夕礼拝

ベツレヘムへ行こう

「ベツレヘムへ行こう」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章7-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章8-21節
・ 讃美歌:141、253、75

誕生と命名に挟まれて
 先主日は青年伝道夕礼拝として守り、聖書箇所もルカによる福音書から一旦離れましたが、本日から再びルカによる福音書に戻ります。二週前に読んだ2・6、7節で主イエスの誕生は次のように語られていました。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」このようにルカによる福音書は主イエスの誕生を飾ることなく淡々と描いていました。また本日の聖書箇所の最後、21節には「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。この節は主イエスの命名について語っていますが、誕生と同じ様に実に簡単に報告されている、そのような印象を受けます。主イエスの誕生と命名が短く簡単に語られているのは、洗礼者ヨハネの誕生とそれに続く命名の物語が詳しく描かれているのと対照的です。そのように簡単に報告されている主イエスの誕生と命名に挟まれて、8-20節でルカのクリスマス物語はクライマックスに達するのです。

羊飼い
 このクライマックスの主人公は羊飼いです。今まで語られてこなかった羊飼いが8節で少々唐突に登場します。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」「その地方」がどこなのかはよく分かりません。ベツレヘムに近かったのか遠かったのかも分かりませんが、いずれにしても羊飼いたちは屋外で夜の間ずっと自分たちの羊の群れを守っていたのです。その羊飼いたちに主の天使が近づいてきたと9節冒頭で語られています。なぜほかの人たちではなく羊飼いに主の天使は現れたのか。このことについて、当時の社会で羊飼いの社会的身分が低く、主の天使はそのような身分や地位の低い者たちになによりもまず救いを伝えた、と説明されることがあります。しかし当時の経済を考えると、畑の作物のほかに羊や山羊の牧畜は重要であり羊飼いは責任の重い職業でした。ですから羊飼いの社会的身分が低いから主の天使が彼らに現れたと、単純に説明できるわけでもありません。なによりルカはこの箇所で羊飼いの身分や地位についてなにも語っていません。しかし他方で、皇帝アウグストゥスでもなくシリア州の総督キリニウスでもなく、また宿屋の人にでもなく、ほかならぬ羊飼いたちに主の天使が現れたのも確かです。主の天使が救い主の誕生を伝える相手は誰でもよかったのではありません。ここで私たちが見つめなくてはならないのは、主の天使が羊飼いのところに来てくださり、つまり主なる神さまが彼らに出会ってくださり、そこにおいて神の言葉が彼らに語られたことです。このことは、毎週の礼拝で私たちに起こっていることにほかなりません。この礼拝で主なる神さまは私たちに出会ってくださっています。それは誰でも良かったのではありません。神さまによってこの礼拝に招かれたお一人お一人に、ほかならぬあなたに神さまは出会ってくださっているのです。ですから私たちはルカのクリスマス物語のクライマックスを読むとき、なぜ主の天使が羊飼いに現れたのか、と問うよりもこの羊飼いたちこそ私たちにほかならない、そのことに気づきたいのです。私たちは主イエス誕生の出来事の外側にいるのではなく内側にいるのです。この出来事は羊飼いたちだけに起こったのではなく私たちにも起こっているのです。

