夕礼拝

なぜ断食しないのですか?

「なぜ断食しないのですか?」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第18章30-32節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第2章18-22節
・ 讃美歌:6、476、75

<断食をしない主イエスと弟子たち>
 人々は主イエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねました。
 主イエスは、よくみんなで宴会や食事をしていたようです。一緒に食事をするというのは、仲間のしるしであり、親しい者同士である証拠です。わたしたちも、誰かと食事に行く時は親しい人を誘うでしょうし、または親しくなる目的のために、食事の席をわざわざ設けることがあると思います。
 そんな食事の席に、主イエスは弟子たちと一緒に、さらには、多くの人が「あの人たちは救われない人だ」と決めつけて「罪人」と呼んでいた人々と一緒に座って、親しく食事をしておられたのです。
 今日お読みした箇所の少し前のところ、マルコの2:16のところにも「ファリサイ派の律法学者はイエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言っている場面がありました。他の福音書にも(ルカ7:34)主イエスのことを「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」という人がいたと書かれています。
 人々からしてみると、罪人と一緒に食事をすると、主イエスや弟子たちも罪人の仲間だと思われてしまうのに、わざわざそのような者たちと一緒に食事をすることは、とても信じられないことでした。
 しかも、他のグループの人たち、今回はヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々が出てきますが、そういう人たちは頻繁に「断食」を行っていました。そうやって他の人たちは、禁欲的に、敬虔に生活をし、食事を控えて「断食」という立派なことをしているのに、主イエスと弟子たちは食い飲みしてばっかりです。人々はそのことを疑問に思い、主イエスに尋ねたのでした。

<断食>
 「断食」というのは、今は「プチ断食」などと言って、健康やダイエットのために断食をする人もいるようですが、本来は宗教的な深い意味をもつ大切な儀式です。ユダヤ人たちは、神に従って生きるための律法を大切にし、それを守って生活していましたが、「断食」はもともと年に一回、罪を贖う「贖罪日」という日に行うよう定められていました。他には、人が亡くなった時の哀悼のしるしや、悔い改めの時、罪を告白する時や、神に向かって嘆いたり、祈りを捧げる時などに断食が行われていました。
 バビロン捕囚といって、彼らの国が滅びてしまった後は、年に4回断食をすることが定められました。

 本日の箇所で、このような「断食」をしている人々として出て来た「ヨハネの弟子」、というのは、マルコの1章に出て来た洗礼者ヨハネの弟子たちのことです。洗礼者ヨハネ自身、荒れ野でいなごや野蜜を食べて生活しており、彼らのグループは悔い改めと禁欲を重視して日常的に断食をしていたようです。
 もう一つのグループの「ファリサイ派の人々」というのは、律法を厳格に守る人々です。しかも断食は「敬虔さ」を表す、素晴らしい行為とされていたので、律法で定められているよりも、もっと数多く断食をしていました。主イエスの時代には、一年の中の重要な祝祭日や、婚礼の宴の時には断食は行われませんでしたが、他の時は週に二回、規則的に「断食」を行う習慣が出来ていたようです。
 ファリサイ派の人々の規則的な断食は、もともとは信仰の現れでしたが、習慣となるにつれて次第に形式化してしまいます。それは、神に対する悔い改めの思いによって行うのではなく、しばしば他の人に、自分の敬虔さや熱心さをアピールするために行われました。
 マタイによる福音書(6:16)には、主イエスがこのことを厳しく指摘されて、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」と言っておられる個所があります。断食は本来、悔い改めと、神の前に遜る思いによってなされるものです。しかし、彼らの断食は、自分の熱心さや、律法を守る自分の正しさを求めるものになってしまっていたのです。
 このように、ヨハネの弟子と、ファリサイ派の人々の断食の内容には違いがありましたが、しかしどちらも熱心に、すすんで断食をしていたのです。それなのに、主イエスの弟子たちは食事をしてばっかりで、どうして断食しないのですか、と人々は尋ねたのです。

<花婿が一緒にいるから>
 主イエスはこの質問に対して、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」とお答えになりました。花婿というのは、主イエスご自身のことです。主イエスの、弟子たちや罪人との食事は、主イエスという花婿が主人となって、多くの客を招いている婚礼の宴なのだ、と仰っているのです。それは、喜び、祝いの席です。だから、主イエスの弟子たちが断食をしないのは当然ではないか、と言われたのです。

