夕礼拝

主の嗣業

「主の嗣業」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第18章1-28節
・ 新約聖書:ヤコブの手紙 第2章5節
・ 讃美歌:127、448

主ご自身が戦われた
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書ヨシュア記からみ言葉に聞いています。前回、11月には第9章を読みました。このあたりから、イスラエルの民が、主なる神の導きによって約束の地カナンに入り、そこの町々を征服して自分たちのものとしていく歩みが語られています。本日は第18章を読みます。最初に、前回の9章の後の10章から17章にかけて語られていることをかいつまんで振り返っておきたいと思います。
 第10章には、アモリ人の五人の王が連合してイスラエルに対抗したことが語られています。ヨシュアに率いられたイスラエルは、彼らの連合軍をギブオンにおいて打ち破りました。10章8節には、その戦いに先立って主なる神がヨシュアに語られたみ言葉があります。「主はヨシュアに言われた。『彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない』」。この主の約束の下でイスラエルは戦い、勝利したのです。この戦いにおいて驚くべきことが起ったことが12節以下に語られています。12-14節です。「主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。「日よとどまれギブオンの上に/月よとどまれアヤロンの谷に。」日はとどまり/月は動きをやめた/民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである」。ヨシュアの祈りに応えて太陽と月がその動きを止め、まる一日、日が暮れなかったのです。その日の光の下でイスラエルは敵を打ち破り、追撃することができたのです。聖書にはいろいろな奇跡が語られていますが、これはその中でも特別の出来事として覚えられてきたことが、14節の「主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった」という言葉から分かります。太陽や月が動きを止めるというのは、古代の人々にとっても、後に先にも一度しかない特別なことだったのです。脱線ですが、このギブオンにおける奇跡は、後にいわゆる地動説と天動説、つまり太陽が昇り、沈むのは太陽が地球の周りを回っているからなのか、地球の方が動いているのか、ということを巡る議論において、天動説の根拠とされました。ヨシュアが止まれと言ったのは日と月に対してなのだから、動いているのは太陽の方だ、というのです。勿論これは聖書の間違った読み方です。聖書がこの、後にも先にもない奇跡を語っているのは、太陽と地球とどちらが動いているのかを示すためではなくて、14節の終りにあった「主はイスラエルのために戦われたのである」ということを示すためだったのです。カナン征服のための戦いは、イスラエルの民が行く手を阻む敵と戦ったというだけのことではなくて、主なる神ご自身の戦いだったのです。イスラエルの民にカナンの地を与えることを主なる神ご自身が意志され、その実現のために戦われたのです。日や月が動きを止めたという奇跡は、神ご自身の力あるみ業がなされたことを語り示しているのです。
 10章の後半にも、イスラエルが多くの町々を次々に征服していったことが語られています。そのまとめとして42節に「ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである」とあります。ここにも、主ご自身がイスラエルのために戦われたことによって彼らは勝利することができたことが語られています。「主がイスラエルのために戦われた」ということがこのように繰り返し強調されているのです。主なる神はそのように、ご自分の民と一体となって戦って下さる方です。このことは、人間が自分の目的のために神を口実として利用するというのとは全く違います。人間はしばしばそういうことをします。戦争をする時に、これは神のための戦いだと言って大義名分とするのです。宗教の歴史はある面ではそのように、人間が自分の目的のために神を利用してきた歴史だと言うことができます。キリスト教、教会の歩みにおいてもそういうことはありました。しかしここに語られているのはその類いのことではありません。イスラエルが、自分たちの欲望のためにカナンの地を征服し、それをこれは主のための戦いだと正当化したのではないのです。主ご自身がそのみ心によってこの地をイスラエルの民に与えるために戦っておられるのです。
 11章には、今度はハツォルの王ヤビンが他の王たちと同盟してイスラエルと戦ったことが語られています。この戦いにおいても主はヨシュアにこう言われました。11章6節です。「彼らを恐れてはならない。わたしは明日の今ころ、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる」。主が彼らをイスラエルの手に渡して下さったので、イスラエルは勝利することができたのです。11章20節にはこのように語られています。「彼らの心をかたくなにしてイスラエルと戦わせたのは主であるから、彼らは一片の憐れみを得ることもなく滅ぼし尽くされた」。王たちにイスラエルに抵抗し戦おうという思いをお与えになったのも主なる神なのです。主はそのことによってこれらの者たちを滅ぼし、この地をイスラエルに与えようとしておられるのです。これもまた、主ご自身がこの戦いを戦っておられることを示しているのです。

