夕礼拝

神を畏れる

「神を畏れる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章1-21節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第12章18-29節
・ 讃美歌 : 127、457

自由の道しるべである十戒
 私たちはこれまで、月に一度、夕礼拝において十戒を読んできました。十戒が語られている出エジプト記第20章に入ったのは昨年の8月ですから、ちょうど一年かけて十戒を読んできたことになります。十戒は、主なる神様がモーセを通してイスラエルの民にお与えになった戒めです。そこには、主なる神の民とされたイスラエルが、神様との間に、また人間どうしの間にどのような関係、交わりを持って生きるか、についての教えが語られています。そういう意味で十戒は、聖書に語られている信仰に生きる全ての者にとって大切なみ言葉です。この十戒を守って生きることは、厳しい戒律によってがんじがらめに縛られるようなことではありません。むしろそれによって、神様が与えて下さる本当の自由に生きることができるのだ、ということをこれまで繰り返し語ってきました。十戒は、私たちが、神様と、そして隣人との間に本当に良い交わりを持ち、神様と隣人とに喜んで仕え、祝福された自由な人生を送るために与えられている、自由の道しるべなのです。

主なる神が降られた
 これまで十戒を毎月一つずつ取り上げてお話をしてきたために、これがどのような場面において与えられたのかについての記憶が薄れてしまったかもしれません。本日はもう一度、十戒が与えられた場面を振り返って見たいと思います。第十の戒めが語られた後の18節にこうあります。「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た」。「山」というのはシナイ山です。イスラエルの民は、奴隷とされ苦しめられていたエジプトを脱出して、シナイの荒れ野を旅していく中で、この山において十戒を与えられたのです。この山が、雷鳴、稲妻、角笛の音、煙に包まれたことは、19章16節以下に既に語られていました。16~20節を読んでみます。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った」。ここを読めば分かるように、この雷鳴、稲妻、角笛の音、煙は、単なる自然現象、火山活動ではなくて、主なる神様がこの山に降られたことを示している現象なのです。

山が震えおののく
 聖書に語られている主なる神様は、天におられる方です。天に、というのは、空の上の方に、ということではなくて、私たちが生きているこの地上の世界、自然界を超えたところに、それらを超越した方としておられる、ということです。神様は天地の全てをお造りになった方です。お造りになったということは、それらの全てを超えて支配しておられるということです。ですから主なる神様は、この世界の一部としてこの世界の中に住んでおられる方ではないのです。この世界は、人間は勿論、神秘的な大自然も、神様がそこにおられる場ではないのです。シナイ山が「神の山」と呼ばれることがありますが、それは、神様がそこに住んでおられる、ということではありません。神様がそこに降って来てご自身を現し、イスラエルの民と出会って下さったから、そこが「神の山」と呼ばれたのです。ですから神の山は神の住処ではありません。神様がこの世界のどこかにお住みになることはないのです。しかし、神様はある時に、ある場所に降って来られます。その時その場所は、天地を造られた神様がそこにおられる場となるのです。それは、本来起り得ないことが起っている、ということです。それゆえにそこには、激しい動揺が起るのです。雷鳴、稲妻、角笛の音、煙は皆、自然界の動揺の徴です。今読んだ19章18節の終わりには、「山全体が激しく震えた」とあります。主なる神様が降られることによって、被造物であるこの世界は激しく震えるのです。「動かざること山の如し」と言われる、最も磐石なものであるはずの山が、世界の創造主の前では震えおののくのです。

神の前では滅びるしかない人間
 ここには、天地の造り主であられる神様と、被造物であるこの世界、そして人間との基本的な関係が示されています。被造物であるこの世界は、自然も人間も含めて、本来、主なる神様の前に平気で立てるものではないのです。神様のみ前に出るなら、自然も、私たち人間も、動揺し、震え上がらずにはおれないのです。天地の全てをお造りになった生けるまことの神の前ではそうなのです。動揺せず、震え上がることなく、気楽にその前に立ち、近付くことができるとしたら、それは相手が生きておられるまことの神ではなくて、人間が自分の都合に合わせて考え、造り出した偽物の神だということです。この世界のどこかに、例えば険しい神秘的な山や、樹齢何千年という木に、また誰か偉い人間に宿る神は、私たちを動揺させることはありません。それは生きて働いておられる神ではないからです。しかし生きておられるまことの神が降って来られ、人間と出会われる時、私たちは、その神の前でもはや自分が立ちゆかないこと、倒れ滅びるしかないことを思い知らされ、動揺するのです。20章18節の後半から19節にかけてはそのことを語っています。「民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます』」。イスラエルの民は恐れ、主が降られた山から遠く離れて立つのです。つまり神様に近付くことができないのです。そして彼らは、「神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」と言っています。それは、神様から直接語りかけられたら、罪人である我々は死んでしまう、ということです。これが、私たち罪人と主なる神様の基本的な関係です。私たちは、神様と直接交わりを結ぶことができる者ではないのです。神様を自分の懐の中に納めておいて、必要な時にその守り、祝福という「ご利益」だけを受けて生きることはできないのです。そういうことが出来る神は偽物の神です。生きておられるまことの神に対しては、私たちはその前に立つことができない、近付くことすらできないのです。旧約聖書はそのことを様々な箇所で語っています。例えばイザヤ書の第6章1~5節にこうあります。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た』」。このように、万軍の主なる王の前では、罪に汚れた人間は本来滅びるばかりなのです。

