主日礼拝

わたしはある

「わたしはある」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章13-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章21-30節
・ 讃美歌:245、160、525

わたしの行く所にあなたたちは来ることができない  
 アドベントの第三週になりました。今日はこの後午後1時30分から、教会学校のクリスマス礼拝、祝会が行われます。昨年までは23日の休日に行われていましたが、今年から休日でなくなったので、日曜日の午後に行うことになったのです。どうぞ教会学校のクリスマスを覚えてご協力下さい。  
 今年はアドベントに入ってからもヨハネによる福音書を続けて読んでいます。今読んでいる第8章には、7章からの続きで、仮庵祭の時に主イエスがエルサレム神殿の境内でお語りになったこと、それによって起ったファリサイ派の人々とのやりとりが語られています。本日の最初の21節で主イエスは「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」とおっしゃっています。これと同じことが7章33、34節にも語られていました。そこで主イエスは「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とおっしゃいました。主イエスはもうしばらくしたら去って行くのです。それは、主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺され、そして復活して天に上り、父なる神のもとにお帰りになることを指しています。そのように主イエスがこの世を去って父のもとに行かれる時、あなたたち、つまりファリサイ派を中心とするユダヤ人たちは、主イエスを捜しても見つけることができない、主イエスが行く所、つまり天の父のみもとに、彼らは来ることができない、ということが、7章に続いてここでもう一度語られているのです。  
 7章の時にも、ユダヤ人たちは主イエスの言葉の意味が分からずにとんちんかんな反応をしました。イエスは去って行って我々が行けない所に行くと言っているが、いったいどこへ行くのだろうか、ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人たちのところへでも行くつもりだろうかと言ったと7章35節にありました。本日の箇所でもユダヤ人たちは、我々が行くことができない所に行くとは、イエスは自殺でもしようとしているのだろうか、と言っています。彼らは、自分たちは神に従って正しく生きている神の民だから救われて神のもとに行く、と思っています。その自分たちとは違う所に行くと言っているイエスは、赦されない罪である自殺でもして、要するに地獄にでも落ちるつもりなのか、と彼らは勿論主イエスを揶揄してこう言っているのです。

言葉が通じない  
 ユダヤ人たちのこのようなおかしな反応を繰り返し語ることによってヨハネ福音書は、主イエスとユダヤ人たち、具体的にはファリサイ派の人々の間で話が通じない様子を描いています。ユダヤ人たちは、主イエスの言葉を理解できないのです。主イエスが、私は父なる神のもとから来て、父なる神のもとに帰ろうとしている、と言っても理解できないし、先週のところで「わたしは世の光である」とおっしゃっても信じない、主イエスの言葉は彼らに全く通じていないのです。

属している世界が違う  
 このことを受けて主イエスは23節で「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」とおっしゃいました。私の言葉があなたたちに通じないのは、お互いの属している世界が違うからだ、ということです。あなたたちは下のもの、つまりこの世に属している、しかし私は、この世ではない上のものに属しているのだ、と主イエスは言っておられるのです。主イエスが属している上のもの、それは天であり、神の世界です。主イエスはこの世界にではなく、神の世界に属しておられる神の独り子なのです。だから主イエスの言葉は、この世に属している人間に通じないのです。

天から降って来た主イエス  
 このことによって示されているとても大事なことがあります。それは、上のもの、つまり天に属しておられる主イエスが、この世に来て、この世を生きておられる、ということです。主イエスは天に属しておられる方だけれども、今は天におられるのではなくて、この世を一人の人間として生きておられるのです。そのことが起ったのが、今私たちが備えているクリスマスです。クリスマスとは、上のもの、天に属しておられる独り子なる神主イエスが、肉となって天から降って来て、下のものであるこの世に、一人の人間として生まれて下さった、そのことを喜び祝い、記念する時です。クリスマスの出来事のゆえに、神の独り子主イエスは今地上におられるのです。そしてそのために、主イエスの言葉が、下のもの、この世に属している人間に通じないということが起っているのです。主イエスの言葉がユダヤ人たちに、ユダヤ人だけではなく私たちにも、なかなか通じないのは、主イエスが本来この世に属している方ではないからです。私たちはこの世に属しています。その私たちはこの世の言葉、人間の言葉しか分からないし、語ることができません。しかし主イエスは、人間となってこの世を生きた独り子なる神です。人間となられた主イエスは人間の言葉でお語りになっていますが、しかしそれは神の言葉でした。だから人間には、私たちには、主イエスのお言葉がなかなか分からない、理解できない、信じられないのです。主イエスがこの世に人間としてお生まれになったというクリスマスの出来事の結果として、主イエスの言葉が人間に通じない、ということが当時も、そして今も、起っているのです。

