夕礼拝

わが子を去らせよ

「わが子を去らせよ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第4章18-31節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第7章30-35節
・ 讃美歌 : 321、186

エジプトに帰るモーセ
 月に一度、旧約聖書出エジプト記を連続して読んでおりますが、本日はその第4章の後半です。先月第4章の前半を読みました。3章以来語られてきているのは、主なる神様がモーセに現れ、エジプトで奴隷とされ苦しめられているイスラエルの民を救い出し、神様の約束の地へと導いていくという務めを与え、彼を遣わそうとしておられることです。けれどもモーセはその神様のご命令になかなかうんと言いませんでした。何だかんだと理由をつけて、神様が与えようとしておられる使命を断ろうとしたのです。神様はそういうモーセに、懇切丁寧に語りかけ、説得をなさいました。イスラエルの人々は自分を受け入れてくれないだろうと言うモーセに、主なる神様が彼を遣わしたことを知らせるためのしるしを行う力を与えて下さいました。自分は口下手で話をするのが得意でないと言うと、雄弁な兄弟アロンを助け手として共に遣わすと約束して下さいました。そのような神様の根気強い説得によって、モーセはようやくその使命を引き受けたのです。本日の4章後半は、モーセが主なる神様と出会った神の山ホレブから、妻としゅうとのもとに帰り、エジプトへと出発し、そしてエジプトで同胞イスラエルの人々にしるしを示し、彼らがモーセを指導者として受け入れたところまでを語っています。この後の第5章からいよいよ、エジプト王ファラオとの交渉が始まるのです。そういう意味では本日の所は、神の山ホレブで主なる神様から使命を与えられた場面と、エジプトでその使命を果たし始める場面との間のつなぎのような箇所であると言うことができます。
 18節にあるように、モーセは神様との出会いを与えられたホレブから、しゅうとであるエトロのもとに帰りました。このエトロは、3章1節にあるように、ミディアンの祭司です。エジプトから逃げ出して来たモーセは、ミディアンの地に落ち着き、そこでこのエトロの娘であるツィポラと結婚したのです。二人の間には息子ゲルショムが生まれました。モーセは今や一家の主、一児の父となっているのです。つまり、それなりに安定した、また責任ある立場になっているのです。もはやかつてのように、若気の至りで乱暴な行動を起すような年ではありません。主なる神様はモーセがそのような年齢に達するのを待って、いよいよ彼を召し、遣わそうとしておられるのだと言えるでしょう。
 彼はしゅうとであるエトロの許しを得て、家族を連れてエジプトへと旅立ちます。19節に「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」という主の言葉があるのは、17節までに語られてきたこととは合わない感じがします。おそらく18節以下のモーセのエジプトへの帰還の話は、ホレブにおける神様による召しの話ともともとは別に伝えられていたのでしょう。別の話が結びつけられたことによってちょっとちぐはぐなことになっているわけですが、しかしこの言葉によって、モーセのエジプトへの帰還が、主なる神様の守りと導きの中にあることが重ねて確認されているのです。そしてこの言葉は、後にマタイによる福音書において、ヘロデの手を逃れて幼子主イエスを連れてエジプトに避難していたヨセフに、故郷に戻るように天使が語りかける言葉として用いられました。

悔い改めが必要
 また21節以下には、エジプトに帰ったらこのようにせよ、という神様の指示が語られています。「わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい」とあります。「わたしがあなたの手に授けたすべての奇跡」というのは、4章前半で主がモーセに与えて下さった三つのしるし、つまり、杖を投げるとそれが蛇に変わること、手を懐に入れて出すと思い皮膚病にかかっており、もう一度入れて出すと直っているということ、そして、ナイル川の水を血に変えることができるという奇跡の約束です。神様はそれらの奇跡を行う力をモーセに授けて下さったのです。しかし4章前半において語られていたのは、これらのしるしは、同胞であるイスラエルの人々に、自分が本当に主なる神様から遣わされたのだ、ということを示し、納得してもらうために与えられたものでした。つまりモーセを説得してこの使命を引き受けさせるためにこれらの奇跡は授けられたのです。しかし21節以下においては、それはエジプト王ファラオの前で行われるべき奇跡とされています。ファラオに、イスラエルの民の解放を受け入れさせるためにこれらの奇跡が用いられるのです。これらの奇跡は、モーセが神様から遣わされ、神様の力を与えられていることを示すものですから、それらがそのように用いられていくのは当然のことだとも言えます。しかし、これらの奇跡が、イスラエルの民を説得するためにも、エジプト王ファラオを説得するためにも、どちらにも用いられるということにはさらに深い意味があるように思います。つまり、主なる神様によるイスラエルの民のエジプトでの奴隷状態からの解放という救いが実現するためには、彼らを奴隷として支配しているエジプト王が説得され、心を変えさせられる、つまり悔い改めなければならないことは勿論ですが、同じように、イスラエルの民の方も、彼らの間から逃げ出して行方知れずになっていたモーセが、神様から遣わされたことを受け入れるように説得され、心を変えさせられなければならないのです。神様の救いが実現するためには、その救いを妨げている力が変えられ、悔い改めなければならないと同時に、その救いにあずかる私たち自身も、変えられなければならない、神様ご自身がその救いを実現して下さることを認め、その御心に従う者へと悔い改めなければならないのです。