大きな恐れは大きな喜びへ
 「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と9節にあります。主の天使が羊飼いたちに現れ、主なる神さまの栄光が彼らの周りを照らしたとき、彼らを襲ったのは喜びではなく恐れでした。「彼らは非常に恐れた」とありますが、これは「彼らは大きな恐れを恐れた」という表現です。「大きな恐れ」が主の栄光に照らされた羊飼いたちの間で起こったのです。私たちは主イエス誕生の出来事において、この「大きな恐れ」を見過ごしてしまいがちです。9節の御言葉に立ちどまらず、すぐ10節の天使の言葉「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」へと進んでいってしまうのです。しかしこの「大きな恐れ」を小さく見積もってしまうと、つまり神の栄光に照らされることへの「大きな恐れ」を小さく見積もってしまうと、主の天使が告げる「民全体に与えられる大きな喜び」をも小さく見積もってしまうことになるのです。この「大きな恐れ」は、夜の暗闇の中にいた羊飼いたちが突然主の栄光に照らされ明るくなってびっくりして恐れた、ということではないでしょう。この「大きな恐れ」はもっと根本的な恐れです。それは、罪人である人間が主なる神さまに出会うことへの「大きな恐れ」です。私たちは主の栄光に照らされるとき、自分の罪がすべてあらわにされるのです。暗かったのが明るくなって良かったなどと言ってはいられないのです。隠しておきたかった罪。忘れてしまった罪。そのような罪のすべてが私たちに突きつけられるのです。神さまに出会うとき、私たちは自分の罪の重さにとても耐えられません。神さまの正しさを前にして、私たちは裁かれ滅ぼされるしかない者だからです。しかしそのような「大きな恐れ」を抱いている私たちに天使は言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」ルカのクリスマス物語において繰り返し「恐れるな」と語られてきました。あるときはザカリアに「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と告げられましたし、また別のときにはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と告げられました。ここでも、天使は羊飼いたちにまた私たちに「恐れるな」と告げるのです。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」とありましたが、この「民全体」とはユダヤ人のことを指していると考えられます。しかしルカ-使徒言行録を読み進めていけば、喜びが告げられるのはユダヤ人に限られたことではありません。このことは異邦人へと広がっていくのです。さらに時代を越えて今を生きる私たちにも喜びが告げられているのです。神さまの栄光に照らされて裁かれ滅ぼされるしかなかったこの私たちに「大きな喜び」が与えられる、と告げられているのです。ここにおいて「大きな恐れ」は「大きな喜び」へと変えられるのです。「大きな喜びを告げる」とは、「大きな喜びの喜ばしい知らせを告げる」ことであり、福音を告げ知らせることにほかなりません。

救い主・メシア・主
 続けて天使は告げます。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」2・6、7節で御子の誕生が語られていましたが、しかしお生まれになった御子についてはなにも語られていませんでした。つまりお生まれになった御子がどのようなお方なのか明らかにされていなかったのです。そのことが11節で天使によって告げられています。「今日」とありますが、これは羊飼いたちにとっての「今日」を意味するだけではありません。私たちにとっての「今日」をも意味するのです。神さまは今日も私たちのために働かれています。そうであるならば、この天使のお告げを「今日」私たちに語られている言葉として聞かなくてはなりません。続いて「ダビデの町で」とありますが、この言葉も単に御子がどこでお生まれになったかを示しているだけではありません。旧約聖書ミカ書5・1節の預言の成就として御子の誕生が語られているのです。ミカ書5・1節には「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」とありました。このベツレヘムこそ「ダビデの町」です。主の天使は、旧約聖書で語られていた通りこの「ダビデの町」で「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げたのです。前々回、2・1-7節を読んだときにも触れましたが、当時のローマ帝国では皇帝アウグストゥスが「救い主」と呼ばれていました。しかしルカは、お生まれになった御子こそ私たちの「救い主」だと語ります。そして「この方こそ主メシアである」と語るのです。「主メシア」とありますが、もともとの文では「メシア」と「主」という二つの言葉が並べられています。「メシア」は、旧約聖書のもともとの言葉で「油注がれた者」を意味し、新約聖書のもともとの言葉では「キリスト」と訳されます。旧約聖書で「油注がれた者」とは神さまによって特別な役目を与えられた者でした。そしてユダヤ人は、預言者たちが約束した救いを実現する人物を「油注がれた者」つまり「メシア」として待ち望んでいたのです。また「主」とは神さまの名前です。つまりイエスが主であるとはイエスが神であることにほかならないのです。「この方こそ主メシアである」とは、「救い主」が油注がれた者、つまり「キリスト」であり、また「主なる神さま」であると言われているのです。ここにお生まれになった御子がどのような方であるかがはっきり示されています。私たちの救い主、主イエス・キリストがまさに「今日」お生まれになったことをルカは告げているのです。

