夕礼拝

主の民の従順

「主の民の従順」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書第49章1ー6節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第2章12ー18節
・ 讃美歌 : 16、504

はじめに
パウロは、フィリピ教会の人々に従順であるようにと勧めています。本日朗読された、フィリピの信徒への手紙2章の12節で使徒パウロは次のように語っています。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。キリスト者としてこの世を歩む時に大切なことの一つは、従順であるということです。従順であると言うのは、性質・態度などが素直で、人に逆らわないことです。しかし、ここで言われている従順というのは、一般的に、私たちが従順と聞いてイメージするように、自分の目上の人に対して、努めて素直に従いましょうと言うようなことではありません。ここには、一般的な徳目としての従順というよりも、信仰者の従順、キリスト者特有の在り方が見つめられています。その従順を、説教題に掲げたように主の民の従順と言いっても良いかもしれません。今日は、私たちが主に救われた者として従順に生きるとはどのようなことなのかを示されたいと思います。

キリストのへりくだり
12節は、「だから」という言葉で始まっています。本日の箇所は前回お読みした2章1~11節に続いている箇所で、内容的にもそこと密接に結びついています。3~4節には、キリストの救いにあずかった信仰者に対して、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい、自分ことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えられていました。キリスト者は、へりくだることにおいて思いを一つにし、教会共同体を形成するのです。そして、5節では、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と語られているように、信仰者がへりくだって歩むことの根拠は、主イエス・キリストにあるのです。6~7節には次のようにあります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。キリストが、神の子でありながら、肉を取り、世に来て下さったことに、へりくだるということの究極的な形があり、このへりくだりこそ、キリスト者のへりくだりの原型なのです。

人間の謙遜
キリストのようにへりくだるということは、私たち人間が自ら美徳としてなすへりくだりとは異なります。考えて見ますと、私たちは聖書に教えられなくても、この世の生活の様々な場面でへりくだると言うことがあります。身近なことを考えても、日本語には敬語があり、目上の人と接する時には、相手を尊敬し、あるいは自ら謙譲して敬意を表しています。しかし、この世で、私たちがへりくだる時、必ずしも相手を心から尊敬しているとは限りません。自分が接する人を心から尊敬していなくても、立場上、形式的に敬うと言うこともあるでしょう。又、「拝して遠ざける」という言葉がありますが、相手を尊敬しているような素振りを見せながら、他人行儀に振る舞って、相手と自分の間に距離を置くということもあるでしょう。日本語の敬語は、相手に尊敬を表す言葉であると共に、相手と自分の距離を取るために用いられます。それは、共同体の中で共に歩んでいく時に、その関係を円滑に進めるための技術でもあるのです。私たちは、この世の共同体の中にあって様々な仕方で、外面的に謙遜に振る舞うことを通して、人々との関係を上手くやって行く術を身につけているのではないでしょうか。しかし、聖書がへりくだると言う時、そのような私たちの態度が見つめられているのではありません。パウロが教会の人々に向かってへりくだるようにと言う時、教会生活においても、世での人間関係と同じように、自分よりも長く信仰生活をしている敬うべき人に対してはしっかりと敬意を表しながら、上手く人間関係を結んでいきましょうと言うようなことではないのです。むしろ、ここでは、全ての人が、誰に対しても、立場上の関係がどうであろうと、自らへりくだって、心からの敬意を表して行くことが語られているのです。

キリストの従順
私たちの謙遜とは異なる、教会におけるへりくだりを決定的に特徴づけるのが、本日、パウロが語る従順に他なりません。聖書は、私たちのへりくだりの原型ともなるキリストのへりくだりを記すに際し、ただへりくだりのみを見つめているのではないことに注目したいと思います。キリストが人となられたことを語った後、7節の後半で、パウロは、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と語りました。キリストのへりくだりと共に、従順が見つめられているのです。「へりくだる」と「従順」は、非常に近い言葉であると言えます。本当にへりくだる時、従順でなくてはなりません。ここでは、「へりくだる」ということによって、客観的な事実を見つめているのに対して、「従順」ということによって、そこでの姿勢が見つめられていると言うことが出来るかもしれません。聖書は、キリストが世に来られた出来事を「へりくだる」という言葉で表すと共に、神様の御心に従って人間の罪を救うために十字架で死んで下さったことに表されているキリストの姿勢を「従順」という言葉で表しているのです。キリストは、嫌々、世に来たと言うのではなく、そこで父なる神様の御心に対して従順に従うことによって、人間の罪を担い、救いを成し遂げて下さったのです。このキリストの従順を受けて、信仰者に対しても、へりくだり、そこで従順であるようにと言われているのです。