神と人間の関係の回復のために  
 そしてそこには、独り子なる神である主イエスが人間となってこの世に来られたことの理由、目的が示されています。主イエスは、神と人間との間で言葉が通じるようにするために来られたのです。上のものである天つまり神の世界と、下のものであるこの世との間には隔たりがあります。神と人間との間には大きな隔たりがあるのです。それゆえに、この世を生きている私たち人間は、神の言葉が分からない、理解できない、信じることができないのです。その私たちのところに、神が独り子主イエスを一人の人間として遣わして下さったのは、ご自分の言葉を、つまりはみ心を、私たち人間に何とかして伝えたい、通じさせたい、という神の強い思いによることです。例えて言うならば、言葉が通じなくなり、意志の疎通ができなくなっている国と国との関係を回復するために全権を委任されて派遣される大使のように、神は独り子主イエスをこの世に派遣して下さったのです。

自分の罪のうちに死ぬことになる  
 しかし言葉が通じなくなってしまっているこの隔たりは、そう簡単には解消しません。神からの全権大使として派遣された独り子である主イエスの言葉も、人々に通じていかないのです。その現実を見つめ、嘆きつつ主イエスは、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃいました。この言葉が、本日のところには三度繰り返されています。21節と、24節に二回です。この言葉はそれだけ強調されているのです。これによって主イエスは、父である神から遣わされた私の言葉が通じないままでは、あなたがたは自分の罪の内に死ぬことになる、とおっしゃっています。あなたがたには罪があり、このままでは罪の内に死ぬことになる、と言っておられるのです。それは、元々完璧な聖人君子のような人などいないのであって、いろいろ悪いことを考えたりしたりするのが人間というものだ、というような呑気な一般論ではありません。罪とは、私たちが神に背き、反抗している、ということです。神さまが私たちに命を与えて下さり、生きるために必要なものを全て与えて下さっているのに、その神を敬おうとせず、神のみ心を思うこともそれに従うこともせず、自分の力で命を獲得して自分一人で生きているかのように勘違いして、自分の願いや欲望を満たすことばかりを考えている、それが私たちの罪です。言わば、親の脛をかじっている子供が反抗して俺は親の世話になんかならないと粋がっているようなものです。そういう私たちの罪こそが、神と私たちの間を隔てているのです。神と人間との間に大きな隔たりがあるのは、天と地の間の距離が遠いからではありません。私たちが神に背き逆らっている罪人だからです。その私たちの罪が、神と私たちの間を隔てており、それによって言葉が通じなくなっているのです。この隔たりが解消されて、言葉が通じるようにならないならば、私たちは、自分の罪の内に死ぬことになるのです。罪の内に死ぬとは、命を与えて下さる神との関係を失ったまま、死の支配に陥るということです。罪の内に死ぬなら、神が与えて下さる命、永遠の命を得ることができずに、死が私たちを永遠に支配することになる、それを聖書は「滅びる」と言っているのです。

一人も滅びないで、永遠の命を得るため  
 そのようなことにならないために、神は独り子主イエスをこの世に生まれさせて下さったのです。神が独り子を遣わして下さったのは、私たちの罪によって失われている神と私たちとの関係を回復して、ちゃんと言葉が通じるようになるため、つまり私たちが、命を与え、人生を導いて下さっている神の愛のみ心を知って、私たちからも、神に感謝と喜びをもって語りかけていく、そういう良い交わりを与えて下さるためです。そしていつか肉体の死を迎える時にも、主イエスの十字架の死と復活によって永遠の命を約束して下さっている神のみ手に自分を委ねて、希望をもって地上の人生を終えることができるようになるためです。そういう神のみ心を告げているのが、毎週振り返っている、この福音書の3章16節の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」です。この神のみ心を実現するために、主イエスはクリスマスにこの世にお生まれになったのです。

