夕礼拝

アカンの罪

「アカンの罪」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第7章1-26節
・ 新約聖書:使徒言行録 第5章1-11節
・ 讃美歌:134、455(1~4)

ヨシュアの不信仰
 本日はヨシュア記の第7章からみ言葉に聞きます。ヨシュア記には、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡り、神が彼らに与えると約束して下さったカナンの地を得ていく歩みが記されています。ヨルダンを渡って最初に攻め取った町はエリコでした。そのことは第6章に語られています。主なる神のみ力によって、エリコの堅固な城壁が崩され、イスラエルはそこを占領することができたのです。そのことについては8月にお話をしました。
 エリコに続いて彼らが占領しようとしたのがアイという町でした。エリコの時と同じようにヨシュアは先ずこの町に斥候を遣わします。そのことが2節以下に語られています。遣わされた斥候はアイの様子を調べて報告します。2節の終わりから3節にかけてです。「彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って来て言った。『アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません』」。つまりアイはエリコに比べてずっと攻め落としやすい、楽な相手だと思われたのです。そこで約三千の兵がアイに攻め上りましたが、彼らはアイの守備隊に打ち破られてしまいました。それを見たイスラエルの人々の「心は挫け、水のようになった」と5節にあります。そしてヨシュアは神にこのように祈りました。7節以下です。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることで満足していたのです。主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、わたしは何と言えばいいのでしょう。カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」。このヨシュアの祈りは、神の民イスラエルの指導者らしからぬ、弱さと不信仰の言葉です。彼は主に文句を言っています。主がヨルダンを渡らせ、カナンの地へと民を導いて下さったその恵みを、余計なお世話だったかのように言っています。それはあの荒れ野の旅路において、水が無くなったり食糧が不足した時に、人々が、エジプトでの奴隷状態から解放して下さった主なる神に文句を言い、こんなことならエジプトにいた方がよかったと言ったのと同じです。指導者であるヨシュア自身がそのような心理状態に陥ってしまったのです。ヨシュア記第1章で主なる神は彼に「強く、雄々しくあれ」とおっしゃいましたが、ここで彼は強くも雄々しくもない姿をさらけ出してしまったのです。
 私たちはこのことを、ヨシュアは前任者であるモーセに比べて信仰においても、指導者としての資質においても劣っていた、というふうに捉えるべきではないでしょう。モーセだって最初は同じようなことを言っていたのです。出エジプト記の5章22節以下にはモーセのこんな言葉があります。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。モーセもこのような弱さや不信仰から次第に育てられていって偉大な指導者になったのです。ですから私たちはここで、モーセやヨシュアも、思ったように事が運ばず苦しみに陥る中で、神の恵みを見失い、約束を疑い、神を信じたことは無駄だったのではないかという疑いに陥ったことがあった、ということを見つめるべきでしょう。信仰をもって生きる人生は、私たちの思い通りにはいかないものです。自分の力には余ると思われていたことが神の導きによって実現することを目の当たりにすることもあれば、ここに語られているように、これは大丈夫だ、出来る、と思っていたことがうまく行かず、つまずいてしまうこともあるのです。

主に献げるべきもの
 さて、イスラエルがアイを攻め落とすことが出来なかったのは、民の中に罪を犯した者がいるからだ、ということを主はヨシュアにお告げになりました。その罪とは11節によれば「わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした」ということでした。それは6章におけるエリコ攻略の時のことです。6章18、19節には、エリコを攻め落とすに際して注意すべき命令がこのように語られていました。「あなたたちはただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽くすべきものの一部でもかすめ取ってイスラエルの宿営全体を滅ぼすような不幸を招かないようにせよ。金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ」。つまりエリコの町の金、銀、銅器、鉄器は主への献げ物として主の宝物倉に納め、他のものは全て滅ぼし尽くすことが命じられていたのです。滅ぼし尽くすとは具体的には24節にあるように全てを焼き払うことです。金、銀、銅器、鉄器以外はどんなに高価で立派なものでも全て焼き尽くすように命じられていたのです。それらのものは「滅ぼし尽くしてささげるべきもの」と言われています。滅ぼし尽くすというのは単に廃棄処分にすることではなくて、主なる神に献げる、ということなのです。主がイスラエルの民の手に渡されたエリコの町の全てのものは主のものであって、主に献げられるべきものなのです。金、銀、銅器、鉄器は焼くことができないので主の宝物倉に納めて主のものとし、それ以外のものは焼き尽くすことによって全てを主にお献げするように命じられていたのです。

