主日礼拝

神からのほまれ、人からのほまれ

「神からのほまれ、人からのほまれ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-11節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第5章41-47節
・ 讃美歌:9、117、355、96、458

ユダヤ人との対立
 本日ご一緒に読むヨハネによる福音書第5章41節以下は、先週読んだ31節以下と同様に、とても分かりにくい箇所です。語られていることが抽象的であり、また謎のような語り方になっていて、何を言っているのか、またどうしてこういうことが語られているのかが掴みにくいのです。しかし先週も申しましたように、ここにはちゃんと話の流れがあります。それを読み取れば、何が語られているのかを理解することができます。このようなことが語られる必然性が見えてくるのです。ですからここを読むためにはどうしても先ず、話の流れを把握しなければなりません。どうしても説明的な話になってしまいますが、お付き合いいただきたいと思います。
 この箇所の前提となっているのは、5章の始めのところに語られていた、ベトザタの池のほとりで主イエスがなさった癒しの奇跡です。それをきっかけにして、ユダヤ人たちがイエスを迫害し始めた、と16節にありました。19節以下には主イエスのお語りになったお言葉が続いていますが、それらはこのユダヤ人たちとの対立の中で語られたものです。本日の箇所もその続きで、ユダヤ人たちとの対立のことが43節にはこのように語られています。「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない」。「あなたたち」とはユダヤ人たちです。彼らは、主イエスが父なる神の名によって来た独り子なる神であることを信じようとせず、主イエスを受け入れないのです。受け入れないだけでなく、イエスはただの人間なのに自分を神の子と呼んで神を冒涜していると批判し、迫害しているのです。このことはそのまま、この福音書が書かれた紀元1世紀末の状況だったということを先週も申しました。十字架にかかって死んで復活した主イエスこそ、神の子、神が遣わして下さった救い主だと信じ、そのキリストによる救いを宣べ伝えているキリスト教会に対して、ユダヤ人たちは、イエスが神の子であり救い主であることを否定して迫害していたのです。そこでの問題の中心は、主イエスが父の名によって来た子なる神なのか、それともただの人間なのか、ということです。そのことをめぐって、キリスト教会とユダヤ人たちとの間に厳しい対立があったのです。ヨハネ福音書はそういう対立を意識しながら書かれています。

相手からの誉れは受けるのに
 先週の箇所、31節以下には、主イエスこそ神の子、父なる神から遣わされた者であることを証ししているものがあるのだ、ということが語られていました。洗礼者ヨハネがそれを証ししており、主イエスがなさっている業、奇跡もそれを証ししている、また父なる神ご自身もそのことを証しして下さっている、そしてそれらの証しは全て聖書に語られているのであって、聖書そのものが主イエスを証ししているのだ、と言われていたのです。ユダヤ人たちが主イエスを信じ受け入れないのは、これらの証しの言葉を聞こうとしないからです。そのユダヤ人たちのことが43節の後半にはこのように語られています。「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」。神の名によって来た主イエスは受け入れず、信じないが、自分の名によって来る人は受け入れ、信じている、それはユダヤ人たちが、神の言葉、神からの証しを聞いても受け入れず、信じないのに、人間の言葉、人間の証しはそれを受け入れ、信じている、ということです。人間の証しを信じて受け入れるとは、多くの人々が「これはよい、素晴しい」と言えば、それを受け入れそれに従っていくということです。それなのに聖書に語られている神の言葉、神による証しに聞き従おうとはしない。あなたたちは聖書に語られている神の言葉、神からの証しに聞き従わないので、その時その時の人間の言葉、人間の証しに引きずられているのだ、と主イエスは言っておられるのです。44節には、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」と語られています。人々がこれはよい、素晴しいと言っていることに従って歩めば、その人々から褒められ、仲間として受け入れられます。「相手からの誉れを受ける」というのはそういうことです。そしてそのような人間の思いによる結合においては必ず、お互いに相手を褒め合う、ということが起ります。人がいいね、すばらしいね、と言っているものを自分もいいね、すばらしいね、と褒めることによって、自分も人々から、いいね、すばらしいねと褒められるのです。そうやってお互いを褒め合い、誉れを与え合う関係を築いていくところに、人間のグループ、党派が生まれます。そこに連なっていると、互いに相手からの誉れを受けることができるので居心地がよいのです。