交わりを築いて下さる神
 人間と神様のこのような基本的な関係を踏まえる時、主なる神様がシナイ山に降り十戒を与えて下さったことの大いなる恵みが見えてきます。十戒は、最初に申しましたように、神様と人間との関係を、そして人間どうしの関係を整えるために与えられたものです。これが与えられたことによって、人間が神様のみ前に出て、神様との交わりを持ちつつなお生き続けるための道が開かれたのです。その道はどのようにして開かれたのでしょうか。人間が自分の清さ、信心深さ、正しさなどの条件を整えることによって神様の前に出ようとすることによっては、この道は決して開かれません。人間が神様との交わりを持ちつつなお生き続けるための道は、人間の側の条件を整えることによってではなく、神様がその交わりを築き与えて下さることによってこそ開かれるのです。神様がその道を開いて下さったことは、十戒全体の序文である20章2節から分かります。そこには「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とありました。ここに十戒の土台がある、とこれまでにも繰り返しお話ししてきました。主なる神様がイスラエルの民を、エジプトの地、奴隷の家から導き出し、救い出して下さったのです。神様はこの救いの恵み、解放のみ業によって、イスラエルの民をご自分の民とし、彼らとの関係を築き与えて下さったのです。この神様の救いのみ業を前提、土台として与えられたのが十戒です。それゆえに十戒は、神様との交わりを得るための条件ではなくて、神様が恵みによって築き与えて下さった交わりを感謝し、神様との関係に生きていくための道しるべなのです。
 神様が築き与えて下さる交わりのことを、聖書は「契約」と呼んでいます。神様はこのシナイ山でイスラエルの民と契約を結んで下さったのです。それは人間どうしの商売の契約のような、対等な関係における契約ではありません。神様が恵みによって与えて下さる契約です。しかしそうではあっても契約と言うからには、双方にある義務を生じさせるものでもあります。神様は契約を結んで下さることによって、イスラエルの民に対して、彼らをご自分の民として愛し、育み、守るという義務を負って下さったのです。

仲保者が必要
 主なる神様はこのように、神様の方から、人間と交わりを結んで下さいます。けれども、先ほど申しましたように、人間は主なる神様の前に立つことが本来できない者です。ですからそこには、神様と人間の間の仲立ちをする存在が必要なのです。ここではモーセがその役割を果しています。イスラエルの人々はモーセに、「あなたがわたしたちに語ってください」と言っています。それは、神様が直接語りかけるのではなくて、あなたが、そのみ言葉を取次いで下さい、ということです。神様と私たちの間に立って下さい、ということです。この場面をもう一度語っている申命記第5章23節以下には彼らの思いがよりはっきりと示されています。「山は火に包まれて燃え上がり、あなたたちが暗闇からとどろく声を聞いたとき、あなたたちの部族の長と長老は皆、わたしのもとに来て、言った。『我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。一体誰が火の中から語りかけられる、生ける神の御声を我々と同じように聞いて、なお生き続けているでしょうか。どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。我々は、それを聞いて実行します』」。イスラエルの人々は、モーセという仲立ち、仲保者を通して、神様のみ言葉を聞き、主なる神様との交わりに生きる者とされたのです。

神を畏れる
 モーセは本日の箇所の20節で、神様のみ心をこのように人々に語り伝えています。「モーセは民に答えた。『恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである』」。神様はあなたがたを滅ぼそうとしておられるのではないのだから、恐れることはない、安心しなさい、ということです。しかしそれだけではありません。神様はあなたがたを試そうとしておられる、とも言っています。何を試そうとしているのかというと、あなたがたが、十戒に示されている神様のみ心をしっかり守るかどうか、です。そのことを神様はしっかり見ておられるのだ、というのです。また、そのために神様はあなたがたの前に「神を畏れる畏れ」を置いておられる、とも言っています。それは、神様が自分をしっかり見ておられることを知り、畏れ敬いつつみ心に従い、罪を犯さずに生きるように、という勧めです。これらのモーセの言葉をまとめるなら、「主なる神様はあなたがたを滅ぼそうとしておられるのではない、だから、恐れずに生きなさい。しかし同時に、神様への畏敬の念を持って、神様がいつでも見ておられることを覚えながら、み心に従う努力をしていきなさい」ということになります。そのような歩みのための道しるべとして、十戒が与えられているのです。