アカンの罪
 ところが、民の中のある人が、その一部を自分のものにしてしまったのです。その人の名はアカンと言いました。彼は20、21節で告白しているように、エリコの分捕り品の中の一枚の美しい上着と、銀二百シェケルと、五十シェケルの金の延べ板を自分の天幕に隠していたのです。それがアカンの罪でした。このような罪を犯した者がいたために、彼らはアイを攻め取ることができず、かえって打ち破られてしまったのです。11-13節において主はこう言っておられます。「イスラエルは罪を犯し、わたしが命じた契約を破り、滅ぼし尽く してささげるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにした。だから、イスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、敵に背を向けて逃げ、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。立って民を清め、『明日に備えて自分を聖別せよ』と命じなさい。イスラエルの神、主が、『イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない』と言われるからである」。アカンの罪のゆえに、イスラエルの民の中に「滅ぼし尽くしてささげるべきもの」が残ってしまっているのです。それゆえに民全体が「滅ぼし尽くされるべきもの」になってしまっている。だから敵に打ち勝つことが出来なくなったのです。民の中に残っている「滅ぼし尽くすべきもの」を除き去るまでは、主が共にいて下さらないので、敵に立ち向かうことは出来ないのです。
 このようにアカンの罪はイスラエルの民全体を危機に陥れています。アカンは、神の民イスラエルにおいて「こんなことしたらアカン」ことをした代表的な人となったのです。そのアカンの罪、アカンかったこととは、本来神のものであり、神にお献げすべきものを自分のものにしてしまった、ということです。エリコの町を攻め取ることができたのは全て主なる神の恵みによることでした。主がエリコの堅固な城壁を崩し、勝利を与えて下さったのです。その恵みに感謝し、主に従って生きることの表れとして、エリコの全てを主に献げることが命じられていたのです。ところがアカンは主の恵みによって与えられたものを自分のものにしてしまった。主なる神と同胞たちを騙して、主に献げるべきものを盗み取ったのです。

アナニアとサフィラの罪
 これと同じ罪を犯した人のことが新約聖書にも語られています。本日共に読まれた使徒言行録第5章に出て来るアナニアとサフィラの夫婦です。彼らは初代の教会の信者でしたが、自分たちの土地を売ってその代金を教会に献金しました。それ自体は素晴しい信仰の行為に見えました。ところが彼らは、その代金をごまかしており、実際に売れたお金の一部を、全部と偽って献げたのです。誤解を避けるために確認しておきますが、教会が、土地を持っている者はそれを売ってその全額を献金しなさいと命じたり勧めたりしていたのではありません。使徒ペトロが4節で「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」と言っているように、土地を売らずに自分ものとしておいてもよかったし、売れたお金の一部を献金します、ということでもよかったのです。ところが彼らは、代金の一部を全部と偽って献げたのです。全部を神に献げますと言いながら、一部のみを献げ、残りを自分のものにしたのです。これも、神と人とを偽って、神のものを盗み取ることです。彼らもアカンと同じ罪を犯したのです。

私(藤掛)の罪
 このようにアカンも、アナニア、サフィラの夫婦も、神のものを盗み取るというとんでもない罪を犯しました。しかし私は、私自身がこれと同じことをしたことを鮮明に覚えています。小学生の頃のことです。私はお小遣いの中から毎週ある漫画雑誌を買っていました。その頃一冊五十円ぐらいだったと思います。ところがある時、何かで無駄遣いをしてしまったのでしょう。それを買うお金が足りなくなってしまいました。正確に言うと、次の週に出る号を買うのに丁度のお金しかなくなってしまったのです。でもその前に日曜日の教会学校があります。そこでいつも10円の献金を献げていました。それを献げてしまうと雑誌を買うお金が足りなくなります。どうしよう。私は献金をしませんでした。しかも、まことに恥ずかしいことですが、礼拝で献金の箱が回って来た時に、入れるふりをして手を突っ込んだだけでお金は入れなかったのです。全部献げたふりをして一部だけを献げたアナニアとサフィラと全く同じ偽りの行為です。またそれは神に献げるべきものを自分のものにしてしまったという点でアカンがしたことと同じです。これは子供の頃の他愛もない話だと言えるかもしれませんが、私はこの時のことをはっきりと覚えています。それは、自分が神と人とを欺いて、神のものとすべきものを自分のものにしてしまったという、このことの深刻な本質を子供心にも感じていたからでしょう。そして考えてみればそれは子供の頃だけのことではない。今だって、神よりも自分を優先にし、神にお帰しすべきものを自分のものとしてしまう罪を繰り返していることを思わざるを得ないのです。

罪人は滅ぼされなければならない
 自分がアカンと同じことをしていることを示される時、ヨシュア記7章のこの話は、また使徒言行録5章の話は、私たちに衝撃を与えます。このような罪を犯した者は、神によって厳しく裁かれているのです。イスラエルの人々の間で、罪を犯した者を見つけ出すためにくじが引かれ、それがアカンに当ります。くじを引くことは神のみ心を問うための手段です。神によってアカンが指名され、アカン自身もその罪を認めたので、彼と家族全員が石で打ち殺され、その持ち物、家畜、全財産が焼かれたのです。アナニアとサフィラもペトロの足もとに倒れて死んだとあります。神のものを偽って自分のものにしてしまう罪を犯した者はこのように殺されなければならない、だとすれば私は石で打ち殺されなければならないのです。自分のために神をないがしろにする罪はこのように死に価するものだ、と聖書は教えているのです。
 アカンの家族までも皆殺されてしまったことに私たちはつまずきを覚えます。まるで江戸時代の、見せしめのために一族郎党が皆殺しにされしまう話のようです。このことについては旧約聖書の中でも変遷が見られます。エゼキエル書18章を読むと、人の罪はそれを犯した人本人が負うべきものであって、家族がそれによって罰を受けることは主なる神のみ心ではない、と語られています。聖書の教えは基本的にそういう方向に進んでいると言えるのですが、しかしここに語られているように、一人の罪によって家族全体が滅ぼされることによって示されている大事な事柄もあると思います。それは、神と人とを欺き、神のものを盗み取る罪は、自分一人を滅ぼすのみでなく、家族を、ひいては民全体を危機に陥れ、滅びをもたらす、ということです。アカンの罪によってイスラエルの民全体が「滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった」という12節の主の言葉はそのことを語っているのです。

