主日礼拝

世の光、主イエス

「世の光、主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-7節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章12-20
・ 讃美歌:241、128、503

世の光である主イエス  
 アドベント第二週に入りました。アドベントクランツの蝋燭の二本目にも火が灯りました。アドベント、そしてクリスマスには蝋燭がつきものです。神さまの独り子であられる主イエス・キリストが、この世の闇を照らすまことの光としてお生まれになったことを覚え、喜び祝うために、蝋燭が灯されるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第60章の始めのところも、まことの光であられる主イエスの誕生の預言として読まれてきました。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。この預言の成就として、主イエス・キリストはお生まれになったのです。そして本日の箇所、ヨハネによる福音書第8章12節においては主イエスご自身が、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言っておられます。主イエスご自身も、ご自分がこのイザヤの預言を成就する者、暗闇に覆われたこの世を照らすまことの光である、という自覚をはっきりと持っておられたのです。

闇に覆われている世界  
 主イエスが世の光であるという信仰は、まさにイザヤ書が語っているように、「闇が地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という現実を前提としています。主イエスは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。主イエスに従うことによって命の光を持つことができる。それは、あなたがたは今暗闇の中におり、主イエスに従うことがなければ、いつまでも暗闇の中を歩き続けることになる、ということでもあります。私たちが生きているこの世は暗闇に覆われている。暗黒が国々を包んでいるのです。そのことを私たちは今年様々なことを通して実感させられてきました。記録的な暑さに続いて相次ぐ台風によって広い地域に様々な被害がありました。何十年に一度と言われることが毎年のように起るようになっています。地球温暖化による被害を今年世界で最も受けたのは日本だそうです。温暖化による気候変動はまさに危機的な情況になってきていることを実感させられます。これに対する対策が緊急に必要なのに、各国の足並みは揃いません。政治家が目先の経済のことばかりを、さらに言えば次の選挙で勝つことばかりを考えているという暗黒が国々を包んでいるのです。国々の対立の闇も深まっています。日本と韓国の関係も戦後最悪と言われます。政府と政府がお互いに意地の張り合いのようなことをしているのです。そのような中だからこそ、民間の、具体的な人と人との出会いや交わりが大事です。そこにこそ、平和を築いていくための土台があり、この群れにおいてもささやかながらそのような交わりが築かれつつありますが、先日は、アフガニスタンにおいてそのような働きを先駆的に担っておられた中村哲医師が銃撃されて亡くなるという衝撃的なニュースが流れました。現地の人々の生活の向上のために本当に良い働きをしておられたあのような人がどうしてこんなことになるのか、人間の憎しみという闇が地を深く覆っている現実を改めて突きつけられています。その闇は、イザヤの時代にもあったし、主イエスがお生まれになった頃にも、そして今日も、様々に形は変わっても常にこの世を包んでいるのです。

この光は本当に世を照らすのか?  
 主イエス・キリストは、そのように暗闇、暗黒に覆われているこの世に、まことの光として来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。しかし、「わたしは世の光である」とおっしゃった主イエスの光は、暗闇に覆われているこの世界を明るく照らすことが本当にできるのでしょうか。主イエス・キリストがこの世に生まれたからといって、この世界が明るくなったとか、暗闇の中を歩かないでよくなった、などということはあるのでしょうか。それこそ一本の蝋燭の火が灯ったくらいのもので、その周囲だけは多少照らされたとしても、圧倒的な暗闇の力をどうすることもできないのではないでしょうか。そして風が一吹きすればその火はあっけなく消えてしまうのではないのでしょうか。