わたしが彼の心をかたくなにする
 このようにモーセは、ファラオの前で奇跡を行い、神様から与えられた力を示して、イスラエルの解放を要求することを命じられているわけですが、しかし神様はそれに続いてこのように言っておられます。21節の後半です。「しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」。これは、この後の出エジプトの物語全体を貫いていく基本的な流れを示しているとても大事な言葉です。モーセが奇跡を行い、説得しても、そのことによってファラオの心はかえってかたくなになり、イスラエルの民を決して去らせようとはしないのです。そういうことが起るのだと、主なる神様は既にこの時点で、つまりモーセがまだエジプトに帰り着く前に語っておられるのです。しかもここに語られているのは、「こうなるだろう」という予測ではありません。「わたしが彼の心をかたくなにする」と神様はおっしゃっているのです。ファラオの心がかたくなになるのは、主なる神様がそうなさるからだ、それは主なる神様のみ心によることなのだ、というのです。実際この後、モーセによって数々の奇跡が行われ、エジプトに様々な災いが下されていきますが、その都度、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼はいっこうにイスラエルを解放しようとしないということが繰り返されていくのです。

お前の長子を殺す
 主がファラオの心をかたくなにされる、とはどういうことなのでしょうか。主なる神様はなぜそんなことをなさるのでしょうか。それなら、モーセに、ファラオの前で奇跡を行い、イスラエルの解放を求めるようにお命じになる意味がないではないか、とも思います。彼を説得せよ、と命じておいて、その彼の心をかたくなにして説得を受け入れないようにする、というのでは、モーセはたまったもんじゃないわけです。このことにはいったいどんな意味があるのでしょうか。その意味ないし神様のみ心は、22節以下に語られています。22節の冒頭に「あなたはファラオに言うがよい」とあります。それは、ファラオの前で奇跡を行っても、彼が心がかたくなになり、イスラエルの民を去らせようとしない、そのことが明らかになったところで、ということです。その時、神様はモーセに、このように語るようにとお命じになったのです。「主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう』と」。このお言葉に、この後の出エジプトの出来事における最も大事な事件が予告されています。度重なる奇跡、災いによってもファラオはイスラエルの民を去らせない、解放しない。そこで最後に、エジプトの全ての長子が殺されるという究極のみ業が行われるのです。そのことによってついに、イスラエルのエジプトからの脱出が実現するのです。そのことについて、これからだんだんに読み進めていくのですが、今ここで前もって確認しておきたいことは、この長子が殺されるという災いは、それ以前に行われる数々の災いとは意味が違うということです。この災いを、例えばナイル川の水が血に変えられるというような災いの延長上に置いて、最も激しい深刻な災いとしてのみ捉えてしまってはなりません。この主のみ言葉はそのことを語っているのです。つまり、数々の奇跡がモーセによって行われる、しかしファラオの心はかたくなになり、民を去らせようとしない、そこで、それまでに行われた奇跡、災いとは全く別の、質を異にする事柄として、「わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう」、それによってお前は、わたしの長子であるイスラエルの民を去らせることになるのだ、と主なる神様は語っておられるのです。