布と飼い葉桶
 お生まれになった御子が私たちの救い主であり、キリストであり、主であることのしるしとして、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう」と天使は告げました。しかしこのことは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が珍しいから救い主のしるしとなるということではありません。主の天使が「これがあなたがたへのしるしである」と告げたから、つまり神さまがそのようにお語りになったから、「布」と「飼い葉桶」が羊飼いたちにとってしるしとなったのです。生まれた子どもを布にくるむのは、当時普通のことであったようです。他方、飼い葉桶に寝かせるのは普通のことではありませんでした。しかし神さまの言葉が与えられていなかったならば、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけたとしても、それが救い主が生まれたことのしるしとは気づかなかったに違いありません。それどころか「布」と「飼い葉桶」が救い主誕生のしるしであると誰が考えたでしょう。乳飲み子がもっと高価な服に包まれ、豪華な寝床に寝かせられていたならば、誰もが目を引かれていたかもしれません。しかしそうではありませんでした。神さまの言葉が与えられていたからこそ、羊飼いたちは「布」と「飼い葉桶」をしるしとして探すことができたのです。この「布」と「飼い葉桶」は、お生まれになった御子がどのように地上を歩まれるかを指し示しています。主イエスは、地上の歩みにおいてどこまでも低くなってくださいました。飼い葉桶の中の布にくるまれた乳飲み子ほど弱い存在はありません。神の独り子であるお方が私たちの救いのためにそれほどまでに低く、弱くなってくださった。ルカが語る主イエス誕生はそのことを指し示しているのです。

ベツレヘムへ行こう
 主の天使が語り終えると「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」と13節にあります。その賛美が14節にある「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」です。賛美が終り、天使たちが天に去ると羊飼いたちは互いに言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」ここで羊飼いたちは「主の天使が」ではなく「主が」「知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言っています。羊飼いたちにとって「主の天使」が告げたことは、主なる神さまが知らせてくださったことそのものなのです。また「その出来事」は「その実現した言葉」とも訳せます。主が知らせてくださったその出来事を見るとは、主が知らせてくださったその言葉の実現を見ることなのです。神さまの言葉が与えられしるしが示され、羊飼いたちは「ベツレヘムへ行こう」、「神さまの言葉の実現を見よう」と言ったのです。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。この羊飼いたちの「行こう」「見よう」に彼らの信仰が現れています。与えられた御言葉を信じるとは、その御言葉が指し示すしるしを「行って」「見る」ことです。それも「急いで行って」探し出すのです。しるしが与えられたのにのんびりしているというのではありません。しるしが与えられるやいなや探しにいくのです。この「急いで」という言葉は、マリアが「急いで」エリサベトへ会いに行ったことを想い起こさせます。親類のエリサベトが男の子を身ごもっているというしるしを与えられたマリアは、「急いで」彼女のところへ向かいました。羊飼いもマリアもしるしが与えられると「急いで」出かけていったのです。ここに信仰があります。神さまの言葉に信頼し、指し示されたしるしを「急いで行って」「見る」ことこそ信仰にほかならないのです。羊飼いたちはベツレヘムへ向かいました。しかし「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」がベツレヘムのどこにいるかまでは知らなかったでしょう。「探し当てた」という言葉は、そのことを示しています。それでも羊飼いたちは互いに「行こう」「見よう」と言ってベツレヘムへと出かけたのです。

知らされた者が知らせる者へ
 「行って」「見る」信仰は、神さまの言葉を信じて歩む者たちの生き方を変えます。「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」を探し出した羊飼いたちは、「この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」と17節にあります。この「天使が話してくれたこと」は、「天使が話してくれた言葉」とも訳せます。天使が話してくれた言葉、つまり神さまの言葉を聞き、信仰を持ってそれを受けとめた者は、主から告げられたことを今度は主に代わって人々に知らせるのです。出かけて行ってしるしを見て、神さまの言葉は正しかったと確認するだけで終ってしまう、そのようなことはないのです。福音を知らされた者は、福音を知らせる者へと変えられます。羊飼いたちが主から告げられたことを人々に知らせたとき、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。なぜ聞いた人たちは皆、不思議に思ったのでしょうか。「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」が珍しいから不思議に思ったのではありません。羊飼いたちが人々に告げ知らせたこと、そのことそのものが不思議に思えたのです。それは、11節で主の天使が彼らに告げたことです。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」このことこそ「大きな喜び」であり福音でした。しかし聞いた者は皆、この「大きな喜び」が、福音が分からなかったのです。私たちは12月にクリスマスを迎えると、主イエスの誕生を「大きな喜び」として祝います。しかしルカは、救い主がお生まれになったと聞いた者たちが皆、喜ぶのではなく不思議に思ったと語るのです。それは、人々が救い主がお生まれになったことを受け入れなかったからです。このことは、なにも最初のクリスマスに限ったことではありません。私たちが生きている社会も基本的には変わりません。クリスマスシーズンになると街はイルミネーションで溢れ、そこにはうきうきわくわくとした喜びとお祝いのムードが漂っているように思えます。しかしそこに、本当の「大きな喜び」があるわけではありません。見せかけの喜びがあるだけです。なぜならイルミネーションで溢れた街の中にいるほとんどの人たちは、クリスマスに救い主がお生まれになったことを知らないからです。だからこそ教会は、御子がお生まれになったことこそクリスマスの本当の喜びであると、告げ知らせるのです。羊飼いたちと同じように。今日、神さまが私たちに知らせてくださったこの「大きな喜び」を人々に知らせるのです。