土地の分配
 12章は、征服された王たちのリストです。そして13章以下には、カナンの地が、イスラエルの十二の部族に分け与えられる、その部族ごとの範囲、境界線が語られていきます。だいたいどのように分配されたのかは、新共同訳聖書の後ろの付録の地図の3「カナンへの定住」を見れば分かります。ヨルダン川の東側には、南からルベン、ガド、マナセの半分が、西側には残りの九部族とマナセのもう半分が土地を与えられていったのです。ルベン、ガド、マナセの半分は既にモーセによってヨルダン川の東側で土地を与えていました。そのことは民数記第32章に語られていましたが、13章8節以下においてもそれが再確認されています。ヨルダン川の西側の土地についてのことが14章以下です。ユダ、エフライム、マナセの残り半分の部族に与えられた土地のことが15章から17章に語られています。そして本日の18章に入るわけです。
 18章の1、2節に「イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。この地方は彼らに征服されていたが、イスラエルの人々の中には、まだ嗣業の土地の割り当てをうけていない部族が七つ残っていた」とあります。残りの七つの部族にも土地を分配しなければならないのです。しかしそれらの土地の征服はまだ終わっていません。つまりまだイスラエルのものとなっていないのです。その段階で、しかしくじが引かれて土地の配分がなされたことがこの18章に語られているのです。その配分に当ってヨシュアが語った言葉が3-7節です。彼はこう言いました。「あなたたちは、いつまでためらっているのだ。あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ。各部族から三人ずつ出しなさい。わたしは彼らを派遣し、この地方を巡回させ、嗣業の土地の記録を作り、戻って来てもらおう。そして、彼らにそれを七つに分割させよう。ただユダは南部の領土に、ヨセフの家は北部の領土にとどまらせよう。土地を七つに分割したら、その記録をわたしのところに持って来なさい。わたしたちの神、主の前で、わたしはあなたたちのためにくじを引く。しかしレビ人にとっては、主の祭司であることがその嗣業なのだから、あなたたちのうちに割り当て地はない。また、ガド、ルベン、マナセの半部族は既にヨルダン川の向こう、東側に嗣業の土地を受けている。それは主の僕モーセが彼らに与えたものである」。