闇は光に勝たなかった  
 そうではないのだ、ということをヨハネによる福音書は語っています。この福音書の冒頭の1章において、既にそのことが語られていたのです。1章4、5節にこのようにありました。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。「言」の内に、人間を照らす光である命、つまり命の光があった、と語られています。この「言」は、1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われている「言」です。そして14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とある、その「言」です。神である言が肉となって私たちの間に宿って下さった、それは神の独り子であられる主イエス・キリストのことです。主イエスこそ、初めにあった言、神と共にあり、ご自身が神であった言なのです。その主イエスの内に、命の光が輝いているのです。9節には、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とあります。言である主イエスが肉となってこの世に来て下さったことによって、全ての人を照らすまことの光が世に輝いたのです。まさに「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」というイザヤ書の預言が主イエスの誕生において成就したのです。そして先程読んだ5節には「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありましたが、この「理解しなかった」というところは「勝たなかった」とも訳されます。以前の口語訳聖書もそのようになっていましたし、昨年出た聖書協会共同訳も、「闇は光に勝たなかった」と訳しています。地を覆っている闇は、世の光として来られた主イエスに勝つことはできないのです。主イエスというまことの光は、世の闇に勝利して、すべての人を照らすのです。それがヨハネ福音書の信仰です。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という主イエスのお言葉は、この信仰を語っているのです。私たちも、この主イエスのお言葉を信じて歩みます。主イエス・キリストこそ、この世の暗闇を照らすまことの光としてこの世に来て下さった独り子なる神です。この方を信じて従うなら、私たちは、この世を覆っている暗闇に打ち負かされてしまうことなく、命の光にいつも照らされつつ生きることができるのです。

自分で言っているだけでは  
 しかし本日の箇所には、その主イエスのお言葉を聞いたファリサイ派の人々が、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言ったことが語られています。ファリサイ派の人々は「わたしは世の光である」という主イエスの言葉を信じなかったのです。なぜ信じないのかというと、イエスが自分について証しをしているからだ、と彼らは言っています。それは要するに、「わたしは世の光である」と自分が言っているだけでは信用できない、誰かそのことを証言してくれる人がいなければその言葉には信憑性がない、ということです。「私は世の光である」とイエス自身が言っているだけではだめなのであって、そのことを「本当にそうだ」と他の人も証言してくれて初めてそれは信じるに値する言葉となる、というのです。

主イエスは自分が誰かを知っている  
 これに対して主イエスはこうお答えになりました。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」。主イエスは、自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのかを知っておられます。それは、自分がなぜ生きているのか、何のために生きているのかを知っている、ということです。私たちはこのことが分かっていません。自分がなぜ生きているのか、何のために生きているのかをちゃんと分かっている人などいないのです。そのような私たちが「わたしは○○である」と言っても、その言葉には信憑性がありません。そうかもしれないがそうではないかもしれないのです。だからそこには、確かにこの人は○○だ、と証ししてくれる人が必要なのです。しかし主イエスは、ご自分が神の独り子であり、父なる神によって遣わされて人間として生きていること、そしてそれは人々の罪を背負って十字架にかかって死ぬことによって人々に罪の赦しを、救いをもたらすためであること、罪のゆえに暗闇に覆われてしまっている人々に救いの光をもたらすために父なる神が自分を世の光としてお遣わしになったことをはっきりと知っておられます。だから主イエスの「わたしは世の光である」というお言葉は、「そうかもしれない」などというあやふやな言葉ではない、はっきりとした確信に基づく言葉なのです。

父なる神の証言  
 しかし主イエスは17節においては、「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある」とも言っておられます。つまり旧約聖書には、裁判などで判決を下すためには二人以上の証言が一致していなければならない、と確かに語られているのです。しかし主イエスが世の光であることは、主イエスだけが言っていることではありません。主イエスをお遣わしになった父なる神もそのことを証ししておられるのです。だからこのことは二人の証しによって示されている真実なのだ、と主イエスは言っておられるのです。しかしファリサイ派の人々はこれも受け入れません。あなたの父はいったいどこにいるのか、と言っています。彼らは、主イエスをお遣わしになった父なる神を知らず、その証しを聞くこともできません。それゆえに主イエスが世の光であることが全く分からないのです。