「わたしはある」  
 神のみ心によるこの救いが私たちに実現するためには、この3章16節にも語られているように、私たちが独り子主イエス・キリストを信じなければなりません。主イエスを神から遣わされた救い主と信じなければ、私たちは自分の罪の内に死ぬことになるのです。主イエスは24節の後半でそのことを「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と言っておられます。主イエスを信じるとは、「わたしはある」ということを信じることだと言っておられるのです。「わたしはある」という言葉が括弧に入れられています。これは英語で言えばI am.というだけの単純な言葉ですが、聖書においてこれは特別な、とても大事な言葉です。それが語られているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章14節です。そこでは主なる神がモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っておられます。「わたしはある」は神さまご自身が、ご自分の名前をお示しになった言葉なのです。神さまがご自分の名前をお示しになる、それは単に「私はこういう者です」と名刺を渡すようなことではありません。神ご自身が生きておられる方として確かにそこにおられ、み心によってみ業を行っておられる、そのことがそこには示されているのです。出エジプト記第3章の文脈で言えば、主なる神は今や、エジプトで奴隷とされ苦しめられているイスラエルの民を救い出し、約束の地へと導こうとしておられ、そのためにモーセを遣わそうとしておられるのです。そういう主の救いのみ業が今や行われようとしていることを「わたしはある」という言葉は示しているのです。ヨハネ福音書においては、独り子なる神である主イエス・キリストがこの世に遣わされ、人間の罪によって隔てられてしまっている神と人間との関係を回復して、神と人間との間の言葉が通じるようにして下さる、人間が神のみ言葉を理解し、そこに示されている救いのみ心を信じて受け入れ、その救いにあずかって神の民として生きることができるようにして下さる、それによって、自分の罪の内に死んで滅びることのないようにして下さる、その救いが今や主イエスによって実現しようとしているのです。「わたしはある」という言葉はそのことを示しています。この神の救いのみ業を独り子なる神主イエスが成し遂げて下さることを信じるなら、私たちは自分の罪の内に死んで滅びるのではなくて、神が与えて下さる永遠の命を得ることができるのです。

ユダヤ人たちの頑さ  
 しかしこれを聞いても、ユダヤ人、ファリサイ派の人々は、「あなたは、いったいどなたですか」と問うばかりです。彼らは、主イエスが誰であるのかが分からないのです。主イエスにおいて「わたしはある」ということが起っていること、生きておられる神が救いのみ業を行っておられることを聞き取ることができず、信じることができないのです。主イエスは彼らに「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」とおっしゃいました。そして27節には「彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった」とあります。主イエスがいくらお語りになっても、悟ることができない、理解することができない、いや受け入れようとしない、信じようとしない彼らの頑な姿と、それに対する主イエスの悲しみと苛立ちが感じられます。

人の子を上げたときに初めて  
 しかしこのことは、28節のみ言葉への備えとなっています。28節で主イエスはこうおっしゃいました。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」。主イエスが父なる神に教えられた神の言葉を語っている独り子なる神であることが全く通じない彼らが、しかしついにそれが分かるようになる時が来るのです。それは何時でしょうか。ここに「人の子を上げたときに」とあります。「人の子が上げられる」ということは既に3章の13、14節において語られていました。そこには、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とありました。天から降って来た「人の子」とは主イエスのことです。その主イエスが上げられる、それは十字架にかけられることを意味しています。そのことはこの福音書の12章32、33節を読むことによってもはっきりします。「『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」。主イエスが上げられる、それは主イエスが十字架の死を遂げることなのです。しかし28節で主イエスは、「あなたたちは、人の子を上げたとき」と言っておられます。つまり人の子を上げるのはあなたたちだ、と言っているのです。主イエスを受け入れず、敵対しているファリサイ派の人々が主イエスを十字架につけて殺そうとしているのです。それによって主イエスは「去って行く」のです。その時に初めて彼らも「わたしはある」ということが分かるようになるのです。つまり今主イエスを受け入れずに敵対している人々にも、主イエスこそが父なる神から遣わされた独り子なる神であられることがはっきりと示され、主イエスによる救いが実現するのは、主イエスが十字架にかけられて死ぬことによってなのです。

上げられるために  
 このことは、先程の3章のところにも語られていました。つまり、3章14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」に続く15節では「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と語られていたのです。人の子主イエスが十字架の上に「上げられる」ことによってこそ、主イエスを信じる者が永遠の命を得るという救いが実現するのです。この救いが実現するためには、人の子主イエスは「上げられねばならない」のです。独り子なる神である主イエスは、上げられるために、つまり十字架にかかって死んで下さるためにこの世に生まれて下さったのです。それこそが、次の16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということの意味です。クリスマスは、神がその独り子を、十字架の上にあげられるためにこの世に、私たちに与えて下さった、そのことを感謝し、それによって与えられた救いを喜び祝う時です。クリスマスを喜び祝うことと、主イエスが上げられたこと、十字架につけられて死んで下さったことを覚えることとは切り離すことができないのです。

み言葉が私たちに通じるようになるために  
 独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神さまは、今私たちにも語りかけておられます。「わたしはあなたと良い関係を結ぶために、独り子の命をも与えた。私の独り子イエスを、あなたの救い主として信じ、受け入れなさい。そうすればあなたは、自分の罪の内に死んで滅びるのではなくて、永遠の命を得ることができる」。この神さまのみ言葉が私たちに通じるようになるために、そして私たちが、様々な罪や弱さの中を生きているこの世の人生において、罪を許され、永遠の命を生き始めるために、主イエス・キリストはこの世に生まれて下さったのです。そのことを喜び祝うクリスマスを、私たちは迎えようとしているのです。

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