神からの誉れを求めた主イエス
 しかし、私たちが本当に求めていくべきなのは、唯一の神からの誉れです。神のみ心に従い、神がよしとして下さるところに従って歩むことです。主イエスはまさにそのように地上を歩まれました。人々の思いや期待に応えようとするのではなくて、父である神のみ心に従って、そのみ心をこそ行われたのです。その結果主イエスは、人々からののしられ、十字架につけられて殺されました。それは主イエスが、人からの誉れではなくて、唯一の神からの誉れをこそ求めて地上を歩まれたからです。本日の箇所の最初の41節で主イエスが「わたしは、人からの誉れは受けない」と言っておられるのはそういうことです。主イエスは、人からの誉れではなく神からの誉れを受けようとして歩んでいる。しかしあなたたちは人からの誉れを求めている、そこに主イエスとユダヤ人たちとの対立の根本があるのです。

神への愛がない
 42節には「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」とあります。神からの誉れではなく人からの誉れを求めているということは、神を愛していないということです。神を愛している者は、神からの誉れを求め、神のみ言葉に聞き従おうとするのです。しかしユダヤ人たちは、神が様々な仕方で与えておられる、主イエスについての証しに耳を傾けようとしません。神の言葉を聞こうとせず、人間の言葉ばかりに耳を傾けているのです。そのような彼らの内には神への愛がない。神を愛しておらず、神の言葉を聞こうとしていないあなたたちには、どうして信じることができようか、と主イエスは言っておられるのです。神を愛していない者は神を信じることができない、神を信じることと、神を愛することは分ち難く結び合っている、このことも、ここに示されている大事な真理です。

誰からの誉れを求めているのか
 そしてこれは私たちに対する問いかけでもあります。私たちは誰からの誉れを求めて生きているのでしょうか。誰の言葉に耳を傾けているのでしょうか。誰を本当に愛しているのでしょうか。天地を造り、私たちに命を与えて下さった唯一の神からの誉れを求め、その神を愛し、神が聖書において与えて下さっている言葉を聞こうとするのでなければ、私たちも、信じることはできない、信仰に生きることはできない、神を愛することはできないのです。信仰者として生きるとは、人からの誉れ、人に喜ばれ、褒められることを求めるのではなく、神からの誉れを求めること、神がよしとして下さり、喜んで下さることをこそ追い求めることです。たとえ多くの人々が良いと言っていても、それが神のみ心でないなら、それに逆らっても神のみ心に従って生きる、それが神を愛することです。神を本当に愛している者は、神のみ心にこそ従って生きようとするのです。

み心を正しく知るためには
 しかしそこには危険もあります。私たちはしばしば、自分の思いこそが神のみ心だと思い込んでしまいます。そうなると、他の多くの人が何と言おうと、自分の考えているこのことこそが神のみ心なのだ、自分は人に従うのではなく神に従うためにこの思いを貫くのだ、ということになります。神のみ心に従う、と言いながら、実際には自分の思いを主張しているだけ、我が儘を言っているだけ、ということも起こるのです。そうならないために大切なことは、神のみ心を正しく知ることです。自分が、これこそ神のみ心だ、と思ったことをすぐにそのまま行っていくのではなくて、それが本当に神のみ心なのかを確かめていく必要があるのです。何によってそれが出来るのでしょうか。それは神のみ言葉によってです。神のみ言葉に照らして自分の思いを吟味することが大切なのです。そして神のみ言葉が語られているのは聖書です。聖書に語られている神のみ言葉を正しく聞き、それに従って歩むことによってこそ私たちは、神のみ心に従って歩むことができるのです。しかし聖書を間違って読んでしまうと、神のみ心を正しく知ることができなくなり、そこに、人間の思いが入り込んできます。自己主張を神のみ心と感違いしてしまうことがそこに起こるのです。