まことの光はなかなか見えない  
 主イエスとファリサイ派の人々とのこの対話から分かるのは、主イエス・キリストこそこの世の暗闇を照らすまことの光として来られた独り子なる神であられること、この世を覆っている闇がどんなに深くても、まことの光である主イエスに打ち勝つことはできないのだということを、私たち人間はなかなか知ることができない、主イエスこそが世の光であることは簡単には見えて来ない、ということです。私たちは、主イエスがすべての人を照らすまことの光であることがなかなか分からないし、たとえ主イエスに光を見出したとしても、それは小さな蝋燭の火のようなもので、この世を覆っている圧倒的な闇の前では何の力もないのではないか、そんな火はすぐに吹き消されてしまうのではないか、と感じてしまうのです。

わたしに従う者は  
 そのような私たちが、主イエスにおいて輝いている命の光を見つめることができるようになるのは、つまり主イエスこそこの世の暗闇に打ち勝つまことの光であることが分かるようになるのはどのようにしてなのか、そのヒントが12節において与えられています。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。この「わたしに従う者は」という言葉が大事です。私たちが命の光を持つようになるためには、主イエスに従うことが必要なのです。主イエスに従って歩んでいくことの中でこそ私たちは、自分が暗闇の中を歩いているのではなくて、命の光によって豊かに照らされていることを知らされていくのです。主イエスに従うことなしに、主イエスのことをただ眺めているだけでは、主イエスが命の光であることはいつまでたっても見えて来ないのです。

「ともし火」  
 このことを描き出している一つのお話を紹介したいと思います。クリスマスの讃美夕礼拝において何度か紹介したことがあるのですが、スウェーデンのセルマ・ラーゲルレーヴという作家の『キリスト伝説集』という本の中の「ともしび」、あるいは最近の新しい翻訳では「聖なる炎」という話です。中世の、十字軍が行われていた時代、イタリアのフィレンツェにラニエロという男がいました。とても腕っ節が強く、三度の飯よりも喧嘩が好き、という荒くれ男でした。彼には好き合って結婚したフランチェスカという妻がいました。しかし共に生活していく中で、夫が余りにも乱暴で、人の気持ちを全く顧みないので、ついに愛想を尽かして実家に帰ってしまいました。ラニエロは何とかしてフランチェスカの心を取り戻したいと思いましたが、彼が思いつくことといえば、戦場で兵士として勇敢に戦い、高価で立派な戦利品を得て、それをフィレンツェの教会に寄進する、ということだけでした。自分の立てた大手柄を知れば彼女も自分のところに戻って来るだろう、と考えたのです。しかしどんなに立派な戦利品を寄進しても、彼女は戻っては来ませんでした。でもラニエロは、これはまだ自分の手柄が足りないのだと思い、今度は十字軍に加わります。そしてエルサレムを攻め落とす戦いにおいて一番乗りを果たし、その褒美として、キリストの墓の前の聖なる火を真っ先に自分の蝋燭に灯すことを許されました。このともし火こそ、この戦における最大の戦利品です。仲間が「今度ばかりはお前もこのともし火をフィレンツェまで届けることはできまい」と言ったので、彼はかっとなって、「いや、このともし火を自分一人でフィレンツェの教会まで届けてみせる」と宣言します。こうして、ともし火という戦利品をエルサレムからフィレンツェまで運ぶというラニエロの不思議な旅が始まりました。蝋燭の束をかかえて、その火を灯し続けながら、風によって消えてしまわないようにマントで守りながら、馬に乗って歩いていくのです。正面を向いて乗っていると消えそうになるので、馬の背に後ろ向きでまたがり、しかもゆっくりとしか進めません。そんな旅を始めたとたんに彼は強盗に襲われます。普段ならば、そんな連中をやっつけるのは朝飯前ですが、蝋燭の火を守るためには抵抗することができず、彼は身ぐるみ剥がれ、立派な馬も奪われ、強盗のやせ馬と蝋燭の束だけが残されました。ボロボロな姿で、やせ馬に後ろ向きにまたがり、蝋燭の火を守りながら歩いていく彼を、人々は「狂人だ」とからかいました。それまでの彼ならすぐにかっとなって暴れるところですが、それもできません。このように、風の一吹きで消えてしまうともし火を守りながら彼は、エルサレムからフィレンツェまで旅をしたのです。その間にいろいろなことを体験したわけですが、そのことはここでは申しません。大事なことは、この旅によって、彼は変えられたということです。少しでも気にくわないことがあったら暴れ回り、敵をやっつけることしか頭になかった彼が、小さなともし火を守るために、いろいろなことを我慢し、忍耐することを覚えていったのです。戦いにおいて自分の力を示すことばかりを考えていたのが、争いを避け、穏やかなことを求めるようになっていったのです。弱い者をいつくしむやさしさを身に着けていったのです。ついにフィレンツェに到着した時、ラニエロは全く別人になっていました。そのラニエロのもとに、フランチェスカは戻って来たのです。今お話ししたのは全くのあらすじですから、この話の豊かな内容はぜひ皆さんそれぞれでお読みいただきたいと思います。この話が根本的に語っているのは、この世の闇の中に灯った一本の小さな蝋燭の火、それはそれ自体では何の力もない、周囲をほんの僅か照らすのみで、この世を覆っている闇に打ち勝つことなど到底できはしない、風の一吹きで消えてしまうものだけれども、しかしその火を人が自分の内に迎え入れ、そのともし火を大切に守りながら歩むならば、その小さなともし火が人を全く新しくし、新たに生かしていくのだ、ということです。小さな蝋燭の火が、ラニエロを覆っていた暗闇に勝利し、彼の人生を命の光で照らしていった、という話なのです。