 しかし、主イエスは、なぜご自分を花婿にたとえられたのでしょうか。
 旧約聖書においては、ヤハウェの神がイスラエルの民の「花婿」として表現されています。たとえば、イザヤ書54:5には、「あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。」と語られています。神とイスラエルの民の関係は、花婿と花嫁、夫と妻というモチーフでしばしば語られました。
 そして新約聖書の時代となり、この神の御子である主イエスが、神に遣わされ、愛の交わりをもって人々と共に歩むために、まことの人となって「花婿」として、この地上に来られたのです。
 主イエスは、マルコの1:15にあるように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げておられます。罪や悪に支配されている人々に対して、神の国は近づいた。神の恵みのご支配、神の愛のご支配が実現する時がきた、と告げられます。神の愛への招きです。そしてそれは、主イエスによってもたらされます。神の愛を忘れ、裏切り、背いた人々が、悔い改めて神のもとに立ち帰り、神との愛の交わりに新たに生きるようになるために、神の御子、花婿主イエスは地上にこられ、人々を招き、受け入れ、共に親しく食事をしておられるのです。
 主イエスが来られ、神との愛の交わりに招かれていることは、すべての人々にとっての喜びであり、祝われるべきことです。主イエスが共におられるということこそ、花婿が一緒にいる婚礼の宴の席だ、祝いの席だ、ということなのです。

 ところが20節で、主イエスは「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」と言われています。「花婿が奪い取られる時」とは、主イエスがこのしばらく後に、十字架に架かって死なれることを指しています。
 まことの人となって地上に来て下さった主イエスは、すべての人が神との愛の交わりに生きることができるようになるため、すべての人の罪を代わりに背負って、十字架に架かられるからです。
 こうして「罪の赦し」を知らされる時にはじめて、すべての人々は、この方の十字架の死によって、本当は自分がこの十字架に架からなければならないほどの罪を負っていたということ。それほどに神に背き、神を蔑ろにして、神に対して大きな罪を犯していたのだということを知らされます。

 わたしたちが、神に対する自分の罪を、何もなしに自覚するのは難しいことです。しかし、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死が、わたしの罪のためであった、わたしの罪が赦されるために、この方の血が流されたのだと知る時に、その恵みの中ではじめて、わたしが神に対して、どれだけ深い罪を犯していたか。神を神とせず、神から離れ、自分の思うままに生きることが、どれほど神を怒らせ、神を悲しませる罪であるかを知らされるのです。
 そしてまた同時に、それでも神がわたしたちを赦そうとされ、わたしたちと共にいようとされ、御自分の御子の命をわたしたちのために与えて下さった、その憐れみの心と、愛を知らされるのです。
 この「花婿が奪い取られる」十字架の時こそ、人がまことの悔い改めをして、神に立ち帰る時であり、断食をする時なのだ、と言われているのです。

<二つのたとえ>
 そして、主イエスはその後、二つのたとえをお語りになりました。このたとえは今のわたしたちには説明がないと分かりにくいかも知れませんが、当時の人々にとっては、日常生活でよく体験するようなことが語られているので、主イエスが仰ることをすぐにイメージできたに違いありません。

 まず、21節には「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」と言われています。
 織りたての布とは、織ったばかりで、まだ洗ったり蒸気を通したりする処置をしていない、新しい布のことです。つまり、とても縮みやすいのです。そして、「古い服」というのは上着を指す言葉です。古い上着の破れに、縮みやすい新しい布を当て布として縫い付けたら、もし雨にあたって濡れたりすると、新しい布が縮んで、古い上着を余計に引き裂いてしまうということです。新しいものが古いものを引き裂いてしまうのです。

 またもう一つのたとえは、22節の「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」というものです。
 革袋は、山羊の革を使った容器のことです。ぶどう酒は、当時はぶどうを収穫したら、踏みつぶして壺に入れ、上澄みを取って精製しました。それを革袋に入れたようですが、できたばかりのぶどう酒は、発酵し始めるとガスが発生します。ですから、新しいぶどう酒を古い革袋に入れていると、どんどんガスが発生して膨張し、伸縮性が無くなっている古い革袋は破れてしまうのです。そうすると、ぶどう酒も革袋もだめにしてしまう。だから、新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれなければならない、ということなのです。

<新しいものは、古いものではなく新しいものに>
 さて、この二つのたとえが示しているのはどういうことなのでしょうか。
 新しい布や、新しいぶどう酒というのは、主イエスが教えておられる、新しい教えのことを意味します。これまでユダヤ人たちは、律法を神の教えとして守ることで、神の民として歩んできました。しかし、神の御子であるイエスが救い主として来られたことによって、時代はまったく新しい局面を迎えたのです。
 旧約聖書の時代から、新約聖書の時代へ。神の古い契約から、主イエスによる新しい契約へ。神の救いの約束が御子イエスによって実現し、律法を守ることによってではなく、キリストを信じる信仰によって神の民とされる、そのような新しい教えが語られる、新しい時代が到来したのです。