神の約束と現実の乖離の中で
 ここでヨシュアが先ず語ったのは、主なる神は既にこのカナンの地をイスラエルの民に与えて下さっている、ということです。しかし現実にはその征服は終わっておらず、他の民がなおそこに住んでいて、イスラエルのものとなってはいないのです。つまり目に見える現実と、神のみ言葉、約束の間には大きな隔たりがあるのです。その現実を前にして、人々の心には今「ためらい」が起っています。果たして自分たちにこれらの土地を征服して獲得することができるのだろうか。できるとしてもそのためには大変な苦労を、苦しみを味わわなければならない、それは避けたい、既に獲得した土地だけでもうよいのではないか、これ以上苦しい戦いをしなくてもよいのではないか、そういう思いが起っているのです。目に見える現実と神の約束のギャップの中で、私たちはこのような「ためらい」に陥ることがしばしばなのではないでしょうか。しかし以前の口語訳聖書は3節をこのように訳していました。「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか」。新共同訳で「ためらう」と訳されている言葉は「怠る」とも訳せるのです。怠るは、怠けるという字でもあります。目に見える現実と神の言葉との間に隔たりがある中で、目に見える現実に引きずられて、神の言葉に従って歩むことをためらうことは、怠りであり、なすべきことを怠けていることなのです。何故なら主なる神ご自身は民のために戦っておられるからです。主が民のために戦っておられるのに、民が戦おうとせずに怠けてしまっている、ということになっているのです。これがもし、イスラエルの民が主なる神を利用して、自分の欲望のための歩みを、これは主のための戦いだと正当化しているだけならば、彼らのためらいはもっともです。なぜならそこでは元々人間の都合や思いが中心だからです。だから自分に都合のよい時には、これは主のための戦いだと威勢のよいことを言うが、都合が悪くなったら、しんどくなったり、勝ち目がないと思ったりしたらたちまち、そんなに苦労しなくてもよいのではないか、もうやめようか、ということになるのです。つまりイスラエルの民がここでためらいを覚えているというのは、彼らがカナン征服の戦いを、自分のために、自分の力で行っている戦いだと思っており、主なる神はその戦いを正当化するための錦の御旗ぐらいにしか思っていないことを暴露しているのです。主ご自身が戦っておられることを見つめることなく、人間が口実として神を担ぎ上げているところには、このようなためらい、怠りが生まれるのです。
 ヨシュアはそのようなためらい、怠りに陥っている民に「あなたたちの先祖の神、主が既に与えられた土地を取りに行くだけなのだ」と言っています。つまりこの戦いはあなたがたの願いや都合による戦いではない。主なる神が戦っておられるのだ。主の勝利によってこの地は既にあなたがたに与えられている。あなたがたのなすべきことは、その主に従って歩み、その歩みの中で主の恵みを確認し、体験していくことなのだ、ということです。主なる神ご自身が戦い、み業を行っておられることを信じている者は、目に見える現実がそうなっていない中でも、このような確信をもって語ることができるのです。

くじを引くこと
 ヨシュアは、各部族から三人の代表を出させ、まだ手に入ってはいない土地の記録を作らせます。そしてその記録を元にこの地を七つに分割し、それぞれの部族にくじ引きでそれを分配したのです。つまり、まだ手に入れていない土地を書類の上で分配してしまったのです。これは普通に考えれば非常識なことです。日本の諺ではこういうのを「取らぬ狸の皮算用」と言うのです。しかし主なる神が戦い、勝利しておられる、という信仰においては、これこそがむしろ正しいあり方なのです。
 七つの部族がどの土地を与えられるかはくじ引きで決められました。「くじを引くこと」は聖書において大事な意味を持っています。聖書にはしばしば、くじを引いて事を決めたことが出て来ます。それは、人間どうしの間にもめ事を起こさないための工夫ではありません。くじを引くことは、神のみ心を求める手段です。くじを引くことで土地を分配するのは、人間を納得させるためではなくて、神がそれぞれの部族にどの土地を与えようとしておられるのか、そのみ心を求め、それに従うためなのです。つまりここにも、主なる神ご自身がこの地をイスラエルの民に与えようとして、そのために戦っておられることを信じる信仰が現れているのです。

嗣業の土地
 主がイスラエルの民に与え、それぞれの部族に分配して下さる土地のことが4節で「嗣業の土地」と呼ばれています。「嗣業」という言葉は日本語訳聖書における造語で、辞書には載っていません。原文の言葉の意味は「受け継いだもの、相続したもの」ということです。イスラエルにおいて、土地は親から子へと大切に受け継がれていくべきものでした。それを「嗣業の土地」と呼んだのです。しかしどの家も、カナンの地における土地を元々所有していたわけではありません。その土地は、主なる神が、カナン征服と土地分配においてそれぞれの部族に与えて下さったものです。つまり嗣業の土地は、神が与えて下さったものです。神の恵みによって与えられたものであるがゆえに、大切に守り、代々それを受け継いでいくのです。だからそれを自分の単なる持ちもののように売り払ったりしてはならないのです。つまりカナンの地がくじ引きによって分配されたというのは、人間が分捕り品を山分けしたというのではなくて、神がこの地をイスラエルの民のものとして下さり、それぞれの部族に受け継ぐべき嗣業の土地を与えて下さったという神の恵みのみ業なのです。