守り続ける信仰
 聞いた者が皆、羊飼いたちの話を不思議に思う中で、マリアだけは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と語られています。本日の箇所においてマリアは脇役であると言ってよいでしょう。彼女について語られているのは19節だけです。しかしここで描かれているマリアからも、信じるとはどういうことかを私たちは知らされるのです。「これらの出来事」とは、「これらの言葉」とも訳せます。マリアは羊飼いたちが告げた言葉を心に納めました。「心に納めた」とは、羊飼いたちが知らせたことを聞いて、そのことを自分の胸の内に留めほかの人には話さなかった、ということではありません。「納めた」と訳された言葉は、もともと「保護する」とか「守る」ことを意味します。つまりマリアは羊飼いたちが知らせた言葉を心の中で保護したのです。それは一時的な保護ではありません。彼女は告げ知らされた「大きな喜び」を思い巡らしつつ心の中で守り続けたのです。それは決して楽なことではありませんでした。少年となった我が子の言動が分かりませんでした。また我が子の十字架上の死は、まさに心を剣で刺し貫かれたように思えたに違いありません。それでもマリアは告げ知らされたこと、つまり生まれてきた御子が救い主であることを心の内に固く守り続けたのです。だからこそルカは、ルカ福音書に続く使徒言行録で主イエスの復活と昇天の後に、マリアが弟子たちと一緒に心を合わせて熱心に祈っていた、と語るのです。彼女も最初のキリスト者の群れの一人であったに違いありません。主イエス・キリストが私たちの救い主であると信じることは、私たちがそのことを固く守り続けることでもあるのです。信じてみたり信じなくなったりするのではなく、どんなことがあっても、どれほど揺らいだとしても、マリアのように主イエス・キリストが私たちの救い主であることを決して忘れることなく守り続けるのです。これこそ信仰にほかならないのです。

神をあがめ賛美する者へ
 「行って」「見る」信仰は、主から知らされたことを人々へ知らせる者となるだけではありません。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。彼らはベツレヘムへ向かったときは「行こう」「見よう」と互いに言いました。そしてベツレヘムへ行き、しるしである「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」を見つけました。そのしるしによって、天使が告げた通り自分たちのために救い主が生まれたことを信じた羊飼いたちは、ベツレヘムから帰るときは神をあがめ、賛美したのです。このことは、彼らが神をあがめ賛美する者へと変えられたことを意味します。13節に「この天使に天の大軍が加わり、神を賛美」したとありました。この「賛美した」という言葉が、羊飼いたちが「賛美しながら帰って行った」という文章の「賛美しながら」と同じ言葉です。また14節の「いと高きところには栄光、神にあれ」とは、天におられる神さまに「栄光」をささげることです。羊飼いたちが「神をあがめた」という言葉は、まさに彼らが神さまに「栄光」をささげたことを意味します。つまり彼らは、天の大軍の賛美を自分たちの賛美としたのです。羊飼いたちと共に私たちも今日、神さまの言葉を与えられ、示されたしるしを「行って」「見た」者です。天の大軍の賛美を聞いた者です。そのような私たちは、この礼拝からそれぞれの生活の場へと帰っていくとき、羊飼いたちと同じように、天の大軍の賛美を自分たちの賛美とするのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」私たちのために救い主がお生まれになった、このことこそ私たちの「大きな喜び」であり福音です。私たちはこのことを信じて歩むとき、神さまをあがめ、賛美する者へと、そのような信仰生活を送る者へと変えられていくのです。

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