神を恐れる
この従順について考えるために、パウロが、12節で「わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて」と語っていることに注目したいと思います。パウロは現在、牢獄に捕らわれています。そもそも、パウロがフィリピ教会にいた時、教会の人々はパウロが語る福音を直接聞きながら歩んでいました。そのような中では、教会の人々は、指導者であるパウロが語る勧めに従って従順に歩むことが出来るのです。しかし、パウロがいなくなったとしても、パウロがいる時と同じように従順な歩みをするようにと言うのです。ここから言えることは、この従順は、周囲にいる人々に左右されるものではないということです。それは、この従順が何よりも先ず、神様との関係における従順だからです。神様に対して従順に歩む時、それは周囲の人々とのことは問題になりません。神様の前で自立した信仰者として立ち、神様に従うことにおいて従順に歩むのです。そこでは、パウロという指導者が側にいるかいないかは問題ではないのです。そのことは、12節の後半で、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と言われていることにも現れています。「恐れおののきつつ」とは、神様に対して、心から仕える様を言います。つまり、ここで語られている従順を生きるためには、先ず、神様を恐れ、心から仕えると言うことが不可欠なのです。神様の前で従順に歩む時に、周囲の人々の間でも従順に歩むことが出来るのです。そのような従順こそ、表面的にへりくだるのでもなく、人々に左右されてへりくだるのでもなく、神を恐れる者として、心からの従順に歩む歩みとつながって行くのです。

内に働く神
 それにしても、このような神様を恐れ、心から仕えつつ、従順に生きることは簡単なことではありません。私たちの中には誰であっても「利己心や虚栄心」があるからです。自分の利益のみを求め、周囲の人々との関係も自分に益になるかどうかで判断しようとすることがあり、又、自分が少しでも周囲の人々に認められたいと思いつつ振る舞うことがあります。そのような時、表面的に、いくら謙遜に振る舞っていたとしても、従順とは言えないでしょう。そして、そのように、なかなか従順に生きることが出来ないために、私たちの周りには、自らのプライドによって、隣人との間でも良い関係が結べない現実があり、人間関係で悩まされている現実があるのです。教会においても例外ではありません。人間の集まりである以上、利己心や虚栄心が渦巻いているのです。だからこそ、パウロはへりくだるようにとの勧めを語るに際して「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と語ったのです。私たち人間の利己心や虚栄心を省みる時、私たちがキリストのように、本当の従順を貫くと言うことは難しい、嫌、不可能であるとさえ言えるのではないでしょうか。しかし、大切なことは、私たちを従順とするのは、根本的には、私たちではないと言うことです。そのことが13節で語られています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。私たちが本当に神を恐れつつ従順に生きる時、私たちの内側に働いておられるのは神様なのです。ここで、私たちの内側で働くと言われている箇所は、「力」を意味する言葉が用いられています。私たち人間の力ではなく、神様の力が私たちに及んで、御心を示し、それに従って歩ませるのです。それは聖霊の働きと言っても良いでしょう。つまり、主の民の従順は、自分の力で、必死になって利己心や虚栄心を捨て去って、悟りの境地に達するようにして、達成すると言うようなことではありません。大切なことは、神様の力に自らを明け渡し、自分の中で御心を願い求める者とされていくと言うことです。14節でパウロは、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と語ります。不平や理屈を言うのは、私たちが、本当に自分を明け渡していないことの現れです。神様の力に抵抗し、自分を明け渡すことをしない時、不平や理屈を言うのです。つまり、主の民の従順とは、一般的に思い浮かべられるように、自分の目上の人に対して、努めて素直に従って行くように努力することにおいて行われるのではありません。何よりも、皆が、共に、御心のままに望ませ、行わせておられる神の力に自らを明け渡して行くことの中で行われるのです。そして、本当に神の力によって御心が実現して行くのであれば、そこでは、必ず、互いにへりくだることによって一致することが生まれるのです。

