして一つの物語を紡ぎ出しているといえます。一つは、中風を患っている人が癒やされたことで、もう一つはこの人の罪が赦されたことです。中風とは、現代では一般的に脳出血後に残る麻痺状態を言いますが、このような現代の知識や定義を新約聖書の時代に安易に当てはめたり、押しつけたりすることはできません。新約聖書で中風を患っている人とは、おそらくなんらかの痺れや痛みを伴って身体の自由がきかない人であったと思われます。しかしこのことから新約聖書で中風を患うというのは、現代ではどんな病気なのかを推測するのではなく、むしろこの人が置かれている状況にこそ目を向けなければなりません。彼は、痺れや痛みのために自分で起き上がることが難しい、まして自分から外に出ることはもっと難しい、そのような状況にあったのです。現代においても、身体的な自由が奪われて自分一人では起き上がれない、外に出られない方がおられます。また同時に精神的な自由が奪われて起き上がれない、外に出られない方もおられるのです。新約聖書で中風を患っている人について語られるとき、身体的であれ精神的であれ自由を奪われ、自分の力で起き上がれない、外に出られない状況に置かれている人について語られていると、私たちは受けとめることができるのです。  
 この中風を患っている人の癒しと罪の赦しが語られていますが、ここでも私たちは中風を患うこと、つまり病気が罪の原因であると考えるべきではありません。本日の箇所の少し前に、シモン・ペトロが主イエスの弟子となる物語がありますが、そこでペトロはイエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っています。ペトロは病気であったわけではありません。むしろ屈強な漁師でした。しかしその彼が「わたしは罪深い者なのです」と言っているのです。また本日の箇所の後に、レビという徴税人がイエスの弟子となる物語があります。徴税人も罪人と見なされていましたが、彼も病気であったわけではないでしょう。ですから、病気が罪の原因であるとは言えないし、ルカもそのようには語っていないのです。しかしその一方で、ルカは中風を患っている人の癒しと罪の赦しを結びつけて、あるいは重ね合わせて語っているのも確かです。20節で、イエスは中風を患っている人に「人よ、あなたの罪は赦された」と言っているからです。中風を患うことそのものが罪でないのだとしたら、この人の罪はなんであったのでしょうか。私たちは病にあるとき、しばしば痛みや苦しみや不安や焦りに押しつぶされそうになって、自分のことしか見えなくなります。自分の病に心を奪われてしまって、神さまに心を向けることができなくなってしまうのです。痛みや苦しみによる圧倒的な病の現実によって、神さまの確かさを信じられなくなります。病にあっても神さまのご支配の下にあること、御手の内にあることを信じられなくなるのです。中風を患っている人の罪とは、自分の痛み苦しみに捕らわれてしまって、神さまから離れてしまっていることではないでしょうか。もちろん私たちは、病で苦しんでいる方に向かって、あなたは自分の苦しみにばかり目を向けて神さまから離れてしまっている、などと言うことはできません。たとえ病ではなかったとしても、私たちの誰もが自分の思いにばかり目を向けて、神さまに目を向けようとせず、神さまから離れてしまっているからです。中風を患っている人の罪は、このような私たちの罪を示しています。そして私たちは自分の思いでがんじがらめになっているとき、自分の力で起き上がり外へと出ていくことはできません。神さまのみ前に自分から歩み出ることができないのです。

主が喜ぶ熱心さ  
 中風を患っているために自分で外に出ていくことができない人の周りには、彼の痛みや苦しみに共感し、その痛みや苦しみを自分のこととして受けとめている人たちがいました。この人たちはなんとかして彼が癒やされることを願い、イエスが癒しのみ業を行っているところへ彼を連れて行くことにします。彼を床に乗せて運び、家の中に入れてイエスの前に置こうとしました。しかしイエスの教えを聞くために、あるいはイエスに癒してもらうために集まっていた群衆に沮まれて、イエスの前に運び込むことができなかったのです。しかし彼らはそれでもあきらめませんでした。男の人たちが運んでいるとはいえ力のいる労苦がともないます。家に人があふれているのを見て、「これは駄目だ、またの機会にしよう」と思ったとしても不思議ではありません。ところが彼らは屋根に上って瓦をはがし、人々に囲まれ真ん中にいたイエスの前に、彼を床ごとつり降ろしたのです。これは大変な作業です。床にロープなどを通して、まず家の屋根まで持ち上げ、それを降ろせる大きさまで瓦をはがし、そしてイエスの前に降ろさなくてはなりません。当時の家の作りが単純だったとはいえ、大仕事であることに変わりありません。彼らの熱心さに、彼らがどれほど病にある人の癒しを願っていたかが表れています。まるで自分のことのように病によってもたらされた彼の状況に共感し、そこから彼が自由になることを願って、イエスのところになんとしても連れて行こうとしたのです。  
 するとイエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言いました。病にあった人は、イエスのところに行くことができませんでした。身体の自由を奪われていたからだけでなく、病によってもたらされた苦しみによって自分が神さまの御手の内にいることを信じられず、神さまから離れてしまっていたからです。ですから屋根からつり降ろされ床に横たわっていた人を見てイエスは「人よ、あなたの罪は赦された」と言ったのではありません。そうではなく彼をイエスのところへ連れてきた人たちの信仰を見てそのように言われたのです。病にある人は神さまとの関係が破れていて、神さまを信じられなくなっていました。しかしまさに彼がそのような状況にあることに心を痛めた人たちの信仰を見て、イエスは彼に「あなたの罪は赦された」と言われたのです。それは、病にある人と神さまとの関係が回復されたことを告げたことにほかなりません。イエスは、彼らのどこに信仰を見たのでしょうか。彼らの熱心さではないでしょうか。それは、どのような、なんのための熱心さでしょうか。彼らは自分が癒やされるために熱心であったわけではありません。病で苦しんでいる人が癒やされるために熱心だったのです。自分が充実し、満足し、自己実現するための熱心さではなく、苦しみ、重荷を抱え、希望を失っている人の癒しのための熱心さです。しかもこの熱心さは、自分の力で癒しを与え、重荷を取り除き、希望を与えようとする熱心さではありません。イエスが癒しのみ業を行ってくださることに信頼し、自分ではイエスのところに行くことができない人を、少々の困難があったとしても乗り越えて、イエスのところに連れて行く熱心さです。この熱心さにイエスは彼らの信仰を見たのです。主イエスは自分のためではなく隣人の癒しのための熱心さを喜んでくださるのです。神さまはこのような熱心さを用いてくださり、神さまとの関係が壊れてしまって、起き上がることも外に出ることもできずに苦しんでいる人を神さまのところに招かれるのです。

赦しに気づかない人たち  
 さて、イエスがおられた家には、病にある人の癒しのために熱心であった人たちとは対照的な人たちがいました。それがファリサイ派の人たちと律法学者たちです。イエスの宣教は多くの人を引き寄せましたが、彼らもイエスの教えと癒しのみ業に興味を持ち、「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから」やって来たのです。彼らは初めからイエスと敵対するためにこの家にいたというわけではないでしょう。イエスの教えを座って聞いていたと語られています。しかし中風を患っている人が床に乗せられて運ばれてきて、イエスが彼を運んで来た人たちの信仰を見て、彼に「人よ、あなたの罪は赦された」と言われると、ファリサイ派の人々と律法学者たちはあれこれと考え始めたのです。「神を冒?するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」彼らは律法について知識を持っていました。罪を赦すことができるのは神さまのほかに誰もいない、ということを知っていました。彼らは、病にある人をイエスのもとに連れて来た人たちより、律法について多くの知識を持っていたでしょう。しかし彼らは、自分たちがいるその場で罪の赦しが起こったことに気づけなかったのです。病にある人をイエスのもとに連れて来た人たちは、その人の苦しみ、痛みを自分のこととして受けとめました。それは、苦しんでいる人と同じところに立って、その苦しみを共有したということです。他方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、高みからこの出来事を見下ろしていたのです。自分たちは律法をよく知っているし、神さまの掟に従って生きていると考え、ほかの人たちよりも高みにいると思っていたのです。高みから見下ろしているときに起こるのは共感ではなく批判です。この出来事を見て、彼らの中に起こったのは共感ではなく、まさに批判でした。彼らはイエスと同じ家にいて、病に苦しむ人が床に横たわって吊り降ろされてきたのを見ていたはずです。イエスの眼差しは、彼を運んできた人たちの大切な人を癒してほしいという願いとその願いから湧き上がる熱心さに向けられ、そこに彼らの信仰を見ました。しかしファリサイ派の人々や律法学者たちには彼らの信仰が見えないのです。十戒を中心とする律法は、出エジプトの救いの出来事を経験したイスラエルの民に与えられ、本来、彼らの信仰を導き守るものでした。しかし彼らは律法が示す信仰に生きるのではなく、知識として律法を学ぶようになり、どんな場合にどの規則を当てはめたら良いかということばかり考えるようになってしまっていたのです。彼らは律法の専門家でしたが、神さまと隣人とを愛するという律法の信仰の核心が見えなくなっていたのです。ですから彼らは罪の赦しを目の当たりにしても気づけないし、まして一緒に喜べないのです。彼らの「神を冒とくするこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という言葉は、自分が罪人であると気づけない人の言葉でもあります。罪の赦しについての知識を持っていたとしても、自分が罪人であると気づけないのならば、その人にとって罪の赦しは他人事です。高みから見下ろすというのは、罪の赦しの出来事を外から眺め、批判したり分析したり評価したりするけれど、ほかならぬ自分に関わることとして受けとめないということなのです。  