焼き尽くす火
 生きておられるまことの神様のみ前に、本来私たち人間は立つことができない、その私たちが神様との交わりに生きることができるようになるには、仲立ちをする者、仲保者が必要である、このことは、新約聖書においても変わることなく受け継がれている聖書の中心的なメッセージです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第12章18節以下は、出エジプト記第19章20節の、シナイ山における神様とイスラエルの民の出会いの場面を踏まえて語られています。18~20節にこうあります。「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、『たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない』という命令に耐えられなかったのです」。ここに、シナイ山におけるイスラエルの民の恐れの姿が振り返られています。生きておられるまことの神様のみ前に出ることの恐ろしさが見つめられているわけです。そのことは、29節の「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」という言葉において頂点に達しています。これが、イエス・キリストによる神の愛を基本的に語っている新約聖書の言葉であることに注目しなければなりません。新約聖書においても、主なる神様は私たちにとって「焼き尽くす火」のような方なのです。それは、神様は何でもかまわず焼き尽くす怒りの神であるということではなくて、神様のみ前に出る時に、罪人である私たちは焼き滅ぼされずにはおれない、神様はそのように、人間を、またこの世界を裁き、滅ぼす力と権威を持っておられる、ということです。神の愛は、この神の裁きの力と権威の否定ではありません。「神は愛である」というのは聖書の基本的な教えですが、それは、神様は私たちが何をしても、どんな罪を犯してもおかまいなしに救って下さる、ということではありません。「神の愛」を、もしも私たちが、神様を甘く見ても大丈夫だ、神様との関係、交わりをいいかげんにしておいてよいのだ、と思うことを自分に許す口実にしてしまうことがあるなら、この「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」というみ言葉をよくかみしめなければなりません。私たちが甘く見ることのできる神、関係をいいかげんにしておける神は、愛の神でも何でもない、偽物の神、人間が勝手に造り出した神なのです。そのような神は私たちに動揺を与えません。私たちを震えさせません。生きて働いておられる神ではないからです。人間が造り出したこの偽物の神、偶像は、教会の外にだけいるのではありません。私たちが信じている神が、実はその偽物の神、私たちが勝手に造り出した偶像となってしまっている、ということがいくらでも起るのです。私たちは神様を「父なる神」と呼びますが、自分の父親の前に出るように平気な顔で神様の前に出られるように思っているならば、それは「焼き尽くす火」とは似ても似つかない偽物の神だと言わなければならないでしょう。

新しい契約の仲介者イエス
 私たちは、自分の清さ、正しさ、信心深さ、といったものによって神様の前に出ることはできません。そのような人間の思い上がりに対して、生きておられるまことの神様は、「焼き尽くす火」として臨まれるのです。けれども、まさにこのシナイ山においてそうだったように、神様は、そのような罪人である私たちに、神様の方から、交わりのみ手を差し伸べて下さるのです。契約を結び、私たちを愛し、育み、守る義務を負って下さるのです。その恵みが、神様の独り子イエス・キリストにおいて決定的に実現したことを新約聖書は語っています。本日のヘブライ人への手紙第12章も、そのことを語っています。ここには、古い、シナイ山で与えられた契約が、新しい、主イエス・キリストによる契約にとって代わられたことがここに語られているのです。18、19節に「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません」とあります。私たちは、イスラエルの人々が、「神様から直接語りかけられたら滅びるしかない」と思ったあの古い、シナイ山における神様との交わりに生きているのではないのです。そうではなくて22~24節、「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」。いろいろな言葉が並べられていますが、要するに、主イエス・キリストによる神様との新しい契約、つまり新しい交わりへと私たちは近付くことを許されているのです。その交わりにおいて、神様と私たちの間の仲立ちをして下さっているのが、主イエス・キリストです。モーセに代って主イエス・キリストが、新しい契約の仲保者となって下さったのです。その契約は、主イエスの十字架の死と復活によって打ち立てられたものです。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」というのは、主イエスが十字架で流された血です。アベルは、兄カインによって殺されました。何の罪もないのに殺された人類最初の人です。創世記第4章10節には、その流された血が、土の中から、罪の裁きを求めて神様に向かって叫んでいる、という言い方がなされています。主イエス・キリストも、罪なくして十字架につけられて殺されました。神様の独り子であられる主イエスが十字架の上で流された血は、アベルの血よりも立派に、力強く語っているのです。アベルの血は、罪人の裁きを求めて語りました。しかし主イエスの血は、主イエスの十字架の死による私たち罪人の赦しを求めて語っているのです。主イエスが私たちのために血を流して死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、恐れることなく神様のみ前に出ることができるようになったのです。私たちは、この主イエス・キリストの十字架の死と復活によってこそ、神様の民とされ、神様との交わりに生きる者とされているのです。神様を父と呼ぶことも、この主イエスの十字架の死による罪の赦しによってこそ可能とされているのです。
 この主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを抜きにして、主イエスなしに私たちが気楽に出会い近付くことができる神は、全て偽物の、人間が自分の都合によって造り出した神です。主イエス・キリストによって私たちが出会い、近付くことを許されている神様は、焼き尽くす火であると同時に限りない赦しをもって臨んで下さる方であり、私たちを動揺させ、震えさせることを通して、私たちの力や正しさ、清さによるのではない、ただ神様の恵みによる交わりを結んで下さる方なのです。この主イエス・キリストによってこそ、私たちは、生きておられるまことの神様との交わりを与えられます。私たちは、十戒が道しるべとして指し示す神様との、また隣人との良い交わりの道を、この主イエス・キリストの恵みの下でのみ、歩んでいくことができるのです。

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