御言葉に聞く中で
このように主の民の従順が人間の力によるのではないことを受けとめることは大切なことです。もし、自分の努力で、信仰におけるへりくだりを実現しようとするのであれば、私たちは、そのことにおいて利己心や虚栄心にとらえられてしまうでしょう。自分の力や自分の業を誇る思いが生まれます。そこでは、本来のへりくだると言う姿勢に生きることとは全く異なる歩みが生まれてしまうのです。神様の力が私たちに働き、それによって、私たちが神様の御心を思い、その御心に従って歩む者とされることこそ大切なのです。
この神様の力が働くと言うのは、私たちが実感出来るような霊的興奮状態になり特別なことを行うようになると言うようなことではありません。それは徹頭徹尾御言葉の支配に服することの中で起こります。私たちが礼拝において聖書の御言葉を聞き、そこでキリストのへりくだりを示され、自らの内に御言葉を受け入れる時、そのことを通して、神の力が働くのです。そこから神様の御心に従ってへりくだる歩みが始められるのです。15節では次のように語られています。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中にあって、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」。「清い者」とか、「神の子」と言われています。それは、自分の努力によって倫理的に完璧な生活を行う人と言うことではありません。神様の救いにあずかり、自らに神が働いて下さり、御心が行われることを求めつつ歩む人です。そのようにして歩む時、信仰者は「世にあって星のように輝くのです」。世にあって輝きを放つのは、信仰者の人間性が世の人々、信仰をもたない人々よりも優れており、それが世の人々の心を打つと言うことではありません。そうではなく、私たちの内で神が働いて下さっていると言うことにおいて、世とは全く異なるものを示すものとされるということです。具体的には、私たちが真の従順を知らされ、教会と言う共同体が、世の価値観とは全く異なるへりくだりによって一致する群れとなって行くことを通して、世にあって、キリストの光りを輝かせるものとなるのです。

苦労が無駄にならない
パウロは、16節で、「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と語ります。パウロは使徒として、自分の主張や教えを語っているのではありません。更に、自分の利益や自分の誇りのために宣教しているのでもありません。教会の人々が神の御業のために用いられて、それによって救いの御業が進められていくことを求めているのです。だからこそ、教会がキリストの光りを示して行くものとなることによって、パウロがキリストに仕えて走っていることが無駄でなくなるのです。フィリピ教会の中には、様々な形で、人間の利己心や虚栄心が生まれていました。人々が自分のプライドを守るために対立し合い党派が生まれていたのです。1章の17節では「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」とあります。パウロの働きを日頃から嫉んでいた人々がいて、パウロが牢に捕らえられたのを今がチャンスとばかりに活発に活動する人々がいたのです。そこには本当に従順に歩むこともせずに、自分の気の合う人々と党派を造り、自分が敵対している人々と対立することによって自分のプライドを保とうとする人々がいたのです。しかし、パウロの方は人々のプライドが渦巻くフィリピ教会にあって、従順を貫き、神様の御心に自らを明け渡すことを通して、キリストの栄光を求める歩みを指し示しているのです。だからこそ、フィリピの教会の人々も又、パウロと共に主の民の従順に生かされ、それによって、キリストが示されていくのであれば、パウロの働きは実ったと言えるのです。

真の喜び
キリストの従順とへりくだりに信仰者が生かされて、自らの利己心や虚栄心が打ち砕かれ、従順にこの世を走ること。それは、決して楽なことではありません。互いにプライドを保って歩もうとする人々が共にいる中で、自分から従順に歩むのは、パウロ自身が語っているように苦労が生じるのです。しかし、それは苦しさを伴うことであっても、真の喜びに生きることにつながって行きます。主の民の従順に生きる歩みは、利己心や虚栄心を捨て去ることであり、この世で、自らを誇ることが出来なくなることを意味します。しかし、パウロが、「キリストの日に誇ることができるでしょう」と語ったように、「キリストの日」即ち、終わりの日において、本当に誇ることが出来ると言うのです。そのことこそ、キリストの救いにあずかることであり、自分の救いを達成することだからです。だからこそパウロは、17節で次のように語ります。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの地が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。パウロは、もし、教会が、神様の御心を表しつつ世の光りとなり、そのような形で自分の働きが実るのであれば、そのことのために自分の命が捧げられても、そのことが本当の救いに通じているが故に、「あなたがた一同と共に喜びます」と語るのです。このパウロの喜びこそ、信仰者の喜びです。自分の小さなプライドを保つために、あくせくし、党派を造り、人々からどう思われているかを気にしつつ歩む歩みは、決して喜びを生みません。そればかりか、本当に教会の交わりを造ることもなく、自らの救いが達成されることもありません。私たちは、パウロと共に、主の民の従順に生きる者でありたいと思います。キリストの力が働くように自らを明け渡しつつ、主の御業が行われることを求めるのです。そのような中で、互いにキリストのへりくだりに生かされ、そのことにおいて一致しつつ、教会の交わりを形成し、救いを達成するために努めて行きたいと思います。それこそ、信仰者が命をかけてでも、仕えて行くべき、真の救いの達成に向けた歩みです。そのような歩みをする時にのみ、パウロが18節で語っている「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」との呼びかけに答え、つつ、救いの喜びを共にするものとされるのです。

関連記事

TOP