モーセがあなたたちを訴える
 主イエスとユダヤ人たちの対立において起っていたのもそういうことでした。ユダヤ人たちも聖書を熱心に読んでいたのです。しかし正しく読むことが出来ていませんでした。だから主イエスを受け入れず、敵対していたのです。そのことが45節以下に語られているのです。45節に「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」とあります。あなたたちユダヤ人を、神に背いている者として父なる神に訴えるのは私ではなくて、むしろあなたたちが頼りにしているモーセその人だ。モーセは、旧約聖書の最初の部分、創世記から申命記までの五つの書を書いたとされています。その部分は「律法」と呼ばれており、旧約聖書の中心と言ってもよい部分です。その律法を主なる神から授かり、イスラエルの民に与えたのがモーセなのです。ユダヤ人たちはこのモーセを頼りにしています。モーセが与えた律法を厳格に守り、実行することによって、自分たちは神に選ばれた者、神の民として歩むことができるし、その自分たちにこそ神の救いは約束されている、と考えていたのです。だから彼らにとって神に従うとは律法を守ることでした。その律法には、人間が自らを神としてはならないとある。だから彼らは、自分を神の子と呼んだ主イエスを神を冒?する者として迫害し、また教会が、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた罪の赦しを信じることによって、罪人である人間が救われると説いているのは、律法を守ることによって救いが得られることを否定するとんでもない教えだとして敵対しているのです。このように彼らは、自分たちはモーセの教えに忠実に生きているという強い自負を持っていました。しかし主イエスは、他ならぬそのモーセがあなたたちを、神に背いている者として訴えるのだ、と言っておられるのです。

旧約聖書を正しく読む
 それはつまり、ユダヤ人たちはモーセを、そして旧約聖書を、間違って読んでいる、聖書から神のみ心を正しく読み取ることができていない、ということです。ユダヤ人たちと主イエスとでは、律法の、また旧約聖書の読み方が全く違っているのです。その違いはどこにあるのでしょうか。ユダヤ人たちは、神がお与えになった律法を、人間がそれを守り行うことによって正しい者、義なる者となり、それによって救いを獲得することができるものと考えています。つまり、人間が自分の努力、力で救いを獲得するために神から律法が与えられていると考えているのです。それに対して主イエスは、旧約聖書をもっと広い視野で見つめておられます。つまり、主なる神がご自分の民であるイスラエルに律法をお与えになったのはどのような経緯によってなのかを見つめておられるのです。そのことを見つめつつ読むならば、神によるイスラエルの民の救いは、エジプトでの奴隷状態からの解放においてこそ示され、与えられていることが分かります。その救いは、イスラエルの民が律法を守っていたから与えられたものではありません。アブラハムを先祖とする神の民である彼らが、エジプトで奴隷とされて苦しんでいる、その叫びを神が聞いて下さり、憐れんで下さったことによってこの救いが与えられたのです。つまりエジプトからの解放という救いは、ただ神の恵みと憐れみのみ心によって与えられたのです。十戒を中心とする律法が与えられたのはその後、約束の地カナンへと旅をしていく中でのことでした。神の恵みによって救われたこの民が、神の民として、神に従って、その救いの恵みに感謝しつつ生きていくために、十戒が、そして律法が与えられたのです。ですから旧約聖書においても、律法は本来、それを守り行うことによって救いを得るためのものではありません。救いは神の恵みによって先に与えられているのです。神がご自分の民に律法をお与えになったのは、恵みによって与えられたその救いに彼らが応えて、感謝して生きるためです。ですから、旧約聖書の第一の部分を書き、イスラエルの民に律法を与えたモーセは、救いは人間の努力によって獲得されるのではなくて、神の恵みと憐れみによってのみ与えられることを証しし、この神の恵みに応えて生きることへと人々を促しているのです。このモーセが証しした、神の恵みと憐れみによってこそ与えられる救いが決定的な仕方で実現したのが、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。神の独り子である主イエスが人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって罪の赦しを実現し、その主イエスを父なる神が復活させて下さったことによって、私たちにも永遠の命が約束されている、私たちは自分の清さや正しさ、良い行いによってではなく、ただ主イエスを信じる信仰によって義とされ、救いにあずかることができる、この主イエス・キリストによる救いは、神の憐れみと恵みによる救いの完成です。モーセが旧約聖書において語り、民に与えた律法は、この主イエスによる救いを証しし、指し示していたのです。