イスラエルはわたしの長子
 モーセが行う数々の奇跡と、最後のこの神様のみ業とが全く別のものであり、質が違うものであるということを示す鍵となる言葉は、「長子」という言葉です。ファラオとエジプト人が、イスラエルの民を解放し、去らせることをついに認めたのは、全ての長子を殺されるという出来事によってでした。それまでモーセによって行われた数々の災いも、それはそれで大変な災いであり、大きな苦しみをエジプトにもたらすものでした。しかし、長子を殺されるというのは、エジプト人たちにとって、それらの災いとはもはや比べることのできないとてつもない苦しみだったのです。しかしこのことはイスラエルの民にとっても、とてつもなく重大な意味を持っていました。その意味が、この22節以下の主の言葉によって示されているのです。主ご自身のお言葉をもう一度読んでみます。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう」。お気づきのように、エジプトの長子が殺されることは、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」というみ言葉と対応しています。なぜエジプトの長子が殺されるのか、それは、イスラエルが主なる神様の長子だからなのです。エジプトが私の長子を奴隷とし、解放しないなら、私はエジプトの長子を殺す、と主は言っておられるのです。このみ言葉によって主が語り、示そうとしておられるのは、イスラエルこそわたしの長子である、ということです。エジプトの長子を殺すのは、主なる神様がご自分の長子であるイスラエルの民を救い出すためなのです。エジプト人にとってそれぞれの長子の命がどれだけ大切なものか、それと同じように、主なる神様にとってイスラエルの民の生命は大切なのだ、ということをこのみ言葉は語っているのです。この後、エジプト人の全ての長子、長男が殺されるという出来事によってイスラエルはエジプトから脱出したことが語られていきます。それは大変残酷な話であり、神様はどうしてこんなひどいことをなさるのか、と私たちは思います。それは私たちの今日の感覚からすれば、確かにとんでもなく酷いことです。けれどもこの物語から私たちが本当に読み取るべきことは、主なる神様はご自分の民イスラエルをご自分のかけがえのない長子として大切に思い、愛しておられる、ということなのです。この神様のみ心を現しているがゆえに、エジプトの長子が殺されるという最後の災いは、それ以前の様々な災いとは全く質の違うものなのです。

過越の小羊の血
 ところでこれもこれから読んでいく所の先取りになってしまうのですが、エジプトの長子が殺された時、イスラエルの民の間では一つの大事な儀式が行われました。小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られたのです。その血が目印となって、エジプトの全ての長子を殺すために遣わされた主のみ使いはイスラエルの人々の家には何の災いも与えずに通り過ぎたのです。イスラエル人の家の長子はそのようにして救われました。それがいわゆる「過ぎ越し」の出来事であり、このことによってイスラエルはエジプトから解放されたのです。そこから、イスラエルの最大の祭りである「過越祭」が始まりました。この「過ぎ越し」の出来事において、エジプトの長子はことごとく殺され、イスラエルの長子は過越の小羊の血によって救われたのです。神様がイスラエルの民をご自分の長子として愛して下さるその愛は、この過越の小羊の血による救いにおいて具体的に示されたのです。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」というみ言葉は、この過越の小羊の血による救いにおいて実現したのです。

モーセを殺そうとする主
 このことを念頭に置いて読んでいくことによって、次の24節以下の不可解な話が何を語ろうとしているのかを捉えることができるようになると思います。24節以下には、モーセが家族と共にエジプトへと戻ろうとしているその旅の途中で、主なる神様がモーセと出会い、彼を殺そうとした、ということが語られています。これは全く不可解なことです。モーセを選び、イスラエルの民を解放するためにエジプトへと遣わそうとしておられるのは主なる神なのです。その主が、ようやくその使命を受け入れてエジプトへと向かおうとしているモーセを殺そうとするなんて、どう考えても納得がいきません。このような話は、出エジプト記が書かれるより以前からあった伝説が元になっていると考えられます。そういう箇所は他にもあって、例えば創世記の32章で、ヤコブがヤボクの渡しにおいて、一晩中ある人と格闘した、という話などがそうです。その人とは神様ご自身だったと語られていますが、この話も、もともとは、川の渡し場に住む魔物の伝説があり、その魔物と戦って打ち負かした英雄の伝説がヤコブと結びつけられ、その魔物が主なる神様に置き換えられたことによって生まれたものでしょう。それと同じように本日の24節以下も、エジプトへと帰る途中でモーセを襲った怪物の伝説が元になっているのでしょう。