 私たちは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちをひどい人だと思うかもしれません。しかし私たちは病に苦しむ人をイエスのところに連れて来た人たちではなく、ファリサイ派や律法学者になっているのではないでしょうか。彼らと同じようにほかの人たちより自分は高みにいると勘違いしてしまうのです。自分は信仰についてほかの人たちよりも知っていると思い、高みからほかの人たちを見下ろし、批判したり裁いたりしてしまうのです。そのとき私たちは罪の赦しが目の前で起こったとしても気づくことはできません。ですから私たちはいつも自分が罪人の一人であることを、ほかならぬ自分が罪の赦しを必要としていることを、私たちが高くなったのではなく、主イエスが私たち罪人のところまで低くなってくださったことを忘れてはならないのです。

罪の赦しを指し示す  
 イエスは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちの考えを知って「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と答えられます。そして中風を患っている人を癒やされるのです。どちらが易しいかと問われた主イエスが癒しを行ったのは、罪の赦しは癒しより易しくて、より難しい癒しを行うことによって、自分が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせようとした、ということではありません。ファリサイ派の人たちや律法学者たちが考えたように、「ただ神のほかに」誰も「罪を赦すこと」はできないのであり、罪の赦しが癒しよりも易しいということはないのです。ほかならぬイエスご自身が病に苦しんでいた人に「私が、あなたの罪を赦した」とは言いませんでした。「あなたの罪は赦された」と言われたのです。この「あなたの罪は赦された」は、「された」という受け身の表現であり、「神によって」罪は赦されたのです。イエスが告げたのは「あなたの罪は神によって赦された」ということです。このことを詩編の祈り手は130・3、4節で「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」と祈っています。罪の赦しは神さまのもとにある。このことはファリサイ派や律法学者だけでなく、病の人をイエスのもとに連れて来た人たちを含め、すべてのイスラエルの民にとって常識であったといえるのです。  
 神のほかに誰も罪を赦すことができないのだとしたら、なぜイエスはご自身が「地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」ために、中風を患っている人を癒したのでしょうか。それは、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが目の前で罪の赦しが告げられたにも関わらず、そのことに気づけなかったからです。だからイエスは罪の赦しを指し示すために、病にある人を癒やされました。罪の赦しによって起こることを、病の癒しに見ることができます。病の癒しと罪の赦しの二つの流れは、前者が後者を指し示すことによって一つの物語となっているのです。イエスは、中風を患っている人に言います。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」のです。「すぐさま」は、ルカが奇跡を語るときに好む表現です。たとえば高熱で苦しんでいたシモンのしゅうとめは、熱が去ると「すぐに起き上がって一同をもてなした」と語られていたし、十八年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったままどうしても伸ばすことができなかった女が、イエスが手を置いてくださることによって「たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」と語られています。「すぐさま」「すぐに」「たちどころに」と訳し分けられていますがどれも同じ言葉です。この言葉はイエスの癒しのみ業は、すぐ効く特効薬のようだということではなく、罪の赦しが告げられるやいなや、罪の赦しが起こることを指し示しているのです。罪の赦しが告げられたけれど、実際、罪が赦されるまでにはしばらく時間がかかりますということではないのです。あるいは、罪の赦しが告げられたあとに、私たちがなにか良い行いをしないと、その罪の赦しが効力を持たないということでもないのです。  
 癒やされた人は「すぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って」行きました。癒しによって、起き上がれなかった人が立ち上がり神を賛美し始めたのです。病の中にあって、自分の痛み、苦しみに捕らえられ、神の確かさを信じられず、神から離れていた人が罪を赦されることによって神を賛美する者とされたのです。しかしここでも私たちは気をつけなくてはなりません。病の癒しが罪の赦しを指し示すとは、病が癒やされなかったら、罪は赦されていないのだということではないのです。もしそうであれば、結局、罪の原因は病なのだということになってしまいます。そしてそれは、今、病にあって苦しんでいる方々にとって、喜びの知らせであるどころか、希望を断たれることになりかねないのです。しかし病の癒しが見つめているのは、自分が神のご支配の下にあり、御手の内にあることを信じられなくなっていた人が、癒しによってそのことを信じる者とされたということです。病そのものが医学的に治ることはなかったとしても、自分が神の御手の内にあると信じるとき、私たちは「健やかに病む」ことができるのです。そしてこのことは病に限られたことではありません。私たちは、苦しみ悲しみ怒りを抱え、不条理や憤りを覚え生きているに違いありません。そのことによって私たちが神さまから離れてしまうのであれば、私たちはうずくまり自分の内に閉じこもってしまうしかありません。しかしそのような自分の力では受けとめきれないことすらも、神のご支配の下にあり、御手の内にあると信じるとき、私たちは重荷を背負いつつも歩んでいくことができるのです。このことこそ、病の癒しが指し示す、罪の赦しによって起こることにほかなりません。イエスは病にある人に「床を捨てて」家に帰りなさい、とは言われませんでした。床は、病にある人が横たわっていなければならなかった場所です。その人を縛っていたものであるとも言えるでしょう。できれば、そのようなものは捨ててしまいたかったはずです。しかし「床を捨てる」のではなく「床を担いで歩む」のです。重荷を担いつつも神を賛美して歩んでいくのです。