アコルの谷
 アカンとその家族がその罪のゆえに殺された場所は「アコルの谷」と呼ばれるようになったと最後の26節にあります。その名の起源はアカンがイスラエルの民に「災いをもたらした」ゆえに主が彼に「災いをもたらす」ということから来ている、と25節にあります。「災いをもたらす」という言葉が「アーカル」なのです。神に帰すべきものを奪って自分のものとする罪は民全体に災いをもたらす、その罪人は裁かれ、滅ぼされなければならない、アコルの谷はそのことを表す場所となったのです。つまりまさに私自身が、アコルの谷で打ち殺されなければならない者なのです。
 旧約聖書には、ヨシュア記以外に、このアコルの谷が出て来る箇所が二箇所あるので、そこを読みたいと思います。一つはイザヤ書第65章10節です。「シャロンの野は羊の群がるところ/アコルの谷は牛の伏すところとなり/わたしを尋ね求めるわが民のものとなる」。ここはその前後を読んで頂けば分かりますが、神の救いの実現を約束している箇所です。その救いの約束として、罪人が死ぬべき場所であるアコルの谷が、牛の伏すところ、つまり豊かな牧草地に変わると語られているのです。もう一箇所はホセア書第2章17節です。16節から読んでみます。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって/荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与え/アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき/エジプトの地から上ってきた日のように」。ここにはもっとはっきりと、アコルの谷が希望の門として与えられると語られています。ここも前後を読んで頂きたいのですが、神がイスラエルの民の背きの罪を赦し、悔い改めさせて、もう一度ご自分の民として立てて下さるという恵みが語られています。その救いにおいて、罪人の滅びの場であるアコルの谷が希望の門となる、つまり死をもって償わなければならない罪が赦されて、新しく生かされることが見つめられているのです。

主イエスの十字架による救い
 この救いの恵みは主イエス・キリストによって実現しました。それが新約聖書の語るキリストの福音です。主イエス・キリストによって、罪人が赦され、新しく生きることができるようになり、神の民として回復されたのです。その大転換をもたらしたのは、神の子である主イエスの十字架の死でした。主イエスが、私たちの罪を全て背負って、私たちに代って十字架の死刑を受けて下さったのです。神に背く罪人は裁かれ、死ななければならない、アコルの谷が指し示すその真理は新約聖書にも貫かれています。しかしその裁きと死が、罪のない、神の独り子であられる主イエス・キリストの上に起ったのです。アコルの谷における滅びを、主イエス・キリストが私たちに代って引き受けて下さったのです。アコルの谷は、キリストの十字架が立ったゴルゴタの丘によって取って代わられたのです。それによってアコルの谷が希望の門となったのです。アカンと同じ罪を犯した、アコルの谷における滅びこそ相応しい私が、滅ぼされることなく生きることを許されているのは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しによってなのです。
 神に帰すべきものを偽って自分のものとしてしまった罪人は裁かれ、滅ぼされなければならない。アカンの話はそのことを示しています。そういうことを語っているこの箇所を礼拝において読み、説教するのはどうなのだろうかとも思いました。けれども先程申しましたように、ここに語られているのはまさに私自身のことです。そしておそらく私だけでなく、皆さん一人ひとりのことでもあるでしょう。私たちはそのような自分の罪から目を背けてはならないと思うのです。しかしこの箇所に語られているのはそのことだけではありません。ここには、主イエス・キリストが何故十字架にかかって死ななければならなかったのかが語られているのです。それは、罪人は神によって裁かれ、死ななければならないからです。だから主イエスは十字架の上で死なれたのです。主イエスが罪人だったのではなくて、私たちが罪のゆえに受けなければならない滅びを主イエスが代って引き受けて下さったのです。主イエスの十字架の死によってこそ、私たちは、アカンのようにアコルの谷で滅ぼされるのでなく、主イエスの十字架と復活という希望の門を通って、神による救いにあずかり、神に感謝し、神をほめたたえつつ生きる者とされたのです。かつて神に献げるべきものをごまかして自分のものにしてしまった私が、今、主イエス・キリストの福音を、神の救いの恵みを喜びをもって語る者とされているのも、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦し、その救いのおかげです。そのような救いが、私たち一人ひとりに与えられているのです。

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