 だから、この二つのたとえは、主イエスの新しい教え、つまり神の国の福音、主イエスによって実現する神のご支配は、ユダヤ人のこれまでの古い在り方のままでは受け入れることは出来ない、ということです。ユダヤ人たちは、律法を守ることによって救いを得ようとしていた、正しい行いが自分を救うと思っていた、そのようなこれまでの歩みを、捨てなければならないのです。
 気を付けなければならないのは、主イエスは律法や断食を古いものとして否定されたわけではありません。主イエスは、神の律法を完成させるために来られたからです。ここで、新しいものを受け入れるために、捨てなければならないのは、新しくならなければならないのは、神の御心を忘れ、神から離れ、自分の思いや、哲学や、やり方に捕らわれてしまった自分自身の歩みなのです。

 これは、ユダヤ人だけのことではありません。わたしたちも同じです。主イエスに出会う時、主イエスの新しい教え、神の国の福音を耳にした時、この神からのまったく新しいものを受け入れるために、わたしたちは新しくならなければなりません。古い自分のままでは、これを受け入れることができないのです。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」というのは、そういうことです。
 しかし、わたしたちは、新しくなることが必要だとしても、どうやって自分を新しくすることができるのでしょうか。
 わたしたちは、自分で自分を新しくすることは出来ません。新しくして下さるのも、神に頼らなければならないのです。古いわたしたちは、罪にまみれています。自分に固執し、神を受け入れず、神から離れたところで動けずにいるのです。
 だからこそ、神の御子主イエスが、わたしたちの罪のところにまで、降って来て下さったのです。そして、そのわたしたちをご自分のもとへ親しく招き、わたしたちの罪を代わりに担い、十字架への道を歩んで下さいました。主イエス・キリストの十字架の御業によって、わたしたちは古い自分も十字架に付けられ、罪を赦された新しい命を与えられるのです。この新しい命を与えて下さるのは、聖霊のお働きによります。主イエスの罪の赦しを信じ、洗礼を受ける時、聖霊はわたしたちを主イエスと一つに結び合わせ、わたしたちを新しく造り変えて下さるのです。
 そうして、わたしたちは神の新しい契約に与ることができる。新しい神の民として、神との愛の交わりに生きる者とされるのです。

 ですから、わたしたちは、そのままではいられません。罪にまみれた古い自分に固執していてはいけないのです。主イエスが十字架の死によって罪を赦し、聖霊が新しくして下さり、神が受け入れて下さったのですから、自分が主人であった、自分の思い通りに生きていた人生の歩みを捨てて、主イエスを自分の人生の主人として受け入れ、新しい神の教えに従って歩んでいくのです。
 この人生の転換を、悔い改めと言っても良いでしょう。悔い改めは、後悔したり、反省したりすることではなく、神の方を向くということです。神を向いていない歩みから、神を見つめて歩むようになるということ、180度方向転換をするということです。今までの自分とは180度変わる、ということでもあります。
 それは、神から離れていた人生から、花婿である主イエスと共に、神と共に、愛の交わりのうちに歩む人生になる、ということなのです。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」主イエスの新しい教えは、このような新しい喜びの人生への招きなのです。

<祝いの聖餐の食卓>
 主イエスは、十字架の死の後、復活し、天にあげられました。今、わたしたちの目には主イエスのお姿は見えません。しかし神は、聖霊をお遣わし下さり、天におられる主イエスとわたしたちを結んでいてくださいます。
 特に、本日あずかる聖餐は、聖霊のお働きによって、天におられるキリストとわたしたちが共にあることを、目に見えるしるしを通して、確かにされる時です。聖餐のパンとブドウ酒は、わたしたちの罪の贖いのために死んで下さった主イエスの肉と血をあらわし、わたしたちが、この方の体にあずかり、生かされていることを、この身をもって味わい知ることができるのです。これは、主イエスが主人となって招いて下さる食卓です。花婿である主イエスは、今も聖霊によって、わたしたちと共にあり、わたしたち罪人を食卓へ招き、神との愛の交わりへと招いて下さっています。わたしたちは主イエスに、招かれた客としてこの食事にあずかり、共に喜び、共に祝うのです。

 しかしなお、主イエスと共にありながら、わたしたちには、苦しみや、悲しみや、弱さ、そして死が襲ってきます。まだ、神の国は完成しておらず、わたしたちはその日を待ち望んでいる状態だからです。しかし、罪にも、死にも勝利して下さった復活の主が、わたしたちの主人であること、わたしたちを支配して下さっていることを信じます。主は再び来られると約束されました。それは確かな約束であり、希望です。
 そして、終わりの日、主イエスが再び来られる日には、わたしたちも復活し、この目で主イエスと見え、すべての愛する兄弟姉妹と共に、天の国の食卓を共に囲み、喜び、祝うでしょう。その日を待ち望みつつ、今日もまた新しくされて歩み出すのです。

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