モーセは、わたしについて書いている
 ですから、モーセの教え、旧約聖書を正しく読むならば、そこに主イエス・キリストによる救いについての証し、預言が語られていることが、つまり旧約聖書と新約聖書とを貫いている主なる神の救いの恵みがあり、それが独り子主イエス・キリストにおいてこそ実現していることが分かるはずなのです。そのことが、本日の箇所の46、47節に語られています。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか」。「モーセはわたし(つまり主イエス)について書いている」このことを読み取ることこそが、聖書、特に旧約聖書を正しく読むことです。ユダヤ人たちは聖書を正しく読むことが出来ていないので、主イエス・キリストにおいて実現している神の救いのみ心を知ることができずにいます。そのために彼らは、律法を守ることに固執し、主イエスを救い主として受け入れず、教会を迫害しているのです。

人からの誉れを求めると
 ユダヤ人たちが、律法を守ることによって救いを得ることができるという「律法主義」に固執し、主イエス・キリストによる罪の赦しの福音を受け入れようとしていないことは、彼らが、神からの誉れを求めようとせずに人からの誉れを求めているということと密接に関係しています。律法を守ることによって義となり、救いに相応しい者となることによって救いを自分の力で獲得しようとする時、自分が救いに相応しい者であるかどうかを判定するのはいつも人間です。「あの人は律法をしっかりと守り行っており、救いにあずかるのに相応しい清く正しい生活をしている」と言ってくれるのはいつも人間なのです。なぜならそのことは人の目に見える外面的なことにおいてのみ判断されるからです。その人間は他の人である場合もあれば、自分自身である場合もあります。そして自分で自分を判定しようとする時、その判断は他の人との比較によってなされます。「あの人よりも自分の方が律法をきちんと守って清く正しい生活をしている」と自信を持ったり、あるいは「自分はあまり律法を守れていないが、でもあの人に比べたらまだマシだ」と安心したりするのです。それらは全て、人からの誉れです。律法を守り行うことによって自分の力で救いを獲得しようとする時、私たちは人からの誉れを求めて生きることになるのです。人が自分のことをどう思っているか、どのように評価しているか、ということをいつも気にして、人に悪く思われてしまうことを恐れてビクビクしながら歩むようになるのです。そしてそのようにビクビクしている者どうしが共に生きるところでは、互いに相手からの誉れを受けながら、つまり自分も「あなたは神さまの律法に従って立派に生きておられますね」と相手を褒め、相手からも「いやいやあなたこそご立派ですよ」と褒めてもらって、お互いが気持ちよくなりながら歩む、ということになるのです。

神からの誉れを求めると
 しかし、私たちが本当に求めるべきなのは、唯一の神からの誉れです。神さまにこそ喜んでいただき、受け入れていただくことです。神さまはどのような者を喜び、受け入れて下さるのでしょうか。聖書を正しく読むことによって示されるのは、神が喜び、受け入れて下さるのは、律法をきちんと守り行っている者ではありません。そうではなくて、神が独り子主イエス・キリストによって既に与えて下さった罪の赦しと永遠の命という救いを感謝して受け、自分のどのような罪や弱さにもかかわらず、神がこの自分を、独り子の命を与えて下さったほどに愛しておられることを信じて、その神の下で、神の恵みに応えてみ心に従って生きていこうとする者をこそ、神は喜び、受け入れて下さるのです。神からの誉れを求めるとは、この信仰に生きることです。この神からの誉れをこそ求めていくことによって私たちは、自分のあらゆる罪にもかかわらず、神がこの自分を愛し、受け入れて下さっていることを知ることができます。そしてその時、人からの誉れを求めて、人の評価、評判を気にしてビクビクしながら生きて来た生まれつきの歩みから解放されるのです。お互いに相手を褒め合って満足を得るような虚しい交わりから、またその逆に、あの人は律法に従っていない、と人を裁き、批判することによって自分の正しさを主張していこうとする愛のない歩みからも解放されて、神を愛し、兄弟姉妹を、隣人を愛して生きる喜ばしい歩みを、そして父の名によって来られた救い主イエス・キリストの下に共に集う愛の共同体として教会を築いていくことができるのです。

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