地上で罪を赦す権威  
 本日共にお読みした旧約聖書詩編103編2、3節に「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し」とあります。ルカは、イエスによる病の癒しが、神の罪の赦しを指し示すことを語りました。そのことによってイエスが「地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるため」です。確かに神さまだけが罪を赦すことができます。しかし地上で罪を赦す権威を持っているイエスが「あなたの罪は赦された」と告げることによって、神さまの「罪の赦し」が与えられるのです。このことをファリサイ派の人たちや律法学者たちは信じられなかったのであり、そのために目の前で罪の赦しが起こっていることに気づけなかったのです。  
 「神だけが罪を赦すことができる」と彼らは考えていました。それが彼らだけでなく当時の人たちの常識であったのです。この物語の終わりで、人々は「今日、驚くべきことを見た」と言っています。この「驚くべきこと」は「パラドクサ」という言葉です。ドクサとは、世の中の意見や考えのことを意味しますが、それにパラがつくと、世の中の意見や考えと正反対のことを意味するのです。ですから、「今日、驚くべきことを見た」とは「今日、世の中の意見や考えとは正反対のことを見た」ということです。イエスが地上で罪を赦す権威を持っていることはパラドクサなのであり、世の中の意見や考えとは正反対のことなのです。イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言いました。「知らせよう」と訳されていますが、直訳すれば「見せよう」となります。人々は、まさに今日、イエスが地上で罪を赦すというパラドクサを、驚くべきことを「見た」のです。

今日、あなたの罪は赦された  
 癒やされた人が、神さまを賛美しながら家に帰って行くと、「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めました。」神さまとの関わりに破れを抱えていた一人の人が、罪を赦され神さまとの関わりを回復し神さまを賛美する者とされた出来事を通して、周りにいた人々も神さまを賛美し始めるのです。「人々は皆大変驚き」は、直訳すれば「驚きがすべての人を捕らえ」となります。しかしこの「驚き」はパラドクサではなく、エクスターシスという言葉で「自分自身の外にある」という意味です。罪を赦された者が神を賛美し始めるとき、エクスターシスが私たちを捕らえ、自分自身の外へ、日常の外へと押し出し、神さまを賛美し始めるのです。日常において、私たちはなお罪を繰り返し、神さまに背き、人を傷つけ、あるいは納得できない不条理、受け入れがたい苦しみや悲しみ、抑えきれない怒りに直面するでしょう。このような日常において私たちは自分の中からまことの神さまへの賛美が湧き上がってくることはないと思わずにはいられません。けれども罪の赦しが起こるところで、罪を赦された者が賛美する者へと変えられるところで、私たちは日常から自由になり、神さまを賛美し始めるのです。  
 神さまは、病にある人をイエスのところに連れて来た人たちの信仰を用いてくださり、彼を神のもとへと招いてくださいました。私たちは一人ひとり教会に連なったきっかけは異なるとしても、神さまが家族や友人や教会の営みを用いてくださり、神さまのところへ招いてくださったのです。私たちは中風を患っている人のように、イエスから面と向かって「あなたの罪は赦された」と言われることはありません。けれども、主イエスを信じる者が集まっているところで、つまりこの礼拝で罪の赦しが起こっているのです。この礼拝で、一人ひとりに「あなたの罪は赦された」と告げられているのです。私たちは、昨日までの一週間の歩みの中で、繰り返し神さまの御手の内にあることを信じられなくなったのではないでしょうか。神さまから離れていってしまったのではないでしょうか。そのような私たち一人ひとりを神さまはこの礼拝に招いてくださったのです。  
 「今日、驚くべきことを見た」と人々は言いました。まさに「今日」、この礼拝で「驚くべきこと」、私たちの世の中の常識とは正反対のことが起こっているのです。この礼拝において、私たちは、自分のことばかりに翻弄され自分の内にこもってしまっているような日常の外に、世の中やほかの人たちを批判しているような日常の外にいるのです。世の中の常識では考えられない、神の独り子の十字架の死によって、今ここで、この礼拝で、「あなたの罪は赦された」と、ここに集められた一人ひとりに罪の赦しが告げられているのです。

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