主イエスというともし火を迎えて  
 主イエス・キリストが世の光であるというのはそういうことです。主イエスがベツレヘムの馬小屋でお生まれになった、それは暗闇に覆われているこの世界に小さな一本の蝋燭の火が灯ったような出来事です。そんなことはこの世界に何の影響も及ぼしはしないように思われます。イエス・キリストがこの世に生まれても、この世界から闇が取り除かれてはいない。むしろその闇は、今日私たちが体験しているようにより深まっている。人間の知識や技術が進歩した分だけ、人間の罪が及ぼす影響も以前より深まっているわけで、核兵器の脅威とか原発事故による放射能汚染とか地球温暖化とか、百年前には誰も考えていなかったようなことが今は起っており、この世界を覆う闇は深まっているのです。そういう現実の中で、主イエスこそ全ての人を照らす世の光であると言われても、その光はいったい何の役に立つのか、圧倒的な闇の力の前では全く無力ではないか、と私たちは感じるのです。しかし、世の光である主イエス・キリストは、私たちがこの方を自分の心の中に迎え入れ、その小さな火が消えないように守りつつ歩んでいくなら、つまり主イエスに従って生きていくなら、私たちを新しく生かしていくのです。そこには、命の光に照らされて歩む人生が与えられていくのです。ラニエロのように、人を愛することができずに憎んでしまい、傷つけてしまい、その結果自分も人に愛されず受け入れられずに苦しみに陥っていくという悪循環の暗闇に覆われている私たちの人生が、その闇から解放されて、人を愛し、受け入れ、互いに愛し合う良い交わりを築いていくことができる、そういう明るい光の中を歩む人生へと変えられていくのです。そのことは、主イエス・キリストを外から眺めているだけでは決して起りません。主イエスという小さなともし火を自分の中に迎え入れて、主イエスと共に、その火を消さないように守りながら歩んでいくことの中でこそ、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」ということが本当に分かっていくのです。父なる神ご自身が、主イエスこそ世の光であることを証ししておられる、その証しの声も、主イエスに従って歩んでいくことの中でこそ聞こえてくるのです。  
 アドベントの日々、クランツの蝋燭に火を灯しながら、私たちそれぞれの心に、主イエス・キリストというともし火をお迎えしましょう。そしてその小さな火を大切に守りながら、クリスマスに備えていきたいと思います。

関連記事

TOP