主の嗣業の民
 しかし先程申しましたように、この土地は現実にはまだ与えられていません。書類の上で分配がなされただけです。その土地を実際に自分たちのものとしていくことは、彼らの今後の歩みに託されているのです。ですからここで与えられたのは、実は嗣業の土地ではなくて、それを与えるという神の約束のみ言葉です。つまりここでイスラエルの民は改めて、主なる神の約束を受け、それを信じて歩む民とされたのです。それは主と特別な関係を持って生きる民とされたということです。嗣業という言葉は、単に土地を表すのではなくて、この神とイスラエルの民との特別な関係を意味する言葉でもあるのです。申命記第4章20節にはこのように語られています。「しかし主はあなたたちを選び出し、鉄の炉であるエジプトから導き出し、今日のように御自分の嗣業の民とされた」。またエレミヤ書第10章16節にはこのようにあります。「ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業である。その御名は万軍の主」。詩編第74編2節にもこうあります。「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を」。これらの箇所ではイスラエルの民が主の「嗣業」であると言われています。それはイスラエルが主の所有物、主の民とされているということ、主がイスラエルと特別な関係を結んで下さったということです。主はイスラエルをご自分の嗣業の民として下さり、そのしるしとして嗣業の土地を与えて下さるのです。ですから一番大切なことは、主なる神がイスラエルをご自分の民、嗣業の民として下さったことです。その恵みのゆえに、主はこの民のために戦い、嗣業の土地を与えて下さるのです。土地やそれに代表される財産、富は神の恵みの現れ、しるしではありますが、決してその本質ではありません。イスラエルの民と主なる神は、土地を与えられたという物理的恵み、つまりご利益によって結び合っているのではないのです。そのことは、7節前半に語られているレビ族のことを見ても分かります。「しかしレビ人にとっては、主の祭司であることがその嗣業なのだから、あなたたちのうちに割り当て地はない」。レビ族はイスラエルのれっきとした一部族ですが、嗣業の土地を与えられないのです。それは「主の祭司であることがその嗣業」だからです。彼らが主から与えられ、代々受け継いでいくのは、土地ではなくて、主の祭司としての職務、民と神との間の執り成しをする働きなのです。彼らはそのことにおいて、主の嗣業の民の一員とされているのです。

嗣業の民とされている私たち
 イスラエルの民が主の嗣業の民とされ、そのしるしとして嗣業の土地を、あるいは祭司としての働きを与えられたように、私たちも、主の嗣業の民とされ、そのしるしをいただいています。新約聖書、ローマの信徒への手紙第8章15節以下からそのことを確認したいと思います。このように語られています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。17節に、私たちも神の相続人とされているとあります。これがつまり神の嗣業の民とされたということです。私たちは元々神の嗣業の民だったわけではありません。15節にある、「神の子とする霊」を受けたことによって神の子とされ、神の嗣業の民とされたのです。つまり聖霊のお働きによって私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスと同じく神の子とされたのです。主イエスは神の独り子であり、神のただ一人の相続人です。私たちは聖霊によって主イエスと結び合わされることによって、神の子とされ、キリストと共に神の相続人、主なる神の嗣業を受け継ぐ嗣業の民とされたのです。また本日共に読まれたヤコブの手紙第2章5節をもう一度読みたいと思います。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった」、これが、主の嗣業をいただく者とされたということです。その嗣業は、主を愛する者に約束された国、神の国、神の恵みのご支配の下にある国です。それはイスラエルの人々にとってのあの嗣業の土地と同じように、まだ目に見える現実となってはいません。その約束が与えられているのみです。しかしキリスト信者は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって自分たちの罪が赦され、神の恵みのご支配の下に既に置かれていることを信じています。その信仰を告白して洗礼を受け、キリストと結び合わされて教会に連なる者として生きている、それが私たちが主の嗣業の民とされていることのしるしです。私たちはこの世の人生を、神を愛し、また隣人を愛することに努めつつ歩みます。そして肉体の死を越えた彼方に、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命が与えられることを希望をもって待ち望んでいます。このような信仰と希望と愛に生きることによって、約束された神の国を受け継ぐ者として、主の嗣業の民として生きて行くのです。私たちはいろいろな点でまことに貧しい者、弱い者ですが、主なる神はその私たちをあえて選んで、信仰に富ませ、主の嗣業を受け継ぐ者として下さっているのです。

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