割礼の血と過越の小羊の血
 ヤコブの話と同じくここでも怪物が主なる神様に変わっています。それは、あの時のヤコブも、この時のモーセも、主なる神様の導きの中でいよいよ困難な状況ないしは使命に直面しようとしている、ということと関係があると言えるでしょう。彼らはこれから直面しようとしている現実に対して、恐れや不安を抱きつつ旅をしているのです。しかしその旅へと彼らを導いたのは主なる神様です。つまりこの旅は主なる神様への信仰の旅なのです。その信仰の旅路において、自分を脅かす者と格闘をする、それは実は主なる神様ご自身との格闘であったというのがヤコブの話です。このモーセの話はそれとは違います。モーセは主なる神様によって殺されそうになったのです。そこから彼を救ったのは、妻ツィポラでした。彼女は「とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、『わたしにとって、あなたは血の花婿です』と叫んだ」のです。それによって主はモーセを放し、彼は死なずにすんだのです。「息子の包皮を切り取り」というのは、26節にも語られているように、「割礼」という儀式です。それは、男性の包皮、つまりおちんちんの先っぽの皮を切り取るという儀式です。それが、神様との契約の印として、アブラハム以来イスラエルの民において行われて来たのです。割礼を受けていることが、神様の民イスラエルの一員である印とされているのです。そうするとこれは、ツィポラがここで息子に割礼を施した、ということになるのですが、ここで中心として見つめられているのは、息子が割礼を受けたことよりも、彼女が息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだことです。これも、何のことやらよく分からないのですが、一つだけはっきりしているのは、包皮を切り取ることによって流れた血がモーセに付けられたということです。「血の花婿」という言葉からそれが分かります。つまりこれは、割礼によって流された血がモーセに付けられ、それによってモーセは殺されずにすんだ、という話なのです。逆に言えば、この血が付けられなければ彼は死んでいたということです。ここに、先ほどの過越の小羊の血による救いとのつながりが見えてくるのです。イスラエルの長子は、過越の小羊の血が塗られたことによって救われました。それがなければ彼らも、エジプトの長子と一緒に殺されていたのです。モーセも、割礼の血を付けられたことによって救われました。いずれの場合も、殺そうとしているのは主なる神様ないしそのみ使いです。神様によってもたらされる死から、血によって救われるということがどちらの場合にも起っているのです。このことは、イスラエルの民であれモーセであれ、私たち人間が基本的に、神様のみ前に正しい者として立つことのできない罪人であり、そのままでは滅びるしかない者であることを示しています。その滅び、死からの救いが、過越の小羊の血によって与えられるのです。割礼における血も、イスラエルの民の一員であることを示す血ですから、過越の出来事において戸口に塗られた血と同じ意味を持っていると言ってよいでしょう。この過越の小羊の血によって、私たちは死から、罪の結果としての滅びから救われるのです。
 モーセがこれからエジプトに行ってイスラエルの民の指導者となり、そこで実現する出エジプトの出来事とは、まさにこの救いです。彼はファラオと交渉し、様々な奇跡を行い、災いを起こします。しかしそれらのことによってエジプトからの解放が実現するわけではありません。主がそうなさるのでファラオの心はますますかたくなになり、どうしても民を去らせようとはしないのです。そのような中で、主なる神様ご自身が、エジプトの長子をことごとく殺し、イスラエルの長子は過越の小羊の血によって救って下さるというみ業によって、エジプトからの解放、救いを実現して下さるのです。神様は本日の箇所で、これから行われるこの救いのみ業を前もってモーセに示すと共に、モーセ自身も、過越の小羊の血によって救われなければ滅びるしかない人間であることを自覚させるために、不思議な体験を与えて下さったのだと思うのです。

キリストの血によって
 過越の小羊の血、それは、主イエス・キリストが十字架で流された血を指し示しています。主イエス・キリストは、文字通り神様の長子です。まことの神の独り子です。その主イエスを、父なる神様は私たちのために、過越の小羊として与えて下さったのです。神の長子が十字架にかかって死んで下さったことによって、そこで流して下さった血によって、私たちは罪の奴隷状態から解放され、自由に、喜びをもって神様に仕える神の民とされたのです。この主イエス・キリストを信じ、洗礼によって主イエスと結ばれて生きる時に、神様は私たちをも、「わたしの子、わたしの長子」と呼んで下さるのです。私たちが長子と呼ばれるのは、私たち以外の者たちは皆殺されてしまうためではありません。主イエスという本当の長子によって私たちが神の子とされたように、私たちを通して神様の救いの恵みが人々に伝えられ、証しされ、さらに多くの人々が、神の子とされていくためです。長男がいれば、次男がおり、三男がいる、そのように、全ての人々が神様の家族として共に生きるようになる。キリストの血によって先に神の子とされた私たちは、神様のそのみ業のために用いられていくのです。

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